第11回:建築の「時間デザイン」と「メンテナンス」という哲学

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)

ルーヴル・ピラミッドとガラス拭き

歴史的建築に対するハイテク的現代建築の介入(intervention)の初期の成功例として有名なものとして、ルーヴル美術館の《ガラスのピラミッド》(1989)がある。これも、いまでこそすっかりパリの風景の一部として受け入れられているが、当初は大きな議論を呼んだデザインであった。

I・M・ペイによる《ガラスのピラミッド》は、歴史的建築そのものを改築するリノベーションではなかったとしても、ルーヴル宮殿まで遡る歴史的な複合建築の環境を大きく変容させるものだった。歴史的には中世の城郭まで遡るルーヴル宮殿に対して、鉄とガラスの現代建築が上手に溶け合ったとすれば、「点の建築史」的デザインでも、長い歴史を有する建築と融合することが可能だということを示しているのだろうか?

歴史的な経緯を確認すると、ルーヴル宮殿そのものは長い歴史を有しているが、ルーヴル・ピラミッドを囲む3面の建物群のうち、北側のリシュリュー翼と南側のドゥノン翼は、1848年から1857年にかけて、建築家ルイ・ヴィスコンティらが設計して建設した歴史主義の近代建築であった。だからというわけではないが、中世のノートル=ダム大聖堂と比べれば、時間スケールのギャップは少ない。

だが何よりも本質的なのは、このガラス建築は1989年以来30年のあいだ、たいへんな手間暇をかけて、竣工時点の美しさを保ち続けるために、ていねいにメンテナンスされ続けてきたという点であろう。キャリー・ホイットニーによれば、2002年にはこの巨大なガラス面を掃除するためにロボットも導入されたらしい★1[fig.3]。ただ、筆者が2016年に偶然見かけたときには、同じI・M・ペイがデザインしたカルーゼル・ルーヴル内のガラスの逆ピラミッドを、4人の職人たちがアクロバットな姿勢で、手作業で掃除していた[fig.4]。

fig.3──2002年に導入されたという窓拭きロボット 引用出典=https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Automatic_window_cleaner,_Louvre_11_December_2007.jpg

fig.4──カルーゼル・ルーヴルのガラスの逆ピラミッド(筆者撮影)

《ルーヴル・ピラミッド》は、竣工から30年経ったいまなお、オリジナルのままの美しさを保ち続けている。メンテナンスという行為こそが、瞬間的なデザイン(点の建築史)を、30年という時間のなかで「線」に変えてきたわけである。

メンテナンスという哲学

本連載の第7回「仕上げのテクトニクス、表層のマテリアリティ」でも、筆者はメンテナンスフリーを批判し、メンテナンスの喜びを享受できる「メンテナビリティ」こそが、建築にとって重要ではないかと主張した。メンテナンスとは通常、経年劣化による不良箇所を修理することと考えられる。古くなった建物のために、本当はお金などかけたくない。それが所有者の本音かもしれない。そうした所有者に対して甘くささやきかけてきたのが、メンテナンスフリーというマジックワードだった。しかし現実には、永遠のメンテナンスフリーなどありえない。その結果、20世紀の建物は、ますます短命化の運命を辿ってきたのではないかと、第7回でも論じてきた。
メンテナンスを、ネガティブな行為、余計な出費と捉えている限り、この泥沼から抜け出すことはできない。メンテナンスを喜びに転じさせるような、価値観の転換が必要であろう。だがおそらく、リノベーションの喜びと、メンテナンスの喜びは同質のものであろうと思うのだ。

英語の"maintenance"あるいはその動詞"maintain"の直接的な語源は、フランス語の"maintenir"にある。フランス語の"maintenir"は、"main"と"tenir"とに分けることができ(ラテン語ならば、manutenire = manu + tenere)、それは「手」と「掴む」(英語の"hold"や"keep")を組み合わせた語であることがわかる。メンテナンスとはまさに「手をかける」ことなのであり、手で触れ続けることなのだ。

本連載第2回「マテリアリティとは何か?」では、アップルコンピュータを例に取り上げて、プラスチック・ケースのノートパソコンと比べたときに、アルミ躯体のノートパソコンは、「意味もなく撫でまわしたくなるような手触りだ」と述べた。冗談めかした言い方をしたが、手で触れ続けることが、モノに対する愛着を生み出すのは間違いあるまい。たとえばクラシックカメラが趣味だという人は、カメラを使うたびに柔らかい布で指紋を綺麗に拭き取り、ブロワで埃を吹き飛ばし、夜な夜なメンテナンスをしているに違いない。メンテナンスとはモノに対する愛着を増す行為なのであり、そのとき、クラシックカメラの金属部分や革張り部分のマテリアリティは、触感として所有者とダイレクトに呼応しているわけだ。

さらに、次の段階として重要なのは、表面を撫でるだけの拭き掃除のレベルでは済まない「修理」や「改造」が可能であるかどうかである★2。日本人のほとんどにとって、建築や住宅はすっかりブラックボックスと化してしまった。それは、メンテナンスフリーがメンテナンスを拒否する姿勢と同義だったことと、強く関係している。そしてまた、日本の賃貸住宅の常識のなかで、壁に画鋲ひとつ打つことすらも躊躇ってしまうような原状回復の呪縛が、住宅のブラックボックス化をよりいっそう強固なものにしてきたといえるだろう。

欧米では、たとえば賃貸アパートを借りて、もともとの白塗りの壁を自分の好きなブルーのペンキで塗り替えて暮らす人がいたりする。退去するときに、また白いペンキで塗り直せば、それが原状回復とみなされうるからだ。そのような建築と生活の関係性は、間違いなく暮らしに豊かさをもたらしている。そのようなペンキの塗り直しは、メンテナンスの観点から見ても、建築の長寿命化に役立っているともいえるかもしれない。

翻って日本では、建築はアンタッチャブルな存在である。メンテナンスフリーでブラックボックス化した住宅は、単なる消費財と化してしまった。さらに耐用年数と減価償却の考え方が、そこに追い討ちをかけてきた。建築を短命化させスクラップ&ビルドを促進してきたこうした価値観の総体を、根底から見直す必要があるだろう。そのためには、建築の専門家によるリノベーションの創造性と、所有者・使用者の側によるメンテナンスの哲学の獲得が、なによりも重要である。

メンテナンスを産業化する

だが、メンテナンスこそがなによりも重要だ、などといっても、そんな主張は誰の心にも突き刺さらない。なんと消極的で、なんと矮小な主張だろう......。経済効果を考えても、メンテナンスより新築が良いに決まっている。建築のメンテナンスなど、アフターサービスの一貫として扱われることすらもあるのだ。それに、古い建物をメンテナンスして長持ちさせれば、新築がますます減ってしまう。そうなれば建設産業は尻窄まりだ。

最近では、プロパティ・マネジメントやファシリティ・マネジメントのような観点から、既存建物の資産価値を適切に管理しようという考えも登場している。だがその際、足枷になるのは、結局のところスクラップ&ビルドを前提としてつくられてきた社会の枠組みと人々の固定観念である。メンテナンス? そんなものがいったいなんの儲けになるというのか? 建築畑でも経済畑でも、新築を増やし、床を増やすことこそ重要な解決策だ、と主張する人は多いだろう。

だがここで、建物を人間に置き換えて考えてみよう。老朽化した建物には価値がない、そんなものはさっさと建て替えればよい、と考えてきた20世紀の建築観。本来「老朽」という言葉は、「老いて役に立たない」という意味で、人間に対して使われる言葉だった。だが今日、高齢者に対して「老朽」という言葉を投げかける人はいないだろう。それにもかかわらず、建物に対して私たちは「老朽化」という言葉を乱用し、姥捨山よろしくスクラップ&ビルドを繰り返してきたわけだ。

一方、医療や精密機器の分野では、高齢者医療の分野は成長分野である。社会の少子高齢化が進み、ターゲットとなる高齢者が増加したからこそ、そこに商機があるということなのだろう。元気な高齢者が増えれば、ますます健康的で豊かな暮らしが大切になる。ウェルネス、ウェルビーイング、QOLといった新興概念は、ビジネスと技術開発を大いに発展させてきた。

翻って日本の建設業界も、少子高齢化状態に陥っている。新しい子ども(新築)の着工数は減少の一途を辿り、社会には既存ストックが溢れている。元気な高齢者の活躍の場を増やす試み(既存ストックの活用)も大切だが、高齢化の道を辿る建物のウェルネスを考えることも、同様に大切なはずである。「ウェルビルディング」などと駄洒落をいってみても、流行りそうにはないが......。

だが、冗談ではなく、メンテナンスを改めて大きな産業として育てていくことは、建築界ばかりでなく、製造業全体にとって重要な戦略となりうるであろう。それはSDGsに適っているからとか、ポリティカルにコレクトな方向性だから、ということ以上に、使い捨て文化を生み出してきた20世紀的なあり方に代わる、建設業や製造業の未来を切り拓く重要な可能性を有しているように思われるからだ。

合理性を追求して製品の規格化を推し進め、同時に技術開発の名のもとで古い規格を次々に捨て去っていくやり方によって、20世紀のプロダクトは短命化の一途を辿ってきた。無料修理の保証期間が過ぎれば、古い規格部品との交換もできなくなり、修理は不能になる。職人的な修理技術の不在は、同時に職人的なものづくりの不在をもたらしてきた。そうした環境のなかでは、ものづくりのクオリティは凋落の道を辿るしかない。メンテナンスを建設業や製造業の軸に据え直すことは、ものづくりの復権をもたらすに違いない。

職人的な手作業(manu + tenere)ばかりでなく、最新のデジタル技術も、メンテナンス分野で活躍できるはずだ。BIMも、デジタルのデザインやファブリケーションも、ロボティクスやi-Constructionも、建設分野のありとあらゆるデジタル技術は、新しいものに向ける以上に古いものに向けたほうが、いっそう大きな可能性が拓けてくるのではないだろうか。誰もみたことがないような革新的なデザインを生み出すうえで、たしかにコンピュテーショナル・デザインには可能性があるに違いない。だが、普通のデザインの新築のチャンスすら減っている社会のなかで、前衛的なデザインを実現できる場は、ごく僅かに限られている。むろん、その僅かなチャンスのなかで未来を示す努力は重要だが、産業として、ビジネスとして考えるならば、その最先端技術を古い既存建物に向けたほうが、チャンスは大きいように思うのだ。

既存建物をメンテナンスしながら使い続ける場合、耐震性能やエネルギー性能などを、現代社会が求める次元に引き上げていく必要がある。既存建物のすべての改修履歴が完全にアーカイブ化されていればともかく、普通はそんなことは望むべくもないので、大きな建物になればなるほど、建物の不具合の診断は困難を極める。そうした診断や治療のために、最先端の技術を活用する試みも少しずつはじまっている。

血管のなかを微小なロボットが動き回り、ヒトの体内の不具合を診断・治療する技術開発が進むように、建物内を極小のロボットが動き回り、劣化の診断やメンテナンスを行うような未来は、不可能ではないだろうと思うのだ。そして、そうした技術開発を推し進めるモチベーションのためには、適切にメンテナンスされ、魅力的にリノベーションされた中古物件が、価値ある不動産として取引される社会が求められる。これらの両輪が力を合わせて回りはじめたとき、現代の都市と建築は、未来に向けて歴史的・文化的な存在に育っていくことになるだろう。

歴史的価値とはなにか?

現代の都市と建築を、歴史的・文化的な存在に育てていくために、19世紀以来、努力を積み重ねてきたのが「文化財」という考え方であった。この理念と制度のおかげで、数多くの歴史的に重要な建物が保護されてきたし、歴史的な建築に接する人々のリテラシーも格段に向上してきた。歴史的に重要とされる建物の保存や再生が話題に挙がれば、オーセンティシティという文化財の専門用語が、さまざまな人々の口の端に上るようにもなっている。

このような現状は、文化財建造物にかかわってきた人々の積年の努力の結果であろう。20世紀という驚異的な成長時代において、放置していれば失われてしまったであろう数々の歴史的建築が、文化財の仕組みによって守られてきた。20世紀を通じて大きな発展を遂げてきた日本の大都市部においても、さまざまな歴史的建築がサバイバルを遂げたことにより、都市の歴史と文化が生き続けてきたといえるだろう。

一方で21世紀の現代社会は、20世紀の成長時代とは異なるフェーズに移行しつつある。放置すれば都市のすべてが再開発され尽くしてしまうような経済的な勢いは(都心の一部を除けば)次第に影を潜め、手をこまねいていれば都市がストックで埋め尽くされそうな時代の到来である。そうした時代において、私たちは建物の歴史的価値というものをどのように考え、いかにして都市と建築の歴史性・文化性を高めていくことができるだろうか?

前項で論じたような「メンテナンスの哲学」を考えていくことは、文化財的な意味における「歴史的価値」を論じることとは、少し異なる態度である。20世紀初頭に、文化財的な「歴史的価値」を定義したのはアロイス・リーグルだが、彼は次のようにいっている。

記念物の歴史的価値は、人類がつくり出した何らかの創造的領域の発展過程における、完全に特殊であると同時に個別的なある段階を、我々に示すということにある。この観点からは、ある記念物において我々の関心を惹くのは、その発生から経過した時間とともに顕著となってくる風化の痕跡ではなく、人工物として完成した直後の姿ということになる。記念物がその生成直後に備えていた本来の完結した状態が、高い純度で保たれていればいるほど、その歴史的価値は高まってくる★3
──アロイス・リーグル『現代の記念物崇拝──その特質と起源』(1903)

もしも建物の「歴史的価値」がこのように定義されるものだとすれば、それはやはり、一級品のモニュメント(記念物)における、オリジナルな(当初の)価値を重視する姿勢であり、それこそが文化財理念の根幹をなす考え方である。だがそれは、文化財予備軍とも呼べそうな既存ストックが多数存在する社会のなかで、ひとつでも多くの既存建物をその歴史性を活かしながら魅力的に再生していくという現代の姿勢とは、必ずしも一致しない。ごく少数の、選び抜かれたモニュメントについては、今後も由緒正しい文化財として保存していくことは大切である。だが裾野を広げ、メンテナンスとリノベーションによって古い建物を使い続ける価値観を高めていくうえでは、「歴史的価値」や「芸術的価値」という表現を曖昧に濫用することは、議論を混乱させるばかりのように思われる。

それに対して、筆者が提示したのは「愛着」と「不動産的価値」であるから、われながら身も蓋もないと思う。専門家による保存の要望ではなく、個人の愛着を優先するのか? 学術的・行政的に認定された歴史的価値ではなく、経済至上主義に任せた不動産的価値を優先するのか? と批判もあることだろう。

だが、筆者がそこに幾ばくかの可能性を見出しうるのは、文化財に関する議論の蓄積のおかげである。歴史的な建築に接する人々のリテラシーは、かつてよりも格段に高まっている。1996年の文化財保護法改正によって創設された登録有形文化財の制度は、守るべき歴史的な建築の裾野を大きく拡げ、それらを使い続ける可能性を高めてきた。さらに2018年の同法の改正では、重要文化財等の所有者や管理団体が主体となって保存活用計画を作成し、国の認定を申請できる仕組みが設けられた。国の文化財として指定・登録された建物ですら、こうして所有者が主体となって使い続けるために工夫していく時代である。文化財予備軍であるその他大勢の歴史的建物については、所有者が建物に愛着を持ち続け、その建物が経済的価値を持ち続けることが重要であるのは、いうまでもないことだと思うのだ。


201912


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