建築の制作論的転回〈後編〉

能作文徳(建築家)+川島範久(建築家)+上妻世海(文筆家、キュレーター)

周囲の情報を取り込む


川島──冷静にみると、《西大井のあな》は元の家がすごく変わっていますね。まず窓がとても多い。周囲に住居が密集しているうえ、近くには私鉄や在来線、新幹線の路線もあり、外からの情報が非常に多い。周囲一帯は地形の起伏も大きいですよね。

能作──そうですね。地形や地質について言えば、大田区の大森から大井、西大井一帯はエドワード・S・モース(人類学者、1838-1925)によって縄文時代の貝塚が発掘されているように、縄文時代から人が住んでいる場所です。狩猟民、農耕民にとっては適した地質、場所なのですが、おそらく斜面の多いこの地域は近代的な宅地開発には向いていなかったのだと思います。

川島──そのような縄文地形に住宅や線路が建て込むこの場所は、制作には格好の場所かもしれませんね。窓が多いのでそういった外部環境の情報に意識的になるし、さらに内側の仕上げを剥ぐことで、構造や設備といった臓物があらわになっている。そのような他者の存在が隣り合わせである状態は、制作にとって重要なことのように思います。

一方、現代人はインターネットなどを通して、自分にとって好ましい情報だけを通すフィルターバブルの中に閉じこもる傾向にあると言われています。最近、『情報環世界──身体とAIの間であそぶガイドブック』(NTT出版、2019)という本を読んだのですが、そのなかで美学研究者の伊藤亜紗さんが「生物としてのデフォルトは、むしろ自分の特性を反映した環世界に閉じこもることのほうにある」と述べていたのが印象的でした。だから、塀を立て、窓はシャッターやカーテンで閉じ、個室に分けて閉じこもり、外との関係を絶とうとするんですね。しかし、《西大井のあな》では逆に、穴を開け、間仕切りを取り去ることで、光や熱や風を届けるだけでなく、上下階の音までも届けるので、いわゆる一般的な「集中できる環境」ではないかもしれませんが、能作さんの制作に影響を与えているのは間違いないと思います。

上妻──生物学的には環世界に閉じこもりたいのだとしても、家を閉じようとするのは近代的な傾向だと疑っているんです。一人部屋がある伝統住居はなかなか見られない。ゲルはいわばワンルームの空間なのですが、一般的には複数人で使用するものです。プナンではトイレすらも個室ではなく、外で済ませます。このように個室に一人で篭るということはありません。日本家屋でも襖は完全に分離するものではなく、友人が来たときに開いてより広い宴会場として使用したり、閉じていても隣の部屋の声も聞こえるようになっていますよね。縁側も外と中の中間領域であり、内でもあり外でもあるような間の空間です。こうしたことからも閉じる傾向は特殊ではないかと思うんですね。

川島──なるほど、生物学的には閉じたくても、近代以前は閉じてしまうと生きていけなかったと言えるかもしれませんね。ただ、2017年に開催された窓学10周年記念シンポジウム「窓学国際会議──窓は文明であり、文化である」(10月3日)で、建築史家の藤森照信さんがオーストラリアの原住民・アボリジニが作った住宅を紹介されていたのですが、その住居には窓はひとつもなく、ドーム上の屋根が地面に接するところに穿たれた小さな穴から人は出入りしていたそうです。外部の危険から身を守るための工夫とも捉えることができます。

建築環境工学的には、例えば、快適な温熱環境とは「暑くも寒くもない、不快感を抱かない環境」とされています。また、被験者を対象にした実験で、この指標でこの範囲内の数値であれば快適に感じる人が多い、といった統計的なデータも示されています。その快適な環境を安定的に維持する効率だけを考えたら、変動が大きく不快な時間帯が多い外部環境であれば、可能な限り遮断するほうがよいということになります。

しかし、外部環境を遮断するよりも、例えば日中は外の自然光を採り込み、人工照明を使わないほうが、エネルギー消費量が少なくなるからいいのではないかと思う人もいるかもしれません。しかし近年、LED照明は昼光の発光効率を上回ろうとしています。そうなると、必要な明るさを一定に維持する効率性だけを考えたら、ときに明るくなりすぎます。暗くなる時間もあるような昼光に無理して頼るよりも、外光は遮断し、人工照明だけで明るさを確保するほうが、効率がいいということになります。何より、そう考えるほうが簡単です。

生物である人間にとって、外部から遮断された、ある一定の環境に閉じこもることは快適なのは間違いないのですが、生活の中で、ふと自分が想定していなかった音が──今電車が走っているように──聞こえてきたり太陽光が入ったり、風が抜けたりすることは、他者への想像力を持つうえで重要だと思うのです。

哲学者の國分功一郎さんが『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011)で書いているように、人間には、ほかの動物にはない、高い「環世界間移動能力」があります。別の環世界に移動し、「わかり得ない」ものに出会い、その対象を理解しようと努力し、「わかる」ようになる自身の変化に歓びを感じるものなのではないでしょうか。

上妻──たしかにそうですね。今のお話で、モンゴルに滞在中に執筆の仕事をしようにも、一人になれる閉じた空間がなくてあまり集中できなかったことを思い出しました。作家は個人的空間を必要とするという意味でも近代的な側面があるように思います。一方で外からの無数の刺激を受け取る必要があり、他方で書くときには外からの刺激が少ない空間を必要とします。

川島──建築家も近代にできた職業ですね。

上妻──建築家も含めていわゆる作家は近代とともに現れ、基本的には孤立した空間で作業することが多いと思います。とはいえそうした空間にいるばかりではいけない。西田幾多郎(哲学者、1870-1945)は著名な論文「場所の論理」(『西田幾多郎哲学論集I』岩波文庫、1989)のなかで、「我とは主語的統一ではなくして、述語的統一でなければならぬ、一つの点ではなくして一つの円でなければならぬ、物ではなく場所でなければならぬ」と述べています。この点と円の両方を回していくこと、つまり書斎に篭って書くことも必要だけれど、今こういう場所で対話したり、さまざまな場所にフィールドワークに行くなどして、自分を二重化しないといけないのでしょう。

原理主義に陥らず、現状を受け入れたうえで考える

川島──今の話のように、孤立した空間とさまざまなフィールドを往来することが制作にとって重要なんだと思います。しかし、そうした近代以前の伝統的な暮らしが残っているエリアに滞在するといった「スローライフ体験」は、資本主義経済をただ加速させているだけではないか、といった批判も見受けられます★2

上妻──そもそも、スローライフと呼ばれる田舎暮らしなどは「スロー」ではないんですよ。朝起きたら乳搾り、チーズ作り、五畜(馬、牛、駱駝、山羊、羊)の世話、料理をする。場合によっては自分たちで屠畜して食べる。こんな忙しいことがあるかと思います。これをスローライフと言っている人は、実際田舎に行っても記号的に観察しているだけで、彼らの生活を真に経験していないのでしょう。たんなる観光に終わっている場合と、自らの身体を書き換えるために没入する場合とでは、意味合いも体験もまるで異なります。僕が今日話したことは、フィールドワークに行っていないと考えられなかったことです。現地の彼らと一緒に狩猟し屠畜し肉を食う、あるいは五畜とともに太陽、土、生命と死の連続性のなかで生きる様を経験したわけですが、そのうえで、僕が彼らを模倣しともに生成することで得られた知見です。「良い/悪い」と価値判断をするのは非常に近代主義的です。僕は脊髄反射的に価値判断するのではなく、自らの直感を陶冶し、私という場所を他者=作品として練り上げたい。そしてその呪いに期待し、他方で、どこか慄いています。

例えば、彼らの生活を体験すると、生と死との距離について考えさせられます。「神的な者たちを待ち望み、死すべき者たちに連れ添う」という生と死の循環から乖離した状態に生きているのが近代人の特徴です。僕たちは自ら食べるものすら「商品」としてしか見たことがない。しかし、狩猟民の彼らは狩猟を通じて殺す/殺される、食べる/食べられる、見る/見られるといった可逆的な視点の往還を経験しているがゆえに、自分たちは特別な存在ではなく、他の存在と同じように生と死の循環のなかにいることを強く自覚しているように見えます。自ら殺して食べ、彼らもいつか殺されて食べられるかもしれないリアリティをもって生きているんですね。他方で、僕たちは「商品」を一方的に食べ、「自然」を一方的に支配し、「動物」を一方的に観察していると勘違いしています。実際は、それは単なるナルシシズム(自意識過剰)なのです。僕たちは相変わらず、SNSを使っていると同時に使われてもいて、小麦を育てているつもりで育てさせられていて、工場を使っているつもりで使われてもいる。このような循環的な働きを理解するためには読書だけでは不十分です。もちろん読書によって言語化能力が上がるので、それは必要不可欠ですが、僕は直接経験のなかで、より深くこのことを自覚し、感得しました。だからこそ、この循環をたんに使うのではなく味わう、消費するのではなく愛好する、生産ではなく制作へ、という処方箋を出す必要があったのです。僕が書いた文章は読者のために考えているわけではなく、偶然僕自身に痛烈に突きつけられた問いと向き合った結果導かれた、現段階での暫定的な回答なのです。

川島──私もそうした考えを日本でも実践できないか考えています。ここ数年、瀬戸内にある男木島という小さな島でフィールドワークを継続しています。男木島はかつては島内の資源を最大限に活かして自立的な生活を送っていたはずですが、離島振興法の指定を受けて以降、電気・水道インフラが本土と接続されるようになり、都市インフラに依存した生活をする人がほとんどになりました。しかし、近年、少子高齢化が進行し、放置された空き家・空き地が増え、都市インフラの老朽化も進行しています。急な斜面地に集落が形成されており、街路は狭く自動車が通れないため、空き家・空き地を管理するのが難しく、さらに、かつての島内の互助のコミュニティも失われつつあるため、空き家は崩れていき危険な状態で、空き地は雑草だらけという深刻な状況です。男木島のような場所は、都会で暮らす人にとってはグリッドから切り離された状態での暮らしを想像できる場所となるため、そこへ行くこと自体が学びになると感じているのですが、ただ学ばせていただくだけでなく、そういった都会の人間の学ぶ機会を地域環境改善に繋げる仕組みを構築できないかを検討したり、自然の力を利用するオフグリッドなインフラ技術の導入のフィージビリティ・スタディなどを行っています。これは、近代化によってかつての生活様式が失われ、結果的に起こった問題が近代的手法では解決することができないといった事例と捉えることができると思うのですが、プナンやモンゴルも近代化によって侵されているのでしょうか。

上妻──そうですね、近代化のレイヤーはいくつかあり、鼎談の前編でも少し話しましたが、例えばマレーシア、サラワク州の政府はプナンに近代学校教育システムを組み込もうとして学校を設立したんです。政府側は教育費を無償にし、さらに教育支援金も用意しています。ところが小学校卒業者は30年間で20名そこそこですし、中学校卒業者は今まで0人とのことです。プナンの子どもたちにとっては近代的な学校教育を受けるよりも、森の中でお父さんから動物の狩り方を学んだほうがいい。英語も数学もできなくても彼らには狩猟の能力があり、動物の解体方法も知っている。森や川に豊かな食料がある。生きていくうえでの知恵は、僕らよりよほどあるんです。他方で、そういった伝統的な生活を離れて、アブラヤシプランテーションでの賃金労働に従事する人たちが増えてきていることも事実です。そしてそれは、プランテーションによって川が汚染され、グローバル企業によって森林伐採が行われることで、魚や動物が獲れなくなってきた事態を招いているのです。

また、モンゴルの首都ウランバートルでは日本型教育が浸透しています。エリート校とされる新モンゴル高校を訪問したのですが、そこでは日本から寄付された黒板や机が使われていて、授業も日本の形式で行われていました。そして毎年数十名が日本に留学できる制度が設けられています。そこではみんな熱心に勉強していますが、はたしてそうした教育プログラムが彼ら彼女らをいい方向に導くのか疑問です。今になって近代教育を導入するということは、資本主義の競争原理に周回遅れで参加させられるようなものです。遊牧しながら動物とともに豊かな生活していたのに、学校で勉強して卒業後に資本主義経済の傘下にある企業で働くことが彼らにとって幸せなのか、何の意味があるのだろうかと考えてしまう。東京で満員電車に乗っている人たちを見てもまったく幸せそうに見えないので、これを目標にしていいのかという疑問が湧いてしまうのかもしれません。もちろん、そうしないと生きられないようなグローバリゼーションの波が彼らのもとまで及んでいるのも事実です。なので、仕方ないことは十分承知していますが、今後しっかり考えていきたいテーマです。

川島──そうした現状があるんですね。資本主義化によってモンゴルやプナンの資源が奪われようとしているのでしょうか。

上妻──そこまで意図されているのかわかりません。しかし人間はやはり新しいものやコンフォート(快適)を求めたがる。近代はコンフォートの究極の姿ですし、実際彼らにとって新しいものは日本型教育やテクノロジーなのかもしれない。しかし資本主義の競争原理に遅れて巻き込まれることを危惧して、モンゴル国内では世界のメガバンクの市場参入を制限しています。実際参入したいと考えているメガバンクはあるのかもしれませんが、モンゴル資本の銀行は国際信用度が低く、そのなかに世界トップクラスのメガバンクが入ると、自国の銀行は潰れてしまう。逆に、グローバル企業を利用しているような事例があります。モンゴルのホテルのバーなどで、スクリーンに海外のハイブランドのCMが流れているのをよく見かけます。国内にはそれらの正規店はないのですが、ネットに上がっているCMを勝手に流して、おしゃれな空間を演出し、信用だけを得ようとしている。そして多くの人が身につけている服は、世界の有名ブランドが忠実に再現されたフェイクで、それらは道端の露店など、至るところで売られています。また巨大なショッピングモールの中にはスターバックスの看板があって、Wi-Fiを使おうとして行くと、そこにはスターバックスは存在せず、別のカフェがありました(笑)。

川島──面白いですね。もはや近代化されない場所は存在し得ないでしょうし、彼ら彼女らは生き抜くために資本主義を利用しているのでしょうね。

上妻──そう言えると思います。グローバル企業を利用して商売をするといった、資本主義の逆転、ハッキングのような仕掛けですね。現状プナンやモンゴルは近代化しつつあり、僕としては接触しないほうがいいと考えていますが、すでにグローバリゼーションの流れに接触してしまっている。ゆえに、こうした現状を一旦受け入れないといけない。受け入れたうえでどうするのかという思考じゃないと、単純な自然回帰のようなスピリチュアルで神秘主義的な方向に進みかねず、それは危険だと思っています。

能作──そうですね。「エコロジー」もスピリチュアルに使われることがあります。例えばディープ・エコロジーは、人間と宇宙を同一線上に捉えるような超越した領域になってしまいます。エコロジー思想のなかには非常に原理的なものもあります。またナンシーが、「コミュニケーションはコンタミネーション(感染)となり、伝達は伝染となる」と福島原発事故の破局の状況を述べていますが、この繋がりすぎた状況、汚染され、コンタミネーションされた現実を生きていかないといけない。状況をゼロにして新しく打ち立てることは不可能でしょう。そのなかで、汚染された世界や近代化を引き受けたうえで建築を制作し、太陽や土壌と生活を繋ぎ直すことが大事だと考えています。こうした制作のスタンスはなかなか理解されません。CO2の排出量削減を数値としてどの程度達成しているのか、断熱性能をDIYレベルで上げていても意味がないから、完璧に断熱された「箱」を新しく作るべきではないかといった原理的な指摘を受けることがあるんです。原理的な思考のままでは、不純物が入ってきたときに排除しかできない。土のような不確定要素は簡単に排除の対象になってしまいます。

こうした思考の背景には、還元主義があると思います。建築は、この還元主義に影響を受けてしまいがちです。ある事象が科学やテクノロジーに還元できるはずだという信仰があり、それとは逆にあらゆる問題は社会に還元できるはずだという思い込みがあります。ラトゥールはこのことを痛切に批判し、「非還元の原理」を提唱します。例えば建築では、「スペース」や「プログラム」といった言葉があります。スペースやプログラムという言葉や観念によってインフォーマルな事物を、簡単に還元することができる。そうした還元された概念をもとにフォーマライズ(形態化・形式化)します。例えば、「コモンズ」について考えてもらう設計課題を大学で出題していますが、コモンズを説明しようとすると、プライベートとパブリックについても触れなければいけません。コモンズは資源の共同管理のことを意味しますので、プライベートは個人あるいは会社などによる私的な管理、パブリックは国や行政などによる公的な管理のことを指しますが、学生はそれらを「スペース」の接頭語として捉え、プライベート・スペース、パブリック・スペース、コモン・スペースの3つに単純化し、色分けして配置する方法でしか、建築を作ることができません。しかし空間や場所は、人間の管理の仕方次第で、共公私のどれにでもなってしまいます。空間の限定性あるいは境界の設定は、管理の仕方のひとつにしかすぎません。そのことを説明しても何が問題になっているのかを理解するにはとても時間がかかります。共公私という分類も還元ですので、太陽や土、道路や空き家などの具体的な資源をどのように管理するか、そこにはどのような空間的限定やメンバーシップが必要なのかを考えていくことが建築の設計や使い方を考えることになると学生に伝えていますが、なかなか難しいです。これは学生が悪いわけではなく、もっと深い問題があると思います。その原因は現代人が還元主義の考え方に馴れ親しみすぎて、そこからなかなか抜け出すことができないことにあるようです。そのような還元を経ないと、効率的に建築など作れないのかもしれません。しかし還元主義が行きすぎて、単純化されて生き生きとしない建築や都市がこれほどまでに増殖しているのではないかと思います。地球環境と建築との関係を考えていくなかでも、こうした還元という考え方が出てきてしまいます。

川島──建築環境工学分野での基本的なスタンスは、地球温暖化問題を解決するために、CO2の排出削減量などの数値目標を掲げ、その目標を達成するための外皮性能や高効率機器の性能に関する基準を示す政策を作り、それに従わせることによって、地球スケールの効果を出そうと試みる、といったものだと思います。しかし、その方法だけでは息苦しく、本当に大事な変化には繋がらないようにも感じています。

能作──地球環境や生態系を考える上でも、単純化して還元して考えるとおかしなことになる危険性もあると思います。地球のスケールに対してやはり個人ではどうしようもない部分がありますが、小さな単位だからこそ具体的に考えられるという強みがあります。そうした小ささに対する利点を考えないと、惑星規模のスケールに対して、どうしようもなさが重苦しくのしかかってきます。しかし自分にできることを見つめて実践することが一歩になると思います。野菜を育てて食べたり、土と戯れたりといったようなことかもしれません。こうした実践は楽しいですし学ぶことも多いです。この感覚は大切なことではないかと感じます。

上妻──楽しさは重要ですね。ハイデガーの言う「大地を救い、天空を受け入れ、神的な者たちを待ち望み、死すべき者たちに連れ添う」という四重の労わりを個々人が生活のなかで実践し、思考していくことは、生活を味わい深いものに変えていく動的で述語的なふるまいです。他方で、形式的なCO2排出削減目標の数値を決めてトップダウンで実現を試み、数値目標やレギュレーションを守れないと注意されるような進め方は非常に主語的です。しかし世界は、農耕には適さないモンゴルの土壌、近代的な宅地開発には適さなかった西大井のように、質が異なる場所や土壌で構成されています。モンゴルでは年間を通してほとんど雨が降らず、太陽が直射するといった条件が揃ったためにゲルの形式が生まれた。このように、さまざまな変数が合わさった述語的な建物の作られ方がある。これからは建築家が主導で住宅を供給していく近代的な方法ではなく、《西大井のあな》での実践のように、各々が自然との調和の接点を見つけていく方法を模索していく段階であると思っています。

川島──とはいえ、政策によって目標数値が示されることが無駄なのではありません。指標と基準を理解しておくことは重要で、それとの距離感を把握しながら、それぞれの人にできることをやっていけばいいと思っています。それぞれの人に合ったものでないと、楽しくないし続きません。仮に、環境的に高性能な住宅を作っても、住人が照明を消さない、エアコンをつけっぱなしにするなどをすれば、結果的に増エネルギーになるといったことが往々にして起こります。住み手が主体的になれる状況でないと意味がないのです。

見る方法を教育する

編集──少し視点を変えると、そのような主語と述語の軸の回転は教育とも関係がありそうだと思います。デザインの良し悪しは主に学校で教育されるのが現状です。しかし、おそらく「制作」は現在の教育のボキャブラリーにはないでしょう。近代的な教育を乗り越えて「制作」を普及することは可能なのでしょうか。

能作──そうですね、ハーマンの言うような「わかり得ないもの」に接近する方法として自分なりに考えたのは、「丁寧に見る、丁寧に考える」ことです。例えば、事物と向き合うときに、写真を撮るだけでなく、絵を描いてみるというのも、対象に時間をかけて向き合うことになります。それは教育にも応用することができそうです。分かりえないからこそ時間をかけ、そこに事物の成り立ちを見つけていくのです。分からないから無視するという態度ではダメですし、分からないから自分勝手にして良いということにはなりません。事物に向き合うことでより深い次元で分からなさを認識していくのです。記号的に瞬時に捉えるのではない方法です。

上妻──なるほど。ものを記号的に見ようとするのではなく、生態的に見るわけですね。土をじっくり観察すると、土だけでなくミミズや菌、植物や虫たちによって作られていることがわかる。自律的なものは関係によって成り立ち、関係的なものは自律的なものによって成立している。よく観察することが本来あらゆる教育の基本であるべきなのですが、近代教育は直接経験から離れて、教科書を用いて図式的に学ぶことを中心としています。また極端な話ですが、デザインを意図的に作ることは重要ではないとも感じています。生きるために整えていけば、あらゆるものは美しくなるのではないでしょうか。生きるために試行錯誤した結果が動植物のデザインであり、人工物ではなかなかたどり着けない水準の複雑さと美しさを兼ね備えています。高田造園さんの話も、表層的に美しい農園は深層の絡み合いのなかで成立していることを示しているように思います。

川島──丁寧に見ることが大事だと私も思います。はじめに紹介したコンピューターによる環境シミュレーションで解析する手法は、解像度を上げてものを見る方法のひとつなのです。都市の現状および過去を、まずは多角的に丁寧に見て、どのように手を加えれば状況を改善していけそうかを考えるといったリノベーション的思考は教育として有効だと思います。また、若い人にとっては、現在の技術の多くが自身が生まれる前から存在しているものでもあるため、それが発明された背景や歴史を知り、現代のエコロジカルな視点から「学び直す」ことも、未来に向けてとても重要だと考えています。

能作──私たちは近代人として物事を捉える傾向にあります。具体的な物事を人間か非人間か、主体か客体かのどちらかに還元して考えてしまいます。このような思考形式が近代特有だということを人類史から理解することができます。多自然主義も近代的思考を相対化するヒントになるでしょう。丁寧に見るということは、生きるために真剣に見る、そして事物を生きているかのように見るということです。太陽や雨や土も、生きるために必要なものですが、誰も本気で見ていないのです。物事を死ぬか生きるかという次元で考えてみることです。それは楽なことではありません。むしろ困難さを伴います。少しずつ近代特有の思考を引き剥がすことによって、生態学的な視座を得ることができるのではないかと思います。



★2──河南瑠莉 「スローライフが、むしろ資本主義を『加速』させるという皮肉な現実──加速主義と減速主義の危うい共犯関係」(「現代ビジネス」2019年8月16日、講談社)


[2019年8月27日、《西大井のあな》にて]


能作文徳(のうさく・ふみのり)
1982年生まれ。建築家、能作文徳建築設計事務所主宰。東京電機大学准教授。主な作品は《高岡のゲストハウス》(2016)、《ピアノ室のある長屋》(2017)、「Cosmo-Eggs|宇宙の卵」(会場設計、2019)《西大井のあな》(2018-)。主な共著は『WindowScape 窓のふるまい学』(2010)、『アトリエ・ワン コモナリティーズ──ふるまいの生産』(2014)。

川島範久(かわしま・のりひさ)
1982年生まれ。建築家、川島範久建築設計事務所。東京工業大学助教。主な作品は《Diagonal Boxes》(2016)、《Yuji Yoshida Gallery / House》(2017)など。

上妻世海(こうづま・せかい)
1989年生まれ。文筆家、キュレーター。主なキュレーションは「世界制作のプロトタイプ」(HIGURE 17 -15cas、2015)、「Malformed Objects──無数の異なる身体のためのブリコラージュ」(山本現代、2017)、「時間の形式、その制作と方法──田中功起作品とテキストから考える」(青山目黒、2017)。主な著作は『制作へ──上妻世海初期論考集』(オーバーキャスト、2018)。


201910

特集 建築・都市・生環境の存在論的転回


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建築の制作論的転回〈前編〉
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生環境構築史の見取り図
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