彫刻と建築の問題──記念性をめぐって

小田原のどか(彫刻家、彫刻研究)+戸田穣(建築史)

──本対談では建築と彫刻の交点から「記念性」を考えます。彫刻家であり彫刻研究者の小田原のどかさんは、今年6月に上梓された『彫刻 1』(トポフィル、2018)をはじめ、作品制作や執筆、出版活動を通して彫刻の議論を展開されています。また建築史家の戸田穣さんは2017年に『建築雑誌』で「建築は記念する」という特集を企画されました。今日は、建築・彫刻の分野における記念性について、きわめて今日的な問題提起を行なっているお二人にお話しいただきます。

戸田穣──このところモニュメントやメモリアルに関心を持っています。最近は特に20世紀後半の日本における世俗の慰霊空間について調べていて、2016年には『10+1 Website』に「千鳥ヶ淵から考える慰霊の空間」という文章を寄稿して、谷口吉郎の設計による《国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑》(1958)や海外につくられた慰霊碑について紹介しました。また、日本建築学会が発行している『建築雑誌』2017年7月号では「建築は記念する」という特集を、中島伸さんと谷川竜一さんと共同で企画し、主に太平洋戦争と東日本大震災の慰霊に関わる記念の空間について考えました。

建築家はモニュメントや碑を少なからずつくっていますが、あまり言及がありません。『建築雑誌』では菊竹清訓の設計した11の政府建立海外慰霊碑について、事務所の元所員の方に集まってお話しいただきました。それらの慰霊碑は建築に比べると予算も少なく、また内部空間をもちません。そのためか(谷口吉郎は碑の建築家として有名ですが)、菊竹のそれはほとんど知られておらず、作品集のなかで割かれているページもわずかです。一方で、菊竹は兄が抑留されていたこともあり、戦争に対する思いは強く、これらの仕事は彼にとっても大切なものでした。

建築の記念性というのはたしかにデリケートなテーマです。とはいえ東日本大震災後の災害遺構の扱いについて、また復興あるいは追悼のための空間のあり方についても多様な態度が見られたこともあって、時宜を得た特集であったと思います。

その特集のなかでは、建築を挟撃するかたちで彫刻とランドスケープというテーマも入れました。ランドスケープについては高田松原津波復興祈念公園の計画にも携わっている篠沢健太さんに寄稿いただき、彫刻については都市史の視点から村上しほりさんに、神戸における戦後の野外彫刻展と震災後の震災モニュメントについて書いてもらいました。ちょうど9月まで、国立近現代建築資料館で大髙正人による神戸と宇部の彫刻祭に関わる計画が展示されているので見ていただきたいですね★1

3次元の立体であるモニュメントは、内部空間を持たないので建築とは言えないのかもしれませんが、では果たして彫刻なのかというのは気になるところです。建築と彫刻はときおり比較されますが、あまり真剣には議論はされてこなかったように思います。じつは今回の対談のお話をいただいたとき、ちょうど小田原さんがつくられた『彫刻の問題』(トポフィル、2017)を読もうという頃だったので、私にとってはまたとないタイミングでした。『彫刻 1』も刊行されますし、今日は小田原さんにお話を伺うというかたちで進めたいと思います。

戸田穣氏

小田原のどか──私は彫刻を制作しつつ、彫刻についての研究と、本の編集・出版もしています。のちほどお話しますが、彫刻と建築は強い結びつきがありますから、両者の関係については以前から考えたいと思っていて、戸田さんが司会をなさった『建築雑誌』の公開対談にも足を運びました。今日はとても楽しみにしてきました。よろしくお願いいたします。

私はもともと高校の美術科で塑造を専攻していて、木や石を削ったり彫ったりするのではなく、粘土を使った彫刻の技法を学んでいました。美術大学の彫刻学科に進学しましたが、あるときから「彫刻とは何だろうか」ということを考える手がかり、つまり通史や言説があまりにも少ないことに疑問を持つようになりました。2018年2月には母校の多摩美術大学彫刻専攻の学生たちが、大学に教育の内容改善を求めた問題提起がありました★2。自分の学生時代を振り返っても、本を読んだり勉強することよりも、とにかく手を動かすことが重視されていましたが、そういった傾向がより悪い方向にいってしまったために起きた出来事なのではないかと思います。教員たちは「彫刻をつくる指導」を行なうわけですが、肝心の彫刻とは何かという問題は空洞のままです。と言うのも、彫刻とは字義からすれば「彫り刻む」ということですが、その内実は、木、石のような彫り刻まれるものだけでなく、鉄や青銅などの金属、粘土、合成樹脂なども用いられ、素材だけでなく技法も実に多様です。さらに日本では、仏像、大理石彫刻、ブロンズ像などの来歴がまったく異なるものもひとまとめに「彫刻」と呼んでいます。「彫り刻む」という言葉ではとうてい抱えきれない。それなのに、いったい何が彫刻なのかという言説や議論がほとんどありません。そして彫刻は男性社会ですから、そこに女性蔑視の問題が重なり、特に彫刻教育の現場において、教員と学生のあいだで彫刻をめぐる認識の乖離が深刻になっています。そういった現状を踏まえて、彫刻という制度を今いちど検証しなければならないと思っています。

こうした彫刻を制度から問い直すという態度は、修士課程のときの指導教官であった小谷元彦さんから大きな影響を受けました。西洋の彫刻と日本古来の彫刻の出会いを扱った小谷さんの《SP》(スカルプチャー・プロジェクト)シリーズなどに刺激を受けましたし、意識的に彫刻の文脈に触れ、かつ自身が彫刻史の先端にいる者として彫刻史を点検し、自分の身体を通して検証していくというような制作の姿勢に感化されました。

先ほども触れましたが、彫刻は素材も技法も来歴も異なるものの総合ですから、定義が非常に難しく、「彫刻は〜ではない」という仕方で、外部をつくり出すことで外郭を保とうとする否定神学的な傾向があります。私自身はそういった排除と切断による自己規定とは別の方法を採りたいという思いから、「絵以外のすべては彫刻である」という考えを持っています。博士課程では絵とは何かという問題に取り組むため、中西夏之さんの絵画思想について研究をしていました。中西さんは20代の頃に、土方巽をはじめとする暗黒舞踏との濃密な関わりがあり、「ハイレッド・センター」でのパフォーマンス活動も行ない、そうした外部の視座から絵画の固有性を発見し、独自の絵画思想を築き上げていった側面があります。絵画とは何だろうかと問い続けた中西さんの姿勢にも、私自身が彫刻とは何かを問う方法を模索するなかで、大きな影響を受けました。

小田原のどか氏

長崎・平和公園に見る彫刻の問題

小田原──私は10代の頃は人体などの具象彫刻をつくっていましたが、その後、矢印記号を用いた表現を彫刻で実践していたなかで、ある学芸員の方に長崎の原爆落下地点に設置されていた矢形の標柱について教えていただきました。矢印と矢という自分の作品との類似にまず驚き、そして、たいへんな数の人が亡くなった惨禍の中心に、慰霊や平和祈念の機能が排除された記号的な造形物が出現していた事実に、大きな衝撃を受けました。それまで長崎へは行ったこともなかったのですが、資料や先行研究を調べ、自作のモチーフとしました。その後、資料調査にも限界を感じて、2014年に所属している日本記号学会の助成を利用して長崎へ行き、標柱について徹底的に調べることにしました。ここで行なった調査を元に、どのように長崎の爆心地に矢印が出現したのかは論文にまとめています★3

2016年には、新古典主義の彫刻がご専門の金井直さんがキュレーションされた「彫刻の問題」という展覧会に、美術家の白川昌生さんとともに参加しました。会場は愛知県立芸術大学が所有するギャラリーで、金井さんは同年の「あいちトリエンナーレ」のキュレーターでもありましたが、その会期に合わせ、より金井さんご自身の関心に引きつけたかたちで、長崎の彫刻についての作品を手がかりに、反-モニュメントではなく、共-モニュメントと呼べるような彫刻のあり方を探ろうとする展覧会でした。白川さんは《長崎原爆投下記念碑》(2016)を、私は《↓》を出品しました[fig.1,2]。この展覧会で三者が何を問うたのか、その記録を残したいと思い、私が編集人となり、キュレーターと美術家が同じボリュームの論考を寄せるというコンセプトを設定して、『彫刻の問題』という図録・論考集を出版しました。


fig.1,2──小田原のどか《↓》(2016) 素材:ネオン管、アクリル
[いずれも撮影=金川晋吾]

戸田──『彫刻の問題』の白川さんのテキストには、長崎の《原子爆弾落下中心地碑》(1956)[fig.3]が建築家の松雪好修によるもので、原爆の焼影の角度によって形態が決められているという記述がありますね。建築の手法として軸線がありますが、これなどはある種の測量なわけで、とても建築的な手法だと思いました。

fig.3──《原子爆弾落下中心地碑》[撮影=金川晋吾]

小田原──白川さんが詳しく書いてくださいましたが、《原子爆弾落下中心地碑》の作者は長いあいだ忘れ去られていて、設計の意図なども不明でした。1990年代にこれを撤去し、被爆50周年記念事業として新たに富永直樹《母子像》(1997)を建立するという計画が発表された際に、長崎市民による大きな反対運動が起こり、その過程で設計者と設計のコンセプトが明らかになりました。中心地碑は反対運動を受けて結局は撤去を免れましたが、《母子像》の計画は立ち消えになることはなく、いまも公園の片隅に立っています。

日本だけでなく海外でも、原爆と言うと広島という地名がまず出てくるような不思議な現状があるように思いますが、これまで多くの人が指摘しているように、広島と長崎では爆心地の地形も歴史的背景も大きく異なります。大勢の方が亡くなった場所であることを踏まえ、あえて不謹慎な言い方をしますが、爆心地のありようを比較・検討する材料がふたつあると捉えることもできるのではないでしょうか。

広島平和記念公園を実際に訪れて驚いたのは、じつはあそこにも彫刻はたくさんあるのですが、軸線上には見えてこないよう、丹下健三の設計によるものなのか、樹木で巧妙に隠されていることです。一方、長崎の平和公園にはむきだしの彫刻が林立しています[fig.4]。「平和彫刻公園」と呼んでも差し支えないほどです。長崎の爆心地に数ある彫刻のなかでも、とりわけ巨大な北村西望の《平和祈念像》(1955)は平和公園に、長崎市にとっては《平和祈念像》に続くふたつ目の大型彫刻である、北村の弟子・富永直樹の《母子像》は、爆心地公園とも呼ばれる平和公園の片隅に置かれています。ひとつの公園が道路によって分断され、あたかも公園がふたつあるかのようになっていることからも、何か全体の設計がなく、建築家が不在の場所という印象を受けます。平和公園の造成に関わった方は誰ひとりとして意図していないと思いますが、《平和祈念像》という男神像を中心に、さまざまな母子像や子どもの彫刻が配置されている現在の平和公園が発しているのは、「産めよ増やせよ」というようなグロテスクとも言えるメッセージではないでしょうか。さらに、もともとあの場所にあった刑務所の遺構を埋め戻して、世界各国から寄贈された平和記念の彫刻群が設置されている。彫刻が負の記憶に蓋をするための重しになっているようにも感じられます。

fig.4──長崎・平和公園[撮影=金川晋吾]

小田原──長崎では、原爆が落とされた翌月には、聖地・エルサレムを引き合いに出して、長崎を一大観光地にするという記事が新聞に出ています。論文にもまとめましたが、当時の長崎新聞会長によって言われたそうです。思い切った発想ですが、その理由を考えると、爆心地が長崎という都市の中心部ではなく、複雑な歴史的背景を持つ浦上だったことが大きいのだと思います。1948年には爆心地一帯を「アトム公園」にするというプランが出され、矢形標柱が取り去られて瓦礫が整地され、公園として整備されます。そうした計画を建築家が主導したという史料は管見の限り発見できていません。

1990年代後半、《原子爆弾落下中心地碑》の代わりに《母子像》を置くと長崎市が決定したとき、長崎市民やさまざまな団体から強い反対が起こったのは、1981年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が長崎を訪れた際に、平和公園へは足を運ばなかったことが関係しています。キリスト教との関わりが深い長崎では、ローマ教皇の来崎はひときわ喜ばしいことでしたが、男性の裸体を神格化した《平和祈念像》は、キリスト教になじまないと避けられてしまった。この時に、具象彫刻が人を排除してしまうことがあると明らかになりました。これを潜伏キリシタンの末裔であり、自身もキリスト者であった当時の本島等市長は重く受け止め、平和公園を再整備するための検討委員会が設置されます。ですが、検討委員会が審議していた再整備プランも《平和祈念像》への反省も白紙に戻して、新しい長崎市長がコンペや有識者の審議などを経ずに、キリスト教のモチーフをストレートに使用した《母子像》の設置を決定しました。母子像を原爆投下の中心地点に置くという決定には、住民による反対運動に加え、キリスト教を含む長崎のさまざまな宗教団体から否定的な声明が出ます。それでも《母子像》は設置されたため、撤去を求めて市民による裁判が起こるのですが、この裁判に提出された意見書のなかで本島は、広島と長崎の平和公園を比較して丹下健三を神にたとえ、長崎における神=建築家の不在を嘆く意見を表明しています。本島等は、広島の原爆ドーム世界遺産化に際して、「広島よ、おごるなかれ」★4という声明を出した人物でもありますから、彫刻に関わる者として、彫刻と建築の関わりを考えるうえでも、彼の言葉は本当に重く響きます。

戸田──長崎と広島では1949年に、それぞれ長崎国際文化都市建設法と広島平和記念都市建設法が立てられました。1955年には、現在の長崎原爆資料館の場所に、佐藤武夫が設計した《長崎国際文化会館》が竣工しましたが、この建物もすでにありません。長崎県は1954年に、複数の文化施設から構成される長崎国際文化センター構想をたて、佐藤と同じく早稲田大学で教鞭をとった長崎出身の武基雄が《長崎市公会堂》と《長崎水族館》を設計しているように、早稲田大学関係者が長崎の計画には関わっています。都市計画とは関わりませんが、今井兼次の《日本二十六聖人記念館》も忘れられません。ただ、いずれも市内広域に点在しており、広島のような統一された都市計画のヴィジョンが示されていたわけではありません。実際に《平和祈念像》の設置場所も二転三転しています。大平晃久さんは、国際文化会館と中心地碑とで統一した景観を形成する可能性があったけれど、《平和祈念像》が平和公園に置かれたことで、国際文化会館の記念性が薄まったことを指摘していますね★5。確かに竣工当時の航空写真を見ると、爆心地公園も現在のような求心的なプランではなく、矩形に整えられて中心地碑に軸線が設定されており、国際文化会館の矩形の池庭の軸線とパラレルになっています。このような長崎における計画の変転には、計画主体の複数性と複雑さがうかがえますね。後年、武は《平和祈念像》の手前の太陽の広場に、「のどが乾いてたまりませんでした」という言葉が刻まれた《平和の泉》も設計しています。


★1──「平成30年度 収蔵品展  建築からまちへ 1945-1970」(国立近現代建築資料館、2018.6.9-9.9)
★2──多摩美術大学大学院 彫刻専攻学生有志のページ
★3──「長崎・爆心地の矢印」『セミオトポス12』(新曜社、2017)
★4──坂本義和、庄野直美編著『日本原爆論大系』第7巻(日本図書センター、1999)
★5──大平晃久「長崎平和公園の成立─場所の系譜の諸断片─」『長崎大学教育学部紀要』1(2015)15-28頁。


201808

特集 記念空間を考える──長崎、広島、ベルリンから


彫刻と建築の問題──記念性をめぐって
ドイツの記念碑と共同想起の現在──《ホロコースト記念碑》とコンペ案から
記念碑を内包する記念碑──《ノイエ・ヴァッヘ》の空間と意味の変遷
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