「切断」の哲学と建築
──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性

千葉雅也(哲学者)+平田晃久(建築家)+門脇耕三(建築家)+コメンテーター:松田達(建築家)+モデレーター:平野利樹(東京大学大学院隈研吾研究室)

千葉雅也プレゼンテーション
不気味でない建築のために

千葉雅也氏
私はフランス哲学者ジル・ドゥルーズの思想について博士論文を書きました。ドゥルーズというと、世界がすべて流動的につながっているとするヴィジョンで捉えられがちでして、これはもとを辿ればアンリ・ベルクソンの思想に由来します。その一方でドゥルーズをよく読むと、関係性がところどころで途切れていくというモチーフがあることがわかります。フェリックス・ガタリとの共著である『千のプラトー──資本主義と分裂症』(1980)などのテキストを読んでいると実際にそうした旨が書いてあります。ところがその面がこれまで過小評価されてきたと私はみていて、逆にそこを誇張的に全面化するとどのようなドゥルーズ像が描けるのだろうか、という問いを立てて書いたのが『動きすぎてはいけない──ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(河出書房新社、2013)でした。
先ほどの平野さんからの趣旨説明で、90年代には「接続性・関係性」の結節点としての建築が流行したとありました。自己主張するというより、関係性のなかに馴染み、内在するような建築のことです。ある理解のもとでは、これはとてもドゥルーズ的だと言えるでしょう。しかし今日は、そうした環境に溶け込むような建築像ではない建築のあり方について、グレアム・ハーマンの議論などを媒介としつつ考えていきたいと思います。 話の途中で、「不気味でないもの」という概念が出てくるのですが、これは私の造語です。私たちのような思想研究をしている人間は、「概念づくりの職人」のような自己認識を持って仕事をしているところがあるので、概念を道具として使っていただくことが一番ありがたいことだと考えています。今日の議論で出てきた考え方をお持ち帰りいただいて、ぜひ皆さんにも考え、遊んでもらえたらと切に願いつつ、お話ししていきたいと思います。

切断的に一個である建築

まず出発点として、平野さんから教えていただいた建築家のデイヴィッド・ルイによる「(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰」(David Ruy, "Returning to (Strange) Objects," in Tarp Architectural Manual, Pratt Institute, 2012)という文章から始めます。ルイはここで、関係主義・環境主義によって「建築が消滅する」という懸念を表明しています。たとえばモノをパラメトリックに捉えた結果、波状の形になって周囲に溶け込んでいくようなヴィジョンをもつ建築。そのような関係主義・環境主義の建築観では、第一次的に存在するのは関係であり、モノは「関係の結節点」になります。
このような、関係へと建築を「解消する」ような傾向に対し、いま「切断的に一個である」建築を考えることに、はたしてどのような意味があるでしょうか? あえて社会的なニュアンスで言い換えると、それは各方面に配慮した、「配慮の最善の落としどころ」としての建築ではないような建築、空気を読まない建築、アカウンタビリティを放棄している建築、ということかもしれません。こう聞くと何か反動的な感じがするわけですが、このあたりをまずは概念的にいじってみましょう。「切断的に一個である」ということ──ある種の無責任性とも結びつくような事柄をどのように理解できるのだろうか? 今夜はこの提題から始めます。

ファルス=単一の支配的な例外者

環境に浸っているのではなく、環境から「浮いている」ような状態。まずこのことを「例外的」に存在している、と概念化してみます。環境に溶解しない、モノらしいモノ。いささか唐突ですが、ここで私は精神分析的に「ファルス(男根の象徴)」の概念を参照するのがひとつの手ではないかと考えます。ファルスとは単一の、まさしく特権的な例外者です。人間の身体においてそれは、その場所だけ特権的に出っ張っている例外的なものだといえます。精神分析論の基本的な図式によれば、ファルスはエロスの集中する性感帯としてまさしく特権的な場所であり、その他はすべて性感帯ではない通常の場所である。したがって、モノらしく切断的にある建築とは「例外的ではない=通常の」エリアから「屹立」したモノ、すなわちファルスを連想させます。
では切断的な、空気を読まない建築は、ファリックなものになるということなのでしょうか? ファルスとはそれ以外のすべてをそれのみに従属させる「単一の支配的な例外者」です。そこを中心に、他が「(それ以外)すべて」というかたちでくくられて全体化されます。このことは、関係主義から脱して「ファルスよ、もう一度」という切望を指すのでしょうか? そうであれば、反動的であると言わざるをえないでしょう。今夜、われわれは、「単一の支配的な例外者として屹立する建築」を言祝ぎたいのだろうか? 「全体主義的なシンボル」となりうるような建築を? そうではないだろう。

ファルスの単一性に抗して

ひとつの見方ですが、グレアム・ハーマンのオブジェクト指向存在論の問題提起を受けて建築のオブジェクト性について考えるということは、「建築のファルス性をどうするか」という問題を思考することに置き換えうると私は考えます。
そこでまず、その場所だけ「他からくっきり区別されている」という意味を、ファルスの原-特徴として押さえておくことにします。ファルスがファルスたりうるための条件はいくつかありますが、大きな分割線はファルスが単一か複数か、ということです。単一で特権的なファルスとしての建築とは、全体主義的でシンボリックなものになりうるものです。オベリスクとか、国家プロジェクトを一身に担うモニュメンタルな建造物などがその一例です。他方でファルスは、全体性を超越した「全き他者」性を表わそうとするものでもありえます。全体主義のシンボルであると同時に、全体主義批判のシンボルとして成立してもいる。したがって、例外者は主権者であり、同時にアガンベンの言葉でいうところの「ホモ・サケル」でもあるという表裏一体性を持ちます。
対してハーマンの議論では、切断的に区別されたオブジェクトは複数的なものであり、中心の単一性ではなく多中心性こそがポイントとなっています。それは「他者性を中心化しない」タイプの表現を目指すことになるでしょう。おそらく平野さんが挙げた「新コラージュ主義」と呼ばれる建築も、オブジェクト指向の多中心性の表われだと言えるのではないでしょうか。

ファルスの複数化

ここでの問題はファルスの複数化にあります。オブジェクト指向存在論は複数性を擁護するわけですが、しかし私の考えでは少なくともハーマンのオブジェクト概念は、複数的ではあっても、依然としてファリックです。
というのもハーマンの根底には、オブジェクト一個一個が「無限のポテンシャル」を内包するという考えがあるからです。たとえばここにあるペットボトルひとつをとってみても、私との関係においては「水飲み可能性」や「掴み可能性」などのいろいろな特定のアスペクトのもとで、「飲む」や「掴む」といった特定のアフォーダンスを惹起するものとしてあるわけです。ところがペットボトルそれ自体は本来、私の想像よりもはるかに多くのプロパティを持っています。薬物をかけたり燃やしたりしたときに生じうる反応などなど。少なくとも私という別のオブジェクトとの関係においては解き放たれないようなポテンシャルが内在しており、それはまったく別のモノとの出会いにおいて発動しうる。このことをハーマンは「無限の」というレトリックで語っています。オブジェクトの内奥は「ブラックホール」だといったメタフォリカルな言い方をしたりもしています。 しかし実際のところ、オブジェクトの内奥にあるさまざまなプロパティがどのような数的様態で存在しているかについてハーマン自身は説明してくれないため、彼が考える無限性が数学的にいかなる意味をなしているのかについては実際のところよくわからない。ともかく、無限性という点ではエマニュエル・レヴィナスに似ています。ハーマンはもともとレヴィナスの読者で、その影響がある。つまり、他者は無限の遠さにあり、われわれがどんなに理解しようとしてもその理解を超えてしまうような、他者の他者性があるという議論です。レヴィナスは人間主義者なので、そのように無限に遠い人間こそを特別に尊重しなければいけないという立場をとっています。ところがハーマンは人間中心主義を批判して、そもそもあらゆるものを「全き他者」と見なしている。この点がレヴィナスとハーマンの違いです。
話を戻します。そもそも単一のファルスは無限のポテンシャルを体現するものでした。これに対しハーマンの議論ではファルスが複数化しており、単一の例外者を認めず、人間の特権性を破棄している。それゆえオブジェクト一個一個が別々のファリックな存在となっています。例外者が複数存在し、「例外者vs.(それ以外の)すべて」という構図がいたるところで反復されるという図式がみられるわけです。

ファルス──可能性、持続、無限

では、ファルスの例外性とはどういうことでしょうか。精神分析の基礎的な概念把握にかかわる議論ですが、ファルスが体現しているのは、実現されている通常の諸関係(=アクチュアリティ)に対して「もっとそうではない」余地、要するに別の「可能性」(ないし潜在性)です。もっと別のものが欲しいと思う、欲望とはそういうものです。それゆえファルスは欲望の象徴であり、別の可能性を表わすものだといえます。つまりファルスの例外性とは「無限の可能性の凝縮」にほかなりません。あの勃起した男根のイメージは、無限の可能性の凝縮物だというわけです。
さらにファルスにおいて重要なのが、勃起し続けるという時間性です。ここでの解釈は、ジャック・ラカンの研究をしている原和之さんの『ラカン 哲学空間のエクソダス』(講談社選書メチエ、2002)におけるファルス解釈がベースとなっています。原さんはファルス概念と連続性概念を結びつけ、ファルスの勃起を、可能性の無限性と時間的持続を結びつけるものとして解釈しています。勃起は、あるアクチュアリティに対し、未来において別の可能性が実現しうることの尽きなさを表わします。勃起とはすなわち連続的時間である。逆にいえば、連続的時間とはすなわち勃起であるということです。
単一のファルスが成立している状況では、時間の次元も単一です。これに対し、複数のファルスが成立しているハーマンの議論においては、オブジェクトごとに別の時間軸があるということなのかもしれません。

非ファルス的に、切断的に一個である

ようやく「切断的に一個である」ことを考察する準備ができました。ファルス概念を軸にしてみたとき、第1に、「単一のファルスとして切断的に一個である」ものが考えられます。これは全体主義的モニュメント、あるいは「全き他者」性を表わすものといえます。第2にハーマンの場合ですが、「複数のファルスのうちのひとつとして切断的に一個である」ものが考えられます。ここではファルスが複数化しており、単焦点的な全体主義は回避されています。
しかしいずれにせよ、無限のポテンシャルを含む点では同じだと言わざるをえないでしょう。ここで私は、第3の道があると考えたい。仮にこんなふうに言ってみましょう──「非ファルス的に、切断的に一個である」と。一個であるということのファルス性を無化して、一個でありながらしかし非ファルス的であること。
このことを考えるにあたり、先に挙げておいた「他からくっきり区別されている」というファルスの原―特徴を残しておきます。そのうえで、ここまで述べてきたいくつかのファルス概念のエレメントを、非ファルスのほうに向けて「ひっくり返して」みましょう。

不気味でないもの、不気味でない建築

単一的 → 複数的
例外的 → 例外なし
無限の可能性 → 有限でしかない可能性
連続的時間(持続) → 非連続的時間あるいは中断(時間が死んでは誕生するのを繰り返す?)

すなわち複数的で例外が存在せず、有限でしかない可能性を含むもので、非連続的時間においてあるもの。これが、非ファルス的なものの特徴となります。
しかしここで、再び次のような疑問が湧きます。非ファルスというのは例外者ではないということなのだから、要は、たんなる通常のもの(性感帯ではないもの)ではないのか?

この非ファルスというものを半ば強引に張り出させるならば、はたしてどのような概念を提起することができるでしょうか。ここで問うべきは、ほとんど通常のものであるにもかかわらず、「他からくっきり区別されている」という差異性を、例外性としてではなく認めることができるとしたらどうなるか、ということです。

通常vs.ファルスの構図は、ドイツ語でいえば「通常=馴染み=我が家的である=ハイムリッヒ(heimlich)」なものと、「不気味なもの=我が家的でない=ウンハイムリッヒ(unheimlich)」なものの対立として記述できます。ここで私が第3の道として提起したいのは、ファルス的=不気味ではなく、かつ通常でもないもの。それは、通常のものと極薄の違いしかもたない、「不気味でない(ウン・ウンハイムリッヒ[un-unheimlich])」ものです。
これが私の概念提起──ファルスと通常性の相関から外れる第3のあり方です。思弁的実在論(Speculative Realism/SR)で言うところの「相関主義」を精神分析的に解釈するなら、それは例外者とそれ以外すべての相互依存性という問題におおむね対応するでしょう。相関主義の議論では例外者とは人間のことを指します。人間とは自然のなかで特権的に剰余を持っている存在です。精神分析的にいえばエロス的剰余を持つもののことであり、そこには欲望の次元がある。そのような次元を特権的にもつ人間が、他のそれ以外の通常のものと相関的な関係をなすという構図を、相関主義はもっているわけです。ところで、付言するならば、通常のものの全体性から外れる逸脱者がいるからこそ全体性が支えられているのだとする依存関係は、アガンベンがホモ・サケルの議論によって提示している例外状態論に他なりません。

「例外vs.通常」という構図から外れること。それは後期ラカンでいうところの、男性の式から外れて、女性の式へと向かうことです。女性の式においては、単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない。ゆえに女性の式については「すべてではない(not-all)」という独特の概念をラカンは提示しています。
不気味でないものは、「すべてではないもの」である。しかしそれは、まるでもとの出発点にまたもや戻ってしまったかのように、結局は相関主義に落ち着いてしまっているかに思われます。例外なしで、けっして全体化されることなく変動する諸関係のなかに内在しているということなのだから......。
けれども私の議論では、先にファルスの原―特徴として挙げておいた「他からくっきり区別されている」という、いわば「準ファルス的」な特徴を残そうとしています。それはかぎりなくファルスに似た、ある可能性の膨らみです。しかし、無限のポテンシャルと無限の持続性に向かって延びていくようなものではありません。最低限ここから区別され、あるヴォリュームを主張しているものでありながら、ファルスではないもの。それを私は仮に素朴な言葉で、「非ファルス的膨らみ」「非ファルス的盛り上がり」「非ファルス的もっこり」、あるいは「non-phallic mound」と呼ぶことにしたい。丘、あるいは風船のようなイメージを思い浮かべるのがよいでしょう。アダルトビデオの一ジャンルに風船フェチと呼ばれるものがあるらしいのですが、非常に根源的なエロティシズム、すなわちファルス以前の興奮性がそこには表われているように思われます。
ここで言いたいのは、できるかぎり環境に配慮する(そしてこの要請は無限化する)ということをカント的な「統制的理念」にはせず、環境との関係をある程度表現してはいるものの、まるでそのことを途中で忘れたかのように成立してしまう「これでしかないこれ」のあり方です。それは「これしかできません」という諦めの一個のモニュメントであり、それは中断によって成立し、人間の欲望が未来永劫続くことを言祝ぐのではなく、時間それ自体=欲望それ自体がある時点で突然消滅し、そして別のあり方で再発生することを表わすようなものです。

非ファルス的膨らみ(non-phallic mound)とは、有限性のモニュメントです。もっと言えば、ある偶然性でそのように可能性が有限化されてしまっている時空のことです。不気味でない建築、我が家的でないのではない建築......。それは、たまたま途切れてしまう事どもが、他の無限の可能性のオーラをまとうことなく接合されているような建築、ということになるでしょうか。

201612

特集 建築とオブジェクト


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