「切断」の哲学と建築
──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性

千葉雅也(哲学者)+平田晃久(建築家)+門脇耕三(建築家)+コメンテーター:松田達(建築家)+モデレーター:平野利樹(東京大学大学院隈研吾研究室)

門脇耕三プレゼンテーション
切断と接続のパラドクス

門脇耕三氏
私が専門としている建築構法は、建築計画学のなかでも特殊な分野で、モノの計画に特化した分野なのですが、本日の発表のキーワードのひとつである〈エレメント〉は、この分野の伝統的な概念でもあります。今日の発表はそうした建築学的な思考がベースとなっていますが、千葉さんや平田さんの議論とどのように交わり、あるいはすれ違うか、とても楽しみにしているところです。

建築の〈表われ〉

そもそも建築とは何か。根源的に考えると、それは構築の体系だといえます。構築という概念を内在し、かつそれを方法的に体系化したものが建築である──原理的にはそのように定義できます。この構築の物理的な対象物が〈エレメント〉です。また、構築の体系としての建築において、建築表現は一般的に構築の論理を表現することを志向します。たとえば建築を直接的に成り立たせているものとして、施工方法などのテクノロジーが挙げられますが、建物には多かれ少なかれ、つくり方の論理が表象されます。しかし構築の論理そのものが表現であると見なされるにつれ、建築を成り立たせている抽象的な論理体系、すなわちメタ論理を表現する方向に向かうようになります。
特にその傾向が強いのが、独自の構築の方法を追求し、それを表現に転化させようとする、建築作品と呼ばれるものです。建築作品は、その構築の論理の独自性によって他の建物から区別される存在ですが、建築作品が内在する構築の論理は〈無矛盾性〉を志向するものでもあります。いうまでもなく、構築の論理の表現である建築表現は、純粋であらねばならないからです。さらに、この〈無矛盾性〉をもっとも単純なやり方で実行する場合、〈単一論理による構築〉という戦略が採用されることとなります。こうした構築が物的なモノに及ぶ場合、建築の物的要素には強い論理的な統制が敷かれます。したがってある種の建築は、エレメントに対する専制性・統治性をもちうるでしょう。

これは2010年に完成した、ある意味ではきわめてわかりやすい建築表現に取り組んだ作品です[fig.4]。たとえば箱の中に複数の箱が配置されているという構成を表現するため、それぞれ異なる材料が使われているにもかかわらず、すべての壁が白く塗られている。構築の論理が純粋に見えるように、建築の物的なエレメントを統制状態にしているわけです。ただ、この作品が完成したころから、表現されたものと自然なもののあり方の間に横たわる矛盾に違和感を覚えるようになりました。部材一つひとつには、もっと別の、モノ独自の欲望とでもいうべき論理が内在しているのではないかと思ったわけです。たとえば壁は白く塗られたくなかったり、壁のコーナーをこれほどきっちり合わされたくなかったりするときがあるかもしれない。実際、そのような無理をしないモノのあり方を考えることは、建築では一般的です。

fig.4──メジロスタジオ+門脇耕三《目白台の住宅》
撮影=SHIMIZU KEN

ごく普通の戸建て住宅に目をむけると、部材が勝手気ままにふるまっていることがわかります。たとえば人が暮らす空間は四角い形のほうが都合が良いけれど、屋根は雨水を流さなければいけないので勾配がつく。ある部材のまとまりごとに別の論理が適用され、各々が独自の〈表われ〉を持っています。一般的な建築とは、〈単一論理による構築〉を志向する建築作品とは異なり、分裂的でガチャガチャしたものの集合によって成り立っているということです。

〈連続〉と〈離散〉のマルチレイヤーとしての都市

建物が集合する都市も、異なる論理を内在したモノのまとまりの群れとして捉えられますが、するとなかなか不思議な様相が見えてきます。たとえば平田晃久さんがよくおっしゃるように、屋根全体の連なりからは地形のような状況が読み取れる。これは、個々の屋根を越えて、複数の屋根にまたがるような連続的な論理が存在することを示唆しています。また、色も素材もまちまちな外壁は、一見するとバラバラで離散的にふるまっているように見えますが、建物が建った年代に着目すると、時代ごとに使われる素材に傾向があり、時間軸上ではある群を形成していることがわかってくる。ここで言いたいのは、都市をモノの集合として捉えると、モノどうしの関係からは、連続性と離散性の両方を読み取れるということです。つまり都市的な状況とは、一種のマルチレイヤーの様相を呈したものであるといえます。

今の話を図式化します[fig.5-9]。複数のレイヤーが重なり、互いに似ているものもあれば違うものもある都市的状況があるとします。ここに新たな建築作品を建てようとするときには、建物や敷地などの固有の空間的領域にとどまりながら設計することが要請されます。それに応じるかたちで、建築の対象となる領域内に、単一的な原理による〈エレメント〉の統制が敷かれる場合を考えると、領域内のエレメントには連続的・接続的な関係が構築され、あらゆるものが統一的にふるまうようになります。しかし同時に、建築の領域外にあるものとの関係は切断されます。

fig.5

fig.6

fig.7

fig.8

fig.9
fig.5-9=筆者作成

これとは異なる構築のあり方として、次の図式が考えられます[fig.10]。さまざまな要素がマルチレイヤー的に偏在する都市的状況に対し、単一的な原理に依拠しない、より素直なエレメントの構築のあり方を適用してみましょう。すると領域内では切断的・分裂的で、周辺との関係においては連続的なものになるという、先ほどの図式と逆の状況が発生します。
ここで留意したいのが、広義のコンテクストのことを意図している〈周辺〉という言葉です。というのも、この図式では空間的に近くにある要素どうしが連続的な関係になっているように見えますが、ここではエレメントの存在がマルチレイヤーにまたがっていることを想定しているため、空間的な近さのみならず、時間的に近いもの、文化慣習的に近いもの、素材の種類が近いものなど、さまざまな次元での「近さ」が考えられるのです。これを多次元的な〈近傍性〉と呼んでみます。多次元的な〈近傍性〉に対するエレメントの反応の仕方は、それぞれの存在のあり方に応じて異なるものとなるでしょう。

fig.10
筆者作成

最近は自分自身の作品も、分裂的な表現に向かいつつあります。これは長坂常さんと協働した戸建て住宅のリノベーションで、やはりさまざまな論理を内包するエレメントが共存するものとなっています[fig.11]。奥に見えるレンジフードは、この場では異物のようにも見えますが、これは以前からここにあるものなので、時間的な〈近傍性〉のもとに定位してあるといえます。つまり空間的には周辺から切断的だけれども、時間軸上では周辺と連続的な存在だということです。このような構築の仕方が実現できたのは、コンテクストが豊富なリノベーションのプロジェクトだったことも少なからず関係しているとは思いますが、新築のプロジェクトでも同じアプローチは可能だろうと考えていますし、現在設計中の建物では、それを試みています。いずれにせよ、ここで重要なのは、切断と接続をめぐる議論が、どこに構築の範囲を敷くかによって反転しうるという点で、パラドキシカルであるということです。

fig.11──長坂常/スキーマ建築計画+明治大学構法計画研究室《つつじヶ丘の家》
撮影=Takeshi YAMAGISHI

〈切断〉をともなう〈全体性〉の構築は可能か?

バラバラなモノを共存させる方法は、したがって構築の領域を多次元に拡張・拡散する方法でもあるわけですが、にもかかわらず建築家は、〈全体性〉を構築しなくてはならない存在でもあります。ここで、〈切断〉をともなう〈全体性〉の構築は可能か、という問いが頭をもたげるわけです。しかし私は、次のように考えてみるとよいのではないかと思っています。建物はじつに多様な解釈が可能な存在で、エレメント同士の関係は、構造力学的な観点や記号論的観点など、さまざまな立場から記述できます。しかし、建物は非常に多くのエレメントの集合体ですから、特定の観点からは位置付けられない、つまり引き篭もったエレメントが存在しうる。当たり前のことですが、仕上げ材は一般的に構造力学的な観点からは無意味で疎外されたエレメントです。しかし意匠的な観点からは、仕上げ材は極めて重要な働きをするエレメントで、時に構造体以上に強く作用しますから、たとえば空間に露出した柱との存在の強度のバランスが慎重に測られながら、そのあり方が決定される。ここで柱は、構造力学的観点から記述されるエレメント群のネットワークと、意匠的観点から記述されるエレメント群のネットワークという、異なる位相に存在する2つの構造の媒介者として機能しているわけですが、そこには別位相の構造が統合された超構造が出現していると読むこともできる。この超構造のシンタックスそのものをデザインの対象とすれば、理論的には〈切断〉をともなう〈全体性〉の構築が可能になります[fig.12]

fig.12
筆者作成

話は変わるのですが、これは改修工事中の下北沢駅の写真です[fig.13]。すごくカッコいいと思いませんか(笑)。現在でも姿が刻一刻と変わっているため、おそらくここ1週間ほどがこの「カッコよさ」のピークなのではないかと思いますが、これまで話してきたようなことを考えているうちに、こうした場所に私はいつしか憧憬を抱くようになったんです。というのも、この光景はその場の論理でアドホックにモノをパッチワークした結果のようで、おのおののエレメントが勝手気ままに、切断的にふるまっているように見える。ごく一般的な建築の見方に基づく限り、エレメントどうしのありうべき順序関係は滅茶苦茶に攪乱されているというわけですね。にもかかわらず、これは明白にある論理に基づいた全体性の構築の結果でもあって、つまり「駅を改修しつつ使用を継続する」という論理に全体が貫かれているわけです。さらに注目すべきは、まじまじと見れば異常ともいえるこの建築を、歩行者がいっさい気にとめていないことです。人もモノもそれぞれ関係なくふるまっている。こうした状況は、千葉さんの発表にあったオブジェクト指向存在論の議論にも通じる建築のあり方なのではないかと感じています。

fig.13
筆者撮影

〈折衷主義〉と〈蒐集〉の欲望

ただし、建築のバラバラなあり方を志向する状況は、歴史上、反復的に認められるものでもあります。古典的なものとしては、18世紀に始まり19世紀に台頭した〈ピクチャレスク〉、あるいは〈折衷主義〉と呼ばれる考え方が思い当たります。これは、ある様式のもとで統一的に建築の物理的実体をまとめあげるのではなく、複数の様式やロジックを寄せ集め、結果としてあるバランスをもった空間的なアレンジメントに至るという美学に基づいています。建築史家の桐敷真次郎先生が『近代建築史』(共立出版、2001)の末尾で、「これからの都市景観と田園景観をとりまとめられる原則は、ピクチャレスクの原理以外には考えられない」と断言されているように、先述のような複数の異質物からなる現代の都市的状況も、様式の混乱期におけるピクチャレスク美学のリバイバルを促していると考えられるのではないでしょうか。

また〈折衷主義〉の建築が、ときに〈蒐集〉の欲望と結びつきがちであることには留意すべきです。たとえばジョン・ソーンの私邸を美術館にした《ソーン邸》(1814)では、建築家個人の興味にもとづき〈蒐集〉した古代の品々をアレンジメントすることで、折衷的な美学が体現されています。しかし〈蒐集〉は、所有を通じて事物を自己の統治下におこうとする力の発露でもあって、この種の建築は限りなく表現主義に近づく傾向にあります。〈蒐集〉の欲望のもとでは、モノがそれ独自のあり方を奪われ、〈切断〉の理論的根拠である「モノの自律性」さえ瓦解しかねません。〈折衷主義〉と〈蒐集〉の欲望が表裏一体であるからこその問題といえます。

〈切断〉と〈接続〉のパラドクス

ここまでの話をまとめます。〈切断〉と〈接続〉は相対的な関係にあり、そのもとで2通りの構築の仕方が考えられます。第1に無矛盾な〈単一論理的な〉構築。これは領域内において接続的であり、領域外において切断的です。第2に多次元的な〈近傍性〉に根拠を置く構築。これは領域内において切断的であり、領域外において接続的です。このパラドキシカルな構築の仕方から、いくつかの議論すべきポイントを抽出できます。

まず、このパラドクスは〈全体〉の範囲が領域の内外を移動することによって生じるものです。仮定されている〈全体〉は、建物なのか、建物の中にある個々のモノなのか、それとも都市的な状況なのか。複数の〈全体〉の捉え方がありうるでしょう。
それから、オブジェクトなるものをエレメントとは別のものとして捉えるべきなのかもしれません。たとえば物的なエレメントが群としてまとまり、ある全体性をもって表われてくるものをオブジェクトだと定義できるかもしれません。しかし、そうした場合においてもオブジェクトの捉え方は依然として複数的なままです。たとえば私の手元にあるマイク一本を単体のオブジェクトとみなすこともできるし、このマイクとそれを持つ私を含めてひとつのオブジェクトとみなすこともできる。ポイントは、オブジェクトに対してある単一的な見方をすべきか否かにあるのですが、ここも議論が分かれるところかと思います。

他方で、エレメントを扱う方法論についての議論がありえます。ある論理を建築的にオーバードライブさせることで、一般的な建物とは少し違った建築をつくりだすという、たいへん洗練された設計手法があります。これを基点とすれば、エレメント自体の欲望を率直にヒアリングしながらオーバードライブさせていくような、新たな方法論を構築することができるかもしれません。
もうひとつ問わねばならないのが、広義の〈コンテクスト〉に根拠を置くという態度自体の是非です。建築の議論では当然のように是とされる場合が多いわけですが、ここにも議論の余地があるのではないでしょうか。言い換えると、〈近傍性〉をもつものはなぜ信頼が措けるといえるのかという問題でもあります。
最近、私より少し若い建築家と都市を変える方法をめぐって議論する機会がありました。彼らの意見は、かつてのように都市の骨格を一から描くのではなく、たとえばひとつの窓のあり方を変え、それを波及させることで都市全体を変えていきたい、というものでした。私たちの世代のロマンティシズムはエレメントにこそ発見できるのです、と彼らは述べていて、共感する部分が多々ありました。というのも、ここには〈コンテクスト〉に対する従順な態度だけではなく、コンテクスト自体を変質させうる、ある種のハッキング的な態度が示されているように思えたからです。これは現在の都市や建築家のあり方にまつわる社会学的な議論にも繋がっている問題だと思います。
以上のような切り口から、皆さんとさまざまな議論をしていければと考えています。

201612

特集 建築とオブジェクト


「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
即物性への転回とその規則
(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰
銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築
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