リサーチとデザイン
──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う

青井哲人(建築史・建築論、明治大学教授)+連勇太朗(建築家、モクチン企画代表理事、@カマタ共同代表)

観察と実践をめぐる中動態的モデル:コーンとサンドウィッチ

青井哲人──編集部から投げかけられたテーマは「リサーチとデザインの関係をめぐって」というものです。関連する近年の話題として、貝島桃代さんがキュレーターを務めた2018年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の日本館展示「建築の民族誌(Architectural Ethnography)」がありました。デザインを直接に扱ってはいませんが、当然ながら実践を強く念頭においたリサーチとその表現を問うもので、非常に幅広く奥深い展示でした。「10+1 website」でも2018年7月号で特集が組まれ、このなかで私も貝島さんと対談しました(「建築の民族誌──第16回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館」)。そのとき思ったことを振り返ってみます。

絵画や彫刻などを扱う美術展では実物なしの展示はふつう考えられませんよね。反対に、建築展では実物が出せないかわりに、図面、スケッチ、模型、部材あるいは書籍、雑誌、書簡、草稿、施主のインタビュー映像やユーザーのいる光景、さらには原寸模型やデジタル・インスタレーションまであらゆる代理表象を動員します。展覧会というフォーマットが、動産/不動産の分節に沿って表象のあり方を方向づけている。そうしたなかで貝島さんたちの展示は二次元のドローイングに特化した。ある意味では近年の建築展の"代理表象フル動員"の傾向に逆らって、古典的なドローイングを問い直したとも言えます。しかも特定の建築家のドローイングを展示するのではなく、世界中のリサーチャーたちの絵を集め、都市・建築を描いたリサーチ・ドローイングの研究、つまりメタ・リサーチの場としたわけです。このことに関連して、ふたつコメントします。

ひとつめ。伝統的な透視図法とは、一方にオブジェクトがあり、反対側に観察者の眼があって、そのあいだにドローイングの紙を挟むモデルです。向こう側にある現実の世界を、単純な幾何学にしたがってこちら側の眼と結びつける。そのあいだで自動的に、誰が描いても同じ絵が生まれる。この図式はコーン(cone)みたいなかたちを思い起こさせます。眼を頂点とする円錐の底面をリアルな世界とし、その手前に底面と相似形の絵が描かれる。ドローイングは対象(本物)の劣化コピー(偽物)ということになります。また紙やペンの物性だけでなく、観察者の身体やふるまいの固有性も消えてしまう。つまりコーンのなかはひたすら透明で、ざらついた媒介性がありません。

これに対して、「建築の民族誌」の視点で集められたドローイング群はまったくそういうものではありませんでした。貝島さんとの対談でも触れましたが、おそらく、一方に対象世界があり、反対側にドローイングの面があって、そのあいだに絵を描く私が挟まれて立っていると捉え直した方がいいと思いました。対象と身体と絵という三者の配置をこのように入れ替えると、対象と絵はそれぞれに価値をもつ別個のものであり、対等な関係になりますよね。紙には物性があり、媒材にも固有性があって、それらと身体によって刻々と絵が生まれ育っていきます。身体はそれを刻々と解釈して世界の認識をつくり出し、つくり変え、その枠組みで対象を見る。すると対象が何かを返し、それが次に描く線に作用する。そうして私は両方に働きかけ、また双方に働きかけられながら、自分自身も変容していく経験をするわけです。このプロセスに参加しているモノたちは身体も含めてどれもゴツゴツした存在論的な意義が与えられる。そういう意味でブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論(ANT)などの現代思想の潮流を思い出してもよいでしょう。対象世界とドローイングのあいだに私を挟むこの図式はちょうどサンドウィッチみたいな感じですね。

最近、マリオ・カルポの「アルベルティ・ターン」がよく参照されます★1。アルベルティのドローイング理解は先ほどと向きが逆になりますが、同じようにコーン・モデルです。つまり、建築家の眼の奥にオリジナルな構想、イデアがあって、それを一次的に表象したものが図面=ドローイングである。建物はイデアの二次的な表象であり、つまり建物こそが劣化コピーだということにもなってくる。実際、建物は現場の事情で図面からズレていくことがあるし、竣工後に増改築が堆積してしまう。それはイデアが濁っていく、乱雑にかき乱されていくこととも言えます。だからドローイングの一次性を強調し、絶対視することで、アルベルティは建築家の創造者としてのポジションを確立させたのだという議論になるわけです。

すると、設計実践に関しても、コーンからサンドウィッチに変更してみることができるのではないかと思うんですね。建築家のイデアの具現化としての建築という図式(コーン)ではなく、立ち上がる建築とドローイングがともに刻々と変化し、その両者に働きかけながら自らも変容するような建築家という図式(サンドウィッチ)です。

もうひとつは、8月から始まる2020年のヴェネチア・ビエンナーレ日本館のことです。門脇耕三さんのキュレーションで展示されるのは、建物の実物です。原寸模型ではないことに注意しないといけない。これも建築展の"代理表象フル動員"の趨勢に対する独自のアプローチですね。もともと代理ではないものが、展示というフォーマットに乗ると何かの代理になる。ここが面白いところです。では、それは何を表象するのか、あえて言えばその展示が表象する「建築」とは何か、関心が湧いてきます。

具体的なところでは、展示されるのは名もない建物で、それがいかに豊かな履歴をもっているかが明らかにされるでしょうし、加えてオープン後も日本館は生産・流通の結節点みたいなものとして動き続けると聞いています。アルベルティが嫌ったこと、なんてあえて言わなくてもよいかもしれませんが。ここから先は想像というか推論というか、自由に考えてみます。「建築」とは統合性が重視されるものですが、逆に言えば部材の集積、その接合の諸関係に遡ることができるということです。それをつなぐダイナミズムというか冗長性を含む緊張のようなものがあり、ふつうに見ている分には、その緊張や動きがカッコに括られ、フェティッシュな固まりとしての建物になる。見方を変えれば、増改築、あるいは現代の建築家のリノベーションのような実践は、固まりとしての建物を部分同士の緩やかな緊張関係にまでその都度差し戻すような認識の転換を含むはずです。そのあたりが建築・都市の観察(見方)と実践(やり方)の現代的なあり方と、両者をつなぐ回路みたいなものの特徴かなと思います。ほぐせるという観察が、新たな介入を発見させるというか。

連さんたちの「モクチンレシピ」も、建物を建物としてフェティッシュに捉えるのではなく、より小さなまとまりにほぐされたり、反対に都市に開かれたりするような「動き」として捉える側面をもっています。それは逆に言うと都市や建築の新しい認識を取り出すことでもある。あるいはタクティカル・アーバニズムなども、ある意味で都市を改変に開かれたものとして捉える方法的実践ですし、実践を通した知的生産の試みだと言える。フェティッシュな固まりを分解する、ほぐすことで、その下位にも上位にも開かれる視野をつくり、そこに介入実践の可能性を見出すような思考ですね。

「リサーチとデザインの関係」が今日のテーマですが、念頭にあるのはもちろんデザイン・リサーチ(design research / design as research)です。諸文脈の観察・分析がなされ(コーンの底面から頂点へ)、構想を建物に具現化する(コーンの頂点から底面へ)伝統的なモデルでは、表象の向きが反転する瞬間がブラックボックスで、そこに創造者がいました。それに対して、仮説的なデザイン実践を投げ込んで対象とする場で何が起こるかを観察し、そこから知見を取り出し、仮説を書き換えて次のデザイン実践を重ねていくというような、切れ目のないフィードバック・ループをつくる意義が強調されはじめていると思います。それは先ほどのサンドウィッチ・モデルとも通じると思うのですが、こうしたデザインとリサーチの関係をもっと建築論の地殻に関わるレベルで議論できればと思い、以上の2つの論点を最初に投げかけてみました。

青井哲人氏

連勇太朗──青井さんの指摘されたコーン・モデルとサンドウィッチ・モデルについて私も以前似たような問題意識をもち、状況を記述・記譜する「ノーテーション」的発想から、対象との間に相互学習の循環を回す「インターフェイス」の概念で建築におけるデザインとリサーチの関係を考えたほうがいいのではないかと、「10+1 website」で提案したことがあります(「ノーテーションの憂鬱、インターフェイスの冒険」)。このとき考えたことが、本日の議論と重なり合っていく予感がしています。

まず青井さんが問題提起されたコーンからサンドウィッチへの「認識の転換」がなぜ起きているのか(あるいは必要なのか)を整理したいと思います。ひとつは社会の複雑性が高まっていることが挙げられます。グローバリズムやテクノロジーの急激な進歩によって、問題解決の場面において扱わなければいけない変数が圧倒的に増えました。それにともなって対象として扱わなければいけない領域が多層的になり、境界確定そのものが難しくなった。これは建築や都市にかぎらず、政治、経済、教育、福祉などあらゆる分野で起きていることです。こうした状況で問題解決は簡単に実現できるどころか、何が問題かを定義することすら困難になります。それを端的に説明する概念として、例えば、「意地悪な問題(Wicked Problem)」が挙げられます。1970年代にデザイン論の研究者であるホルスト・リッテル(Horst Rittel)が指摘し、90年代にはリチャード・ブキャナン(Richard Buchanan)によってデザイン思考の文脈で注目されるようになりました★2。Wicked Problemは、「課題は解決より先に定式化できない」「解決の評価を確実にできるタイミングはなく」「解について言えるのはよいか悪いかであり」「でも解決者は責任を取らなければならない」など、10の特徴を持つ問題と定義されています。科学的アプローチのみによって最適解としての解決案を導き出すのが困難なタイプの問題が社会にあることを指摘した重要な概念です。この半世紀のデザイン学において最も基本的かつ重要な概念のひとつですね。また、大げさに観察者効果や社会構成主義を持ち出すまでもなく、学術的な研究や科学哲学の領域においても、実証主義的に課題や解決策をあぶり出すアプローチの限界が指摘されています。そう考えると、Wicked Problemを扱わなければいけない状況では、理念先行・問題定義型の思考であるコーン・モデルではなく、サンドウィッチ・モデルが求められるのは必然と言えますね。しかし、Wicked Problem自体が建築業界ではあまり知られていないのか、あまり議論されていません。

連勇太朗氏

青井──設計は百人百様の創造的行為ですし、評価もさまざま、「正解はない」といった素朴なレベルの物言いは昔からあります。それは今もそうですが、連さんが言っているのはそれとは違う話ですね。

──Wicked Problemが議論されにくい理由として、根本的な原因があると思いますが、これが今日議論を進めるうえでもちょっとややこしい。「デザイン」と言うと、建築では「建築設計」や「意匠」のイメージが強いですよね。こうした世界でWicked Problemは、わざわざ定式化する必要がないほど当たり前に意識されてきたと言えます。例えば、ボリュームの大きさや開口の開け方を決めることで、はじめて周辺環境の魅力や課題が把握できるといった類の話もあれば、歴史的には建造物が最も複雑な人工物だったわけで、コストやクライアントの要求、さらには美的価値など、それこそ答えのない「意地悪な問題」を建築家は伝統的に扱ってきた職能だったと言えます。そういう意味で、「設計」そのものがWicked Problemであると素朴に言えてしまうため、わざわざ構えて議論することがなかったのかもしれません。

しかし、冒頭で青井さんが言及されたように、フェッティッシュな単体を解きほぐし介入可能な関係性の束と向き合うためには、建物単体を超えて社会システムまでを含み込んだ脱領域的な思考と実践が建築家に求められるようになります。そして、この水準においてWicked Problemなるものと真剣に向き合うことが不可避になってくるわけです。「ビルディング」と「アーキテクチャ」の違いと言い換えてもいいかもしれません。「社会が複雑になってきている」だの、「Wicked Problemが大事」だの、なんだか当たり前のことを指摘しましたが、ここの認識が読者と共有できないと、これからの議論がすべてスケッチや図面を描くという意味での狭義の設計やデザインに回収されてしまう危険を感じたので、あらためて指摘させていただきました。

そこで本題です。サンドウィッチ・モデルを採用する際には、設計する行為そのものや設計したものを事後的に評価するメタ的な回路が、実践レベルで導入される必要があるのではないでしょうか。コーン・モデルにおけるデザイナーや建築家の位置付けは、理念や思想に支えられた強力な個人です。このなかでは、創作する際の参照点や自分の職能的立場は明確です。しかし、サンドウィッチ・モデルは他律的であるがゆえに、何をよりどころとするのか判断が難しいし、タイミングによって参照点も変化します。チューニングと微修正を繰り返すために、フィードバックの回路が必要になるわけです。建築や都市の領域において、この回路をどのように構築するかが重要であり、今後はその質を問うていくことになると思います。

上記と関連してもうひとつ指摘したいことは、実践介入するうえでまさしくフェッティシュな単体を複雑なネットワークの束として「ほぐしていく」感覚が私自身にもあるわけですが、そこで必ず問われるのは、「そもそも何のために設計するのか」「何のためにリサーチするのか」という、建築家もしくは研究者の主体性の問題です。

ここが十分に自覚的でないと、いくらよい建築物ができたとしても、引いた視点から見たときに、結局は資本主義をはじめとしたより上位の大きいシステムにすべて絡みとられてしまう。そういう意味では、建築家の着想や理念を社会のなかに還元しようとするときに、自分自身の仕事の受け方や立場の位置付けが重要になると思うんです。自分が介入するべきネットワークのありかを主体的に判断するメタデザイナー/メタアーキテクトとしての視点が求められる。こうした視点からも今回のテーマであるデザインとリサーチの関係を認識論のレベルで再構築していくことは非常に重要なトピックだと思います。

青井──さすが。論点を先回りされてしまいました。先ほどの僕の話にも留保をつけなければなりません。というか、それこそが重要です。例えば、僕が言ったふたつの話は、「中動態」の議論ともよく符合します。中動態というのは古代ギリシア語など数少ない古い言語に見られる動詞の活用です★3。対象に外から行為を及ぼそうとするときの動詞は能動態、反対に外から作用を受けている時の動詞は受動態になりますよね。「中動態」は、これらのどちらとも違って、主語が他者との関係のなかで自分の状態を変えていくときの動詞の活用です。わかりやすい例としては、説得する/説得される、のいずれでもなく、納得する(他者の作用を契機に自分の考え方が変わるのを自ら経験する)、という感じです。ドローイングを描く行為のサンドウィッチ的理解は、紙や絵具を含むモノたちとの関係に突き動かされて私は奇妙にも刻々と描いている、自分が描いているのだが自分が意志しているとは思えないような半ば自動的な変化を経験している、といったことを強調するのですが、これはとても中動態的です。自分がすでに頭のなかで完成させたアイディアをただ具現化するプロセスなんて不毛だし、本当はそんなことはありえない。描く行為の持続のなかで思いがけないものが生まれ、それを驚きとともに自分の作品として受け取るというのが創造行為です。森田亜紀さんの『芸術の中動態──受容/制作の基層』(萌書房、2013)や、平倉圭さんの『かたちは思考する──芸術制作の分析』(東京大学出版会、2019)などで言われているのはこれに近いことですし、あるいは中島智さんが『文化のなかの野生──芸術人類学講義』(現代思潮社、2000)で言っていることも遠くない。しかし、こうした論者が強調しているのは、創作者はその動きに身をゆだね、泳げばよいということではありません。では創作者とは何か、何でありうるのか、そのことがこれらの本では力強く探求されています。

ふたつめの、ほぐせるという感覚と介入の話も同様です。流動的なプロセスのなかに介入者(設計者)も入り込むのは、外から見て分析し、構想して具現化することとは違い、プロセスの内側に入ることです。川の流れを橋の上から見るのではなく、川を泳ぐこと。自らもその場の動きに巻き込まれ、アクターのひとつになって自分の変容を楽しみながら、場をかきわけ、ほぐし、重ね、新しい状態に変容させる。場合によってはそれを続ける。川の流れは人が泳いでも大して変わりませんが、設計の現場では積極的なドリフトが起こります。それはエキサイティングですが、このことを強調するのはともするとソーシャル・エンゲージメント的な実践の単なる礼賛、ある種の実存主義につながるだけかもしれない。何をやっているのかが客観視できなくなるからです。そして実践者は次第にしんどくなる。何よりも、連さんがおっしゃるように、建築家の主体性、思想、それに責任という問題が残る。モノやヒトと一緒に泳ぎました、ではすまない。プロですからね。

少し具体的な設計の場面に引き寄せてみましょう。クリストファー・アレグザンダーは初期の「形の合成に関するノート」(1964)から、形とコンテクストの適合性という枠組みでデザインを考え続けた人です★4。彼の言う「コンテクスト」は、形の決定に関わる諸条件すべての束であり、デザインとはそのコンテクストと形の適合性を探究することであると定義されます。ただ、建築プログラムは複雑で、適合化問題を解く作業はふつう人間や機械の能力を超えてしまう。そこで、自分が扱えるサイズの小さいサブセットを括り出すわけです。そうすることで、サブセットごとにコンテクストと形の適合化を図り、その形をアッセンブルするという形で設計行為の道筋が見えるようになる。ところが、それで全体が決まるかと言えば、そうとは限らない。例えば、部分Aの形をそのサブセット内で諸条件に適合するように決められたとしても、じつは形Aが形Bの決定に影響するコンテクストとなっている。こうした関係は双方向的に生じます。さらに形C、形D、 形E......にも同様のことが当てはまる。ひとつの形にとって他のすべての部分がコンテクストになるからです。部分が相互言及的に関係しあうけれど、全体としてはあそこをいじれば他も変わるという宙吊りの状態。形は論理的に決めきれないということが、形の決定を論理的なものにしようとしたためにむしろ証明されることになったわけですね。ではどうすればよいかと言えば、いろいろな模索があるにせよ、最終的には建築家がこの宙吊りを終わらせることだと思います。どこかに錨を下ろすことで、そのまわりのすべてが波及的に決まる特権的な秘密の点を決める。こうしたことが設計行為にはだいたい付きまとうはずです。しかし、この秘密の定点こそが、建築家の構想力、倫理、社会的責任などに関わる──、そう考えてみる可能性はありそうです。

ところで昨年11月、日本建築家協会の建築セミナーの一環で、アレグザンダーの設計した《盈進学園東野高校》(1895)の見学に参加させてもらいました。このとき、校内の建物のなかで「多目的ホール」が最もよいと皆が口を揃えたのですが、教室が両側に並ぶプロムナード状の中庭の奥、その突き当りに建っているそのホールだけが、おもしろいことに空虚な「がらんどう」なんです。学校の先生に尋ねても、あの建物でとくに何をするということはない、と仰る。講師として案内してくださった難波和彦先生が、あのホールだけが東野高校のためのパタン・ランゲージのなかに現れないのだとその重要性を示唆してくださり、図面を拝見すると「central building」と書かれていたものだから、うわっ!となりました。特権的な定点が逆説的に空虚だったというわけですね。では、「central building」はアレグザンダーのどんな主体性や倫理を体現しているのかと妄想が広がります。


202003

特集 [最終号]建築・都市、そして言論・批評の未来


独立した美術・批評の場を創出するために
いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを ──経験知、生活知の統合をめざして
リサーチとデザイン ──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う
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