第5回:21世紀のアール・デコラティフ(後編)
1925年のアール・デコ博覧会
1925年の博覧会については、装飾芸術博物館のウェブサイトのなかで、たいへん美しい歴史写真のインタラクティブなアーカイブを見ることができる。ここに取り上げられているパヴィリオンは、実際には100以上のパヴィリオンやモニュメントが建設されたうちの、わずか数点に過ぎないが、その鮮明な写真からパヴィリオンの内部に設えられたインテリアとその装飾芸術を、じっくりと堪能することができる。たとえばエレガンス館(Pavillon de l'Èlégance)を見てみよう[fig.5]。これはランバンなどいくつかの服飾品メーカーと、宝飾品メーカーのカルティエが協同で出展したパヴィリオンである★8。写真にはカーテンやカーペット、そしていくつかの家具も写っているが、ここでの展示の中心はむろん、マネキンの女性たちが身に纏った美しくゴージャスなドレスである。ここでは、スタイルとしてのアール・デコはあまり前面には表れていないが、衣服のマテリアリティすらも室内を特徴づけていたという本連載での主張が、この1枚の写真によく表れているのではないかと思う。
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fig.5──エレガンス館、ランバンのサロン
©Paris, Les Arts décoratifs(撮影者不詳)
続いて、セーヴル磁器製作所が出展したセーヴル館(Pavillon de la Manufacture de Sèvres)を見てみよう[fig.6]。これは中庭を挟む2棟の建物からなるパヴィリオンで、写真はその内部にデザインされたダイニング・ルームである。ここではエレガンス館とは対照的に、布地は存在しないが、しかしやはり豊潤なマテリアリティに満ちたインテリアが構成されている。天井は美しい磨きガラスで幾何学的に構成された光天井の傑作である。壁面は、壁画が彫り込まれた大理石で、そこに銀を嵌め込んだ砂岩のパーツを埋め込んだものになっている。床もまた同じマテリアルの組合せで構成されており、彫刻された砂岩と、銀を嵌め込んだ大理石の羽目板状になっていた。部屋の中央には巨大な大理石のテーブルが置かれており、これらすべてが、アール・デコ時代の有名作家、ルネ・ラリックによってデザインされていた★9。写真には、テーブルの上に優雅に並べられた食器類も写っている。
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fig.6──セーヴル館、ダイニング・ルーム
©Paris, Les Arts décoratifs(撮影=Georges Buffotot)
ラリック自身の工房も、独立してパヴィリオンを出展しており(Pavillon René Lalique)、そこでもラリックらしいインテリアを見ることができる。ここでも天井や床面や壁面などにスタイルとしてのアール・デコが見て取れるばかりでなく、同時にその豊かなマテリアリティを確認することができるだろう。
プランタン百貨店における装飾芸術のデザイン部門、アトリエ・プリマヴェーラが出展したパヴィリオン(Pavillon Primavera)も、19世紀後半以来の装飾芸術と百貨店の結びつきを強く示している点で興味深い。このパヴィリオンの外観は、同じくパリの有名百貨店ラ・サマリテーヌの設計を手掛けたアンリ・ソヴァージュの設計で、その外観デザインも相当にユニークなものである。インテリアはアルフレッド・ルヴァールがデザインし、アトリエ・プリマヴェーラ最新作の家具や絨毯で埋め尽くされていた。4本の巨大なエジプト的な柱が、トップライトのドームを支える。そのドームの少し下では、壁面上方の花弁型のバルコニーの上をギャラリーが巡っており、その内部は布地ですっかり覆われていた★10。
後にアール・デコの名で知られるようになる万博パヴィリオンのデザインは、アール・ヌーヴォーの曲線を多用したデザインから、幾何学的なデザインへの変化で説明されることが多い。だがそのスタイルの変化の一方で、多様なマテリアリティによって生み出される空間的な質においては、明らかに19世紀以来の装飾芸術の伝統が継承されていた。しかしこの万博において、19世紀以来のマテリアリティの伝統を排除し、異なる方向性を鮮烈に示した建築家がいた。それこそがル・コルビュジエであった。
アール・デコ博覧会とル・コルビュジエ
彼は当初から、この万博へのパヴィリオンの出展を計画していたにもかかわらず、博覧会の実行委員会は「敷地がない」という理由で、ル・コルビュジエを締め出そうとしていた。彼の、19世紀以来の「装飾芸術」および1925年のアール・デコ博(4/28~11/30)そのものに対する批判の書『今日の装飾芸術』が出版されたのは1925年の冬になってからだったが、彼はすでに、雑誌『エスプリ・ヌーヴォー』のなかで「装飾芸術」を批判し続けてきたから、その博覧会当局の判断は納得できるものである★11。博覧会側がこの反逆者に敷地を与えず、締め出そうとしたのは、ある意味で当然だった。しかしル・コルビュジエは、1900年のパリ万博の際に建設された鉄とガラスの大建築グラン・パレの裏手の場所を半ば強引に占拠し、そこに勝手にパヴィリオンを建設してしまった★12。それが、20世紀建築史にその名を残すことになったエスプリ・ヌーヴォー館だったのである★13。1925年のアール・デコ博は、19世紀以来の伝統的な装飾芸術(アール・デコラティフ)の集大成ともいうべき大博覧会であった。ル・コルビュジエはそれに対して「今日のアール・デコラティフ」というコンセプトで闘いを挑んだわけである。
さて、ようやく本稿の結論に近づいてきた。ここで強調したいのは、ル・コルビュジエの『今日の装飾芸術』を、単なる装飾批判の書として理解してしまっては、この闘いを見誤ることになる、ということである。
たしかに装飾(ornement/décor)は、ル・コルビュジエにとっても、重要な論点のひとつであった。アドルフ・ロースの「装飾と犯罪(Ornament und Verbrechen)」は、1913年6月に『カイエ・ドージュルデュイ』誌上でフランス語に翻訳された後★14、1920年にも『エスプリ・ヌーヴォー』誌に再録されており★15、間違いなくル・コルビュジエに強い影響を及ぼしている。実際、『今日の装飾芸術』のなかで、彼は何度かロースの装飾批判に言及していた。
しかしそれでもなお、ここでの闘いの本質は「装飾芸術」にあった。ここまでの議論を踏まえれば、『今日の装飾芸術』は、思い切って『今日のインテリア』と訳したほうが、かえって誤解が少ないかもしれない。ル・コルビュジエは19世紀的なインテリアのあり方を真っ向から否定したのだった。彼は、fig.4で整理したようなさまざまな概念で論じられてきた19世紀以来のインテリアやその調度品を、必要型(besoins types)・機能型(fonctions types)と呼び、それを道具型(objets types)・家具型(meubles types)と言い換えた★16。
室内調度における道具や家具を、必要・機能の観点から論じようとしたル・コルビュジエの試みは、機能主義的モダニズムの典型的な態度といえよう。だが歴史的に見れば、それは同時に、1851年のロンドン万博の直後に、ヘンリー・コールたちが用いた「実用芸術(Practical Art)」の概念への回帰という側面も有していた。ただし、ここまで見てきたように19世紀後半のフランスでは、これらの輻輳する概念が「装飾芸術」に統一されていったため、「実用」や「必要」の側面が弱まり、代わりに「装飾」の側面が強まっていた。ル・コルビュジエは改めて「必要」「機能」の側への揺り戻しを試みたわけである。
同時にル・コルビュジエは、「装飾的」(décoratif)だった19世紀的な道具や家具を、「装飾(décor)」なしでデザインするために★17、「規格化」「標準化」を重視した。そしてそれは、家具のスケールから、住戸のスケール(《エスプリ・ヌーヴォー館》)、集合住宅のスケール(《イムーブル・ヴィラ》)、都市のスケール(「ヴォワザン計画」)まで横断する壮大な計画として提示されたのだった。
『今日の装飾芸術』と白ペンキのインテリア
従来のモダニズム研究のなかで、ル・コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー館と『今日の装飾芸術』は、以上のような装飾批判、機能主義、規格化・標準化の側面から、その重要性が強調されてきた。だが最後に、これまでほとんど論じられてこなかった、『今日の装飾芸術』におけるマテリアリティの側面について考えてみよう。参照するのは『今日の装飾芸術』に収められた「石灰乳、リポラン法」の章である★18。
「リポラン法」の結果を思い給え。市民のすべては壁紙や緞子に換えるにリポラン塗料の白色の純粋な塗装をもってするだろう。市民の家には不潔な暗い一隅は姿を消して至るところ清潔であり、一切がありのままの姿を現わす。つぎに市民の内的生命が清掃される。なぜならば彼はすでに、明瞭に、許され、希望され、計画された物でない一切を拒絶する心の境地に踏み入ったからだ。人間は計画をもって動くものである。
──ル・コルビュジエ『今日の装飾芸術』(1925)より「石灰乳、リポラン法」★19
なぜ彼は、室内を包み込むファブリックや壁紙を嫌ったのか? 彼は次のように説明している。
リポラン塗の部屋のなかでは使いへらされたものは捨てられるであろう。これこそ生活における重要な行為であり、生産的な道徳である。あなたは役に立つ物をより分けて、使いへらされたものはこれを捨てる(...)。リポラン塗の精神を離れては、われわれは住宅を博物館や奉納額をかかげた神殿にしてしまう。その時われわれの精神は哀れな博物館の番人や神殿の堂守になりさがる。われわれの魂に巣をくう貪欲に諂い、そして物質的な所有欲が、われわれを締めつける。そのとき人間は欺瞞する。なぜならばこうして人間は物を捨てる勇気の欠如を隠し、物を溜め込む醜さを包もうとするからだ。人間は「思い出の信仰」を築き上げ、日々自分自身を欺き、他人を詐る。われわれは自己の運命すらも詐る。なぜならば、われわれの精神からその前方にひらけた広大なる砂漠に向かう自由の眼を奪い、窮屈な足枷をかけられ、永久の地下牢に「思い出」の溝にはまり込むからだ。
純白なリポラン塗の壁の前では過去の屍の堆積は到底たえがたいものであろう。白い壁についた汚点。しかしもしその壁に緞子や壁紙が張られていたならば、それは大した汚点として目立たない。
──ル・コルビュジエ『今日の装飾芸術』(1925)より「石灰乳、リポラン法」★20
だがル・コルビュジエは、それらすべてを嫌ったのである。彼はモノで溢れた室内を、「博物館や奉納額をかかげた神殿」と呼び、「その時われわれの精神は哀れな博物館の番人や神殿の堂守になりさがる」と強く批判する。室内に溢れかえった古びたモノを捨てていくことこそ、「生産者のモラル(morale productrice)」だ、とさえ断言している。彼が信奉したリポラン法の白い壁は、20世紀の「使い捨て文化」を推奨する「背景」をつくり出したのだ。
彼は「物質的な所有欲」や、それらの物質性がもたらす「思い出の信仰」を否定する。それらは彼にとって「窮屈な足枷」に過ぎず、「永久の地下牢」なのだ。マテリアリティ溢れる布地や壁紙に包まれた室内空間においては、それらの「過去の屍の堆積」は気にならない。だが純白のリポラン塗りの室内では、それらの白い壁についた「汚点」は、とうてい耐えがたいものになると、彼は主張したわけである。
19世紀的インテリアと決別し、20世紀的建築空間を切り拓いた、ル・コルビュジエのコンセプト。だが20世紀末になると、ピーター・ズントーが、ル・コルビュジエとは真逆の立場から建築空間の魅力を語るようになる。本連載第2回「マテリアリティとは何か?」の「痕跡・時間・マテリアル」で紹介したように、ズントーは人間が生きた痕跡と、マテリアルが帯びる時間性を重視し、「すぐれた建築は人間の生の痕跡を吸収し、それによって独特の豊かさをおびることができる」と主張した。ズントーによれば、「流れ去る時間の意識、そして場所や空間で展開し、そこに独特の雰囲気をおびさせた人間の生に対する想い」こそが、建築空間を豊かにするのである。それは、ル・コルビュジエが否定した「物質がもたらす思い出の信仰」を、一転して礼讃する価値観の誕生だったといえるだろう。
20世紀を切り拓いたル・コルビュジエのコンセプトは、「使い捨て文化」ばかりでなく「スクラップ&ビルド文化」にも結びついたといえるかもしれない。モーセン・ムスタファヴィ+デイヴィッド・レザボロー『時間のなかの建築』(日本語版)に序文を寄せた槇文彦氏は、次のように論じた。
近代建築は、誰もが永久に若くありたいという青年的願望がその初期のエスプリに塗り込められて誕生した。それが故に、ル・コルビュジエが唱えた〈白い〉建築の理念は、健康、希望、衛生を万人がわかちあうべきとする、新しい世紀の誕生にふさわしい建築のひとつの象徴であった。それにはやがて政治の理念にすら繋がってゆくエネルギーと魅力を胚胎していたと言えよう。当然、しみは若者たちの容貌では許されない汚点であったのだ。 ──槇文彦氏による序文より★21
つまり、白い壁の室内空間に置かれた、古びた「装飾芸術」が次々に捨てられていったのと同じように、白い壁についた汚点や痕跡を「到底耐えがたい」と感じるようになってしまったモダニズムの建築そのものも、そこに堆積する時間性を許容できなくなってしまったのである。ル・コルビュジエが「リポラン法」で掲げたコンセプトは、それほどに苛烈なものだったのだ。筆者は、連載初回の「白ペンキのインテリア」で、現代のリノベーションと白ペンキの問題に言及した。おそらく現代の建築家の多くが、壁面を白く塗って仕上げることを、余計な意味を生じさせないニュートラルな仕上げと考えているのではないだろうか。だが、ル・コルビュジエが提唱したリポラン法は、けっして中立的な態度などではなかった。むしろそれは、きわめて極端な側に偏ったデザイン行為だったのであり、彼はそれによって19世紀以来のインテリアの議論に終止符を打ち、20世紀の幕を開けることに成功したのである。
したがって、現代において白色塗料の仕上げを用いる際にも、これがけっしてニュートラルなデザインなどではなかったということを、もっと意識的に捉えてはどうだろうか。とくに既存建物のリノベーションと白色塗料の関係は、このように考えてくると、じつは矛盾に満ちている。日本における「リノベーション黎明期」には、躯体の仕上げを取り払い、そこに白色塗装を施すというデザインが、ほとんどリノベーションの同義語といえるほど、多く見られた。だがリノベーションという行為が、既存建物が有していた記憶の継承という側面を有しているのに対し、ル・コルビュジエのリポラン法は、そうした「思い出の信仰」など「窮屈な足枷」に過ぎないということを強烈に明示するものだったからである。
しかし近年、白ペンキ一辺倒のリノベーションはしだいに影をひそめはじめている。そして、現代建築がマテリアリティに対する関心を再び深めていることは、新築ばかりでなくリノベーションのデザインにも、大きな可能性を示しているといえるだろう。建築時間論とマテリアリティの問題は、ここにおいて接続されることになるのである。
第1部完、そして第2部へ
連載第1回でのインテリアにおける「被覆」「白ペンキ」「素材感」に対する問題提起から、まわりにまわって、ようやくル・コルビュジエのリポラン法に戻ってきた。だが、白ペンキのリノベーションなど、現代日本の建築界の最新動向からすれば、すっかり過去の流行だと言う人もいるかもしれない。むしろ日本における「今日のインテリア」を特徴づけるのは、むき出しの合板を多用するインテリアの氾濫である。建築雑誌をめくれば必ず出会うのが、近年ますます増え続ける合板だらけの住宅インテリアだ。むろん合板には合板のマテリアリティが存在するだろう。だがそのマテリアリティは何を語っているのだろうか? 現代の経済状況を反映したインテリア? 安価であることを隠さず露出させるモラリティ? あるいは単にビニールクロスの壁紙に対する嫌悪? 合板の機能的性能の高さ? それとも流行に敏感な建築家がデザインしたことの署名だろうか?
筆者にとって気がかりなのは、この合板のマテリアリティが、時間のなかでどのような質を獲得しうるかである。数十年の時を経た合板は、人間の生の痕跡を吸収して、建築としての豊かさを帯びることができるのだろうか? それともプラスチック製品のように、無残な劣化を遂げるばかりであろうか?
時間性を帯びたマテリアルが独特の豊かさを帯びることができるか、という観点において、それが安価な素材であるか高価な素材であるかは、おそらく本質的な問題ではない。たとえば西洋の建築の歴史を振り返ってみても、そこでは石材と煉瓦とセメントという、3種の同系統のマテリアルがしばしば使われてきた。そのとき煉瓦は、石材の代用品ともいうべき安価なマテリアルのひとつであった。そのため煉瓦造の建築では、しばしば表面に漆喰(セメント)を塗って、煉瓦を隠すように仕上げられることも多かった。漆喰の上に目地を描き、あたかも石造の組積であるかのように見せかけた建築さえも、ときどき見かけるほどである。前近代の歴史的な建築においても、安価な材料である煉瓦を用いたことを隠蔽するような仕上げ(レンダリング)が存在していたわけだ。だが一方で、煉瓦そのものを仕上げ材とした建築もまた、時間のなかで豊かさを獲得しうることを、私たちは知っている。マテリアリティの問題において、高価なマテリアルが正解で、安価なマテリアルは不正解、ということはないはずだ。
石材も煉瓦もセメントも、西洋建築史における主要なマテリアルであるのと同時に、それらはそれぞれに「構築」の問題と密接に結びついている。次回からは一気に古代まで時間を遡り、建築における素材と構築の問題を歴史的に俯瞰してみようと思う。次回は、連載第2部の幕開けである。
- 19世紀の大量生産における「テクトニクス」と「マテリアリティ」/フランスにおける「アール・デコラティフ」の問題
- 1925年のアール・デコ博覧会/アール・デコ博覧会とル・コルビュジエ/第1部完、そして第2部へ