音を通して考える──あるいは公共性からのオプトアウト

カリン・ベイストゥルフェルト(マーストリヒト大学、Technology & Society Studies学部教授)+松山直希(オーストリア・ウィーン大学Science and Technology Studies学部修士課程)

騒音の法律化と科学化

松山──騒音問題な重要な側面として、ベイストゥルフェルトさんの仕事のなかでも重要な位置を締めている、法の問題があります。僕が特に興味深いと感じたのは、過去の法令や法的戦略が積み重なり、現在における騒音の受容や知覚までもを規定するようになるという、「積層化(layering)」の観点です。ここで歴史的な分析がたいへん活きてきます。この「積層化」についてご説明いただけますか?

KB──まず単純に言えるのは、法の仕組みがそうなっているということです。多くの新しい法令がつくられますが、しばしば古いものがそのまま保たれます。したがって、ほとんど文字通りに層がつくられます。しかし、同時に、過去の特定の問題の対処法が、新しい問題に回帰してくるということでもあります。そのひとつの例が、空間と時間の両方のゾーニングです。近代初期には、鍛冶職人など一部の人たちの自由を制限し、特定の場所でしか出店できないようにするような規制がすでに多数存在しました。場合によっては、鍛冶職人が全員ひとつの島に配置されることさえありました。これは騒音に対する空間的な解決策です。他方で、時間的な制限を設ける施策もありました。特定の活動は、ある時間以降は認めないといったかたちの制限です。例えば、粉挽き機の利用はこのように限定されました。こういった解決策は、歴史的に幾度となく回帰します。そのような措置を適用することが難しい航空機の場合でさえもです。

これは、法律が数字に基づいて介入するという「実用的客観性(pragmatic objectivity)」に依拠しているからでもあります。「実用的客観性」は、ある現象の兆候を、厳密に区切られた水準に沿って区別し、それをもとにして介入の度合いを決めることを志向します。それが法律の仕組みです。法律は、本質的にデジタルなもの、0か1、二者択一なのです。そうでなければ機能しません。しかし、そのような境界線を確立するためには、現象の計測という意味で、法が科学に一定の権限を委任する必要があります。その結果、──隣人は防音する権利があるのに自分にはないなど──問題の境界が定められますが、この分画こそが人々の理解とそれに基づいた行動を阻害します。これは特に、非常に複雑な数式に基づいて線が引かれる場合に当てはまります。

松山──よくわかります。似たような問題として、喫煙が挙げられます。現在多くの国では、喫煙が特定のエリアでしか許されていません。喫煙問題でも科学が深く関与していますが、そこには大きな違いがあります。科学は、喫煙が健康に害を及ぼすという理解の定着に成功しましたが、騒音の場合はそうではありません。喫煙に関するものと同じような、決定的な理解を広範囲で定めるには至っていません。科学はどのようにして騒音問題の着地に苦労したのでしょうか?

KB──現象自体を理解することに苦労したわけではありません。むしろ、今言ったように専門家として立法行為に貢献するように要請された時に摩擦が生じます。実際には、音の知覚には無限の差異と分布があることを知りながら、「実用的客観性」の要請から突然線を引くことを求められるわけです。ひとつの解決策は、航空機騒音の場合のように、騒音の評価に多くの一般人を用いて官能試験を行なうことです。しかし、その際にも困難は生じます。例えば、このような手法によって得られた結果を、国際的に比較することはきわめて難しいのです。定性的なデータには、言語などの問題があります。例えば、いかにして騒音について語りえるのか? 騒音やその体験に対してどのような言葉を持ち合わせているのか? などの問題です。

2018年秋に出版予定で、先日脱稿したばかりの『Sonic Skills: Listening for Knowledge in Science, Medicine and Engineering (1920s-Present)』(Palgrave Macmillan UK)という本では、まさに音と騒音について語ること、そして文化を横断して言語を比較することの困難に焦点を当てた章があります。科学者は当然標準化を好むため、デシベルなどの単位が用いられるわけですが、デシベルは音の大きさに関するきわめて雑な単位で、迷惑度を測るのには向いていません。「積層化」という意味では、まさにデシベルと音の大きさが騒音を定義する主流な方法になったことは、じつに良い例です。

松山──音や騒音の定量化の試みがなされた初期には、音の違った側面に重点を置いた、複数の単位が乱立していましたね。

KB──はい、そしてこの定量化の過程で、音の美的性質について語ることが可能だという考え方は水に流されました。現在では、音響に関連するさまざまな分野で、音の大きさだけでなく、人が嫌う音の性質はどのようなものなのかを理解する努力が見受けられます。特に心理音響学では、そのような試みが盛んに行なわれています。音の大きさは、単純に最もわかりやすい側面、音を法律上で扱うことを可能にするひとつの特性でしかなかったわけです。それは、デシベルメーターなどの測定機器が重要な社会的役割を委任されることにもつながりました。

「オプトアウト」する権利

松山──問題を音の大きさに単純化できないことの例として、人は航空機の音はより大きく感じ、列車の音はより静かに感じるということが、一般的に受け入れられていると読んだことがあります。「aircraft malus」と「railway bonus」として知られる現象ですが、これは例えば都市計画許可申請の際などに考慮されるそうです。

KB──それはなぜなのですか?

Mike Goldsmith
『Sound: A Very Short Introduction』
(Oxford University Press, 2015)

松山──マイク・ゴールドスミス(Mike Goldsmith)の『Sound: A Very Short Introduction』★6で読んで、そこには説明がなかったのですが、個人的には公的記憶やノスタルジーに関連しているのではないかと思います。列車は、発展が成功した神話的な過去へのノスタルジーを引き起こすのに対して、航空機は9.11ではないですが、より現在的で、制御不能かあるいは崩壊しつつある、失敗した発展のイメージにつながりやすい。完全な憶測に過ぎませんが。

KB──電車の音が肯定的な含蓄を持つということは正しいと思います。オランダでは、線路の存在によって村全体の住宅価格が上昇する現象は依然として残っています。しかし、私は別の理由があるのではないかと思います。それはほかの問題についての私の考えとも関係がありますが、列車の音のほうがより安定しているということです。まず、列車は決まった線上を動きますし、さらにその存在も予測可能です。人々は、列車がどれほどの頻度で訪れるのかをたいだい把握しています。しかし、航空機はいつどこを通過するのかわかりませんよね? それは、まさにさきほど話したような数式を使って、特定の制限内に抑えることができるように、飛行経路をつねに微調整しているからです。これは、現在私が住むマーストリヒトでも問題になっています。航空機の騒音は自分には関係ないと思っていても、次の瞬間頭上を通過していったりする。これがもうひとつの要素かもしれません。

これは、私が現在取り組んでいるテーマである「祭り」に関連することでもあります。例えば、アムステルダムではたくさんのフェスティバルが開催されるのですが、現在それらを一カ所に集中させないで、都市のいろいろな場所に分散させようとしています。私にはそれが賢明だとは思えません。それは、より多くの人が、そして特にフェスティバルの音と初めて接触する人が、騒音問題と対峙することになるからです。フェスティバルの問題は、私が一時住んでいたベルリンでも顕著でした。これに関連して、今考えているのは、実践的に応用されることが少ないレイモンド・マリー・シェーファー(Raymond Murray Schafer)の「響きの庭(soniferous garden)」★7という概念を再考することです。それは、静けさを楽しむための空間を提供する、音を中心に設計された公園のようなものです。都市のなかに比較的静寂な空間を生む、現代的なクロイスター、あるいは喧騒からの避難所のようなものをつくってみるのはどうか。これは、騒音に対する、人工物やテクノロジーに対する制限や条例とは別の、代替的な介入方法ではないかと考えています。しかしこう話してみるとクロイスターは、あまり良い表現ではない気がしてきました。むしろ私が理想とするのは、建築家がさまざまな素材やスタイルなどを用いて音の実験を行なえる場です。建築の特定の分野では深められている音響に対する理解と感度を、都市に持ち込んで、違った観点から都市を考えるきっかけになるのではと思うのです。都市の建物が音響的にはいったい何をしているのか、どこに反響が高い素材、低い素材が配置されていて、またそれはどのように配置されうるのか。

松山──この特集を組むひとつの動機は、音を通して建築がどのように複数の公共性の醸成に加担できるのかを考えることです。そのなかで、都市に変調をもたらすために、静寂の島のようなものをつくることはまったく思い当たりませんでした。このアイデアがどのように公共的な感覚に貢献できると思いますか?

KB──私にとって公共性とは、多様性を考慮するということです。この多様性には、知覚感度の多様性も含まれるべきだと思うのですが、それは容易なことではありません。それは、例えばある集団が祭りをしたいとしたら、祭りに参加したくない人たちに対して別の選択肢が用意されるということです。ベルリンでは、フェスティバルの際に騒音値が80デシベルを超える家に住む人を、フェスティバルの期間中ホテルに住まわせるという手段が採用されました。家を離れてホテルに住むことを余儀なくされたわけです。

松山──これは参加しない権利に関することだと思います。思い当たるのは2020年の東京オリンピックです。日本の夏は猛暑となるため、政府が2時間のサマータイムの導入を検討しています。この時間の変更は全員に影響し、オプトアウトする方法がありません。多くの人が反対しているのも、まさにそういったことに起因するのではないかと思います。参加の多様性という点で、あるいは公共性のすべての要素に参加しない権利という点で、つながる話です。

KB──「オプトアウト」は、面白い表現ですね。どちらかという商業的な文脈を彷彿させる言葉です──ある機能を受け入れてもいいし、オプトアウトすることもできる。私たちは、公的機関がすべての人のためにルールを設定する、公共問題はそのように解決される、という考え方にとらわれがちです。「すべての人」のためのルールなので、一定の制限が必ず課されます。そして、それは必ずしも機能しません。だからこそ、オプトアウトするための方法をつくることを考えたらどうか。そのような取り組みは、公的生活を構築するうえで中心的なものであるべきだと思います。

入り口としての音

松山──オプトアウトのテーマは、さきほど言及された標準化の問題に関係します。音の制御に関する法律を定めるためには、基準値などで標準化をはかる必要があります。音をコントロールできる存在にするために、単位や数式だけでなく、距離と時間に隔たれた場所でも標準値が機能するようなコーディネーションの技術が必要になります。専門家は、このなかで重要な役割を果たします。公共性をかたちづくる公共的な基準が、一般人はアクセスできない場で専門家によってつくられているわけです。僕は、これが必ずしも問題ではないと思っていますし、単純に一般人がそういったプロセスに参加できるようにすることが解決策であるとも考えません。まずは、実際どのようなプロセスなのかを理解する必要がありますが、騒音の場合はどのような動きがあったのでしょうか? 専門家は、いかにして私たちが「公共」として体験する事象の条件を定義する力を手にするのでしょうか?

KB──第一に、特に騒音防止運動などの一環で、騒音を定義するチャンスがあれば、関係する集団はすぐに行動に出るということがあります。これは、重要な問題を発見したからというだけでなく、単純にあるかたちで定義することによって、自分たちの仕事が生まれるからです。エンジニアの動向はその好例でしょう。オランダの財団「Dutch Sound Foundation」(現Nederlands Akoestisch Genootschap)の文書を読んでみると、1930年代の設立当初、エンジニアの仕事がかなり限られていたことがわかります。この財団は、建築家などに対してさまざまな素材の計測を提供する目的でつくられたのですが、そこには計測値に組織的な権威をもたせる意味も、もちろんありました。しかし、この権威を確立するには、一般人にその存在を認識してもらう必要があります。そこで「Royal Dutch Automobile Club」(Koninklijke Nederlandsche Automobiel Club)などの組織と協力し始め、道路上のクラクションの問題などにかかわるようになりました。つまり、双方向の動きなのです──ある集団が特定の問題の定義を試みて、定義に成功した場合はその集団がその領域で仕事をしやすくなる。

法律が明確な解決策を要求するため、公共機関はそのような組織に頼らざるをえませんでした。それは、すべての人のためのルールを設定するうえで、皆の意見を聞くことは不可能だからです。例えば、ひとりの人がベートーヴェンを聞きたくないということを知ることは、参考になりません。そこで、科学の「機械的客観性(mechanical objectivity)」に頼るために 科学者に線引の仕事を委任するわけです。「機械的客観性」とは、脱身体化され、透明で普遍的とされる定量化への信頼を指します。この科学者への委任を通して、千差万別の知覚が関与する、きわめて定義が難しい事象に関する決断の正当化をはかるわけです。

松山──これは、セオドア・ポーター(Theodore M. Porter)による、官僚的システム内において親密な知識と個人的な信頼の必要性を排除するかたちで責任を委任する「距離の技術(technologies of distance)」★8としての定量化の話につながりますね。「真実」にアクセスすることができるとされる科学を通して、数字の非個性的な権威に社会的役割を委任する。

KB──まったくその通りです。これは、20世紀においてますます重要になりました。19世紀末前後は、エリートを代表する医者や作家などの別のタイプの専門家が権威を持っていました。そのような権威は現在失われ、遅くとも20世紀の前半には、科学に取って代わられました。

松山──これらは、べイストゥルフェルトさんが専門とする科学技術社会論(STS)でも中心的な問いですが、ほかにもSTSの影響が見られるのが、消費の現場への関心です。これは、例えばマドレイン・アークリッチ(Madeleine Akrich)の、テクノロジーに社会的概念や開発者の思惑が「書き込み(inscription)」されながらも、それがユーザーによって「脱書き込み(de-scription)」★9されるという考え方や、現在台頭している「ユーザー・スタディーズ」★10などともつながる問題です。しかし、べイストゥルフェルトさんの仕事で特徴的なのは、広告のようなマーケティング活動の分析に多くのエネルギーを割くことです。なぜこれを重視しているのかを教えていただけますか? なぜ、生産現場と消費現場、そしてそのふたつを媒介するマーケティングの現場を行き来するのか。

KB──これは自動車の研究で最も顕著でしたが、マーケティングを注視した理由は、自動車産業が非常に早い段階で人々の生活に介入したことに気づいたからです。例えば、静寂化は初期からの関心事でしたが、それは商業上の理由からでした。私の興味を惹いたのは、一方で特有なかたちの静寂に対する消費者の希求を認識しながら、他方でその静寂を「安全性」「利便性」そして「気品のある生活」などの表現を通して訴求したことです。1990年代以降、ライフスタイルを売るという考え方はより明白になり、とりわけその感覚的側面が重視されるようになりました。だからこそ、大手自動車メーカーがこぞってサウンド・デザインのチームを導入したわけです。こういったことは、すべて共著者とともに広告を分析することで見えてきたことです。広告は、例えば、風景のなかを飛行しながら、窓から映画のように風景を楽しむという「映画的ドライブ(cinematic drive)」というアイデアを実体化させました。そして、今度はそのアイデアをもとに車での映画的体験を可能にするために、特定の室内音響が必要になる。

松山──今「体験」という言葉を使われましたが、これは今個人的に苦戦しているテーマのひとつです。音の体験、音の知覚は個人的であり、主観的なものです。それと同時に、私たちは社会的あるいは文化的知覚といった話をする。この2つをどのようにつなげることができるのか。

KB──私は、科学が重要な橋渡し役を担っていると考えています。というのも、科学は個別的知覚を集団的にも捉えることができるような共通の言語を構築しているからです。今個人的な「知覚(perception)」という表現をされましたが、それはすでに心理音響学の言語です。この言葉がなければ、「感覚(feeling)」の話をしているでしょう。もちろん、科学の言語は現象を特定のかたちで定義するものですが、それによって私たちはその現象についてともに話し合うことができるのです。知覚それ自体はすでに構築されたものであり、それは個人を集団に結びつけます。音楽の言語などほかの言語もありますが、音楽の言語は非常に特殊なもので、音について語ることを必ずしも容易にするものではありません。

松山──最後の質問になりますが、なぜ音を聞くべきなのか。べイストゥルフェルトさんは、聴覚を特権的に扱わないように、サウンド・スタディーズをすべての感覚を含むセンソリー・スタディーズの一部と位置づけています。しかし、それでも音を起点にすることで、私たちの注意がほかの感覚とは違った場所に向けられるようなことはあると思いますか?

KB──それはとても難しい質問です。私は本質主義者ではないので、「音は私たちを他者に近づけてくれる」などと言うのは苦手です。あまりにも歴史的多様性や発展性を認識しすぎていて、そのように考えることはできません。私は、ただ単純に音を通して考えることが好きなのです。なぜそうなのかは、はっきりとはわかりませんし、私はもともと音楽をやっていましたから個人史もきっと関係しているのでしょう。そのような個人的な好みを布教する気にはなれません。

とはいえ、今日の話は、公と私の定義にどれほど音が重要な役割を担っているのかを思い出させてくれました。音は、人が構築する私的領域の境界について考える方法を確かに与えてくれました。例えば車に関して言うと、人はますます自分の車を警察にチェックされることを拒むようになっています──まさに自宅の捜索には礼状などが必要で簡単には行なえないのと同じように。車が自分の家のようなものだと認識されるようになっているわけです。そして、音は私的な感覚を創出することに大きな役割を担います。おそらく、音は、特定の時期の特定の文化のなかで私的・公的境界がどのように定義されているかを、新たに考えるための入り口を提供してくれるものなのでしょう。馴染みの問いを違ったかたちで投げかける方法なのです。私は、ただ音を聞くだけで、それまで見えていなかった社会の動きをとらえることができると信じています。

松山──本日は、音を通して公共性について考えることで、公共がいかに形成されているのかについて、非常に示唆的な話を聞くことができました。特に公共性を獲得するためには、「所有者」が必要とされること。これは、重要なポイントだと思います。そして、その「所有者」による問題定義の試みに対する法律の影響や、科学の定量化への責任の委任など、通常想像されないようなところで「公共性」、あるいはその条件がかたちを成すことがわかりました。公共性からオプトアウトする道筋を用意する必要があることなど、意外な結論を導き出すこともできました。どうもありがとうございました。




★1──Bijsterveld, Karin. Mechanical Sound: Technology, culture, and public problems of noise in the Twentieth century. Cambridge, MA: MIT Press, 2008.
★2──Bijsterveld, Karin, Cleophas, Eefje, Krebs, Stefan, and Mom, Gijs. Sound and Safe: A History of Listening Behind Wheels. New York, NY: Oxford University Press, 2004.
★3──Gusfield, Joseph R. The Culture of Public Problems: Drinking-Driving and the Symbolic Order. Chicago: University of Chicago Press, 1981.
★4──Mansell, James. The Age of Noise in Britain. Champaign, IL: University of Illinois Press, 2016.
★5──Picker, John M. Victorian Soundscapes. New York, NY: Oxford University Press, 2003.
★6──Goldsmith, Mike. Sound: A Very Short Introduction. New York, NY: Oxford University Press, 2015.
★7──Schafer, R. Murray. The Soundscape: Our Sonic Environment and the Tuning of the World. Rochester, VT: Destiny Books, 1977/1994.
★8──Porter, Theodore M. Trust in Numbers: The Pursuit of Objectivity in Science and Public Life. Princeton, NJ: Princeton University Press, 1996.
★9──Akrich, Madeleine. "The De-scription of Technical Objects." In Shaping Technology / Building Society: Studies in Sociotechnical Change, edited by Wiebe B. Bijker & John Law. Cambridge, MA: MIT Press, 1992.
★10──Oudshoorn, Nelly and Pinch, Trevor, eds. How Users Matter: The Co-Construction of Users and Technology. Cambridge, MA: MIT Press, 2005.



カリン・ベイストゥルフェルト(Karin Bijsterveld)
マーストリヒト大学、Technology & Society Studies学部教授。科学、技術、そして騒音と音楽を含む音の研究を専門とする。著書に『Mechanical Sound: Technology, Culture, and Public Problems of Noise in the Twentieth Century』(MIT Press, 2008)、そして2018年秋の刊行が予定されている『Sonic Skills: Listening for Knowledge in Science, Medicine and Engineering (1920s-Present) 』(Palgrave Macmillan)。共著書に『Sound and Safe: A History of Listening Behind the Wheel』(Oxford University Press, 2014)。共編書に『The Oxford Handbook of Sound Studies』(Oxford University Press, 2012)。

松山直希(まつやま・なおき)


  1. 公共問題としての騒音/階級と「礼儀正しい」ふるまい
  2. 騒音の法律化と科学化/「オプトアウト」する権利/入り口としての音

201809

特集 サウンド・スタディーズ
──個と集団を結ぶインフラストラクチャー


公共性の音──イントロに代えて
音を通して考える──あるいは公共性からのオプトアウト
都市空間における「肯定的共鳴」
ショッピング・モール──ミューザック、誤聴、そしてフィードバックの生産的な不安定さ
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