第3回:感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し

モデレータ:木内俊克(木内建築計画事務所、東京大学建築学専攻ADS Design Think Tank担当)
伊藤亜紗(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授)+土井樹(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

なぜ身体か

伊藤亜紗──こんばんは、東京工業大学の伊藤です。東工大といっても私は文系の人間でして、美学の立場から身体の研究をしています。今日は「運動を生み出す運動----『ノる』と『乗っ取られる』の身体論」というタイトルで、私の研究のなかでも、運動を通して体を制御することの面白さとままならなさについて考えてみたいと思っています。

簡単に自己紹介します。そもそもなぜ身体に興味を持ったかと言えば、私は女性でこういう顔と体型と能力を持っていますが、それは自分で選択したわけではなく、たまたま初期条件として与えられてしまっているものです。これと付き合うことが人生だとすると、偶然を自分のなかで必然化して生きていかなければいけないという意味で、体との付き合い方を考えるということは、すごく究極的な感じがします。そうすると、もしこの体ではなかったらどうなるのかという興味が湧いてきます。現実には不可能ですが、想像力を使えばある程度拡張して考えられると思います。

最初は昆虫や動物だったらどうなのかという興味があって生物学を専攻していましたが、理系として進学してもなかなかその大きな問いには到達できなさそうなのと、領域が細分化されていて、身体の構造を一つひとつ理解しても、自分がこの体で生きていくとはどういうことなのか、についてまでは行き着かないと感じました☆11

☆11──[豊田]こういう視点もとても重要で、これまでどうしても工学的な積み上げによる「正しさ」が重視されてきた建築「学」の体系や手法・価値観に対して、よりメタな、現象的な、実際に生じているかたちや状況の方からスタートして、新しい技術で接続していくようなアプローチ、いまなら情報的・デジタル的なアプローチに一番可能性があると思うんだよね。その意味で、建築情報学の価値の非常に大きなところはこうした下からの積み上げと上からの落とし込み、両者を技術で具体的につなぐ可能性にあるんだと思う。

全体のことを考えるのであれば文系だと思い、美学を専攻しました。美学は哲学の兄弟のような学問で、ツールとしては言語を使いますが、言語化しにくいもの、つまり感性、身体、芸術などを扱う、柔らかい側面を持った学問です。 ただ、哲学系のアプローチでは、現実の身体の多様性を捨象して、「身体一般」のような抽象的な身体を想定して議論を進めてしまう傾向があります。しかもその「身体一般」は、基本的に白人の健康な男性が想定されています☆12

☆12──[木内]哲学に限らず、つねに持っておきたい視点。ダナ・ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』(青土社、2000)で、科学につきものの「一般」や、もっと言えば「客観性」のあやしさを、単純な相対主義にくみするでもなく指摘したことが思い起こされる。ではそこでどんなアプローチが有効になってくるのかというと、やはり細やかな観察とボトムアップで、そこに情報技術が接続する可能性があると感じる。[石澤]環境設計指標や、インテリア設計のモジュールなどでもいまだに「白人の健康な男性が想定」されている側面、よくありますよね。

ところが、例えば実際に出産をしたりすると、自分の体が自分の体ではなくなるような、ものすごいことが起こります。自分に内在しているとは思っていなかった能力が急に発現して、自分ではコントロールできないような展開を経験する。そういったことは、従来の「身体一般」を前提にした議論ではなかなか出てきません。私としては、美学という哲学系のアプローチをとりつつも、体の具体的な多様性をすくいとるような研究をしたい、と思いました。そこで、美学の研究としては一般的ではないのですが、障害を持っている方に注目して、その体をどう使っているのか、またはその体を通して生まれてくる世界や文化はどうなっているのかを研究しています。

最初は視覚障害を研究していたのですが、聴覚障害などあちこちに手を出していて、最近は「吃音」を研究して『どもる体』(医学書院、2018)という本を出版したばかりです。吃音は、言語と身体運動に関わる問題ですが、ベースにあるのは、自分の体の制御が外れてしまうというのはどういうことかという問いです。最終的なゴールは、人間の身体がどうなっているのかについて、分野を超えて共通する問題を探りたいと思っています☆13

☆13──[堀川]まだ言葉にされていない、身体を表わす新たな指標が出てくる可能性が見受けられて、とても興味深い。これによって例えば人を摸するロボットの表現に新しい軸を加えることもできそう。

伊藤亜紗氏

ノる/乗っ取られる

伊藤──私は、建築はまったくの門外漢ですが、体との関係という意味で、ひとつだけ、階段の話をしてみたいと思います。小さい頃、階段を一段抜かしで降りるのが大好きでした。やめられなくて、何度も同じ階段を駆け下りて遊んでいたんです。皆さんもたぶん、同じような遊びをされたことがあるのではないかと思います。

階段がなぜ楽しく、中毒性があるのかを考えてみると、急降下をしているときに、自分が階段を降りているのか、階段が自分を降りさせているのか、よくわからなくなる感じがあります。つまり、最初、階段をタッタッタッと降りているときはノッている感じですが、徐々に止まらなくなり、自分の体をコントロールできなくなって、足が勝手に回転して、制御を超えていくようなフェーズがある。

私は自分の体の制御が外れてしまうその境界線に興味があるのですが、階段はまさにそれを実感できる場だと思います。その制御が外れる怖さと快感を同時に感じることができるので、階段が好きだったのです☆14

☆14──[石澤]荒川修作+マドリン・ギンズ《養老天命反転地》(1995)のことを思い出します。私はあそこで数10m滑落したことがあり、死ぬかと思いました。通常、建築は「常識的な」体の振る舞いに寄せてつくられているけど、ちょっとしたことでそれを大いに踏み越える力も持っている。[角田]建築はこれまで制御の対象でしかなかったけれど、建築側に主体的に処理をさせる、人がわからないことまで相応に委ねることで拡張する可能性をどう意識的に引き出していけるかも問われていくよね。

この階段の経験とも密接に関わるのですが、今日は「ノる」「乗っ取られる」をテーマに考えてみたいと思っています。「ノる」「乗っ取られる」という問題は、さまざまな身体障害と密接に関係しています。体に障害があるということは、定義上、自分ひとりでなんらかの運動をしたいと思っても完結できないということです。そうなると自分ではないものを取り込むしかありません。例えば介助者のような他者や、うまくできるようなパターンや方法、または機械と自分を一体化させた義手など、自分ではないものを味方にしていくことが必要になります。逆に言えば、障害を持っている人は自分ではないものと組んでいく力がすごく高いわけです。それはつまり「ノる」ということではないかと思います。運動を全部自分でコントロールはできないので、自分ではないものに半分任せる、アウトソーシングする、その力を借りることです。

でもそれは同時に、乗っ取られる危険に接しています。例えば私が半身麻痺だったとして、介助者に抱っこしてもらわないと入浴ができない場合、もし介助者によってモノのように運ばれたらすごくショックだと思います。それは、介助者に自分の体が完全に乗っ取られている状態です。やはり持ち上げるタイミングや、どうやったら本人の恐怖心がないか、非言語的で身体的な接触、介助者と障害者の臨界面での接触の往復がなければ人間的な介助になりません☆15

☆15──[石澤]GrasshopperやDynamoを書いている時にこの感覚がありますね。自分の体が拡張したかのようにグイグイとアイデアが形になることもあれば、突然のバグでそれらが扱いきれない他人行儀な存在にもなる。

障害を持った体は、そのまわりにある道具、介助者、環境とネットワークのようなものをつくり、移動したり食べたりすることになります。そこで特定の誰か/何かがその運動の主導権を持ち続けると、乗っ取りの状態になってしまい危険です。重要なのは、そのネットワークのエージェントの中心が1カ所ではなく、あちらこちらに分散している状況をつくることです。それは尊厳にも関わることだと思います。こうした問題は、今日のテーマである「計画」ということともしかしたらつながるかもしれないと思っています☆16

☆16──[豊田]乗っ取られる(委ねる)ことを頭から拒否するのではなく、委ね方、混ぜ方にいろいろなやり方があって、それはむしろ薬になるはずだと探索の精度化を図っていく姿勢。まさに建築情報学が切り開いていかないといけないところ。[木内]ここでの提言は、いま読み返すと第3回のテーマを完璧に言い当てていますよね。確かに「ネットワークのエージェントの中心が分散している状況」を保てるか否かは非常にシビアな問題で、SNSなどアーキテクチャが強すぎて権力として機能してしまう空間から、現実の公共空間における人同士のささやかな状況の共有まで、通底して考えられるトピックがここで提出されていると感じますし、建築情報学を通して考えたいことの中核。[石澤]同意です。自分がノることのできる環境の選択肢をどれだけ持つかは、単にスキルを充実させるだけではなく、発想と問題解決の可能性を決める、データセントリックな建築のつくり方を考えるうえで生存戦略にも関わる重要な問題。いろいろなソフトや環境を知っていて、ほどほどに付き合えることで保たれる能動性の感覚は確かにある。[角田]拡張知能という話があって、すでにさまざまなものが人間側のスキルから抜け落ち始めていて、スマートフォンなどに移植され知能として拡張している。道具を介し、これまで人間が感覚としてしか認識できなかった領域を情報としてコントロールできるようになった先で、物事をどう捉えていくのかに対して、今回のテーマは非常に示唆的。

障害者のノる/乗っ取られる

伊藤──例を挙げてお話します。視覚障害者の伴走をしたことがありますが、めちゃくちゃ楽しいのです。目の見えない人と晴眼者が一緒にロープを持って走るという単純なものですが、このロープを介して身体を接続させるのがすごいところです。長距離だと何時間も手の振り、振動を共有し、一体化しているわけです。手が優れているのは、ぶらぶらしていて、振動を伝達できる構造を持っているところですが、ロープでつなぐことよってすごく一体感が生まれます。例えば坂道で少し頑張ろうとか、混んでいるからセーブしようという判断は言語化しなくても伝わることがあります。

特にカーブを曲がるときの、ロープでつながったふたりの間の情報ネットワークは興味深いです。実際に毎週のように伴走ランをやっている方に話を伺ったことがあるのですが、カーブの角度によって大体3パターン、曲がり方があるそうです。まず90度前後で大きく曲がる場合は、晴眼者が「曲がりますよ」と言葉で伝え、それがキューになって、見えない人も「曲がるぞ」と意識して曲がります。でも言葉で伝えるこの方法は、相手に準備させ、緊張させることになるので、できれば避けたい。そこでもう少し緩めのカーブになると、言葉では伝えずにロープで少しずつ引っ張るという方法になります。そして面白いのが、さらにカーブが平らになってくる場合です。あまりにゆるいカーブだと、晴眼者はそのカーブをカーブだと意識しません。見るというのは不思議で、放っておいても身体がカーブに合わせて勝手に曲がっていくのです。すると、見えない人は、そのことをロープを介して感じ取ります。つまり晴眼者は曲がっていることを意識していないにもかかわらず、見えない人はロープを通じて曲がったことを感じ取るわけです。言うなれば、環境が見える人を介して見えない人を曲げていく。伝えようと思っていないのに伝わる。このように、晴眼者と視覚障害者と環境とのネットワークはその都度かたちを変えていくことがわかると思います☆17

☆17──[石澤]習熟を通じてある能力が獲得され、そのアダプタがある人にはコミュニケーション手段として共有される。手描き全盛の時代のスケッチの描き方・読み方にはまさにそういうところがあったし、同じことはスクリプトにも起きる。[角田]情報ネットワークに関してのとても参考になる具体例。ただ道具としてつなげればいいわけではなく、どのようにして伝えればいいかというプロトコルをきちんと考えなくてはならない。

これはよい状態で、障害者も楽しいし、晴眼者も介助をしている感じを超えて、純粋に楽しめます。でもいつもハッピーなネットワークが形成されるわけではありません。例えばタイムや距離を本気で競うレベルになってくると、分業が起こってきて、情報のネットワークが固定されます。例えば走り幅跳びで、コーチがジャンプのタイミングを指定し、選手はそれに従うなどです。それは効率がよいのですが、コーチのキューによって飛ぶということが続くと、見えない人の体がコーチの道具のようになり、乗っ取られてしまう危険性もあります。記録更新のためにはよいのですが、日常生活すべてが介助者の言いなりになってしまうのは、好ましいことではありません☆18

☆18──[木内]ユビキタスやIoTにおけるインタラクティビティに感じる、心地よさと邪魔だという感覚の共存は、まさにこのせめぎ合いそのもの。尊厳の問題には発展しないまでも、ナビを使いながら、ナビにツッコミを入れ続ける「あるある」はその典型。シリアスなものからごく日常的なものまで、あらゆるインタラクティビティ(本来、建築はそのど真ん中なわけですが)の設計において考えるべき問題。

吃音の話に移ります。吃音は、パターンとの距離を測り続ける障害です。人それぞれ症状は違いますが、ほぼ100%同意を得られるのは、歌っているときはどもらないということです。「ああああ」となってしまう連発の人も、最初の音が出にくい難発の人も、難発を避ける「言い換え」という工夫をしている人も同様です。歌以外でも、手拍子に沿ってしゃべるとか、演技してしゃべる、あるキャラクターの人格で話すと大丈夫だったりします。

先ほどのノる/乗っ取られるということを考えるうえで吃音は興味深いのですが、整理してみると、「ノる」とはパターンを使うことによって自分の運動をコントロールしようとする意識を半分捨てるような効果があります。パターンがなければすべて自分でコントロールしないといけないところを、あるパターンに任せてしまうことで、制御の負荷が減って楽になります☆19

☆19──[豊田]最近こうした文脈の先にある、物理コンピューティング(Reservoir Computing)にとても興味を持っている。都市や建築のような、複雑系の閾値を越えた複合体を扱うには、その準物理的構造ならではの定性的な挙動をうまく使うこと、つまり物理的なパターンにうまく落とし込むことで、すべてを1:1で計算しようとしたら破綻するようなシステムがそこそこ実効的になるのではないかと。

別の角度から定義すると、今日の発表のタイトルは「運動を生み出す運動」としているのですが、パターンとは展開していくものです。歌が単なる反復ではなく変化を含んでいるように、パターンは多様なかたちで肉付けされて出力されていきます。

ただ、パターンに依存し過ぎると、人間性や柔軟性が失われてしまい、パターンに乗っ取られた自分になってしまいます。乗っ取られは、吃音だけではなく、例えば携帯をずっと触ってしまうとかギャンブル依存症などにもつながり、物と人が一定の条件にある時に生じます☆20

☆20──[石澤]スケッチの手癖もこの類かと思うと、パターンの獲得はとても少ない(数回程度の)インプットでも起こる。AIの議論でいつも無視や勘違いされるけれど、人間の脳が数回のパターンから高精度の予測をしようとするのは、特にディープラーニング系の学習システムとは真逆に近いほど違う。建築のように、何十億件もデータを食わせられない領域にディープラーニングをどう適用するかが問題なのに、そこまで突き詰めて考えている人が少ない。

パターンにはライフサイクルがあるのかもしれません。獲得すると使い勝手がいいけれど、ずっと使っていると、ある種の依存状態、乗っ取られ状態になり、更新が必要になる。例えば、先生っぽくしゃべると吃音がなくなることを発見し、それが成功例となって反復的に使い続けていると、先生っぽくしゃべるというパターンに乗っ取られて、いつも先生っぽいしゃべり方しかできなくなります。吃音の人は、つねにパターンを探索し、複数のパターンで更新を繰り返しているような感じがあります。パターンとの距離のとり方は、吃音の人においては見えやすいですが、そもそも身体運動はパターンの集積なので、身体の普遍的な現象なのかもしれません☆21

☆21──[角田]人間が処理しやすいかたちとしてパターン化やモデル化があり、あらゆる事象を理解可能なものとしてきた中央集権的で非多様な情報処理が近代だったとすれば、ポスト近代は、分散的で多様な情報処理が求められているし、こうした多様な空間を情報処理することでどうつくるかという話も出始めている。[堀川]例えば吃音がなくなるパターンが数種類あるとして、それらに共通する普遍的なパターンなるものを見つけられたら、歌を歌ったり、先生のように喋るというような子階層のパターンを人工的に開発することもできる可能性はあるのか。

木内──ありがとうございました。『どもる体』を拝読して伊藤さんにレクチャーをお願いするしかないと思いました。パターンという総体のなかに、有機体であり身体を持つ人の挙動はもちろん、身体が反応する対象である情報技術を使った道具や、周囲の環境なども入力系として同時に存在しているという指摘に、身体論を建築の側から見る面白さを感じました。


201809

連載 建築情報学会準備会議

第6回:建築情報学の教科書をつくろう第5回:エンジニアド・デザイン
──一点突破から考える工学的プローチ
第4回:コンピュテーショナルデザインの現在地第3回:感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し第2回:BIM1000本ノック──BIMに対する解像度を上げるために第1回:建築のジオメトリを拡張する
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