第3回:建築史学の現代性

加藤耕一(西洋建築史、東京大学大学院教授)

ペヴスナー再読──近代建築史の再検討

CIAM(近代建築国際会議)の初代議長を務めたギーディオンが「建築史家は、彼と同時代の諸概念について密接な交渉をもっていなければならない」と主張したことは、ギーディオンだけに当てはまる特殊な事例と思われるかもしれない。だがギーディオンのように、直接的には同時代の建築運動に参画しなかったとしても、建築史学が同時代の建築学との強い並行関係を示してきたことは、ここまで確認してきた通りである。建築史とは、過去に封じ込められた固定的な存在ではない。歴史上の建築は、形而下的にも過去のある一点に結晶した存在ではなかったし(「点の建築史」から「線の建築史へ」)、形而上的にもそれを振り返る時代ごとに異なる相貌を見せる存在だったといえるだろう。ギーディオンに倣えば、建築史学そのものも、時代精神の束縛から逃れることはできないのである。

そのような観点に基づきながら、モダニズムを絶対視しがちな20世紀の建築観を最初につくりあげた人物として、ニコラウス・ペヴスナーの再考を、ここでは試みてみたい。fig.1に挙げたドイツ語圏の美術史・建築史の研究者たちのなかで、モダン・ムーブメントに対して同時代的にもっとも直接的な影響を与えたのはギーディオンとペヴスナーだったといえるだろう。ギーディオンの有名な『空間・時間・建築』(初版発行は1941年★15 )の5年前にイギリスで刊行されたのが、ペヴスナーの『モダン・デザインの展開──モリスからグロピウスまで』である。

ペヴスナーのこの重要書籍の原題は、1936年にロンドンの出版社から刊行された初版では『Pioneers of Modern Movement』となっており、1949年にニューヨークのMoMAから再版されたとき、内容の改訂とともにそのタイトルが『Pioneers of Modern Design』と改められた。みすず書房から刊行された日本語版はこの第2版から翻訳されたもので、邦題は『モダン・デザインの展開』となったが、もしペヴスナーが初版で発表したタイトルを忠実に直訳するとしたら『モダン・ムーブメントのパイオニアたち』ということになるだろう。

本書は、20世紀を通じて何度も再版され、「モダニズムの福音書」として扱われてきた。何よりも重要だったのは、一部の最先端の建築家たちによる前衛的な試みにすぎなかったかもしれないモダン・ムーブメントを歴史のなかに位置付けることによって、そこに「歴史的正統性」を与えた点である★16 。MoMAが、「インターナショナル・スタイル」の名称を定着させた1932年の「近代建築国際展」において、1922年から1932年までの10年間のヨーロッパ大陸およびアメリカ合衆国における建築の最先端を取り上げて見せた4年後に、ペヴスナーは1851年のロンドン万博から1914年のドイツ工作連盟のケルン大会までの歴史を描くことによって、この前衛的な建築運動に歴史を与えたのだった。

本書のインパクトによってモダニズムは、単なる流行の最先端から、歴史的な到達点となったといえるだろう。

ペヴスナーは、近代運動の草創としてウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動を、そして到達点としてヴァルター・グロピウスの建築作品(1911年の《ファグス靴工場》、1914年の《ドイツ工作連盟ケルン大会のモデル工場》)を取り上げた。また両者のあいだには、19世紀の工学技術、すなわち鉄骨造の建築に関する章や、アール・ヌーヴォーに関する章も挟み込まれた。これによってペヴスナー理論における、アーツ・アンド・クラフツと鉄骨造建築という、モダニズムの2つのルーツが定式化されることになった。鉄骨造建築の章では19世紀フランスの鉄骨の建造物が多く取り上げられるが、鉄骨の構造物の登場も、もちろん歴史的にはイギリスが早かった。その最古の例として、本書ではエイブラハム・ダービーが施工したイギリスのコールブルックデイルの鉄橋にも言及されている。

だがペヴスナーにとって、モダニズムの起源としてより重要だったのはモリスのアーツ・アンド・クラフツ運動だったといえるだろう。他方、1928年に『フランスの建築──鉄骨と鉄筋コンクリート』を出版し、19世紀フランスの鉄骨構造物の多様な展開を綿密に論じたギーディオンは、技術史的な観点からモダニズムのルーツを描き出した。同年、盟友ル・コルビュジエとともに近代建築国際会議(CIAM)を結成したギーディオンにとって、本書のゴールはル・コルビュジエである。だがペヴスナーは、彼の研究が扱う時期の下限を第一次世界大戦勃発の1914年に定めることでル・コルビュジエを封じ込め★17 、同時に鉄骨技術の登場は重要ではあるものの、そこには芸術的・社会的観点が欠如していたと断言したのである。

技術者はみずからの身も心も震うような新発見に、あまりに夢中になり過ぎて、その身辺に積み重なりつつあった社会的不満に気づかず、モリスの警めの声にも耳をかそうとしなかった。この対立のために、19世紀の建築と芸術における二つの主な傾向は、力を合わせることができなかった。アーツ・アンド・クラフツは回顧的態度を保ち、技術者は技術者として芸術に無関心であった。
──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』★18

本書の副題が示す通り、やはり本書の主役はモリスとグロピウスであった。本書の特徴は、1933年にドイツからイギリスへと亡命したペヴスナーが、これら2つの国を架橋するかたちでモダニズムの歴史を描いた点にある。すなわち、イギリスのウィリアム・モリスによってはじめられたモダン・ムーブメントが、ヘルマン・ムテジウスを通じてドイツへともたらされ、グロピウスに継承されたという構図である。ちなみにグロピウス自身も、ペヴスナーの後を追うように1934年にイギリスへと亡命した★19 。イギリスとドイツのモダン・ムーブメントを接続させたペヴスナーの本が出版された1936年当時、グロピウスもまた、新天地イギリスに渡ってきていたわけである。「モリスからグロピウスへ」という本書の副題は、イギリスで芽吹いたモダン・デザインが1914年のドイツで花開いたことを示すものだが、それから20年が経過した1936年当時、本書を執筆したペヴスナー自身も、本書の主役グロピウスも、イギリスでの活動をスタートさせていた。ロビン・ミドルトンが指摘した通り、本書は、典型的なモダニズムが存在しなかったイギリスに、近代建築運動を根付かせるためのプロパガンダだったと見ることも、あながち間違っていないだろう。

一方、1949年にMoMAから刊行された第2版は、狭義の「モダニズム時代」が過ぎ去り、第二次世界大戦終結後の新たな時代の幕開けになってなお、本書が有効であることを示したものといえよう。正確に言うと、本書はMoMAのディレクションによって「モダン・ムーブメント」の歴史から「モダン・デザイン」の歴史へと改訂され、20世紀におけるモダン・デザインの教科書的存在となったのだった。この第2版の序文で、ペヴスナーは次のように記している。

「近代美術館」は、本書の図版の総数を84から137に増し、本書の視野を相当に拡張してくれた。[...中略...]何を訂正し、また加筆すべきかについては、フィリップ・ジョンスン、エドガー・カウフマン二世、ヘンリー・ラッセル・ヒッチコックおよびアルフレッド・H・バールの諸氏に、示唆していただいたことを感謝したい。
──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』第2版への序(1949)★20

フィリップ・ジョンソンとヘンリー・ラッセル・ヒッチコックは、言わずと知れた「インターナショナル展」(1932)のキュレーションを行なった2人であり、アルフレッド・バーは1929年の開館以来MoMAの館長を務めた人物である(1946年からは館長顧問)。エドガー・カウフマン2世は、1932年の展覧会には関わっていなかったものの、1946年にMoMAのインダストリアル・デザイン部門の責任者に就任していた。こうしたMoMAの関係者とペヴスナーの協働により、本書はリニューアルされ、20世紀後半も引き続き、否、ますます盛んに読み継がれることになったのだった★21

大量生産とモダン・ムーブメント

こうして、ペヴスナーがモリスを最初の「パイオニア」として描き出したモダニズムの歴史は、20世紀を通じて世界中で受容されてきた。だが改めて冷静になってみると、それはどこか不思議なストーリーである。自然に考えれば、産業革命とそれに基づく大量生産こそが、モダン・ムーブメントの最初の契機であろう。だがペヴスナー史観においては、大量生産は根底から批判され、中世の職人的なものづくりへの回帰を志したウィリアム・モリスが、近代運動のパイオニアとされるのである。

19世紀末以来のドイツの観念的建築理論の観点から、近年新たにモダニズムの歴史を捉え直そうとしたH・F・マルグレイヴは、次のように指摘している。

1928年、その新建築を単に形態の問題と理解したジークフリート・ギーディオンは、モダニズムの血脈を工業建物や前世紀のエンジニアたちを通じてしか辿り得なかった。[...中略...]こうした歴史展望は1933年以降、ドイツ社会の崩壊、および、この崩壊が第2次世界大戦の誘引として果たした役割によって、さらに高まった。だが、この人災に対して建築史家のあいだでとられた歴史記述上の対応は、ただドイツの歴史および理論の研究から手を引くことだけだった。20世紀の初頭にモダニストだった世代のドイツ人の多くは今や亡命暮らしであり、かくて彼らはますます大陸の面影や地史を持たないパイオニアの孤島であると見做されるようになっていく。ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツの美学やヴィオレ=ル=デュクの合理主義、アール・ヌーヴォーの造形の中に些細な血脈らしきを見つけようとする努力には、初めから全く説得力がなかった。
──ハリー・フランシス・マルグレイヴ『近代建築理論全史1673-1968』★22

マルグレイヴはこのように論じて、19世紀後半以来、ドイツで盛んに論じられた感情移入論、形態論、空間論などからモダニズムのルーツを描きなおした。それに対して本連載では、産業革命とインテリアという観点から、この問題を捉え直すことを試みている。ペヴスナーが(そしてもちろんモリス自身も)否定した大量生産時代のインテリアの問題には、現代の建築に新たな光を当てる重要な可能性が秘められていると思われるからだ。

モリス自身が、産業革命以降の大量生産のものづくりを批判していたことは間違いない。彼は大量生産を否定することで、自らが立ち上げた事業のコンセプトを正当化したからである。だが、大量生産の「デザイン」に関する問題は、モリスの登場以前、19世紀前半からすでに議論され続けてきた重要な問題だった。そしてその議論は、当然ながら、大量生産品のデザインをよくするための議論だったはずなのである。それは国家的な産業推進と貿易の問題に直結するもので、ロンドン万博は、その国際発信の場であった。

したがって、モリスがいわば社会主義的な理想に基づいて資本主義的な大量生産を否定したからといって、それをもって当時の大量生産のプロダクトが、美的にも生産的にも粗悪品ばかりだったと考えるのは、きわめて短絡的な断定であろう。しかし、こうした見方は私たちのなかにすっかり定着している。たとえば最近も、4月から7月までアサヒビール大山崎山荘美術館にて「ウィリアム・モリス──デザインの軌跡」という展覧会が行なわれていたが、その展覧会の解説文には次のように書かれていた。

ウィリアム・モリス(1834-96)は、19世紀後半のイギリスで最も傑出した芸術家・思想家のひとりです。
産業革命により粗悪な大量生産品があふれるなか、モリスは日々の労働が創造の喜びに包まれていた中世ギルド社会の再興をめざして、アーツ・アンド・クラフツ運動を先導しました。
──アサヒビール大山崎山荘美術館HPより★23

モリスを主役にした展覧会において、このような表現は必ずしも誤りとはいえまい。しかし問題は、こうした文脈によって、モリスの背後に沈潜してしまった大量生産のプロダクトが、粗悪で論じる価値すらないと、誰もが信じ込まされてしまった点にある。

こうした「モダンな」価値観に基づいた見方を定着させるうえで、ペヴスナーの功績は間違いなく大きかった。

また事実上、すべての産業工芸(industrial art)は下劣で装飾過剰だった。[...中略...]こんな状態に立ち到らせた責任は、産業革命と、1800年以来始まった美学の学説とにあった。[...中略...]製造業者は新しい機械を用いて、以前ならば一箇の良品を生産するのに必要であったのと同じ時間と経費をかければ、数千の安物を作れるようになっていたということだけを述べておけばよい。偽りの材料と偽りの技術が、産業界を風靡した。[...中略...]需要は年々増加したが、その需要は、汚辱と貧窮のうちに奴隷生活を送っている無教育な下積みの庶民の需要であった。
──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』★24

 ペヴスナーの筆致はじつに辛辣だ。彼によれば工場生産の大量生産品は、

•装飾過剰で、デザインが悪い
•生産時間と経費の観点から考えて、安物である
•偽りの材料と偽りの技術が用いられている

ということになる。そこにはアドルフ・ロースの「モラリティ」の側面が凝縮されて抽出されているということもできるかもしれない。

ペヴスナーの大量生産批判は、本書のなかで畳み掛けるように繰り返される。たとえば彼は、ロンドン万博の展示品である絨毯を例に挙げて[fig.4]、次のように述べる。

どのような観点から考えてみても悪い。みれば、大いに精巧な図柄であるが。しかしその魅力は、これがロココ時代の間ならば、職人の想像力と確かな技倆に基づいていたはずのものである。それが今では機械で作られていて、所詮それはそれなりにしか見えない。
──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』★25

fig.4──1851年のロンドン万博に出品された《パードー・フーマンズ・アンド・パード商会社製の特許ベルベット・パイル・タペストリー絨毯》(引用出典=『モダン・デザインの展開』図1より)

デザインも悪ければ、つくりも機械生産で、所詮それなりにしか見えない。それがペヴスナーの評価だ。たしかにペヴスナーが例に挙げた絨毯は、筆者の目にも、少し俗悪に見えなくもない。だが、これをもってすべての大量生産を十把一絡げに批判することはできないし、この図版から、職人の手仕事と機械生産の比較をすることは無理な相談である。こうしたペヴスナーのいわば独善的な教えを神託のように信仰し続け、彼のモダニズム史観を頑なに護り続ける必要はあるまい。彼が頭ごなしに批判した大量生産時代は、イギリスでは華麗なるヴィクトリア朝のインテリアをつくりあげた。また、同時代のフランスの室内空間を飾った第2帝政時代のインテリアには、ヴァルター・ベンヤミンが「モデルニテ」の誕生を見出した。モリスの室内装飾ばかりをモダン・デザインのはじまりとして信奉し、その背後で圧倒的な拡がりを有していた大量生産を無視することは、あまりに視野が狭すぎると言うべきだろう。

これらの産業革命直後のものづくりとインテリアの問題を正面から取り上げ、そのインテリアのデザインとマテリアリティを論じることが、(前回の予告と重なってしまうが、今度こそ)次回のテーマである。次回は産業革命からル・コルビュジエのリポラン法に至るまでの、インテリアの驚きの歴史を概観し、ここまでの「インテリア編」の完結としたいと考えている。




★15──その内容は1938-39年度にハーヴァード大学にて行なわれた講義に基づいている。ちなみにギーディオンを招聘したのは、当時ハーヴァード大学の建築学部長を務めていたヴァルター・グロピウスだった。1937年にハーヴァード大学に招聘され、建築学部長となったグロピウスは、ギーディオンにチャールズ・エリオット・ノートン特別講義を2年間任せた一方で、1939年にはそれまで必修だった建築史の講義を3つから1つに減らしている。
★16──Colin Amery, "Art History Reviewed IV: Nikolaus Pevsner's 'Pioneers of the Modern Movement', 1936", The Burlington Magazine, vol. 151, no. 1278, Sep. 2009, pp.617-619.
★17──ペヴスナーは次のように主張する。「しかしル・コルビュジエは、戦前のことを扱っている書物ではほとんど問題にならない。彼自身は自著の中で、先覚者の一人であったかのごとく見せかけようとしているが、彼は初代の先駆者たちの中には含まれない。ドミノと称する彼の集団住宅は、全部コンクリートで建てられるはずであったが、そのデザインは確かに大いに進歩的である。しかしそれは1915年のことで、しかも1916年には、未だに大戦前にペレまたはヴァン・デ・ヴェルデが到達していた段階にも達しないような個人住宅を建てて、平気だった。歴史家は、この点を強調しなければならない。何となれば、ル・コルビュジエは、一部は彼の立派な芸術的想像力にもよるが、一部はある種の自己宣伝にもよって、近代運動の創始者の一人かのごとく思われているからである」──ペヴスナー『モダン・デザインの展開 モリスからグロピウスまで』(白石博三訳、みすず書房、1957)118-119頁
★18──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』94頁
★19──彼が初代校長を務めたバウハウスが最後の校長ミース・ファン・デル・ローエの下で閉校したのは1933年である。
★20──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』第二版への序、2頁
★21──1949年のMoMAからの再版以降も本書は、1960年にはPenguin Booksから再版され、2005年にはYale University Pressから再版されている。他方、ギーディオンの『フランスの建築──鉄骨と鉄筋コンクリート』は、20世紀末になってようやく再注目されたようだ。本書は、英語翻訳版が1995年に刊行され、2000年にはドイツ語版の再版とフランス語翻訳版が出版されている。20世紀末になってギーディオンの『フランスの建築』が再注目されたことは、建築界の「構築」への関心と結びついているといえるかもしれない。
★22──ハリー・フランシス・マルグレイヴ『近代建築理論全史 1673-1968』(加藤耕一監訳、丸善出版、2017)429頁。
★23──https://www.asahibeer-oyamazaki.com/tokubetu/38588/。下線は引用者。
★24──ニコラウス・ペヴスナー『モダン・デザインの展開』7頁
★25──前掲書、31頁
引用部分において[ ]は筆者が加筆。



加藤耕一(かとう・こういち)
1973年生まれ。西洋建築史。東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。博士(工学)。東京理科大学理工学部助手、パリ第4大学客員研究員(日本学術振興会海外特別研究員)、近畿大学工学部講師を経て現職。主な著書=『時がつくる建築──リノべーションの西洋建築史』(東京大学出版会、2017)、『ゴシック様式成立論』(中央公論美術出版、2012)、『「幽霊屋敷」の文化史』(講談社現代新書、2009)ほか。訳書=P・デイヴィース『芸術の都 ロンドン大図鑑──英国文化遺産と建築・インテリア・デザイン』(監訳、西村書店、2017)、H・F・マルグレイヴ『近代建築理論全史1673-1968』(監訳、丸善出版、2016)、S・ウダール+港千尋『小さなリズム──人類学者による「隈研吾」論』(監訳、鹿島出版会、2016)などがある。


201808

連載 アーキテクトニックな建築論を目指して

第12回:大変動の時代の建築第11回:建築の「時間デザイン」と「メンテナンス」という哲学第10回:マテリアル・カルチャーとテクトニック・カルチャー第9回:20世紀様式としてのフレーム構造第8回:西洋建築史に見る鉄のテクトニクス第7回:仕上げのテクトニクス、表層のマテリアリティ第6回:歴史のなかで、コンクリートの尻尾を掴む第5回:21世紀のアール・デコラティフ(後編)第4回:21世紀のアール・デコラティフ(前編)第3回:建築史学の現代性第2回:マテリアリティとは何か?第1回:素材と構築が紡ぐ建築史
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