不寛容化する世界で、暮らしのエコロジーと生産や建設について考える(22人で。)

塚本由晴(建築家、アトリエ・ワン主宰)+中谷礼仁(歴史工学家)

地球環境のエコロジー、livelihoodのエコロジー

編集──「10+1 web site」では、2009年12月号、2012年4月号で、塚本由晴氏と中谷礼仁氏による「ゼロ年代の建築的状況をふりかえり、現在とこれからを考える(極私的に。)」「転換期における建築家の存在、歴史家の役割」を掲載してきました。お2人のアンテナを通じて、建築や都市、われわれをとりまく環境の変化や更新について考える会として、本日はその3回目を行ないたいと思います。前回から5年近く経過するものの、まだ私たちは前回語られた「転換期」のなかで模索を続けているように感じます。今日はそこに明かりを差す思考を受け取りたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

中谷礼仁氏
中谷礼仁──よろしくお願いします。つい最近の話題から始めましょう。昨日、米大統領ドナルド・トランプの記者会見をテレビで見ましたが、10年前には当然の前提と思っていた「平和主義」という概念がかなり相対化されてきた感慨を覚えました。それどころか、いまや「寛容」という言葉さえ歴史の彼方に去りゆく運命にあるのではないか。昔、友人から「近代とはまず何よりも、寛容の発見の時代である」という言葉を教えてもらい、いい言葉だなと強く印象に残っているのですが、寛容さが突き崩されていく現状を目の当たりにして、自分のやることをそれなりに意味あるものにしていきたいという現状認識があります。というわけで、自分がいいと思っていたやり方や目標を、現状に突き当たりながら鍛えなおして、明るく生きる方法を考えてみたいと思っています。
例えば極端な例ですが、1週間後に人類の歴史が終わるとしましょう。すると自分はその一週間をどう過ごすかなと考えます。でも、いまさらお金儲けても使いみちがないし、何か社会をびっくりさせるようなことをやってもいまさら意味があるわけでもない。すると結局、これまでの日常をより磨きをかけてきちんと続けるしかないんじゃないか。朝起きてお茶を飲んで大騒ぎの新聞記事を横目に庭を眺めて......、という日常のサイクルは変えようともしないだろうと。あ、最期の旅はやってみたいかな。そういうところから、自分の動いている基準をトレースしてみたい。

塚本由晴氏
塚本由晴──最初のとっかかりとして、「明るさ」というのはいいテーマかもしれませんね。アトリエ・ワンの年始表明で、「今年はもっと明るくやろう」という話をちょうどしたところです。これまで地味なことは十分極めてきたから、このあたりでアトリエ・ワンもイメチェンしようと(笑)。中谷さんが言われたように、最近は平和をはじめとしたいろいろな概念装置が賞味期限切れになりつつある。平和もそうですし、「自然」もそうですね。そうした従来の概念装置がガラガラと崩れていって、次をどうするか考えないといけない時期に差しかかっている。
能作文徳さんは東工大で私の研究室の助教をしてもらっていて、新しい自然概念について理論的にも実践的にもいろいろな角度からアプローチしている若い建築家です。こういう最近の動向についてはどう考えていますか。

能作文徳氏
能作文徳──まず平和については、平和という概念そのものが賞味期限切れになったというよりも、経済の停滞によって「パックス・エコノミカ」という経済による平和モデルがうまくいかなくなっているのではないでしょうか。だから経済による安定性とは違う意味での平和を考えないと、世界の平和が保てなくなるのではないかと思います。
それから自然について言えば、地球環境問題というのは、30年くらい前までは専門家が考えるべき問題だったわけですね。それがいまや誰もがそこに巻き込まれていて、建築で言えば、断熱性を上げるとか太陽光パネルを取り付けるといった意識や行動につながっている。逆に言えば、断熱性の低い建物を設計するということにすら、僕たちは罪悪感を感じ始めている。地球温暖化の影響が実際に表われることによって、たとえば消費者はエコ商品を購入することで、自分も地球のために何かしているという感覚になります。企業からすれば、エコ商品を生産し、購買意欲を高めて供給しようということになる。また、消費活動だけでなく生活のしかたをエコロジカルに見直す動きも出てきています。そういう意味では、エコロジカルな目覚めというものが全体的に芽生え始めてきたと感じています。

塚本──しかし、それは同時に、断熱性の低いそれまでの建築の居場所を奪うことにもなるわけで、身の回りのエコロジーという意味では寛容でなくなっている部分もありますよね。以前は住めたものが住めなくなっているわけですから。ようするに建築スペックのジェントリフィケーションみたいなことが起こっている。
最近、集合住宅の設計をしたのですが、現在はアパートもスペックがどんどん高くなっている。東京の下町にあるような低家賃の木賃アパートみたいなものはどんどんなくなっているわけですね。そうなると、そういうところに住んでいた人たちはどこに行けばいいのか。1970年代につくられたコンクリートの建物が格落ちしてくれればいいんだけれど、そこまでは価格も落ちないので、徐々にその人たちの居場所がなくなるわけです。ですから、東京でアトリエ系の建築設計事務所で働きたいと思っている若い人たちは、実家が東京や神奈川の通勤圏にある人を除いて就職しにくくなっている。ゼネコンや大手設計事務所にいくしか選択肢がないということになってしまう。地球環境のエコロジーだけでなく、そうした身の回りのエコロジー、livelihood(暮らし)のエコロジーというものもあると思うんですね。
地球環境のエコロジーについては企業が自分たちのプロモーションや宣伝に使って、政府のほうもそれで満足なのでしょうが、同時にそれが見えない圧力になって、そこに乗らないものを駆逐していくわけです。そうした駆逐されゆくものに対する感受性が、livelihoodのエコロジーを考えるうえでは大事になってくる。

中谷──いまの話はわかりやすいですね。オバマにしても、映画『不都合な真実』(デイビス・グッゲンハイム監督、2006)で知られるクリントン政権時の副大統領アル・ゴアにしても、自然環境に対するエコロジー(持続可能なエコノミー)を邁進していた人たちはまさしくエリート、エスタブリッシュメントです。その政策下で、一般の生活レベルになると、即効的には制限令を巻き散らかす。たとえばごみ捨てという行為そのものが一概に悪いわけではなく、以前の田園的環境のなかで自然由来でつくられてきたパッケージが産業由来の素材に変更され、そのまま土に戻しても戻らない。そのような連関構造を基本的に温存させながら、個別の人間の社会的行為に分別を要求するわけです。上層階級と下層階級の生活の仕方の違いや貧富の差がそのまま思考様式や行動様式に反映されてしまう現実があるわけですね。今回の大統領選でトランプが勝った背景には、これまでのエスタブリッシュメントの政治が人々の単純な欲望を潜在的に抑圧してきた経緯があったからでしょう。なにかそれが、不気味なかたちで出てきた。

塚本──トランプはトランプでエスタブリッシュメントですから、単に利用しているだけと私は見ています。トランプ問題でもうひとつ言うと、以前は都市が経済的に潤えば、地方もその恩恵にあずかるというカスケード効果があったわけですね。しかし、グローバル経済はその接続関係をズタズタにしてしまった。いまやインターネットのなかでお金が動いているわけで、大都市間では動いているかもしれないけれど、その周辺にある地方都市は収奪されるだけで恩恵にあずかれない。だから、最近のまちづくりは、地元でお金を回す方法を考えようとしているわけですね。
トランプが選ばれた背景にはこういう動きがある。それまでは都会の言うことに従っていたほうがトクだという気分がなんとなく共有されていたわけですが、都会はもう信用できない、都会に希望はないということを都会以外に暮らす人がはっきりと示したのが今回の大統領選ではないか。周辺に暮らしている人たちのほうが中央のことがよく見えている。この動きは今後どんどん日本にも波及するでしょう。

livelihoodのなかのbuildinghood、生物多様性の建築

中谷──そのときに大事なのは従来の見方、方法で動くのではなく、別の方法に置き換えて説明することですよね。ちょっと話が飛ぶかもしれませんが、今日は塚本研究室で生物多様性の建築をやっている林咲良さんが来られています。2015年に建築学会大会で「『生物多様性に配慮した建築』における複数の配慮の統合」を発表されました。それは人間たちがほかの生物の力を借りて生きていくためにつくられた建築です。僕としてはこういう流れが建築計画のなかから出てきたのか、よくやってくれたという感じだったんですが、みんな引いていましたよね(笑)。そもそも生物多様性の建築をやろうと思ったきっかけは何だったんですか。

林咲良氏
林咲良──東工大の塚本先生の研究室で博士課程に所属している林咲良と申します。私は出身が岐阜で、道ばたにはバッタやカタツムリがいたり、家の雨樋には鳥が巣をつくっていたり、身の回りにさまざまな生き物がいるような環境で育ちました。ところが、東京に来てそういう生き物をまったく見かけなくなったという実感があります。加えて、建築をつくるときには、そうしたものを排除していく思考すらあると感じていて、それって悲しいなというのがそもそもの研究のモチベーションになっています。排除されつつあるものたちの側から建築を考えていくと違う価値観が見えてくるんじゃないか──そういう思いから、生物多様性の建築というテーマに着目しました。昔は暮らしのなかで生き物を人間の生活の一部として使っていた部分もあるわけで、それを見ていくことで建築の側からフィードバックできる部分もあるのではないかと期待しています。

塚本──中谷さんはインド、ネパール、トルコ、ギリシャ、チュニジア、モロッコ、インドネシアほか、「プレートテクトニクス境界」に行かれてますよね。そのときにそういう事例をたくさん見たんじゃないですか。

中谷──そうですね。もとはといえば、プレート境界で起こった東日本大震災の出来事がネガティブになりすぎているので、ほかのプレート境界の人々の生き方も見てやろうと思って始めたのです。旅行中、生活と建設行為がすごく近い関係にある暮らしの状態をたくさん見ました。それをlivelihoodならぬbuildinghoodという造語で考え始めたのが、9カ月間の旅で最初の頃に遭遇したインドの高山地帯のウッタラカンド州での経験です。僕が泊まっていたゲストハウスが面白いところでした。そこではさまざまな村落共同体についての学習プログラムがありました。そのプログラムに参加していたアメリカからの大学の社会学の教授が、学生に向かってさかんに「livelihood」と言うんですね。調べると「暮らしぶり、生計のたて方」のことだと。ああ、そういう言葉はいいなと思って村を見て歩いていたら、建物が生産と密に連関していることに気がつきました。たとえば、切妻の薄い石屋根の上に牛が食べる干し草を干しているんだけど、それがものすごい量でこんもりと盛り上がっている[fig.1]。あれは絶対、断熱効果もあるはずだ、とか。そういう感じで住居とか生業にまつわる工作物が連関していて、livelihoodのなかにbuildinghoodがあることに気づいたわけです。たとえば、段々畑をつくるにはどうするのかと聞くと、まず岩盤の地層を起こす。そうすると石の壁を積んで、屋根を葺いて、家になる。その岩盤の跡地に、柔らかい土の層が露出している。するともう畑のベースができている(笑)。それでそこにアーモンドを植えたりしている。その地域の層は脆い岩盤層と土の層がミルフィーユみたいに重ねられていて、みなその地層のレギュレーションに従いつつ、生きているわけです。つまり家の層、畑の層がすでに大地に内在している。
また、マツの木の枝払いをする際、枝の切り方が中途半端なんですね[fig.2]。日本だと枝の節が残らないようにしますが、その村では15cmくらいの枝を残しているんです。なんでそんなことをするのかと思ったら、そこをハシゴにして人が登って、高いところの木を切っているわけです。「それをどうするの?」と聞いたら、燃料にするんだと。マツの葉を木に登って取りに行くから、とってしまった部分の枝は少し残してハシゴの機能を持たせる。つまり松が生きたまま建築的工作物にもなっているわけです。そういう連関が環境をつくっている。雑誌『科学』(岩波書店)で一年間連載してきましたが、ようやくこの3月に『動く大地、住まいのかたち──プレート境界を旅する』(岩波書店)として刊行されます。
ですから、livelihoodとbuildinghoodがエコロジカルな関係をもっていて、そこには動物などの生き物も入ってくるわけです。そういう視点で言うと、生物多様性の建築は非常に意味があると思ったんですね。つまり、エスタブリッシュメントされたエコロジーではなくて、日常のふるまいのなかから出てくるエコロジーとして。

fig.1──屋根の上の干し草。ウッタラカンド州モナ村にて。[写真=中谷礼仁]

fig.2──中途半端に枝払いされた松とナンダ・デヴィ山(標高7,816m)[写真=中谷礼仁]

塚本──中谷さんは『科学』という雑誌でbuildinghoodについて書かれていて(「Buildinghoodへの気づき」『科学』2015年5月号所収、ほか)、面白く読ませていただきましたが、だけどそれらを分ける必要はあるのかという疑問もあります。生き物や自然物、人工物、さまざまな事物の連関のなかに人間が生きていることがインドの村のlivelihoodの魅力になっているのだとしたら、そこでbuildinghoodを取り出してしまうと、産業的囲い込みに近いものになってしまうのではないかという危惧がある。

中谷──その点に関しては大丈夫だと思っています。buildinghoodとはlivlihoodのなかで、そのベースのような位置を占めています。たとえば鳥が止まるためには止まり木が必要です。逆に鳥がいなくなったら止まり木は止まり木になりえない。人間も同じで生活するためには、寒暖を調節し雨に濡れない場所が必要になってくる。石が多く産出すれば石積みになるし、平地の粘土層だったら固めて煉瓦にしてドームをつくる。そういう場所と素材として適切なものをふまえてつくるというのは、非常に基本的な営為です。それをふまえるなら、buildinghoodはタイプとして取り出せるはずです。ですから、僕は生物多様性を保持する建築のかたちというのは十分ありうると思っていて、ヴァナキュラー建築のなかには当然ある。でも、そういうことが都会でもあれば面白いなと思って、林さんに聞いてみたかったんです。

201703

特集 タクティカル・アーバニズム──都市を変えるXSサイズの戦術


『Tactical Urbanism: Short-term Action for Long-term Change』イントロダクション
路上のパラソルからビッグ・ピクチャーへ──タクティカル・アーバニズムによる都市の新たなビジョンとは?
「合法的」なゲリラ的空間利用──愛知県岡崎市「殿橋テラス」の実践から
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