「NIMBY」はどのように考察されるべきでしょうか?

大澤真幸(社会学)

かつては、年配者が、若者の道徳的退廃を嘆く、というのが相場だった。しかし、いまや、逆である。少なくとも、年配の者が、若者をその道徳性に関して非難する資格を失いつつある。ここで念頭においているのは、NIMBY、近年の日本における、軽すぎるNIMBYの頻発である。NIMBYは、"Not In My Back Yard"(うちの裏庭にはやめてくれ)の略語である。その意味するところは、ある施設に関して、一方では、その必要性は認めていながら、他方で、自分の近隣に建設・設置されるのは嫌だと主張する住民、または彼らの態度である。「死活的」とはとうてい言えない小さな問題しか引き起こさない施設に関して、このNIMBY的な態度をとる住民が増加していること、これが、近年の日本の特徴ではないか。近年、各地でNIMBY的な拒否にあっている施設としては、例えば保育園や学校、あるいは公園、精神科の病院、墓地等を挙げることができる。 もし、住民が、その施設を一般に必要ではない──むしろ存在すべきはでない──と考えているのであれば、その施設に反対しても、NIMBYには当たらない。例えば、脱原発を主張している者が、自分の住んでいる町に原発関連施設が建てられることに反対したとしても、これはNIMBYではない。あるいは、施設の必要性を承認している場合でも、施設の配置に著しい不平等があれば、NIMBYとは言えない。例えば、ある沖縄県民が、日米安保条約の必要性を認めながら、沖縄の米軍基地に反対していたとしても、これはNIMBYではない。日本の全面積の1%に満たない沖縄県に、日本に置かれた「米軍専用施設」のおよそ3/4が集中している。これは、不公平と言わざるをえない。
NIMBYは、「正義」の条件を満たさない主張である。ある考えが、正義の概念として適格であるための必要条件(のひとつ)は、「反転可能性」テストにパスすることである(井上達夫による)。「反転可能性」テストとは、その主張を、他者の立場や視点からも支持しうるかどうか、自分の立場・視点と他者の立場・視点とを反転させても支持しうるかどうか、ということだ。
NIMBYの人は、その施設の必要性は受け入れている。それなのに、自分の家の近くにあるのは嫌だという。このことは、言い換えると、他人の家の近くにあるならば賛成だ、と大声で言っているに等しい。誰か他人が犠牲になるのはよいが──というより誰か他人が犠牲になるべきだが──自分が犠牲になるのは嫌だ、というわけだ。視点を反転させると、同じ主張(「この施設を建設すべき/すべきではない」)が維持できないのだから、これは、「反転可能性」テストに不合格だということになる。
だから、少なくとも、NIMBYを訴える人は、自分たちの主張が、他人から広範な共感を得られることはない、ということは覚悟しなくてはならない。NIMBYは、彼らが「嫌だ」とみなしているその施設を、まさにその他人に押し付けたい、という主張だからだ。私が苦痛を感じるのは断固拒否するが、他人が苦痛を感じるのはよい、と言っていることになる。




確かに、ある施設は、その近辺に暮らす人が一般に「迷惑」とか「不快」とかを感じるような副産物を伴っている。騒音があるとか、危険度が増すとか。そうであれば、そんなものが近くに来て欲しくないと拒絶するのは当たり前ではないか、......そのように思うかもしれない。NIMBYの人は、実際、そのように考えているだろう。NIMBYの騒ぎを外から見ている人の多くも、そう見ているかもしれない。
しかし、必ずしもそうではない。そうではない、ということを示す、印象的な事例をひとつ紹介しておこう。スイスのことである。
スイスは、原子力エネルギーに大きく依存している。そのため、どうしても放射性廃棄物の貯蔵場所が必要だった。だが、それは危険で、たいへんな迷惑施設になる。このことは、スイスの人々もよくよく自覚していたので、どこにそれを置くかについては大激論になった。
検討の末、スイス中央部の人口2千人程度の小さな寒村が、有力な候補地としてあがってきた。最終的に廃棄物の貯蔵施設をそこに建設するためには、スイス連邦議会での決議と、その村の住民投票による承認とが必要だった。1993年、この問題をめぐる住民投票の前に、数人の経済学者が、村民の意識調査を実施した。彼らは、村民に質問した。「もし連邦議会がこの村に放射性廃棄物処理場を建設するのが望ましいと決定したら、あなたは住民投票で処理場の受け入れに賛成票を投じますか」と。結果はぎりぎり過半数の住民(51%)が、賛成票を投ずるだろう、と回答した。
ここまでは、どうということはない。興味深いのは、次のステップである。調査に入った経済学者たちはさらに次のように質問したのだ。「もし連邦議会が廃棄物処理場の建設を提案するとともに、村民一人ひとりに補償金を支払うことを申し出たとしましょう。そのとき、あなたは提案に賛成しますか」。
その施設を村に設置すれば、村の住民は全員、補償金をもらえる、ということになったらどうか。そのように質問しているわけだ。当然、ますます受け入れてもよい、という人の数は増えるだろう。
と、思いきや! まったく逆だったのである! 処理施設の受け入れに賛成するという人の数は、半減してしまったのだ(25%)。
どうしてだろうか。日本のどこかで同じ調査を行なえば、絶対に、逆の結果が出ていただろう。実際、日本の現実がそうなっている。つまり、国からの交付金がもらえるならば──あるいはもらえるから──原発関連施設を受け入れましょう、と。日本人の態度は、わかりやすい。施設がもたらす「迷惑」を、交付金や補助金で補償してくれるならば、施設の設置を受け入れよう、というわけだ。しかし、スイス人の態度は、これとは違った。どうしてなのか。
このスイスの寒村の住民は、迷惑が金銭的な報酬で補われるとすれば、かえって、施設を受け入れたくなくなる、と言っている。これは、究極の反NIMBY的な態度である。この村の住民たちは、次のように感じたのである。
まず、彼らは、(ほかのスイス人とともに)スイスにどうしても原発が必要だと認めている。そうであるとすれば、スイス人の誰かが、処理施設のリスクを引き受けなくてはならない。それは、国民の義務の一部である。つまり、処理場の受け入れは、国民としての崇高な使命である。それは、国民の幸福や福祉の増大に貢献する、善きことだ。ならば、迷惑であっても、受け入れよう、というわけだ。
彼らが、このように感じ、考えていたことの何よりの証拠は、二番目の質問で、つまり「補償金の支払いがあるとしたら......」という仮定のもとで、賛成者が激減した、という事実だ。施設の設置の対価として補償金が出るとしたら、施設受け入れは、金銭的な報酬を目的とした卑俗な行為になってしまう。補償金がないときには、それは、自己犠牲をともなうが、利他的で崇高な行為である。しかし、補償金が入ったとたんに、同じ行為が、利己的な行為に転化する。そうなれば、あえてリスクを引き受けることに意欲がわかない。その行為に英雄的なところは全然なくなってしまうからである。
繰り返せば、このスイスの寒村は、NIMBYの反対の極にある。日本で使われてきた手法、つまり「迷惑施設」が置かれる地域の人々に補助金や交付金を与えることで、不満を除去するという方法は、本当はNIMBYを克服してはいない。それは、NIMBYがあることを前提にし、それを肯定したうえで、住民と、取り引きしているだけだからだ。




どうして、近年、日本社会ではNIMBYが目立ってきたのか。その直接の原因は、はっきりしている、と私は考えている。「直接の」と限定したのは、究極の原因ではない、という趣旨である。ともかく、直接の原因については、それほど深く考えなくてもすぐに思いつく。
それは、日本が高齢化社会になった、ということである。どうして、高齢者が増えるとNIMBYが増えるのか。理由は簡単である。高齢であるとは、残りの人生がそれほど長くないということであり、そのことを本人も自覚しているということでもある。「迷惑施設」は、もちろん、ただ迷惑なだけではなく、それを上回る効用をもつ。しかし、残りの人生が短いとすれば、その効用の恩恵を受ける可能性は低い。それに対して、「迷惑」は、仮に小さくても、施設近辺の住民にとってはほぼ日常のことになる。
例えば、自分の家の隣に保育園が建設されるとしよう。もし自分自身が高齢であれば、自分がその保育園の恩恵を被る可能性は低い。自分の子供も、また孫さえも、そこに預ける必要はもはやない。ところが、園児たちの騒ぎ声は、ほぼ毎日聞こえてくる。こうなると、その人にとっては、保育園は、ただ迷惑なだけの施設になる。




このようにNIMBYが増大する直接の原因は、社会の高齢化(総人口における高齢者の比率の増加)にある。が、これは、究極の原因ではない。もっと深い原因がある。つまり、「高齢化」ということを際立たせる、より本源的な原因があるのだ。その「より本源的な原因」がなければ、高齢者の比率が増したとしてもNIMBYが増えたりはしない。この点を理解するためには、多少の哲学的な洞察を必要とする。
カントが述べていることが参考になる。カントは、あるところで、人間のやっていることには、ある「不可解な謎」がある、と述べている。何が謎なのか。自分が今なしていることによって、自分自身があとで利益を得られだろうとか、幸福になるだろうとか、といった期待があるとき、人が頑張るのは当たり前のことで、ここには謎はない。ところが、人はしばしば、その成果として得られる幸福を享受できるのがずっと後世の世代であって、自分自身ではないことがわかっているような骨が折れる仕事にも、営々と従事する。これは不思議なことではないか。カントは、このような趣旨のことを述べている。
言い換えれば、人間は、ある意味では、「死後の生」を生きるのである。人間は、生物としての死のあとにも、ヴァーチャルな生があるかのように、現在を生きる。ヴァーチャルな生のなかで、人は、幸福になったり、満足したりするのだ。そのヴァーチャルな生の実態は、もちろん、幽霊となった自分自身の生ではなく、将来世代(未来の他者)の生である。
さて、問題は、NIMBYであった。この日本において、高齢者の増大がNIMBYの増大をもたらしているのは、日本人の感覚のなかに、その死後にも続く「ヴァーチャルな生」がないからだ。
自分が死んだあとを生きている後の世代が、この施設によって幸せになる。それによって、私も幸せになる。このように感じると想定されている〈私〉は、じつは、死後のヴァーチャルな生を生きている。そのような〈私〉が機能しないとき、人はNIMBYになる。
すると、問うべきことは、次のことにある。死後の生、死後にも死なないヴァーチャルな生へのなまなましい実感を蒸発させたものは何なのか。何が、そのような想像力を衰えさせているのか。これは社会学的な問いである。


大澤真幸(おおさわ・まさち)
1958年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。社会学博士。千葉大学文学部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授を歴任。著書=『身体の比較社会学』(勁草書房、1990)、『虚構の時代の果て──オウムと世界最終戦争』(筑摩書房、1969)、『不可能性の時代』(岩波新書、2008)、『夢よりも深い覚醒へ──3・11後の哲学』(岩波新書、2012)、『ナショナリズムの由来』(講談社、2007)、『〈世界史〉の哲学』(講談社、2011-2015)、『自由という牢獄』(岩波書店、2015)、『可能なる革命』(太田出版、2016)、『日本史のなぞ──なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』(朝日新書、2016)ほか。http://osawa-masachi.com


Thumbnail: Yiannis Theologos Michell / adapted / CC BY-SA 2.0


201701

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