「オブジェクト」はわれわれが思う以上に面白い
メタ・スタビリティと結晶化の萌芽
- エリー・デューリング氏
このときの「メタ(Meta)」は、どういうニュアンスのものだったのか、できればもう少しお聞かせ願えませんか? 「メタ」という用語は、有限のものを超えていくといった、むしろロマン主義的なニュアンスを想起させますが、デューリングさんは多分違う意味で使っていたのではないでしょうか?
デューリング──私の理解では、メタ・スタビリティはヴァーチュアル性と関係があるんです。メタ・スターブルというのは、ヴァーチュアルに多くの異なる状態や、ありうべきスタビリティの水準を含んでしまっている状況です。その意味ではそれは不安定なのですが、私たちは通常不安定さということの意味についてとても貧しい概念しか持っていないのです。基本的に私たちは、あるものがしっかり固定されていなくて、落ちたり壊れたりする危険があるとき(たとえば、壁に絵がゆるく固定されているとか)に使うのです。シモンドンの場合は、諸々の状態がヴァーチュアルなかたちで重ねられたものを扱うことになります。一つの簡単なモデルは、ある溶液を「液体」から「個体」へと変化させる、結晶化のプロセスの類でしょう。ほんの小さな差異、シモンドンが「結晶化の萌芽」と呼んでいるものを導入するだけで充分なのです。ある非常に小さな差異が、システムの全体もしくはある安定性の形態を崩壊させ、まったく違うものにしてしまうわけです。ここには局面や状態のシフトといったものがあります。ある液体が氷になる。したがってここには、さまざまな異質な次元にむけてすぐさま発展してゆく、きわめて敏感な可能性の空間があるわけです。
清水──すると、形而上学(メタ・フィジックス)という場合のメタも、同じようにフィジックスからヴァーチュアリティへと潜行し、異なる様態を産み出すものと考えることができるでしょうか? デューリングさんのテーマには、メタ・フィジックスというものもあると思いますが、そこでのメタについてはどうですか?
デューリング──それは面白い。メタ・フィジックスをメタ・スタビリティの意味において考えたことはなかったなあ! 伝統的に、アリストテレス的には、ある意味でメタ・フィジックスは自然学を超える(メタ・フィジックス)ということですよね。自然学の根底にある仕事として、それは自然学の後にやってくるのです。しかしシモンドン風にメタ・フィジックスを読むというのは面白い。メタ・スターブルな存在論が得られるし、それは実際に、彼がやっていたことですから。──多種多様なレヴェルのリアリティ、発展のリズムなどのあいだで、脱局面化もしくは局面のシフトを経て新たな差異を産み出しながら、存在がそれ自身のうちでいかに絶えず局面をシフトしてゆくかを説明しながらね。おそらくデスコラの面白さもそこにあって、あなたはそこにオントロジーの領域におけるメタ・スターブルな状態を見ているのでしょう。あるオントロジーから別のオントロジーへとシフトし続ける、オントロジー的な枠組みの多様性がある、というわけです(ナチュラリズムからアニミズムへ、トーテミズムとアナロジズムを経て、そして違ったふうに戻って......という具合に)。
柄沢──今までの話をまとめると、プロトタイプとは、有限の作品(オブジェクト)の中に複雑なネットワークが埋め込まれ、そのネットワークの複雑さはオブジェクトの外部に対して、さまざまな角度からの視点の存在を喚起する。その視点の多様さは、それこそ無限といってもいいでしょう。この意味で、かつての有限と無限をめぐる問いに一つの回答が与えられている。オブジェクトは単体でありながらも、そこには無限の可能性が内包されているし、そこから無限の可能性が派生することになる。あたかも一つの空間が、一つの空間であるにもかかわらず、そこから空間が多様に枝分かれしながら無限のネットワークが発生してゆくような空間のイメージをデューリングさんの「プロトタイプ」論は提示しているということですね。「プロトタイプ」はネットワークの基点だと言うこともできますね。清水さんがおっしゃられるミシェル・セールの「幹-形而上学」も、あたかも一つの幹細胞がさまざまな身体の部位に分岐しつつ変化を遂げて「一と多」を繋いでゆくというイメージが、デューリングさんの「プロトタイプ」の議論とどうやら深く共振するようです。
私たちはそのような枝分れしつつ変化を遂げてゆく新しい空間のイメージの中に、建築、哲学、そしてその他のさまざまな分野においても、すでに立ち入っているということだと思います。そしてデューリングさんの意見では《s-house》はそのような意味での「プロトタイプ」をまさに実際の作品(オブジェクト)、空間、建築として立ち上げているとおっしゃる。今回《s-house》として立ち上がった新しい空間のあり方を通して、デューリングさんの「プロトタイプ」論の可能性と射程がより具体的に、明確になったのではないかと思います。
清水──ずいぶんデューリングさんの考えていることがわかった気がする。講演を何本も聞いたくらい刺激になりました。
21世紀のアート、建築、哲学が向かっている方向
清水──ストラザーンもよく、集団と全体の部分というのは恣意的にしか分けられないといい、共同体をつくるのは「道具」だというふうに指摘しています。「道具」というのは、主体と対象のあいだの曖昧な領域にある存在で、同じ「道具」が社会集団によって、それぞれ違う役割や意味を持っている。集団のリーダーは、そこで「道具」をめぐってポイエーシスをします。──その失われた柄沢──ここで言う「切断」はシャーマンがやっていることと同じですね。
デューリング──ストラザーンも、準-客体理論を使っているんですか?
清水──彼女はラトゥールと同じような時期に、ダナ・ハラウェイのサイボーグ・フェミニズムの議論なども導入しつつ、独自に緻密な理論をつくり上げていったのですが、結果として似たような議論になっていったのです。デ・カストロは、ラトゥールもストラザーンも両方意識していますね。ストラザーンも、主体と対象のあいだにある「道具」に着目し、それが集団のさまざまな種類やスケールを媒介するものでもあるところから、「一と多」の関係へと接続していった。その結果、準-客体論やラトゥールのアクター・ネットワーク論にも通じる理論になったのです。
21世紀の人類学、アート、哲学が向かっている方向が、はっきりしてきたように思います。今回の鼎談でも問題意識が同時代的に共有されていることがよくわかりました。
柄沢──デ・カストロのパースペクティヴィズムの思想におけるパースペクティヴがいくつも並走しながら位置が入れ替わっているという話と、ストラザーンの理論における、さまざまな主体がそれぞれの身体と不可分になった「道具」などを用いて柔軟に世界を分節し、構造化しつつ、場合によっては図と地が反転を遂げてゆくという理論の構成は、非常に似ていますね。
デューリング──多様なパースペクティヴにとって、なにが共通の空間とみなされるのか、なにかお考えをお持ちですか? あなたは〈グローバル〉という問題に、どのようにアプローチされるんですか?
清水──僕はそれを、「一と多」という場合の、一の側から考えようとしているんです。つまり、個別なものの側から、実際には同じものである普遍が考えられないかと思っています。先ほども触れた純粋経験の理論を導入することで、人類学的な事例といったことだけではなく、あらゆる経験にまで議論を拡張し、多極的なものとしての世界を考察したい。ジェイムズも晩年には、「多元的宇宙」について書いていました(A Pluralistic Universe, 1909)。
デューリング──「ラディカル・エンピリシズム(Radical Empiricism、根本的経験論)」というやつですね。
柄沢──グローバリズムのこれからのあり方について考えるひとつの方法として、ひとつの普遍的な考え方によって統合される世界のイメージではなく、ありとあらゆる類いの個々の中心的な空間として細かく世界を分断したうえで、それぞれの世界が多様に部分的なつながりを有する世界像へと置き換えてゆくという方法がありうると思います。そこでは、かつての近代までの普遍的な思考に基づくグローバリズムのような一つの関係性や考え方によるつながりではなく、細かなありとあらゆる関係性や考え方が縦横無尽に選択的に集団を繋げている。今後のさらなる情報技術の進展も相俟って、物理的な距離の長短も超えて、これらの細かな部分的なつながりは錯綜した距離の関係を持つことでしょう。
デューリング──そうすると私たちは、〈グローバル〉なものをどのように取り戻すことになるんですか?
柄沢──非常に難しい課題ですね。
デューリング──哲学も人類学も、ハイブリッドなオブジェクトについて検討していますが、結局のところ私たちには、多種多様なローカルなパースペクティヴが配分され、悪くすると還元されてしまうようなコモンスペースを前提としない、グローバルの像というものを回復する必要があると思います。ラトゥールが最近〈ガイア〉に熱中しているのも、この問題に取り組む一つの方法だからです。彼は、グローバルは場所から場所を媒介することによって、ローカルに再構成される必要がある、さもなければ、それ自身問題を抱えた全体性や普遍性の違う像に巻き込まれて、WWWのプラネット・アースのようなハイパー・オブジェクトと関わり合い、痛い目を見ることになるぞ、と言うのです。
- fig.19──ミシェル・セール
『自然契約』
(及川馥+米山親能訳、
法政大学出版局、1994)
デューリング──そうですね。セールは似たようなことを20年前に語っていました。面白いですね。
柄沢──その点でも身体性は非常に重要ですね。身体をまるで人間から拡張された道具のように扱うということの可能性です。言語や身体をどのように扱うかは文化体系によって異なりますが、身体の本質そのものはたいして変わらないので、身体性に深くアプローチすればそこから広範なコミュニケーションの基盤だったりネットワークやコミュニティをつくる契機を産み出すことができると思います。
清水──それは道元が語った、鳥と一体化していながら、それ自体の無辺際な拡がりを持ってもいる「
柄沢──デューリングさんは形而上学をメタフィジック「ス」だと、複数性として捉えていますね。しかし実際には、そのような複数性とは大きく異なるかたちで、今までの近代社会において、そして今日の世界においていまだにヨーロッパ中心主義的な単一の形而上学が席巻している事態、事実が最大の問題ではないでしょうか。
デューリング──そうですね。フランス大学出版局(PUF)で僕が共同監修しているシリーズは「MétaphysiqueS」というもので、大文字のSが最後についているんですよ! 柄沢さんが仰っているのは、形而上学を人類学のパースペクティヴから再検討すべきだということですか。あるいはナチュラリスト的な立場からということ?
柄沢──形而上学というのはちょっと言い過ぎですね。考え方、あるいは「ハビトゥス」でしょうか。ハビトゥスは多様であるべきです。形而上学もハビトゥスのひとつであって、ヨーロッパ中心主義的なハビトゥスが長いことはびこっているところが問題だと感じます。
清水──でも僕は、主体と対象や「一と多」といった問題は、ヨーロッパ的な観点で考えていくことが必要で、仏教やアニミズムがどんなものであったかも、むしろそれによって明らかになってくると思います。西田についてもそれは言えるんじゃないか。西洋と東洋の思想を、両方ミックスしないといけない。大事なのは、さまざまな思考を合流させて、自分自身でポイエーシスするということだと思います。
柄沢──ハビトゥスというのは、ツールをどのように使うのかという問いだと思います。多様な異なる構造がないといけない。
清水──構造ではないんじゃないかな?(笑)
デューリング──おそらくは異なるオントロジーでしょうね。しかし〈構造〉という語に、普遍的な意味を与えたくないのだったら、これらの異なる枠組みをどう説明したらいいのか......。これは難しい問題ですね。
柄沢──でも主題は同時性ということですね。
デューリング──いずれにせよ、私の主な哲学的関心は、多様性と同時性とのあいだにある関係です。今、漂う時間(Floating time)についての本を書いていますよ。──流れる(Flowing)ものとしての時間ではなく、むしろ漂う(floating)ものとしての時間、という意味です。先に説明したように、拡張された同時性というレンズを通して、時間が定義されるわけです。それは基本的には、共在についての本であり、アートや建築や哲学が、この問題をどのように採り上げているかについて書いたものです。この本では、桂離宮のような、日本の漂う空間の多様性についても取り組むつもりです。藤幡正樹のようなメディア・アーティストもちょっと出てきますよ。そしてあなたの《s-house》についても、間違いなく一節書くことになるでしょう! 今日、私たちはそれぞれの特殊な領域の観点からディスカッションしましたが、多くの部分が重なり合っていることが分かってとても嬉しいです。実り多いディスカッションでした。
清水──僕も今日は大変刺激を受けました。今世紀のアート、建築、哲学、人類学の動向がどんな方向へ向かっているのか、かなり核心に迫るディスカッションができたと思っています。この鼎談は、日本でこれから本格的に紹介が始まるであろうエリー・デューリングの思想の全体像を知るための、格好の資料にもなるでしょう。柄沢君が設計した《s-house》の思想についても、縦横に語られましたね。新しい〈グローバル〉、ラトゥールの〈ガイア〉のような新しい土壌をいかに再び取り戻すか、という問題意識にも深い共感を覚えました。とても楽しかった。皆さんどうもありがとうございました。
翻訳=吉田真理子(オーストラリア国立大学博士課程)
[2015年12月15日]
- オブジェクトの中のプロジェクト──反プロセスとしてのプロトタイプ論/有限と無限──同時存在するパースペクティヴ/プロトタイプ・オブジェクトがつくる多極的な世界観
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- 新しいパースペクティヴィズムへ──連動と断絶のトポロジー的探求/個に内在する複数の存在論/「関係」のイデオロギーとハイブリッドの「切断」──アーキテクチャーのプロトタイプ
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