市民社会の建築家・青木淳

倉方俊輔(建築史家、大阪市立大学准教授)

発見可能な「ぶっきらぼう」

遠目に現われた《三次市民ホール》(広島県三次市、2014)の姿は、単なる四角いボックスの集まりで、建築家の作品とは思えなかった。だから、これが青木淳さんの作品だとすぐにわかった。近づけば、これがぶっきらぼうな周辺環境を受け止めた、誠実なものだということが理解できる。建築雑誌の写真のように作品を鑑賞しようと思っても目に入るのは、大河に架け渡された機能的な橋梁の親柱であり、ともに工業化されていながら新建材で煉瓦を装った隣の戸建て住宅とコンビニエンスストアである。それが食い込む市民会館の不整形の敷地は、この場所が歴史的でも、手つかずでもないという経緯を物語る。要するに、語られることにおいてマイノリティで、存在においてマジョリティな敷地なのだ。もちろん、青木さんはここで自らの物語を情感たっぷりに謳い上げるなんてことは、しない[fig.2]

[fig.2]青木淳《三次市民ホール》(2014)、筆者撮影

表も裏もない全方位性は、車でのアプローチをやや戸惑わせるかもしれない。危うく行き過ぎそうになりながら、駐車場に車を入れ、エントランスに向かおうとした私の足は、手前の小さな外部階段で止まってしまった。どぶ漬け亜鉛メッキの無機質な手すりが、なんともカワイイ。手すりというものは決して機能性だけでつくられてはいない。建築をどのようなものだと考えているかという設計者の全体が、そこに現われてしまう。だから、以前『手すり大全』(日経BP社、2008)という本で、明治時代から現代までの24建築の手すりを「必見・東京手すりMAP」として紹介した。その時に困ったのは1970年代後半から1990年代にかけてだった。いわゆるポストモダニズム期だけ、名手すりが欠けてしまうのだ。それを抜け出した現代で紹介したのが、青木淳さんの《SIA青山ビルディング》(2008)だった。さりげないが、配慮されている。ポストモダニズムの多くがそうであるような言葉で語れる理念による細部ではなく、モノにしかできないやり方で全体に貢献していた[fig.3]

[fig.3]青木淳《SIA青山ビルディング》(2008)、筆者撮影

《三次市民ホール》に見出されるのも、そんな手すりだ。この建築の最も大きな空間である大ホールにも、同じ空気が感じられることに、後に私は気付くだろう。そこにあるのは真面目な中堅どころの組織設計事務所が設計したような好ましさである。
考えてみれば、70年代生まれの私と同じような世代の人々は、そうした質と、そこに見出されるユーモアを評価する傾向にある。たとえば、『いいビルの写真集 WEST』(パイインターナショナル、2012)をはじめとするBMC(ビルマニアカフェ)の活動が支持されていたり、拙著『ドコノモン』(日経BP社、2008)もその表われと言える。リノベーションの定着にも同じ「建築家の自意識なんて要らない」という思いが流れている。「空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮」★3を2001年に批判していた青木さんが、自らの仕事でそれを裏切るはずはない。建築は必ずしも時代性から出発する必要はないが、それをしたいと考えるなら、ここから出発するのが王道だろう。そして、要らないのは建築家の思い込みであって、形まで要らないと言われているわけではないのだ。
では、いよいよ建物に入るか、と顔を上げると、今度は目の前に広がるピロティの光景に目を奪われてしまった。何てドボク的で、カッコいいのかと。それはル・コルビュジエが土木構造物を参照してつくったピロティのように初源的に思える。初源的であるから、すでにあるル・コルビュジエの粗野さを装ってはいない。現在の5mの浸水可能性から市民を守るという必要性に応じて高さが決まり、現在の構造技術に応じたスパンで柱が並び、現在の一般人の感覚に応じてそこに最低限の塗装がなされている。社会の要求を素直に受けている。普通でいう「建築家」なら、それができずにジタバタしそうなところを受け流している。勝負どころはそこではないだろうとでも言うように。それがカッコいい。もちろん、そこには壁面の色を微妙に変えたり、目地を調整したりといった繊細な設計者の操作がある。だからこそ、建築はまるで単に率直であるかのように目に映る。
これもまた団地や土木構造物への目線に対応している。私より下の世代は常識的に持っているものだ。社会的に見れば、建築よりも、むしろこちらの趣味の方がマジョリティかもしれない。ところで、ドボクとカワイイの距離は、それほど遠いものではない。ともに媚びてくるようなものではないからだ。そこには共通して、カワイイ物事を発見しているという自分を自分自身が愛おしく思えるような物事を、「一人一人が思い思いに」発見したいという欲望が働いている。そんな市民社会の正しい──と私は判断する──方向性の上で、青木さんは建築家が何をすべきかをわかっている。

まちづくりのようなホール

ここで「建物の見学ですか?」と声をかけられ、他人の力でようやく私は内部へと入ることができた。指定管理者の方に、詳しい説明とともに、表から裏まで見せていただいた。
とはいえ、表も裏もないことが、《三次市民ホール》の特徴である。ホールの周りに回廊が一周し、その回廊はさらに延長されて、スタジオ群に続いている。市民が日常的に使うスペースと舞台裏が連続しているため、役者の控室に一般の人が入ってこないように劇場公演の際に見張りを置く必要があることや、回廊が夏暑くて冬寒いということなどを話す、案内していただいた方の口ぶりは率直で、人間的で、竣工から1年を経た建築がすでに「受け手」の側から語られるものになっていることがわかった。
「受け手」が発見するのは、使い方にも及ぶ。「一周している廊下で、来月からウォーキングのイベントを始めようと思うんです」という言葉は、特に印象的だった。回廊は図式においてわかりやすいが、その経験は単純でない。ピロティで持ち上げられているために、町の風景が遠望できたり、中庭が見えたりと変化に富んでいる。回廊に沿ったスタジオで思い思いに活動している人の間に目線も行き交う。身体を動かすことによって、この街と場への愛着や市民同士の近しさもいっそう増すだろう。[fig.4, 5]歩く人、止まっている人、ひとつの場所で激しく身体を動かしている人......《遊水館》や《大宮前体育館》も、さまざまな動きのスピードを混在させるものだった。ここでもホールのなかに、時にウォーキングの空間を貫入させるなんてことを実現させている。青木さんという建築家は一貫している。

[fig.4]《三次市民ホール》回廊、筆者撮影

[fig.5]《三次市民ホール》回廊、筆者撮影
しかし、この回廊がウォーキングの場所として当初から予定されていたとは思えない。「会議でアイデアが出て、さっそく始めようかと」。説明する方の口調が誇らしげなのは、自発的な行為だからだろう。誰かに言われたのではなく、空間と人の動きを観察して構想した未来を、実現に向かって落とし込んでいる。まるで、まちづくりのようだ。まちづくりは「誰かがつくった」のではなく、「わたしがつくった」と思える人が多い方が成功すると聞いたことがある。この建物を青木さんが「町のようなホール」と形容していたことと重なる。近年の「リノベーションまちづくり」の潮流の先導者のひとりである東京大学の松村秀一さんは、既存ストックの有効活用には「『利用』の構想力」を生かすことが大事だと言う。このホールで発揮されているのは、まさに「『利用』の構想力」だ。建築の形がそれに寄与している。回廊は幅の割に空間が縦に抜けて開放感がある。仕上げの少なさも体育施設を連想させる。《三次市民ホール》は「アトリエ建築家」の作品であると同時に、リノベーションまちづくりのような現在の実践的な空気感と同期している。それはなぜか? 建築家の観念としての目的を打ち出すのではなく、建築の形としての可能性を支えるものとして「建築家」を位置付けているからにほかならない。
スタジオ群も同様である。廊下を挟んだ2つの部屋を借りて一方を控室にしたり、これも貸し出しの対象である廊下や中庭をどう使うかなど、「『利用』の構想力」を使い手に問う構成だ。「問い」は単純すぎると答えが出尽くしてしまう。あまりハードルが高いと利用が困難になってしまう。一見すると何てことないようで、中庸の設定が巧妙な設計だ。

201606

特集 青木淳 かたちってなんだろう


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《馬見原橋》から考える
建築が町にできること
市民社会の建築家・青木淳
論理場としての建築の開放性について
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