経験としての建築研究室
──学んだこと学ばなかったこと、そして考えたいこと

西沢大良(建築設計・都市計画)


西沢大良氏


──まず、学生時代、東京工業大学の坂本研で何を学んだか、同時に「何を学ばなかったか」についてお話しください。

西沢──僕は大学院には行かなかったので、研究室に所属したのは学部4年生の1年間だけでした。その意味では「学ばなかったこと」の方が多かったタイプかもしれないです。大学院に行かなかった理由は、学部4年になって早々に「このまま大学にいても建築家にはなれないな」と思ったためです。周りがみんな大学院に進もうとするなかで、ひとりだけ別のことを考えていたので、坂本さんには奇妙に思われたかもしれません。
当時の僕は、とにかく実務を覚えたいと思っていたのです。何の打算も保身もなく、強烈にそう思っていました。あまりに強烈に思っていたので、周りと違う行動になってしまった。もともと学部3年生の終わり頃、ある技術系の建築雑誌に某若手建築家のインタビューが載っていて、自作を現場用語だけで説明しているのを読んだことがありました。「クライアントがこれこれの作業をするから幅木のチリを3mmでなく6mmにした」とか「予算がないので3×6(サブロク)の端材を出さない部屋の間口と天高にした」とか「コストがないから柱を3寸角にした」といった説明ですが、ほとんど理解できなかったのですね。なんとなくは理解できるけど、アイデアを出せるほどの理解ではない。そんな程度で実作を上手くつくれるわけがない。自分は大学で建築の勉強をしてきたけれど、大学というのは建築を学問するための場所であり、本当に建物をつくる場所とは似て非なるものだと、遅まきながら気づきました。
音楽や美術などであれば、大学が学問をする場所であると同時に、作品をつくる現場にもなりえると思いますが、建築の場合はそうではないのです。建築物の現場、例えば工事現場が学内にないし、工事をまかせられる優秀な職人さんもいない。例外的に多少あるにしても、キャンパスの外の方がいっぱいある。当たり前のことですが、そのインタビュー記事を読むまでそんなことも気づいていなかった。それからは、一日も早く外に出たいと思うようになりました。
大学院の研究室に進むとどうなるかは、先輩たちを見て理解しました。いろんな建築家を言葉でなぎ倒すゼミをやり、それはそれで勉強にはなるのですが、客観的に見ればそれは批評家になるための訓練、あるいは研究者になるための訓練になっている。モノを実現する能力は、修士の2年間で一向に上がらない。ところが学外の設計事務所で出会う若い所員さんたちは、モノを実現する能力を刻々と伸ばしていて、そちらの方が理解できました。
当時の東工大で、モノを実現する能力のあがりそうな唯一の場所は、篠原研の設計室でした。篠原さんは定年直前で、院生たちを全員坂本さんに預けて篠原坂本研という名前にし、自分の部屋で数名のスタッフとともに《ハウス イン ヨコハマ》や《東京工業大学百年記念館》の実施設計をしていました。その部屋は普通には立ち入れない場所で、僕も数回しか踏み込んだことがないですが、何かが起きていることは一瞬でわかりました。モノづくりに特有の雰囲気、自由と緊張の入り混じったような雰囲気があり、建築学ではなく建築物を標的にしていました。当時は、設計チーフが武田光史さんから有泉さんへ移った頃で、その下に高橋晶子さん、加藤奈緒子さんたちが設計スタッフでした。彼らは文科省の研究助手とか研究生とかで、学部生から見ると遥かに上の階級でした。
東工大の学部生は、4年生になると前期に卒業設計、後期に卒業論文をしますが、その2つがなかったら、僕は4年生の4月に大学を辞めていたと思います。卒業設計については、3年生の頃からやりたいことがありました。卒制というのは通常の設計課題と違って、自分で敷地とプログラムを決めます。その能力が建築家にとって必須であることは、ル・コルビュジエやミースのプロジェクトを見ればわかります。だからその能力を磨ける唯一のチャンスである卒制は、プロになる前にやらねばならないと思っていました。卒制が終わった後の夏休み期間も、実は大学を辞めるかどうか考えていたのですが、いままで話してきたことを考えているうちに、論文のモチーフを思いつき、卒論まではやろうと決心しました。
どういうモチーフかというと、当時の大学の建築学科では、建築の図面や模型や写真をつくるというところまでをして、建築物それ自体をつくることをしなかったわけです。いわば表象としての建築と、建築物それ自体とが、明瞭に区別されていたわけです。この区別に焦点をあてれば論文を書けるのではないかと思いました。具体的には、建築写真の分析をしました。建築写真には年代ごとに一種の様式美、ないし形式的な特徴があります。その表象レベルの形式的な変化が、建築物の変化に影響を与えてきたことを実証する、という論文です。

──東京工業大学の教育とはどのようなものだったのでしょうか。

西沢──当時の東工大には、篠原さんがいたために、世界中からいろんな建築家、例えばアドルフォ・ナタリーニやベルナール・チュミ、ピーター・クックやジャン・ヌーヴェルなどが遊びに来ました。すると彼らのレクチャーが、何の予告もなく普通の工学部の教室で行なわれたりしていました。ある日、廊下にエルトン・ジョンみたいな外人が歩いていて、よく見たらピーター・クックだったという感じです(笑)。当時は他の環境を知らないのでなんとも思いませんでしたが、いま思うと恵まれた環境だったと思います。また、設計課題の非常勤の先生方も、現役の建築家ばかりでした。原広司さんや芦原義信さん、あるいは槇文彦さんや倉俣史朗さんなどです。そんな大学も当時はなかったから、これも恵まれていたと思います。
設計の教育について詳しく思い返してみると、当時の東工大では1〜2年生の間は設計課題をせず、トレースや図学やパースだけをしました。3年生になるといきなり現役の建築家6名に、6つの設計課題を順繰りに習います。最後にその成果を4年生の夏休み前に卒制として制作します。ということだから、専門の設計教育は、卒制を入れても1年4カ月、実質的には3年生の1年間だけです。そんな短期間にあんなに濃いメンバーに習うのは、もったいない気もしますが、そのかわり、その1年間の成長たるや、凄まじいものがありました。別に僕だけではないですが、たった1年で猿から人間へ進化するくらいの飛躍があるのです(笑)。おそらく、能力が上がるとは どういうことなのか、身をもって学生に経験させるという教育方針だったのでしょう。これは篠原さんがたぶん考えた作戦でしょう。そういうプラグマティックなセンスのある人でしたから。
それ以外にユニークだったのは、例えば3年生の設計課題の講評会です。課題の成果品を午前中に提出すると、午後から講評会が開かれて、学生の作品を順繰りに講評してくれました。クリティックは非常勤講師の例えば原さんなら原さんと、常勤の篠原さんと坂本さんの、計3名の建築家です。卒業後に気づいたのですが、通常の実施コンペよりもメンツが充実していました。ただ、コンペと違うのは、3名の建築家が、学生の作品をめぐって一種の雑談をするということですね。しかもよく聞くと、互いに違うことを主張していて、まったく空気を読まない雑談なんですね(笑)。3名の意見は互いに矛盾しており、およそ両立不可能なのです(笑)。3名とも他人の意見を無視して、言いたいことを言っている(笑)。静かな物言いではあるのですが、文脈の流れ方が凶暴でした。まるで教室で猛獣が甘噛みしているような講評会なんですね(笑)。困ったことに、3つの意見にはそれぞれ論理的整合性があり、一貫性もありました。3つの意見のどれを重視するかは、論理性で決めるわけにはいかないのです。そういう講評会にほぼ毎月晒されるわけだから、次第にこの世に正解なんてものはない、自分の信じる道を行くしかない、という感覚になるのです。生まれて初めての講評会がそういうものだったことは、すごくありがたいことでした。おそらくあの講評会は、篠原さんと坂本さんが共同で決めたやり方だったのではないかと思います。
それから、偶然の教育効果もありました。僕の学年とひとつ上の学年だけに起きたことです。僕の1学年上には曽我部昌史さん(みかんぐみ)たちがいて、同学年には塚本由晴さん(アトリエ・ワン)がいます。この2学年は、妙に建築家の輩出率が高いのですが、別に優秀な学年というわけではなく、別の理由で輩出率が高くなったと僕としては思っています。篠原さんと坂本さんが同時に在籍していた期間は2年間で、その期間に設計を習ったのがこの2学年です。ただし、2人に丁寧に教わったというわけではなく、むしろ逆なのです。坂本さんが着任してからの篠原さんは、実は学生を丁寧に指導する気はもはやなく、講評会やスライドショーのときだけ出てきて言いたいことを言って去っていくという感じで、われわれ学部生のことなど放ったらかしでした。他方の坂本さんは、篠原さんの元に20年振りに戻ってきて、篠原研の博士や修士も大量に引き受けていて、学部生まで目が行き届かず、やはりわれわれのことは放ったらかしでした。したがって、一種の「権力の空白状態」がわれわれのときだけ生まれることになったんです(笑)。だからこの2学年は、篠原さんのことも坂本さんのことも、実は尊敬していませんでした(笑)。われわれは権力の空白地帯にいて、自由を謳歌していたのです(笑)。知的にも自由だったし、参照する建築や書籍も自由でした。実際、僕の学年は篠原さんから「愚連隊」と呼ばれていて、統率のとれなくなった兵隊のように扱われていました(笑)。でも教育というのは、こと創造性を教える場合は、必ずしも丁寧にやるのがベストというわけではないですからね。
もうひとつ、個人活動として、学外の建築家の反応を知るために行動していました。当時の僕の最大の関心事、つまり実務を覚えられる事務所はどこかを探し当てたかったので、アトリエ事務所の中を覗きたいと思っていたのです。それに、学内で出会う建築家は巨匠すぎるので、若い建築家の反応を知りたかったのです。だから設計課題が終わると、当時の若手建築家、例えば伊東豊雄さんや高松伸さんのアトリエに「タダで働きますから課題作品を講評してください」と言って押し掛けていました。幸い、篠原・坂本のところの学生だと言うと事務所に入れてもらえたので、いろんな事務所の様子を覗くことができました。ある事務所へ行って数週間くらい作業をしていると、「ここでは矩計を書かせてもらうまでに3年掛かりそうだ」などということがわかるのです。

当時は伊東豊雄さんが若手建築家の代表格でしたが、年齢としては40代後半でした。事務所の人数も増えつつあり、実施図を担当させてもらうのに4〜5年はかかりそうでした。それでは遅すぎると思って、もっと年下の30代の建築家を探すことにしました。当時の30代の建築家は、いまと違って、メディアにはほとんど取り上げられないので、篠原研の年長者、助手やドクターに意見を聞きました。坂本さんや伊東さんにも意見を聞いたのですが、不思議なことにみんな「入江経一さんだよ」と言うのです。それでいつもどおり電話をかけて事務所に押し掛けました。
初めて入江さんの事務所を見たときは驚きました。パソコンで変なアニメをつくっているのです。パソコンといっても当時(1984年)は製品自体がまだなくて、パソコンという言葉自体もまだなかったと思います。当時の最小のものはミニコンで、東工大の電算室で僕らが習ったのもそういう冷蔵庫みたいなコンピュータですが、入江事務所で見たのはそれとは違うテレビみたいな立体でした。富士通のゲーム機を自分で改造して、8ビットくらいのコンピュータにして使っているのです。翌年にはアメリカのアップル社のパソコンをもう入手していて、また変なアニメ作品をつくっていました。後でわかったことですが、当時の入江事務所の仕事の比率は1/3がインタラクティブアート、1/3がプロダクトデザイン、1/3が建築の設計でした。ぼくがオープンデスク期間に担当したのもインタラクティブアートが1件、プロダクトが1件、建築の企画書が1件でした。そんなアトリエは初めてでした。
このオープンデスク期間は楽しかったですね。なにしろスタッフが誰もいないので、来た仕事をいますぐ担当させてもらえそうなのです。製図板も余っていて、オープンデスクなのに机をもらえました。ここはパラダイスかって思いました(笑)。それで、1年近くオープンデスクをした後に、建築の仕事をすべて担当させてくださいと入江さんにお願いをして、そのまま所員になりました。
その後入江さんの事務所には7年半いることになったんですが、その期間の建築はすべて担当させてもらえたので、あらゆる種類の建物を経験することができました。住宅から公共建築まで、施主も個人から大企業から自治体まで、構造もS造からRC造まで。木造だけは基本設計までしかできなかったんですけどね。あるいは建築以外も、大きな展覧会の会場構成を、国内で2〜3件、海外で3件くらい担当しました。学生時代にやりたかったことをすべて経験できたので、とても幸運な修業時代だったと思います。


研究室の書棚には、授業で言及した文献が学生たちによって蒐集され陳列されている。

──西沢大良研究室がスタートして一年経ちますが、現在研究室で教えていること、教えていないことは?

西沢──建築の実務は教えてないですね(笑)。昔の大学よりは教えやすい環境にありますが、僕はいまの大学には別の可能性を見ています。
僕が教えているのは、学部では近代建築、大学院では近代都市ですが、どちらも近代建築と近代都市の「欠陥」について教えています。というのも、それらの欠陥を克服した「次の都市」と「次の建築」を実現することが、21世紀の最優先課題だからです。この問題については、『新建築』で「現代都市の9か条──近代都市の9つの欠陥」という論文を4年前に書いたことがあり、それが元になって大学に呼ばれたようなものです。近代建築の「次の建築」だけでよいならば、設計事務所でもギリギリなんとかなるかもしれないですが、近代都市 の「次の都市」となると、大学以外に実現方法を編み出す場所は考えられないと思います。
僕の所属している芝浦工業大学の建築工学科では、生産にしても環境にしても計画にしても、実社会の一歩先を行くような内容を教えています。半世紀前の建築学科、つまり60〜70年代の「近代建築学科」で教えていたような授業がほとんどない。いわば近代の「次の都市」と「次の建築」について、実社会の一歩先で追求しているような場所です。そういう先生方が集まっているので、もしかしたらいままでにない学科になれるかもしれないと考えています。まだどんなカリキュラムにすればいいかなど、よくわかっていないこともあるので、学科の先生方に助けていただきながら、なんとか進んでいるという状況です。
ちなみに、歴史的に言いますと、建築が真の意味で変化するとき、それに先立って都市の変化が必ず生じてきました。「都市の変化」とはこの場合、「都市の悪化」という意味です。近世都市がスラムなり公害なり疫病なりで悪化したあげく、そうでない次の都市(この場合は近代都市)を編み出さざるをえなくなり、その最終的な帰結として近代建築が登場した、といったことです。現在日本中に広がっている近代都市は、その意味での「都市の悪化」の黎明期にあると思います。これは3.11以降の放射能汚染とか、経済格差とか、農地とインフラの民営化や、財政赤字の肥大化等々の問題として、生々しく現われていると思います

──近代都市の成り立ちを考え、それがどう次のフェーズに架橋されるのかという関心と、学生を育てるということはどう折り合いを付けていますか。

西沢──僕の前任者である八束はじめさんが、研究室の関心を建築から都市へとシフトさせてから10年くらいの蓄積があるので、研究室の学生は、自分たちを悩ませている社会状況を都市問題と結びつけて認識する能力が高いのです。僕が講義で近代建築と近代都市の欠陥をズバズバ指摘しても、驚くような学生はいなくて、そりゃそうだという感じで受け止めています。ですから、世間ではまだ暴論とされるであろうこと、例えば近代都市をつくり続けていると経済格差が大きくなるとか、放射能汚染のような公害が次々に現われるとか、いまの首相のような似非ナショナリストが登場するといったことを話しても、そのメカニズムを完全に理解します。また、同じ目線でかつての近世都市から近代都市への転換も理解します。近世都市の末期には、いまのようにブラック企業だらけであり、格差も広がり、公害も発生し、環境破壊も激しく、市街地は汚部屋だらけであり、最終的には当時なりの世界戦争まで行ったということを、いまの社会を見るように理解しています。その意味では、折り合いをつける必要は、教育に関してはほとんどありません。
折り合いをつけるとしたら、就職ですね。いまの時代は大変な過渡期で、実社会では近代建築と近代都市がまだ主要なビジネスモデルであり、ただし構想において次のものが必要とされているという、一種の黎明期です。彼らはそうした段階の社会に出て行かざるをえないので、現実にはゼネコンやデベロッパーに就職する必要のある学生もいます。なので、彼らが大学の外で迫害されないように(笑)、「僕の講義をそのまま外でしゃべると迫害されますから注意してください」「みなさんが中年になる頃に、この講義で話したことが常識になっていますから、それまでは心の隅に留めてもらって、『それでも地球は回る』と思っていてください」と言います(笑)。


201505

特集 研究室の現在
──なにを学び、なにを読んでいるか


経験としての建築研究室──学んだこと学ばなかったこと、そして考えたいこと
東京大学 村松伸研究室
明治大学 青井哲人研究室
東京電機大学 横手義洋研究室
首都大学東京 饗庭伸研究室
東京藝術大学 中山英之研究室
慶應義塾大学SFC 松川昌平研究室
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