ブリコラージュで都市を記述する──ありあわせの「全体」

橋本健史(建築家、403architecture [dajiba])

野生の思考と「構造」

レヴィ=ストロースの『野生の思考』によれば、「ブリコラージュ(bricolage)」とは「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ことで、それを行なう人のことを「ブリコルール(bricoleur)」という。対比されるのは科学的な思考によって、全体のはっきりした計画に対して適合する部品を用いる「エンジニア」である。ブリコルールの「ありあわせ」とは「目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたもの」であり、「いろいろな機会にストックが更新され増加し、また前にものを作ったり壊したりしたときの残りもので維持されて」おり、「まだなにかの役にたつ」という原則で集められている。あらためてこのような定義を引くと、われわれの活動はまさにブリコラージュ「そのもの」であったと思い知らされる。

《板屋町の壁紙》 ©kentahasegawa
《板屋町の壁紙》という蕎麦屋のキッチンと倉庫の増床計画の施工時に、併設されたイベント・スペースにおいて「プレゼント・マテリアル」という展覧会を同時開催した。会場にはわれわれがストックしていたさまざまなマテリアルに加え、工具を一般の人に開放してあり、訪れた人が思い思いに簡単な家具などを制作し、持って帰ることのできる工房とした。「壁紙」として施工したのはオフィスビルの解体によってあぶれたバーチカルブラインドで、「どこかで使える」と1年近くストックしてあったものだった。この展覧会は、そのようなブリコラージュのための場づくりをしたともいえるだろう。それまでのプロジェクトにおいても、《渥美の床》では天井の下地材を床に敷き詰めたり、《三展の格子》では木造のロフトを解体し、それをほぼすべてまったく別の方法で組み替えるなど、使用する材料を極端に制限した手法を試みてきた。また、これらで得た余剰材と木製パレットを解体したものを組み合わせた倉庫《頭陀寺の壁》などの一連のプロジェクトは、壊すこととつくることとを直接的に結びつける試みであり、「前には目的であったものがつねにつぎは手段の役にまわされる」ブリコラージュのプロセスであったといえる★1

「プレゼント・マテリアル」 ©kentahasegawa

《渥美の床》 ©kentahasegawa

《三展の格子》 ©kentahasegawa

《頭陀寺の壁》 ©kentahasegawa

ブリコラージュは、このような物質的な「工作面」でのものづくりにおいてのみ用いられる考え方ではなく、神話的思考ともいわれるように、レヴィ=ストロースは「知的面」での神話創作などにおいてもこれを用いて、のちの神話分析へと続けていく。また、ブリコラージュは「でき上がったとき、計画は当初の意図(もっとも単なる略図にすぎないが)とは不可避的にずれる。これはシュルレアリストたちがいみじくも『客観的偶然』と名づけた効果である」とするなど★2、抽象的な記号を対象とすることが重要である。

そして、「工作面」でも「知的面」でもブリコラージュと密接に関わる美術家のあり方について述べられる過程で、「科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、ブリコルールは出来事を用いて構造を作る」★3としている(ちなみに美術家は科学者とブリコルールの両面を持つ)。ここでの科学者にとっての構造は手法であり、出来事が目的であるのに対して、ブリコルールにとっては逆となる。つまり換言すれば、前者は機能主義者であり、出来事(=機能)を達成することが目的となるが、ブリコルールにとっては「ありあわせ」で可能になる出来事(=機能)は手段にすぎず、それによって達成される「構造」こそが目的なのだ。

この「構造」をわれわれの活動に引きつけると、「タグ」によるプロジェクト群の全容がそれに当たるだろうと考えている。「タグ」とは複数のプロジェクトに渡って、共通するアプローチや属性について事後的に付けているもので、例えば、廃材や余剰材を使用したプロジェクトには〈材料転用〉というタグが付加されている。ほかにも、生産のための材料を得るための経路を特に問題としたものには〈物流経路〉、駐車場を工房にするなどすでにある空間そのものを転用する場合には〈既存読替〉といったタグが付けられている。また、そのような「工作面」でのブリコラージュを支えるタグのみならず、《富塚の天井》では南面の開口を記号的に扱って北側に移設したり、《広沢の庭》で建売住宅を記号的に再配置して庭をつくる〈慣習ずれ〉や、新しさと古さとが記号的にぶつかり合ってどちらでもなくなる〈新旧仕上〉などの「知的面」のタグもある。


「9 tags/30 projects」 ©403architecture [dajiba]

《富塚の天井》 ©kentahasegawa

《広沢の庭》 ©403architecture [dajiba]

これまでの30ほどのプロジェクトは、おおむねそれぞれ4つか5つ程度のタグの組み合わせとしても見ることができる。機能や予算やクライアントの希望などの個別の条件をクリアするという「出来事」が集積されることで、目的である「構造(=全体)」がつくられているのだ。では、その「構造」とは何か。

換喩としての建築

レヴィ=ストロースは『今日のトーテミズム』や『野生の思考』において、「構造」を組織する差異の連鎖の種類について、隠喩のほかに特に換喩(メトニミー)について強調している。言うまでもないが、隠喩は建築において重要な役割を果たしてきた。モダニズムにおいて機械がメタファーとして用いられたことを始め、類例は枚挙にいとまがなく、特定の様式もそれらが様式として区分され、名付けられると同時に何らかの意味を暗示するメタファーとなってきた。建築概念の更新を図り、相対化と編集の指針として援用され、ときにはアイコンとしてのイメージを牽引するためにも用いられてきたわけだ。一方で換喩は、隠喩ほどは建築という概念の前進に向かなかったとみえ、多用されてきたわけではない。換喩とは、物理的あるいは意味的に近接した語句を用いて、意味を拡張する修辞法である。「住宅」を「住むための機械」とすれば隠喩で、「ひとつ屋根の下」とすれば換喩である。換喩は部分によって全体を意味する(全体によって部分を意味することもある)ため、全体のなかでも特に強調したい点や、表象するにふさわしい部位を明らかにすることができる。住宅は当然「床の上」でも「壁の間」でもあるわけだが、「部分」である「屋根の下」とすることで、住宅一般ではなく戸建住宅を特に意味し、それが「家族」によって住まれているというニュアンスが強調される。

さて、われわれはプロジェクトに《渥美の床》だとか《富塚の天井》などというように、実際に手を加えた部分や機能とはやや異なる名前を付けている。しばしば誤解されるが、その名前が付いている「部分」にしか関わっていないわけではなく、実際には床や天井はもちろん、壁や造作家具、テラスといったものも同時に設計しており、機能からいえば「床」は寝室であり「天井」はリビングダイニングキッチンである。にもかかわらず部位をプロジェクト名としているのは、この換喩的な効果に可能性を見出しているからだといえる。レヴィ=ストロースは換喩的な隣接性によって「部分」である自然種の間や人間集団間を結びつけ、隠喩的なトーテムと人間集団の関係だけでは理解しえない「全体」の構造を明らかにしたわけだが、同様にわれわれにとってこの「換喩による部分」としての実践プロジェクトは、それらが群として広がりを持つことで「全体」へと至ろうとするものだ。そのときの「全体」とは、原広司が「〈部分と全体の論理〉についてのブリコラージュ」★4で「全体は、見渡せる範囲としてその都度措定される」と述べているように、古典的な計画対象としてではなく、暫定として現われる。またこれは、ミシェル・ド・セルトーが言うところの「戦術」★5であり、対象をコントロール下に置こうとする「戦略」ではないのである。そして当然ながら、換喩である「部分」への取り組みは「全体」への諦めや撤退ではなく、無論「住宅」に留まるものでもなく、「建築」そして「都市」をめざすものだ。

コンテクスト・サンプリングの指針

さて、このように見返してきたところ、われわれの活動はそっくりそのまま「ブリコラージュ」なのです、と包含されてしまいそうである。とはいえ、美術家が科学者とブリコルールの両方を持つとされたように、われわれとて純然あるブリコルールではない。コーリン・ロウが『コラージュ・シティ』において示したように、科学とブリコラージュの弁証法が有効であるのに、異論はない。実際、《板屋町の壁紙》では「壁紙」の下地はまったく普通の間柱と胴縁で作られており、地元の大工に制作を依頼している。また、《頭陀寺の壁》では防水に関してはごく一般的な材料(アスファルト、ポリカーボネート、ガルバリウム波板)を用いており、ほとんど単純なハイブリッドだといっていい。また、《広沢の庭》においても在来木造工法に既成アルミサッシという基本的な構法には手を付けていない。これは、リスクやコスト面での現実的な問題というだけではなく、いたずらに要素を解体してからのブリコラージュであると「知的面」での記号として、あまりに単純なものしか残らないし、現代の日本におけるコンテクストからは乖離しすぎてしまい、建築の実践からは遠ざかるだろうと考えるからである。

われわれがこのような手法を採るのは、建築を作るにあたってのコンテクストを、どこまで拡張できるかに関心があるからだ。コーリン・ロウが「コラージュ的なアプローチ、オブジェクトをその本来の文脈から徴用する、あるいは誘い出す手法こそ[今日では]ユートピアと伝統の、どちらかのまた両方の究極的な問題を取り扱いうる唯一の方法である」★6と言うように、「建築的実践」のためには、コンテクストのサンプリングはあらゆる水準で試みられなければならない。とはいえ、闇雲にコンテクストを食い荒らすことを良しとしているわけではなく、その指針にあたる考え方も徐々に定まってきた。

『野生の思考』が書かれた1962年は、CIAM解体後で、ル・コルビュジエもすでに国外へと活動の拠点を移しており、モダニズムへの批判が高まっていた時期だ。また、『コラージュ・シティ』が書かれた1978年は、先行するロバート・ヴェンチューリによるポストモダンを牽引するテクストがあり、レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』が同年に出されるという時期で、理論的にもいよいよモダニズムの乗り越えが現実味を帯びてきた時期だろう。そのような時代背景と比較すると、2014年という現在、また浜松という都市においては、モダニズムはそれほど明確に捉えられる対象としては存在していない。機能主義や合理主義は通底した価値観となっているが、それは計画への意思としてではなく、むしろグローバル資本主義下において囲い込まれたなかでの、本質的には差異のない選択肢に溺れているだけである。そのような「粗雑なモダニズム」とでもいうものが、見えない絨毯爆撃によってあらゆる地平を塗りつぶしたかのようだ。レヴィ=ストロースの熱力学からの比喩(未開の地が変化しない「冷たい社会」であり、対義語は成長していく「熱い社会」)に習うならば、表面上の入れ替わりはあったとしても、根本的には変化を拒絶している「ぬるい社会」といえるだろう。しかし、注意深く「部分」に向きあえば、「粗雑」であるがゆえの「ぬるい均質さ」には処理できていない「ほころび」を、そこら中に発見しうる。それは、廃材のようなほとんど価値のなさそうな材料や、標準プランで納めきれない隙間、ひな壇造成という不用意なギャップ、ゾーニングで処理しきれない地形などといったかたちで現れる。そのような粗雑な均質さに対して、むしろそれを厳密にするように介入することに、有効性を見ている。「ほころび」がキャンセルされることで、場所に根ざした矛盾とでもいうものがどうしようもなく露呈する。逆説的だが、均質さを推し進めることでしか、その場所のコンテクストに沿った状況をつくることができないのだ。そのような部分への介入によって浮かび上がる全体としての「構造」が、われわれの活動の総体であり、これが実践ともリサーチともつかない「都市の記述」になるのではないかと考えている。最後にコーリン・ロウの金言をもうひとつ引いておく。

「コラージュはアイロニーによってその価値を導き出す手法であり、それはものを使用しながら同時にものを信じないといった技法のようにも思われるので、それはユートピアをイメージとしてのみ取り扱うこと、またユートピアを全体として受け入れることなく断片として取り扱うことを許容させる戦略ということもできる」★7

そういえば、活動当初は拾い上げるべき伝統など存在しないと考えていたが、どうも最近のプロジェクトにおいて「日本的なもの」とでも呼ぶべき共通項が立ち現われることに気がついた。新しい「タグ」として整理できるかどうか検討中であるが、「日本的なもの」の論争を1950年代に仕掛けたのは岡本太郎であり(1930年代に岸田日出刀、堀口捨己、そしてブルーノ・タウトらによる先行した文脈はあるが)、彼がパリ留学時代に師事したのがマルセル・モースであった。その「贈与論」はレヴィ=ストロースの構造主義に大きな影響を与えたとされており「日本的なもの」の成立と構造主義とは無関係ではない。そうすると、われわれの「構造」が「日本的なもの」へと接近してしまうのも、必然かもしれない。


★1──クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房、1976)
★2──同書
★3──同書
★4──原広司『空間〈機能から様相へ〉』(岩波現代文庫、2007)
★5──ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、国文社、1987)
★6──コーリン・ロウ+フレッド・コッター『コラージュ・シティ』(渡辺真理訳、鹿島出版会、2009)
★7──同書




橋本健史(はしもと・たけし)
1984年生まれ。2005年、国立明石工業高等専門学校建築学科卒業。2008年、横浜国立大学建設学科建築学コース卒業。2010年、横浜国立大学大学大学院修士課程建築都市スクールY-GSA修了。2011年、403architecture [dajiba]設立。2014年より名城大学非常勤講師。2014年、吉岡賞受賞。建築作品に《海老塚の段差》《富塚の天井》ほか。


201501

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