コモナリティ会議 05:社会デザインの主体はだれなのか──多様なる合意のかたち

内山節(哲学者)+塚本由晴+貝島桃代(アトリエ・ワン)+能作文徳(東京工業大学大学院助教)+佐々木啓(東京工業大学補佐員)
LIXIL出版より5月1日に刊行した『コモナリティーズ』は、著者アトリエ・ワンとアーティストの田中功起さん、歴史学者の中谷礼仁さん、哲学者の篠原雅武さんとの3つの対話を収録しています。これら「コモナリティ」をめぐるさまざまな専門家との対話を「コモナリティ会議」と名づけました。世界をふるまいの相互連関による構成と考えて読み直すと同時に、建築デザインによる「大きな船」をつくるための試みをつづけ、多くの方々と共有したいと思います。
前回の榑沼範久さんにつづき、本日対話いただく内山節さんは、群馬県上野村と東京で生活をする哲学者です。著書『共同体の基礎理論』に記される「自然や歴史、文化などを含むさまざまな他者との関係性のなかに人間存在が成立しているならば、それらを破壊しながら文明を発展させてきた、近代、現代の人間とは一体なんなのか」という問いに呼応すべく、対話の機会をいただきました。


内山節氏(左)、貝島桃代氏、塚本由晴氏

「豊かになったけれど幸せかどうかわからない」

アトリエ・ワン
『コモナリティーズ──ふるまいの生産』
(LIXIL出版、2014)
塚本由晴──今日はよろしくお願いします。すこし私たちアトリエ・ワンの紹介をさせていただきます。私たちは1980年代に建築の勉強を始め、90年代から建築の仕事をしてきました。この間、日本では、建築家は個人の表現を強く打ち出していました。法律を遵守し、経済的条件に合致しているかぎりは、建築主と建築家の合意のもとだいたいどんな建築でも建つという状況のなかで、さまざまな実験が行なわれました。そのおかげで日本では先鋭的な表現が成立し、現在の世界的な評価へとつながっていきました。
一方、そういう先鋭的なものを含めて建築が集まってできた街に対しては、語る言葉を失いどう説明すればいいのかわからなくなります。街がクリーンであるとか、建物の品質がいいことに関しては、自信をもっているけれども、そこに都市美というものがあるか、あるいは街並みがあるかということに関しては、自信をもてないのです。だから外国の古い街に行くと、われわれはその美しさにあこがれを抱く。
最近、「豊かになったけれど幸せかどうかわからない」というような言い方が、なんとなく蔓延しています。この感慨の一端は、自分たちの住んでいる街に自信がもてないことや、さらにはそもそも街というものに自分たちが位置づいている感じがしないことからも生じているのではないか。そもそも自分たちの街にどんな建物を建てたらいいのかがわからない。この状況に対して私たちアトリエ・ワンはずっと違和感を感じてきました。そうした日本の都市の状況が、私たちのもっている生命観とちがうと感じていたからかもしれません。
以前、岐阜県の飛騨古川を訪れたときに発見がありました。飛騨高山と飛騨古川はともに大工職人の仕事が有名で、互いに競い合っています。飛騨高山が伝統的建造物群保存地区に指定され、観光的にも成功している一方で、飛騨古川の人たちは保存地区の指定を拒んで、自分たちでなんとかすると決めました。ですから、古川の建物はアルミサッシやアルミの格子など、現代のものを採り入れているのですが、使い方がものすごくうまい。この街では周囲から浮いた目立つようなものをつくると「相場崩し」と言われ、けなされてしまう。そのことを知ったときに、この街では人々は家のつくり方を知っているのだと感じました。そして同時にそれを守っていくことの価値をわかっているのだと思いました。


岐阜県飛騨市古川町の町並み(提供=アトリエ・ワン)〈クリックで拡大〉

対して東京の場合は、まったくちがう状況でそれぞれがそれぞれに建物を建てている。飛騨古川の人たちにあって東京の人たちにないのは、まさに建物を通した共同性だと気づいたんです。なぜ共同性を失っていったかというと、戦後、家をつくることが文化の領域や人々の生業の領域から、産業の領域にどんどん移し替えられたからです。建設を産業化することでGDPは上がりましたが、そのことによって、自分の街になにをつくればいいのかがわからない人々を生産してしまった。つまり人々のつくり変えも同時に行なわれたのです。このことがいま「幸せかどうかわからない」という、生きていくうえでの不安につながっているのではないか。
そもそも建築は、大きくて重いですし、それだけにお金もかかりますから、ひとりきりの力でつくれるものではない。必ず複数でつくらなければならない。したがって、これまで建築は、人々のあいだに共同性を醸成するに際しては、重要な役割を果たしてきたと思うんです。ところが、建築をつくることを企業が肩代わりするようになっていったことで、建築が共同性を失ってしまった。建築を実際に設計するとき、さまざまな人々の支えによってつくられているという実感なしに、たんにプロダクトとしてつくるのはむなしいことです。
家だけでなく街も20世紀における産業化のなかでさまざまにつくり変えられていきました。いろいろなものがサービス産業に置き換えられていくたびに、人間が自律的に集まってなにかを行なうことの知識やスキルがどんどんと産業のほうに移植されていった。ですが、よくよく見ていくと大都市であっても、人々のふるまいが場所を占有するときには、街のなかに、コマーシャルでなく、かつサービスされたのでもない、独特のパブリック・スペースが成立している。そういうものを集めていくことによって、都市部においても共同性=「コモナリティ」を考えるきっかけになるのではないかと思い、『コモナリティーズ』という本をつくりました。『コモナリティーズ』では主にパブリック・スペースにおける人々のふるまいの話をしており、都市部から共同性が失われることを助長してきた建築の側から、共同性について考えていくとどうなるのかを示したかった。
内山先生のいくつかの著書を読んできました。いずれにも、群馬県上野村での生活から、また哲学的な思索から、近代化の過程で共同体がいかにして失われてきたのか、あるいは解体させられてきたのかという問題に触れていらっしゃいます。今日は「コモナリティ」の考えの可能性を内山さんからも拝聴できればと思っています。

社会デザインの主体はだれなのか

内山節氏

内山節──建築ははたして目的なのか手段なのかと不思議に思うことがあります。住む場所をつくる、あるいはみんなで集まることができる場所をつくるというのですから、建築はある一面では手段です。例えば、戦後、戦災によって焼け出された人々がとりあえず雨露を凌ごうとバラックをつくる。これは手段です。この状況が終わって、もう少しちゃんとした住宅をつくろうという段になってくると、建築は手段であると同時に目的になっていく。その後、目的としてつくったものが街の手段になるということが起きてくる。つまり、建築とは、手段なのか目的なのかははっきりしない、ひじょうに不思議なものです。僕自身は、戦後、目的としての建築が横行したという印象をもっています。建築家の方たちの場合、自分の作品づくりに突っ走ってしまった。作品という目的に走った結果、たしかにいろいろな斬新なものをつくったのだけれど、使う手段においてはあまり勝手がよくないものだったりしますね。
また、目的としてつくったはずの建物が街の手段になっていくようなことが起きにくいような、閉じられた目的だけで終わってしまうことが、多々あったと思います。手段と目的の微妙なバランス、あるいはあっちに行ったりこっちに行ったりするような自由さを建築は回復できるのか。これは建築だけの問題ではなくて、塚本さんがおっしゃったとおり、共同体やコミュニティにも関わってくる問題です。
僕は川釣りをするので、上野村をはじめ田舎に行くことが多いんです。田舎の民家のある景色をつくっているのは、地元の大工さんがつくる建物です。古い建物の場合、材木を運んでくるのもたいへんでしたから、近場にあるありあわせの木材でつくられているにもかかわらず、長くもっています。とくにだれかが全体を設計しているというわけではないですし、個別の建物であっても、「こういうものでしょ」という感じでつくられている。それなのに田んぼや川と合わさって、とてもいい風景になっている。
都市部には建築家の方たちががんばってつくった建築があるかもしれませんが、街全体としてみると、これも塚本さんがおっしゃったとおり、まことに冴えない風景が広がっている。この違いはなんだろうか。
結局は、社会デザインの主体はだれかということになるんだと思うんです。建築家や専門家だけが設計すると考えたのがそもそもの間違いです。そこにある関係が主体となって設計やデザインをしていることを追うべきなんだと思うんです。田舎の場合、人々が生きている場所にはさまざまな関係があります。人間どうしの関係だけでなく、田んぼや畑といった自然との関係をもちながら生きている。日々の生活のなかにあるさまざまな関係のなかで設計がされていくと、たとえ特に関係が意識されているのではなくても、結果としてはそこにある関係が反映するかたちでデザインされていく。そうすると専門職のデザイナーが入ったわけではないのだけれど、とてもいい景観ができていきます。
農村部の古い景観、都市部でも古い景観はそうですけれども、そこには生活だけではなくて、労働がある。農村には農業という労働がありますし、古い街であれば、職人さんがいたり、商店があったりする。家のなかでもいまよりはいろいろなものをつくっていた。夕飯ひとつとっても、近所にふるまったりしていた。このようにGDPには反映されない労働がいろいろとあり、それらをつうじてさまざまな関係ができあがっていた。結局、関係を反映させるかたちでしか、デザインはありえないのではないか。たしかに最後はだれかがデザインするのだけれど、じつは「だれか」が主体ではなくて、「関係」こそが主体ではないかと僕は思っているんです。それを「私」がデザインすると勘違いしたのが、大きな間違いだったのではないでしょうか。

塚本──まったくそのとおりです。

内山──僕はふだんは文京区に住んでいますので、そこらじゅうに小さい住宅を目にします。それらを悪く言う気はないのだけれど、家族という閉じられた関係に与えられた住宅なんですよね。各家の都合によって、こども部屋は3つ必要だという人もいるでしょうし、なくてもいいという人もいる。あるいは楽器を鳴らすスペースがほしいという人もいるでしょう。そういう関係のなかで小さい住宅ができていくのだけれど、一方で外との関係性が切られた閉じられた住宅という印象を受けます。その人にとって住みやすければとりあえずはそれでいいのだろうけど、地域の建物にはなっていない。そういう関係性が建物に反映していると、僕は思っています。
先ほど塚本さんがおっしゃった、戦後の建築の産業化と結びついていますよね。ハウスメーカーの登場など、産業という世界との関係、市場的な関係が反映されるかたちで設計されていく。さまざまな意味で、よくも悪くもそのときの人間の生き方の諸関係こそが主体となって設計世界を動かしてきた。それをただ、メーカーさんはメーカーさんで自分たちがつくったと思っているだろうし、建築家も自分たちがつくったと思っている。そもそもそういうところに大きな錯覚があったのでしょうね。

塚本──そうですね。一つひとつ相手と向き合ってつくっていくのは非常に楽しいし、面白いものがつくれる。しかし、年に戸建ての個人住宅を3つ、4つ設計することを何年か続けてみて、ふとこれではきりがないと感じました。建物を建てることはすなわち、「人間の歴史においてどこに建てるのか」がつねに問われているのであり、やはり自分たちが、いまどこにいて、なにをしているかをはっきりと表明していくようなつくり方をしていかなければならないと思うようになったのです。

持続するほうがいい関係、持続しないほうがいい関係

塚本──社会のなかでは関係性を反映したかたちで設計が行なわれているのだとお話しされていましたが、この関係のままではいけないと考えた場合は、積極的に変えたほうがいいのではないかと思うんです。

内山──ええ、関係というのは絶えず変容します。その関係のなかには持続性のある関係もあるけれども、いっとき生まれる関係もある。どの関係を持続させ、どの関係を切断するか、あるいは関係性を新しく変容させるか、絶えず問われることだと思います。

貝島桃代──持続するほうがいい関係と持続しないほうがいい関係について、それらをどう判断するかが難しい気がします。例えば、外部との関係がないから閉じた関係ではだめだと判断したときに、ではただ開いていけばいい、というわけではありませんね。共同体というのは、多少閉じていないと強くならない。そういう部分はどのように調整すればいいのでしょうか。

貝島桃代氏(左)、塚本由晴氏

内山──地域共同体といっても、完全に閉じられているわけではありません。むしろ外との関係性があるからこそ自己完結できるんです。私たちのいまの生活と同じです。多少お金をもっていれば、家という閉じた関係性のなかで生きることはできる。ですがじつは、商店やスーパーなどの小売業があるからものを買えるのだし、小売業の先には生産者としての農民や漁民がいる。間接的にではあっても、外の世界があるからこそ、閉じた生活ができる。だからそもそも社会を遮断し家のなかに完全に閉じこもるというかたちは成り立たないのです。閉じた生活であってもなにかしら社会とのつながりをもっている。
戦後、農村や山村が疲弊していくのは、その背景にあった外との開かれた関係が消えていったからなんです。僕が山村である上野村を初めて訪れたのはいまから40年ほど前です。その頃は行商人がとても多かった。山にはいろいろなものがありますから、売りに来るだけでなく、買いに来る行商人も多くいました。あるとき年末に松の枝を買いにどっと人が訪れたことがありました。例年買い付けている産地のものが手に入らなかったのか、正月の松飾り用の松がほしいということだった。村の人たちは自分たちの山に行って松の枝を切り、束にして出荷した。けっこういいお金になったと言っていましたね(笑)。松の枝を買いに来たのはその年だけでしたけれど、突如そういうことがあったりするんです。また、江戸風鈴の音を鳴らすための蔦のような部分の材料を風鈴屋さんが買いに来るんです。岩場に生えた篠を使うのですが、あまり手に入りませんから、高く売れる。村の人たちは、風鈴屋さんがいつ頃来るのかをだいたいわかっていますので、あらかじめ採ってきて保存しまとめておくんですね。漢方薬の材料を買いに来る行商人もいました。
私は上野村で細々とですが農業をやっているので、私の所にも道具屋さんが訪ねて来ます。農具にもさまざまな種類があります。鍬は用途に応じて使い分けますから種類が多い。最も種類が多いのは鎌です。100では終わらないくらいあるんです。

塚本──鎌だけでそんなにあるんですか。切る相手や場所に合わせて使い分けるということですか?

今和次郎『日本の民家』(岩波文庫、1989)
内山──そうですね。石の多いところ、藪化する場所、柔らかい草だけを刈る場合などそれぞれ違うものを使います。いまは上野村にはおらず、隣村に行かなくてはならないのですが、できれば鍛冶屋さんに頼みたい。なぜかというと、おばあさんが使うのであれば軽くつくってくれたりと、どこでだれが使うのかに応じて合ったものをつくってくれるからなんです。ただしそうなると特注になりますから、どうしても値段は高くなってしまう。だから使い分けをするんです。行商の道具屋さんは、「足りないものはないですか」と売りに来るのですけれども、感心するのはみごとにうちの村で使うものを持ってくるんです。「一年にいっぺんくらいしか来ないのに、よくこの村の畑に合うものを持ってくるものだね」なんて言っていたら、「われわれもプロですから」という答えが返ってきました。こうしたさまざまなつながりがあって、村での生活が続いてきたのに、行商の人たちとの関係が消えていった結果、使いにくい道具しか手に入らなくなってしまった。ホームセンターのような道具屋さんで、どこかで大量生産されたものを買うわけですから、地元に合っていないんです。そうなると、畑仕事における疲労が激しくなってしまう。こういったことが進行しています。
いまほんとうに閉じられた社会をつくっているのは、都市です。都市の場合、たしかにだれかがつくったものを食べるというような外との関係性はあるのだけれども、家のなかには労働がありません。今和次郎が『日本の民家』で、労働空間と生活空間と接客空間の3つがあって家なんだと書いていましたが、いまの都市の家には、労働空間と接客空間がなくなっています。台所がかろうじて労働空間と言えるのかもしれませんが、昔のようにはいろいろなものをつくらなくなっている。
外とのつながりに関しても、個人商店ではなくスーパーなどを通して行なうわけですから、人とのつながりがない。ですからほんとうに閉じられた個の生活になってしまう。

塚本──ええ、よくわかります。働く場所をなくしてしまっただけでなく、家のつくり方に関しても同様のことが言えます。町家のように横にずっとつながっていくようなつくり方ではなくなって、敷地の中にぽつりと建てるようになる。敷地が広ければまだいいのですが、狭いために敷地にめいっぱいの大きさで建ててしまう。それでもたしかに住むことはできるけれども、そこだけで完結しているので関係が外につながっていきません。

内山──かつては地域社会のルールというのがありました。上野村でいうと、玄関と縁側は公共スペースなので、だれが勝手に入ってきてもいいんです。だれがといっても共同体のメンバーに限られます。東京から来た人は勝手に入ってきてはいけません(笑)。ですが、ときには行商の人が「ちょっと休ませてもらうよ」と縁側に座っていてもいいんです。家というのは、とりあえずは家族の空間になっている。そこに上がるには、家の人の許可を得る必要があるのだけれども、田舎の場合は外出から戻ってくると、縁側や玄関にだれかが待っていたりする。無断で座敷まで上がるのは厳密に言えばルール違反なんだけれども、そうは言っても微妙で、親しい関係になれば留守中に勝手に入ってお茶まで飲んでいたりするんですよね。「お、いたのか」なんて返したりして(笑)。
富山には、家の中に入って台所で水を飲むところまではパブリックという地域があるんです。長い歴史のなかで相続などを繰り返すうちに、畑と家が必ずしも近くないということが起きた。畑仕事で、のどが渇いても、繁忙期であれば自宅まで戻ったのではロスが大きいですよね。だから最寄りの家が留守だったとしても、台所に行って水を飲むところまではいいということになったんだと思います。

塚本──仙台の郊外のまだ畑が多く残る地域で住宅をつくったことがあります。畑は家庭菜園化しているのですが、近所の人ならばできている作物を勝手に持っていってもいいとのことでした。

内山──上野村では作物を勝手に持っていくのは基本的にはルール違反です。もらうときには声をかけなくてはいけない。声さえかければ、だいたいみんな「だめ」とは言いません(笑)。ただしこれについても微妙なものなんです。近所の親しい間柄ならば、たとえ勝手にもらったとしても、顔を合わせたときに「昨日きゅうりを2本もらったよ」と報告すれば、事後承諾であっても問題は起きないでしょう。もちろんそういう関係性が築かれていなければなりません。
ただ、自分の所有する山でなくても山菜などは持っていってもかまわないんですね。これにもやはり微妙なニュアンスがあって、あまり広い山をもっていない場合──僕などはその典型で小さな山で山菜採りを楽しんでいるのですが──、「なにもあの人の小さい山からわざわざ採らなくてもいいよ」と遠慮されるわけです(笑)。だけど公式には、採ってもかまわないことになっています。

塚本──それはいい世界ですね。

内山──地域地域で自然にできてきたルールがあります。開いた生活をしているからこそルールが必要で、暗黙のルールがしだいにできあがっていくのですね。

塚本──上野村では、家々は生け垣で区切られてはいませんよね?

内山──そうです。ある部分についてちょっと生け垣的につくったりすることはありますが、ぐるっと囲ってしまうのは、上野村では嫌われる行為なんです。相当広く開いていないと、「あいつは閉じる気なのか」とみんなが感じるでしょうね。

塚本──その感覚というのは、私が子どもの頃には、まだ街にもあった気がします。

内山──僕は世田谷区の生まれですが、家の一方は道路で、ほかの三方は隣家という状況でした。三方を生け垣で囲ってありましたけど、すべてにくぐり戸の門がついていて、庭からお隣の庭に行けるようになっていました。お隣のほうが庭が広かったから、学校から帰ってくるとそちらで遊んでいましたね(笑)。いまのようにブロック塀でぐるりと囲んでしまうことはなかった。

塚本──形あるものは、残り続けるかぎりそれがつくられた意図を示し続けてしまう。ブロック塀などは、周りを敵だと思っているのではないかという感覚を形として残してしまう。そのほうがよっぽど居心地が悪いですよね。

生者と死者と自然と関わり

内山──家にはだれが住んでいるのかという話をしたいと思います。昔は家族以外の来訪者が頻繁にありました。近所の人だけでなく、親戚が訪れることも多かった。また、地方に住む親戚の子が東京の大学に進学した時に一緒に暮らすような状況がありました。いまであれば犬や猫が住んでいる家がたくさんあると思います。さらには実際は蜘蛛などの自然も一緒に住んでいるわけです。とくに上野村などは、一緒に住んでいる自然はかなり大量にいるんですよね(笑)。
僕の家にはいまヒメネズミが住んでいてとてもかわいい。もともとすごく臆病なのですが、だいぶ慣れてきました。以前は、ヒメネズミの倍の大きさがある、ヤマアカネズミが訪れていたこともありました。ふだんは山のなかでトンネルを掘って暮らしている。夜、僕が帰宅して灯りを点けると、しばらくして山から走ってきて家に上がってくる音が聞こえるんです。ネズミは警戒心が強くふつうなら音を立てないのですが、タンタンタンと音を立てながら近づいてくるのがわかる。じつはそういうのを含めていっしょに住んでいるんだと思うんです。
日本における社会観は、人間だけではなく自然を含めたものです。自然と人間の関係があり、自然と自然の関係があり、人間と人間の関係があり、これら3つの関係が絡まり合って社会をつくっている。すなわち先に実体ありきではなく、先に関係ありきなんですね。さらにここには人間の死者が含まれてくるんです。死者は消えているわけではなくて、死者もまたこの社会に住んでいる。死者の魂があるというのではなく、生者と死者の関係があり、その関係は続いていくわけです。当然、死者と自然の関係もあるわけで、死んだ人は自然のなかに帰っていくと考えられていましたし、お盆には死者は家に戻ってくる。死者との関係を絶えず内包しながら社会ができていたし、家もできていた。そういう関係を通してわれわれの社会はできている。家には、生きている人間だけが勝手に住んでいるのではなく、自然も死者も住まなければいけないのです。

塚本──以前行なった石川県金沢の町家の調査の際に感じたことがあります。金沢の人たちは町家に対する愛着が非常に強い。戦争で焼けなかったし、地震でも壊れていないので、昔ながらの街並みがずいぶんと残っていたんです。しかし、1960年代から70年代にかけての高度経済成長期に、商業地域に指定された場所や幹線道路沿いの町家はビルに建て替えられてしまいました。指定を免れた場所にはまだ町家が残っています。ただし伝統的建造物群保存地区に指定されていない地域では、それぞれ思い思いにつくり変えたり、改修したりしていることが多く、保存地区に比べるとちぐはぐで美しい状態ではない場合が多い。ところが、改修の例を個別に見ていくと、下手でもいいから、なんとか街とのつながりをつくろうとしている感じがわかるんです。町家がその街にとっていかに大事な存在かを表現していることが伝わってくる。


石川県金沢市尾張町の町並み〈クリックで拡大〉


石川県金沢市新竪町の町並み〈クリックで拡大〉


石川県金沢市ひがし茶屋街の町並み(いずれも提供=アトリエ・ワン)〈クリックで拡大〉

こうした経験から、町家や曲り家など、日本の古い形式の住宅を自分たちなりに理解して、設計をしています。こういったものが形式として定まっていくには、すごくいろいろな人が関わって失敗し成功し、試行錯誤が積み重ねられてきた過程があっただろうと考えると急に面白くなってきたんですね。建物は生身の人間よりも長生きしますし、町家であれば300年続く形式なので、これらに死者を感じとることは可能です。現代の住宅には、とにかく「いまここ」しかなく、生者と死者と自然が関係していることを感じる場面はまったくといっていいほどありません。

内山──そうですね。いわゆる新興住宅街のもっている特徴として、「死者」がいないということが挙げられると思います。死者がいないというのは、先輩たちが積み上げてきたものがないということです。そうなるとどうしても「いまここ」ばかり目立ってしまって生活が浅くなってしまいますよね。

塚本──未来を構想しようと思ったら、先輩たちも納得するようなものにしなくてはならないし、未来の人たちも納得するようなものにしなくてはならない。過去と未来の両側からいま生きている人間がプレッシャーをかけられていると考えなくてはならないと思っています。

内山──群馬県吾妻郡中之条町は草津に隣接している場所です。合併する前は六合村(くにむら)と呼ばれていた地域に赤岩という集落があります。街道の両側には、養蚕業の盛んなこの地域に特徴的な建物が並んでいて、重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。ところが、保存地区などに指定されると、多くがだんだんとテーマ・パーク化していってしまう。赤岩はそうはならないようにとさまざまな検討を行なっていました。国が指定するのは建物だけです。だから人々の営みを含めた、生きている村を保存するために県のバックアップを受けて六合村で条例をつくり、国が指定できない部分については村が指定することにしたんです。まずどこから始めたのかというと、周辺の自然からでした。村というのは、自然と人間の世界なのだから、自然なしにはありえないですし、山は死者が帰っていく場所でもある。山の裾野にお墓があったり、小さいお堂があったり、神社があったりするのは、死者が山に帰っていく玄関口のようなものだからです。だから、そういうものをすべて村が指定して、さらには田んぼや畑も指定しました。自分たちで山から採ってきた間伐材とトタンを組み合わせてつくった農機具小屋や物置、薪小屋などは、建物としては醜いものですが、そういったものも指定しました。生きている村には、こういうものがなければおかしい。

塚本──村がそういうものを指定したんですね。いいですね。

内山──そういうものは、何十年ももつものではないので、場合によっては10年後に建て替わったりします。しかし、その営みがあるからこそ村は生きているということなんです。 最近は連れて行ってないのでいまもそうなのかはわからないのですが、「学生たちを見学に連れて行くので、だれかに説明をお願いできませんか」と頼んでも、寄り合いの決定を待たなければならないので、1カ月後に連絡しますというような感じで時間がかかるんです(笑)。しかし、時間がかかるからといって、それを崩してしまったら村ではなくなってしまう。指定地区に選ばれたことで、村にやってくる人が増えたのですが、喫茶店も民宿もない。そういうものをやりたいという希望があって、数年前の時点では、カフェのようなものをつくることにはなったようです。その場合でも個人経営は認めず、集落が経営するということでした。民宿については、それぞれの家が大きいですから増築などはしなくてもできるのですが、やりたいという希望者がいたとしても、独自に客を取ることは認めないようです。つまり、集落が客を各民宿に割り振る方針のようです。なぜかというと、独自にカフェを開いたり、宿泊客を取ったりすると集落内で競争が起きる。そうなれば必ず村を壊してしまうだろうと。村のなかでは競争をしてはいけないというルールなんですね。そういう取り決めをするまでに10年かかったということでした。カフェも民宿ももう開いているかどうかわかりませんが、なかなか面白い場所だと思います。

祭りが結びつける集落

塚本──復興支援で宮城県の牡鹿半島に通っているのですが、行政は集落について、公共サービスを受けられる最小の人数を設定していることもあって、コミュニティの人数をすごく気にしているんです。ですが、そこがずれているのではないかと感じますね。むしろ生業があれば人数は少なくてもいいのではないでしょうか。

内山──ええ、外の人たちがつくってくれる関係もありますし、関係が成り立っていれば、人数はあまり問題ではないと思いますよ。

塚本──行政から考えると、あるサイズがないとなにもできないという考え方なのですが、集落に行くと、そのときどきのサイズに合わせて活動の大きさを自在に変更できるという感じがあります。
牡鹿半島の大谷川という集落は震災で神社以外すべてが流されてしまったんです。神社の本殿は傾き、石の階段の参道は半分が波にさらわれました。また、石の鳥居も流されました。地元の方たちから「鳥居がないと縁起が悪い。早く鳥居をつくりたい」と相談を受けたので、自然環境や歴史的環境の保護を目的としたナショナル・トラストという団体の協力を仰いで鳥居をつくろうとしているところです。このプロジェクトに関わるようになって神社のさまざまな催しに参加しています。神職の方がいつもいるわけではなくて、半島のいくつかの神社をかけもちしてやっています。
この地域には「獅子振り」という踊りがあります。獅子舞と似たものです。その獅子頭が津波で流されてしまった。震災から2年後、新しい獅子頭がつくられ、震災後、2/3の世帯が転出を決めたので、このエリアの仮設住宅に残っている浜の住民は神社に奉納するための祭りが行なわれました。ふだんはこの周辺には十数人しかいません。しかし、この日のために60人も集まって奉納を祝ったのです。この集落は過去250年のあいだに津波の被害に少なくとも3回遭っている。毎回津波で家を流されては、神社に集まり、漁業を再開し、少しずつ家をつくってということを繰り返してきたわけで、長い目で見れば立ち直る力をもった集落だと言えます。立ち直るための最後の砦が神社です。神社さえ残っていれば、人が集まれる。さらに自分の体のなかに踊りがあればまとまれる。祭りをとおして集落のかたちが一気に見えてくるんです。かつては獅子振りでは、集落すべての家を回っていたのですが、いまは家がないから神社で終わりだということで、みんな納得しています。けっこうあっけらかんとしている(笑)。やはり集落の人たちは関係のなかに生きているんだなと、ここでも思いました。

牡鹿半島、大谷川集落の獅子降り(提供=アトリエ・ワン)

内山──僕も数々の集落を見てきましたが、残念ながらこの集落は存続が難しいという場所もたしかにあります。なにを基準にして見るのかというと、祭りが維持できるかどうかなんです。祭りが維持できれば、関係がまだ可能性を持っているんです。逆に祭りができなくなった集落の場合は、そこまで関係が壊れているのだと見ることができます。そうなるとよほど思いきった手を打たないと集落を維持することは難しい。
いま「祭り」という言い方をしましたが、柳田國男は「祭り」と「祭礼」を分けて考えました。見物人がいない場合は神事であり厳密には「祭礼」です。例えば獅子舞であれば、集落に属している私は今年は獅子が踊っているのを見ているけれども、来年は自分が踊るかもしれませんから、「私」は集落に属した関係者なんですね。この場合は「祭礼」です。それに対して一般見学人が出てくると「祭り」になっていく。

塚本──外から人が来るということですね。

内山──そうですね。しかも絶対に主催者側に回ることがない見学人がいるということです。「祭り」でもいいのですが、「祭礼」をつくる関係ができていれば、集落はまだだいじょうぶだと判断できます。だから人数は関係ないんです。
上野村に関しても、人数的には「祭礼」を行なうのが苦しくなってきているところもあるのですが、東京に応援団をつくり、その人たちには「祭礼」のメンバーとして「準備段階から参加してください」と言っているんです。そうして「祭礼」の応援団が「祭礼」の応援だけでは終わらずに、日常的に関係を持ち合う人たちになっていくんです。

塚本──応援団という新しい仕組みも面白いですね。街なかに住んでいると、さまざまなことが断片化しているので、なにとなにがどう関連して、どのような関係性のなかに自分が生きているかをほとんど理解できません。働いてお金を稼いで、生活のための支払いをしてということを繰り返すことで維持している。これは非常に断片化された、抽象的な生活です。ですが、村のお祭りに参加したり、サポーターになったりすることによって、都市の住民ももう一度、全体性の感覚を取り戻せるのではないかと、お話を伺っていて思います。もう少し、気軽にそういうことができるようになればいいですね。

都市における「マイナー・サブシステンス」は可能か

塚本──リーマン・ショック以降建築の仕事が減った一方で、まちづくりに国が予算を下ろすようになったこともあって、われわれ建築家が地域に入ってまちおこしに参加する機会が増えていきました。地方の街に行くと、ひとつの建物のもっている意味が都市部よりもわかりやすいですし、建てることの意味が理解しやすい。そこに住む人たちがどういう風土のなかで生きているのかが見えてくると同時に、全体性に対する実感をもった人たちと実際に出会うことになるわけです。そうすると、ふだん都会で建築をやっている人たちはみんな感激して、ほとんど儲からないにもかかわらず、一生懸命通うんです。そういう流れのなかで震災が起きて、東北ではさらにまちづくりの活動が続いています。つまり、ものづくりをする人たちが、全体性の感覚を得られるような関係性に目覚めつつあると言っていい。だから地方との関係を維持していくだけでなく、さらに都市においてもできることがあるのではないかと考えているのです。

内山──僕の場合、友人たちと共同出資して日比谷でレストランを経営しています。お客さんはわりと来てくれていますので、経営的にはぎりぎりですがなんとかなっています。食材は、地方の知り合いの農家さん、漁民さんから仕入れています。できるかぎり産地の料理方法で調理する方針を採っています。地方から来る方が寄りやすいようにと東京駅から歩いて10分ほどの場所を選びました。僕らの関係しあうコミュニティは、地方の農家さん、漁民さんにつながっていますが、もちろん毎日顔を合わせているわけではない。このあたりが村の共同体とは大きく違います。村にいれば全員と毎日顔を合わせかねないほどの密度の関係性がありますからね。また、このレストランを使って、だれかの話を聞いたりするような、自分たちの小さな企画を行なっています。企画をきっかけにみんなで集まる。とはいえ、東京の人間はけっこう忙しいので全員が集まるということはめったにない。来られる人が来るという感じになりますよね。だから非常にゆるやかな会にせざるをえないわけですが、それでもここは自分たちの場であるという意識が持てますね。
また、共同出資と言っていますが、だれがいくら出したのかというのは、企画者しか知らないんです。僕は企画者ではないのでわかりませんが、出店するのに数千万かかっていますから、みなさんそれぞれかなりの額を出されたんだと思います。どんなに高額であろうが、出資金に関してはいかなる理由があっても返還はされない決まりになっているんです。だから、ほとんど寄付のようなものですね(笑)。ただし、出資額の5%相当の配当に替えて、このレストランで使える食事券が出されるのです。こんなふうに自分たちの場をつくることが、だんだんと都会でもできるようになってきています。使う額が5万円を超えたら夫は妻の許可を必ず取らなければならないというご家庭もあるようなので(笑)、ひとり一律50万円出資してもらうというやり方をしてしまうと、実現が難しいかもしれません。だからあらかじめ奥さんをそういう活動に招くとか、あるいはつねに話をすることで理解してもらう必要がありますね。つまりこういうことをするには家族間の関係が必要なんです。さまざまな関係があって成立しているんですね。
群馬県高崎市に僕の知人が屋台村をつくったのですが、日比谷と同じように共同出資を募って運営をしています。人気があるようですし、経営的にもなんとかなっていて、就労場所にもなっています。 ある人にとっては遊び仕事であり、ある人にとっては生業であり、ある人にとっては楽しむ場所であり、情報交換の場所であり、なにかあったら協力し合う場所でもある。こういった状況づくりをそれぞれが自発的に行なえるようになってきた。文化人類学や環境倫理学で「マイナー・サブシステンス」と概念化される、主要経済活動の陰にありながら脈々と継承されている営為です。都会では──もちろんうまくいけばいいのですが──町内会のような形式は非常にむずかしいでしょう。だから、都会のコミュニティとしては、多様性のある場に、ゆるやかな関係で結ばれた人たちが集まるようなかたちがいいのではないかという気がしています。

貝島──出資金が一律ではないところがいいですよね。

内山──一律にした場合、金額を低く設定しないと参加するハードルが高くなってしまうので、なかなか成立しないんですね。

安全・安心か、小さなハプニングか

塚本──都市では、特に最近はとにかく「安心・安全」に重きが置かれ、じつにさまざまな制度がつくられています。

内山──危なくて不安なのはたしかに困りますが、問題なのは安心・安全を狙うことで失われるものが大きすぎる場合だと思うんです。高度成長期は、その前の時代があったからこそ、経済的な発展に走ったわけで、このこと自体はわからないわけではない。ですが、物質的な豊かさを手に入れた後に、失ったものがたくさんあったことを忘れてはいけません。なにかを得ようとするときにはつねに、失われるものがないかどうかを意識しなければならない。すなわち過ぎた安心・安全を追求したことで失われるもののことをきちんと判断しなければなりません。例えば、東京で暮らして10年で、たまたま自宅にコソ泥が入り8,000円の入った財布を盗られたとします。10年に1度の出来事に対していつまでも嘆くよりも、それまで同様の楽しい生活を維持するほうが総体的には失うものが少ないはずです。とはいえ、自宅に入られて命を取られたのではかなわない。このあたりのバランスはきちんと考えなければならない。

塚本──先日、満開の桜が咲き、人で賑わう会津若松の鶴ヶ城に行きました。お城の石垣には柵も手摺もなくだれもが自由に登れるんです。驚きました。子どもからお年寄りまで、城のあらゆる所に人がいて、みんなすごく自由にふるまっていました。東京であれば、まず手摺が設けられ、立ち入り禁止の看板を立てるなどして、入れる場所を制限していくと思うんです。東京では、安心・安全を追求していると謳えば財布の紐を緩めるような環境圧力があり、次なる産業化の切り札のようになっていて、非常によくない。

内山──そうですね。日常的に潜んでいるある種のハプニング性が、私たち一人ひとりが生きていくうえでの楽しさにつながっていると思うんです。驚くような出来事が起き、それに対処しようとさまざまな工夫をする場合もあるでしょうし、それをみんなで笑い飛ばして楽しむというようなこともあるでしょう。ハプニングが起きない仕組みをつくると、世界はものすごくつまらないものになってしまう。そのことに気がつかない管理をやってはいけない。多少のハプニングが絶えず起きていく状態でいいわけです。管理をきつくすればするほどハプニングは起こらない社会になっていくでしょう。すべて予定どおり。それで面白い営みができるのでしょうか。これはじつに困った状態です。

塚本──ええ、ショッピングモールなどは、だれでも入れるにもかかわらず、まったくハプニングを許容しない空間になっています。

内山──個人商店なら、「今日はちょっとまけとくよ」というような小さなハプニングが起きますよね(笑)。

貝島──今日はもう店じまいして飲んじゃおうとか(笑)。あたりまえですが、ショッピングモールではそういう融通は利かないですよね。

塚本──こういう状況にどのように対抗していくのかが重要なテーマだと思っているんです。いま設計でできることというのは、なにが起きるかわからないような場所をつくっていくことです。このことをうまく言葉にしていきたい。建物の運用に関しては実際のそれぞれの局面に任せるしかないのは事実ですが、運用される可能性が低いからといって、最初からそういう場所をつくらないでおくことが蔓延しているんですよ。経済的に考えれば使うかどうかわからない場所をなぜつくる必要があるのかということになる。ですが例えば、街なかでただ屋根が架かっているだけの場所があるだけで、さまざまな使い方がなされる可能性があるわけです。そこで市場をやろうと考える人が現われたり、災害時の情報交換の場所として使われたり、いろいろと想定はできる。そういった想像を外して、まるで毎日同じことしか起こらないと考えることが世の中を支配している。管理する側だけでなく、それぞれの設計者も悪いと思うんです。みんながこの状況に慣らされてしまっていているから、経済の目的に合わせたことしかやらない。その流れから外れることをやると仕事から外されるのではないかという恐怖心から、設計者がエージェント化してしまう。そこでなにか主張しても結局最後は削られてしまうから無駄だとあきらめてしまう。それではだめで、やはりしつこくやらなければだめだと思っているんです。
内山先生の本を読ませていただいて気づいたのですが、実践的な話をされながら、行政批判はされないですよね。法律がよくないということも書かれない。

内山──あまりやらないですね。

塚本──よく、行政が悪い、法律が悪いと言ってしまう人がいるのだけれど、それだけでは問題の解決にはならないのではないかと思うんです。

内山──行政にも法律にも問題があることは大前提のようなところがありますからね(笑)。

塚本──大前提だから言わないんですね(笑)。

内山──ですが、なにかを批判して、私が正しいというスタンスはあまり取りたくないですね。もちろん自分が思っていることは言うのだけれど、自分の思っていることに対してもある種の不安を持ちながら言うという態度が必要だと考えています。行政が悪い、法律が悪いということを前面に出してくるのは、やはり私は正しいという態度の人が多いんです。それはちょっとちがう感じがしますよね。例えば、村だって間違いはするし、過去の歴史を見ていけば失敗の連続だという言い方さえできるでしょう。ですが村の良さは、絶えず自分たちで修正してきた結果、残しておいていいものが残り蓄積となっていったところです。つねに修正する強さをもち続けることが大事です。

塚本──関係性とともに考え、関係性に考えてもらうような関係のなかにわれわれは生きているのだから、立場を分けて、おまえが悪いと言ってもしょうがないですよね。

内山──原子力発電所を新しくつくるというような、絶対的に認められないことというのはたしかにあります。それに対しては、「だめなものはだめです」と言わなくてはならない。ただ、自分たちの生きる世界をどうつくっていくのかということに関しては、たんにだめなものはだめだというところにはとどまらない、修正していく力があるはずです。例えば、修正していく力がある家は、長いあいだ保っています。一方、修正することができない家は、寿命がくればそこで終わってしまう。僕は、いま東京ではマンションに住んでいますから、修正のしようがない(笑)。どこかの時点で住めなくなってしまう。

内山節『共同体の基礎理論──自然と人間の基層から』
(農文協、2010)
塚本──都市において、薄くなったり見失いがちな関係性をつくり直していくこと、あるいは産業化してしまった分を引き戻してくることが、大事な仕事になると思います。そういう仕事も先生が『共同体の基礎理論──自然と人間の基層から』でおっしゃっている「社会デザイン」にあたるのでしょうか。

内山──そうですね。ですが、広く見ればなんでも社会デザインになるんです。

塚本──ただ、関係性というのが重要なのですよね。

内山──その通りです。僕は関係性が主体になると思っています。上野村を例に話すと、早くからIターン的に村に来る人が多く、いまでも人口の2割くらいを占めます。われわれとしては、来てくれたからには残ってくれるのはうれしい。ですが、去っていってしまう人たちも若干はいるんです。去っていくことを拒否することはありません。肌合いが合う場所があると思うんからです。なにも絶対ここにいなければならないという決まりもない。まあ、ですがせっかく来てくれたのだから、ずっといてくれればうれしいわけです。ところが、村のお年寄りたちに言わせると、だれを残すのか、だれを追い出すのかは、「土地が決めるのだ」と言うんです。

塚本──なるほど。出て行った人たちもなんとなく救われる感じがしますね(笑)。

貝島──そうですね。人間関係が原因ではないと仰るわけですからね(笑)。

内山──やはり考え方の問題ですよね。人間は長生きしてもなかなか100年は生きられないですが、土地は何万年も生きている。すでに力関係がはっきりしていると考えたほうがいい。
建物にも同じことが言えて、さまざまな関係によってその土地ができているのだから、残る建物は土地が決めるんです。そういう意味では、いまの東京の土地なんて相当なストレスの塊になっていますよね。これほどまでに建物で埋め尽くされてしまったから、早く追い出してやろうと思っているかもしれませんね(笑)。

塚本──本当にそうですよね。東京はストレスの塊ですよね。

内山──人間側から見るより、この土地こそが神様で、土地に許してもらう建物をつくることのほうがずっといい。

塚本──建築で行なう地鎮祭は、いまだに神様から土地を借りる許しをもらう神事として生きていますね。自分の土地ではなく、神様の土地を借りて建てさせてもらうという感じが見てとれます。

「理解」と「諒解」、満場一致という合意のかたち

塚本──内山先生の本には、理論より納得することを大事にしてきたと書かれていました。住宅の設計においても似たようなところがあります。2008年に家の半分が本棚でできている《生島文庫》という家を設計しました。蔵書が多いために家族一人ひとりの個室の大きさが問題になっていました。そこで「あなたたちは、たくさんの本に囲まれた、いわば住み込みの司書なんですよ」と言ったら、家族全員が、たとえ部屋が狭くても蔵書が収まるのであれば問題ないと納得したんです。そういった納得の仕方、諒解の仕方を、建築の世界ではナラティヴとか物語といいますが、その力というのは、コミュニティを維持していくうえで非常に大事なんですね。

アトリエ・ワン《生島文庫》(提供=アトリエ・ワン)

内山──僕の場合は、知性で得ていくものを「理解」と呼んでいます。一方、知性も働いているのかもしれないけれど、身体性とか、霊性、生命性と言い直してもいいのですが、そうしたものを含めて納得していく場合を、「諒解」と呼んでいます。知性だけで考えていくときわめて合理的にできていて、なんの問題もないはずなんだけど、なんとなく体は納得していない、あるいは自分の命自体は納得していないという場合がありうる。逆に言うと、合理的に考えたらできそこないなんだけれど、なんとなく体や命は「これでいいんじゃないか」と感じる場合がありうる。最終的に人間を豊かにしていくのは、「理解」よりも「諒解」が大事にされる世界です。
例えば、冒頭で塚本さんもおっしゃっていましたが、「私には家もあり、貯金もあって年金にも入っているし、生活費にも余裕があって、なんの不安もないはずなのに不安でしょうがない」という人がいっぱいいるわけです(笑)。

貝島──その状態を合理的に「理解」すれば幸せなはずですよね(笑)。

塚本──そうですよね。金銭的に豊かに生活する条件がすべて整っている。「理解」と「諒解」では、時間の感覚が異なるのではないかと感じますね。「諒解」の場合は、長い尺度で自分自身を位置づけている感じがします。

内山──そうですね。「諒解」とは、「私は諒解します」というのではなくて、自然に生まれてくるものだと思うんです。それに対して「理解」というのは、「私が理解します」というものです。結局は、生まれてくるものにどう包まれるかということだと思うんです。生まれてくるもの、包まれているものに対して、なんらかの言語表現をしていくとするならば、先ほど塚本さんがおっしゃった物語ということになる。物語というのは、非合理なものを含めて展開できる手法です。

塚本──一見関係ないと思われているものどうしをつなぐことができますしね。

貝島──割り切れないことだったり、整理できないことだったり、やむをえないことだったりは、すべて関係のなかにあるのだという世界観が自然であるはずなのに、なんでも割り切れるものだという誤解を持ってしまっていますよね。

内山──柳宗悦は、合理的な理解は、便利な理解ではあるが、深い理解ではないと、じつにうまいことを言っている(笑)。たしかに合理的なものは便利にはちがいないんだけれども、深さを失っている。合理的にやれるものは合理的にやっておけばいいんです。だけど、そこでは捉えきれないもっと大きな世界があることを忘れてしまうとまずいことになる。

貝島──ええ、よくわかります。例えば、大学の授業などで議論をする場合、ひとりの発言を待って、別のだれかがそれに応えるというかたちが一般的です。ところが漁師さんたちの会議はやり方がまったく違います。ある議題が提示されると10人くらいが同時にしゃべり始める。あちこちで言いあいになっている。初めてこの様子を見たときはけんかをしているのかと思い、さあ困ったなあと思いました。議論に立ち会っていた学生が泣きそうになったくらいです(笑)。ですが10分くらいするとしだいに収束して、いつのまにか決まっているんです。

塚本──結論がどうなったのか、やりとりを見ていてもわからないときがあるんですよね。

貝島──もちろん無秩序ではなく、「あの人はこういうことを言っているようだから、自分はこういうことを言わなければならない」と、高度なやりとりが参加者のあいだで行なわれているんです。ヒートアップしすぎたときには、立ち会っている区長さんが、最後だけ発言することで場を収めることがあるのですが、基本的には自然に収束するのを待つという会議の仕方なんです。

内山──寄り合いの場合、伝統的に満場一致でしか決定がなされません。ですから、自分の考えを通すことと同時に満場一致にするにはどうすればよいかをみんな考えるんですね。

貝島──そうですよね。イエス、ノーの世界ではなくて、中間を狙っていく。すごく高い技術です。

内山──小さい村や集落であれば、お互いにやっている仕事も似ていたりしますし、したがって同じような関係のなかにいるわけですから、満場一致にするのであればだいたいこのあたりだなということがわかるんですけどね(笑)。
上野村の寄り合いもやはり満場一致で議決するんです。満場一致にするにはいろいろなやり方があります。例えば、僕はA案を提案していたのだけれど、ほかの人の意見はどうやらB案で固まってしまった。この場合、僕だけが異論を唱えていることになります。しかし寄り合いが、「内山さん、意見を下ろしてくれませんか」と言うことはありません。禍根を残すことはいっさい嫌うわけです。ではどうするのかというと、僕が自ら意見を下ろして、B案に賛成するのを待っている。そのことがわかっていても、自分の意見に固執したい場合もあるわけです。そういうときは、「みなさんの意見がB案で固まっているようなので、B案でいきましょう。ただし、B案が実行された後に再検討してほしい」と言うんです。そうすると、「それは当然だ」となり、後日、再検討のための寄り合いが開かれる。再検討の寄り合いではすでにB案が実行された後なので、B案がよかったのかどうかは、はっきりとわかっている。やっぱりみんなの言うとおりB案がよかったのだとしても、B案に賛成した人たちは自分たちからはそのことを絶対に口にしません。ですから、僕のほうから、「やってみたらみなさんの言うとおりB案がよかったので、これからもB案でいきましょう」と言わなければならないんです。その逆に、B案をやってみたら明らかに問題だらけで、だれもがそう感じていたとしても、僕はそのことを言ってはいけない。B案側の人が、「やっぱり内山さんの言うとおりでしたね。来年は検討し直しましょう」と言わなければならないんです。

塚本──すばらしい。ものすごく高度な間合いですね。

貝島──なるほど。お互いにお互いを立てているんですね。

内山──さらに別の場合があります。村にあるお寺は、村の人たちそれぞれが檀家であり、ずっと共同体として支えてきた。負担は大きくはないのですが、共同体として収穫物をお寺に奉納するという習慣が昔からありました。いまは金銭化しています。あるときひとりのおじいさんから、「もうやめようじゃないか」という提案がありました。住職は村から引っ越してしまって、なにかがあったときにだけやってくるようになっていたからなんです。だから「村の寺の住職として不適格だ」とおじいさんは言うんですね。あの住職を各檀家が支えるのは自由だけれども、共同体として支える必要はないという主張です。この意見はじつによくわかる。ただ、おおかたの人たちは、そんなに荒立てることもないし、いままでどおりでいいのではないかという意見でした。それに対しておじいさんは一言「この問題については、折り合いはつけられない」と言ったんです。ほかの意見には従わないということです。この時点ですでに満場一致にはならない。どうするのかなと思っていたら、そのときの司会役の人は、「折り合いがつけられないという意見が出ましたので、この問題に対してはいっさい討議をいたしません」と言うんです。討議をしないということは、いかなる決定もしないということになる。つまり、共同体としてはその寺を支えないという結論になるんです。各檀家がそれぞれ独自にやってくれということになり、結果的にはたった一言でそのおじいさんの主張が通ったかたちになりました。だから「折り合いがつけられない」という言葉はよほどの理由がないと言わない。これは上野村の場合です。寄り合いのルールは共同体ごとにさまざまにあるでしょうね。

塚本──興味深いですね。基本的にはやはりその後も長くいっしょに暮らしていくわけですから、その場だけの議論ではなく、さまざまに配慮をしあっているということですよね。

宮本常一『忘れられた日本人』
(岩波文庫、1984)
内山──僕の経験ではないのですが、いろいろな話を聞いていると昔はよくあったというのが、満場一致にはもっていきにくい議題にもかかわらず2、3日で決めなければならない場合のやり方です。どういうものかというと、満場一致になるまで徹底的に議論するらしいんです。決まるまで議論し続けるので、徹夜になります。途中で1時間だけ仮眠を取ったり、おにぎりを食べたりしながら、とにかく延々と続ける。そのうちにみんなふらふらになるそうです。うちに帰って布団で寝たいから、「もうなんでもいいから決めてくれ」という状態にまでもっていって満場一致にするのだそうです(笑)。

貝島──全員で持久戦にもっていくわけですね。

塚本──それも面白いですね(笑)。まさに身体性が重要ですね。

内山──宮本常一が『忘れられた日本人』で、対馬の寄り合いについてこれと同じやり方を紹介していますから、日本中にあったのではないでしょうか。

受け継がれるものとの関係性の構築をめざして

能作文徳氏(中央左)、佐々木啓氏(中央右)

能作文徳──東京において、身体性との関わりのなかで時間概念をつくり直すような住宅のつくり方の可能性はあるのかということを考えているのですが、先生はどう思われますか。

内山──住宅に限らないのですが、受け継がれていかないものには、どこか欠陥があると思うんです。いまは産業のあり方に引っ掻き回されてしまっていますよね。かつては産業も受け継がれていくものだったはずです。そうでないと、働いている人間は幸せではありません。
住宅ひとつとっても、いまはそもそもつくるときに受け継ぐことが考えられていないわけですよね。これからの住宅はだれが受け継いでいくのかを考えていかなくてはならない。社会の流動性が高くなっていますので、昔のように長男が親の家を受け継ぐとばかり言っていられない時代であることはたしかです。家族のだれかが受け継ぐことはいまでもひとつの方法ですが、一方で、受け継ぐ子世代がいない世帯もありますので、社会の仕組みとして住宅を受け継いでいく方法をつくっていかなければなりません。べつに血縁関係にある人が住まなくたっていいわけです。その場合、受け継ぐといってもその住宅は中古住宅という名の不動産でしかないので、適当な価格だから買うというだけにとどまってしまう。そうではなく、それぞれの家の住まい方を含めて受け継いでくれる人が住んでくれることを保証していかないと、時間の蓄積していく家はつくれません。

塚本──街の暮らしを受け継ぐためにはこの家も必要なのだというように、お互いがお互いを支え合うような街と家の関係が大切になりますね。

内山──神田にあるワンルーム・マンションのオーナーさんが、学生に対して少し安く貸しているんです。入居するには条件があって、神田明神の御輿を担ぐことや防災訓練への参加などが義務づけられています。家賃を安くする代わりに、街のなかの共同体的仕事をきちんとやってくれる人を募集しているんですね。家賃を安くすれば当然一戸当たりでは収入減になるわけですが、この条件であれば定着率はいいでしょうし、人気が高ければ空白期間も低く抑えられるので、総合収入は悪くないのではないかと思います。住むほうは、むしろそういうことをやりたい人が集まってくるのですから、地域の活性化にもなる。このように工夫をすればできることが、われわれにはたくさんあるはずです。例えば、神田明神の氏子さんの家を売りに出すのであれば、このマンションと同じように、ちゃんと氏子になって祭りをやってくれて、近所づきあいもしてくれる人という条件をつければいいですよね。

塚本──現状では経済的なロジックで次にだれが住むのかが決まってしまいますからね。不動産とは呼ばないで、街と家との関係性などもすべてパッケージしたものとして売り出せればいいですね。

内山──不動産広告に出すのだとしても、「神輿を担ぐこと」「防災訓練に参加すること」などきちんと条件を提示していけば(笑)、魅力を感じて反応してくれる人はいると思うんですよね。

佐々木啓──私は生まれが島根県の田舎の方なので、内山先生の今日のお話は、育ってきた環境に似たところもあって実感が湧きます。私は小さな町の将来を考えていくとき、故郷を良くしていこうという感覚は同郷の人であれば誰にでも共有される感覚だと思っていたのですが、縁あって地元の小学校の改築計画に携わったときに、必ずしもそうではないのだと感じたことがあります。自分が関わる範囲の利害関係しかみえない人もいる。都市であればいろいろな考えを持つ人々が共存することはあっても、小さな町はそれほど多様ではないと信じていた身としては考えさせられる経験でした。内山先生の暮らしている上野村のみなさんは、村の生活を継続させていこうとする積極的な認識をどのように共有されているのでしょうか。

内山──上野村ははっきりしていて、村の人たちの言い方をそのまま伝えれば、「村が嫌いなやつは出て行けばいい。そもそも高度成長期に村の暮らしが嫌いなやつは出て行った。残ったのは村が好きなやつばかりだ。だからなんとか村を残そうと思う。いまではもう嫌いなやつは出つくした」と言うんですね(笑)。

貝島──すごい! 最強ですね(笑)。

塚本──人口はどれくらいですか?

内山──1,400人くらいですね。村としては集落を含めてすべてを維持していこうとしています。外から入ってくる人もけっこういるんです。ただ、ふだんは空き家でもお盆などにはみんな帰省してきますので、新しく入ってくる人たちには貸せないんです。だから村営住宅をつくっています。このままいくと危ないかもしれないという集落に村営住宅を2、3軒ずつくらいばらばらにつくっていく。新しく来た人たちにとっても、そういう環境に入ったほうがなじみが早いですし、若いというだけでその集落ではすぐに重要人物になってしまいますからね(笑)。

佐々木──先ほど、外との関係性があるからこそコミュニティが支えられる構造があるというお話しがありましたが、上野村ではそれがうまくいっているということなのでしょうか。

内山──意図的にやっている面もあります。僕らとしては、「どこに住んでいようと、気持ちは上野村」という人たちが3,000人くらいいれば、村の人口は1,000人くらいまで減ってもかまわないと考えています。
村の小学校は、Iターンの人たちが来ていることもあり、1学年10〜15名ほどいますので、なんとか複式学級(2つ以上の学年をひとつにした学級)をやらずに維持できています。山村留学生として小学生の高学年と中学生を、毎年20名くらい受け入れています。そういう人たちのなかに、大学を出てまた村に来る人もいます。さまざまなかたちでサポーターをつくっていけばいい。上野村には、無給で村の顧問のようなことをやってくれる人たちが、村の外にもたくさんいるんです。そういう人たちの協力もあって維持しています。 じつは上野村には、村のメンバーだけではできない仕事がたくさんあるんです。2、3年前になるのですが、木質ペレットの工場をつくりました。それに伴って村内の暖房をペレットストーブに切り替えているところです。ペレット工場はコンピュータで製造を管理しています。機械を買ってきてもいろいろと初期トラブルが起きるんですよね。プログラムの修正なども必要になってくる。そのたびに業者さんに来てもらうのはたいへんです。来たとしても直したらすぐに帰ってしまう。だからまた次にトラブルがあれば、またわざわざ遠くから来てもらわなければならない。ですが、上野村の場合は、うまく稼働しているんです。東京でコンピュータ系の仕事をやっていた人物が、東京での生活がいやになって上野村に来て、林業をやっていた。それでペレット工場の機械の管理をするのにちょうどよい人材だということで、村長に指名されたんですね(笑)。林業をやっているので木のことがわかるし、自分でプログラム修正ができる。だからなにかあっても手際よく対処できる。在来の村の人たちだけではできない、たいへん重要な仕事です。
今度、このペレットを使った発電機を導入するんです。村の課長と、東京在住の顧問の人と2人してドイツの村のペレット発電(木質バイオマス発電)を見学してきてもらいました。どうも調子がよさそうなので、すぐに発電機の発注をしたそうです。顧問は英語ができるので、通訳も必要ありませんし、往復の航空券だけで行ってくれた。ですから非常にコストが低く抑えられているんですよね。議員さんに現地視察をしてもらうようなやり方をしていたら、時間もお金も数倍かかってしまう。
そういう人たちがたくさんいるから、多くのことがうまくいくんです。例えば、祭りでは、踊る人のほかに笛を吹く人が必要です。笛の音色がシナリオを伝える役割をするので、踊り手にとっては、笛を吹く人がとても重要なんです。村の笛吹き役のおじいさんが総入れ歯になったことで笛を吹けなくなり困っていたのですが(笑)、幸いにして、「やらせてもらえるのであれば、むしろ教えてほしい」という若い人が現われました。そういうふうに一致協力してやっていけばいい。

塚本──いいですね。上野村に行ってみたい。

内山──いらしてください。自分たちだけで閉じこもってしまうと、「もうだめだ」とか、「それもしょうがない」という話になっていきがちです。また、地域づくりをするにもいちばん持続させるのが難しいケースは、新興住宅地など、一部に都市的雰囲気が入ってきている田舎なんです。

塚本──都市住民と農村の人が混じっている場合は、両者の価値観がちがいますからね。

内山──うちははなはだしく田舎なので、都市的な住宅地などはつくりようがありません(笑)。ただ、新しく入ってくる人たちには、青年団と消防団に入ることは義務づけています。「やりたくないんだったら来なくていいです」と話しています。

塚本──「建築は目的なのか、手段なのか」「デザインの主体は関係性である」「働くことを通して関係がつくられる」「理解と諒解の違い」など、これまでの社会や建築デザインを相対化するとともにひとつの目標となるようなお題をいただきました。これから長く考えることになりそうです。 しばらくしたらまたお話を伺えるように、われわれも精進したいと思います。本日はありがとうございました。

[2014年5月6日、立教大学にて]


内山節(うちやま・たかし)
1950年生まれ。哲学者、立教大学大学院教授。NPO法人森づくりフォーラム代表理事。群馬県上野村と東京で生活をする。主な著書=『労働過程論ノート』(1976)、『自然と人間の哲学』(1988)、『時間についての十二章』(1993)、『自由論』(1998)、『「里」という思想』(2005)、『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(2007)、『共同体の基礎理論』(2010)ほか。

塚本由晴(つかもと・よしはる)
1965年生まれ。建築家、東京工業大学大学院准教授。貝島桃代とアトリエ・ワン主宰。アトリエ・ワンの作品=《ハウス&アトリエ・ワン》(2006)、《みやしたこうえん》(2011)、《BMW Guggenheim Lab》(2011)、《Rue Ribiere》(2011)ほか。アトリエ・ワンの著書=『空間の響き/響きの空間』(2009)、『Behaviorology』(2010)、『WindowScape 窓のふるまい学』(2010)、『A Primer』(2013)、『コモナリティーズ』(2014)ほか。

貝島桃代(かいじま・ももよ)
1969年生まれ。建築家、筑波大学准教授。塚本由晴とアトリエ・ワン主宰。著書=『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』(2010)

能作文徳(のうさく・ふみのり)
1982年生まれ。建築家、東京工業大学大学院建築学専攻助教・博士(工学)。2012年東京工業大学大学院博士課程修了。2008 年、Njiric+Arhitekti勤務。2010年、東京建築士会住宅建築賞。2013年、SDレビュー2013鹿島賞。作品=《ホールのある住宅》(2009)、《Steel House》(2012)ほか。

佐々木啓(ささき・けい)
1984年生まれ。建築家、東京工業大学補佐員。2012年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。2010 年スイス連邦工科大学留学。2009年東京工業大学大学院修士課程修了。


201406

特集 「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係


特集にあたって
流動する社会と「シェア」志向の諸相
所有から共有へ? ──共同利用と共同管理の在処
建築デザインの資源化に向けて──共有可能性の網目のなかに建築を消去する
都市のイメージをめざして
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