現代建築思潮の前線

門脇耕三(明治大学理工学部建築学科専任講師)

ポストモダニズムの失脚から

1980年代に全盛期を迎えたポストモダニズムは、筆者が大学に入学した96年当時、学生の目から見ても、既に色あせたものとなっていた。
建築におけるポストモダニズムは、古典主義的な建築言語を自在に引用し、コラージュするかのように表層に散りばめる、装飾過多なデザインとともにイメージされることだろう。ポストモダニズムは、機能主義・合理主義を標榜し、また抽象芸術運動としての側面も併せもっていたモダニズムを超克することを目指すものであったから、モダニズムが否定した装飾を、建築に取り戻そうとする欲望を抱えていたことは確かである。しかし日本では、ポストモダニズムによって復権したかのように見えた装飾は、バブル経済で浮き足立つ都市を飾り立てるものとして機能し、過剰に装飾された建物は、事実そうした文脈においてもてはやされたから、バブル崩壊後の経済停滞が誰の目にも明らかになるにつれて、ポストモダニズムは急速に失速していくこととなる。
本論で試みるのは、このポストモダニズム失脚後の日本の建築思潮のレビューである。ただし、筆者は建築史の素養を持っておらず、日本の建築思潮を歴史的に俯瞰するものではないことをあらかじめ断っておく。したがって、個別の建築思想や運動を位置付けるに際して、少なからず筆者の主観的判断が差し込まれることとなるだろうが、むしろ本論で目指すのは、そのようにして初めて見えてくる建築思潮のダイナミズムから、次なる思想的前線が向かう先を予見することにある。

レム・コールハースというメルクマール

ポストモダニズム以後、日本の建築思潮に最も強い影響を与えた存在は、間違いなくレム・コールハースだろう。筆者がコールハースを認識したのは、記憶が正しければ90年代に建築誌上で企画された建築家アンケートにおいてであり、回答者の大多数が「注目する建築家」として彼の名前を挙げていたことが強く印象に残っている。
コールハースは、フィリップ・ジョンソンらによって組織され、1988年にMoMA(ニューヨーク近代美術館)にて開催された「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展に、フランク・ゲーリー、ダニエル・リベスキンド、ピーター・アイゼンマン、ザハ・ハディド、ベルナール・チュミらとともに招かれたことから、日本では当初、脱構築主義(デコンストラクティヴィズム)を標榜する建築家であると理解されていたように思う。
脱構築主義とは、フランスの哲学者であるジャック・デリダの思想であり、建築における脱構築主義的なスタイルと聞けば、歪んだ強力な重力によってひしゃげたかのような、不安定な形態によって特徴づけられるデザインが想起される。また思想としての脱構築主義は、ポストモダニズムと強く結びついていたため、建築における脱構築主義も、ポストモダニズムの支流として捉えられることが多い。しかし「デコンストラクティヴィスト・アーキテクチャー」展に招待された建築家のうち、デリダに関心を寄せていたのはアイゼンマンとチュミのみに過ぎず★1、コールハースの独特の思想は、その後の日本においても徐々に認識されていくこととなる。
コールハースの初期の代表的な仕事としては、1978年に出版された著書『Delirious New York: A Retroactive Manifesto for Manhattan』(邦訳書:『錯乱のニューヨーク』筑摩書房、1995)が広く知られており、91年頃には一部の学生の間で必読書として認識され、原書のコピーが出回るような状況だったという★2。また、95年に出版された『S, M, L, XL』が当時の日本の建築界に与えた影響も、絶大なものがあった。
『錯乱のニューヨーク』は、原書の副題にあるように、マンハッタンをめぐるメトロポリス的状況を、遡及的に(レトロアクティヴに)定式化した建築理論書であり、そこでは市場原理主義によって召喚されたテクノキャピタリズム(工学的な知識や技術体系に基づく利己主義的な利潤追求)によって奇形的に変質する都市と巨大建物の異様な様相が、諦念にも似たアイロニーを交えてレポートされている。また『S, M, L, XL』は、コールハースと彼が率いるOMAの20年以上に及ぶ活動や関心事の膨大な断片が、スクラップブック的に寄せ集められた奇書であるが、そこに収められたプロジェクトの写真や図面、コールハースによるテキスト、どこからか持ってこられた印象的なイメージなどは、コールハースの関心が『錯乱のニューヨーク』で語られたことの延長線上にあり続けていることを物語っている。また、数々のダイアグラムやインフォグラフィクスがコラージュされていることも、本書の大きな特徴であり、たとえば横浜ベイエリアのマスタープラン(1992)についてのページでは、都市的なアクティビティの時間的遷移がダイアグラムとして記述され、それに基づいて設定されたプログラムの構成を表すインフォグラフィクスが、都市や建物の形態に翻訳されていく過程が見てとれる。そして、ここで述べたようなコールハース的な視点や手法、すなわち「現象から遡及的に組み立てられる理論」、「市場原理主義的工学主義」、「プログラムから建物へのダイアグラマティックな変換」などは、いずれもポストモダニズム以後の日本の建築思潮に対して、一種のメルクマールとして機能しうるのである。

プログラム・図式・設計ルール

古典主義的な建築言語を参照するポストモダニズムは、そのある意味で戯画的な形態とは裏腹に、建築デザインを理解しにくくする側面もあった。歴史的な言語を繰るためには、ある程度の建築的リテラシーを必要とするし、それは建物を体験する側にとっても同様である。また、その理論的根拠の多くが、ニュー・アカデミズム★3的な現代思想に置かれていたことも、建築におけるポストモダニズムをより難解なものとした。しかしニュー・アカデミズム的な潮流が勢いを失うにつれて、ポストモダニズム的な建築言語を、一種のジャーゴン(特定の集団のみにしか理解されない難解な語)と見なす風潮もまた高まっていったのだろう。したがって、ポストモダニズム以後の日本の建築は、平明さへの志向を帯びることとなる。
このような中にあって、建物を組み立てる根拠をプログラムに求め、それを明快で図式的な平面や断面として翻訳することが、90年代の日本に大きなうねりを形成していくこととなった。日本の現代建築作品は、いまだに図式的・ダイアグラム的な構成によって特徴付けられているといってよいが、90年代当時、この動きの先鋒と見なされていた建築家が、妹島和世である。
ダイアグラムがそのまま建ちあがったかのような90年代の妹島の作品は、図式が建物の全体構成の理解を容易にすることを、明快に示すものだった。ただし、プログラムや合理的な機能配置を根拠とし、それらに忠実に建物を組み立てること自体は、決して目新しいものではなく、モダニズム的な機能主義との親和性さえ指摘可能である。しかし、ここで目指されたのは、プログラムを根拠に置くことそれ自体ではなく、むしろそのようにして組み立てられた建物の「全体構成」に新しさを付与することだったのだろう。ビルディングタイプが平面ダイアグラムを用いて表されることが多いことからわかるように、図式的な構成は、建物をタイポロジカルに表現する効果があり、妹島やその協働者である西沢立衛によって、発明的な図式が付与された建物は、まったく新しい建物の「タイプ」の誕生を、作品そのものによって感じさせるものだったのである。そしてこれ以降、それに魅せられ、妹島に続こうとした建築家もまた、新しい空間図式の発明に専念していくこととなる★4
空間をタイポロジカルにとらえる思考において、個々の建物の本質は、それを特徴づける抽象的な図式にこそ宿ると仮定されるから、図式によって規定される論理をはみ出して発生する、建物の個体的な変異が問題とされることはない。それどころか、建物は論理的普遍性につながる図式性を堅持しなくてはならないから、こうした態度に基づく限り、建物の抽象性を破壊するような建築形態の変奏は忌避されるし、建物はその表層においても、塗装される面は白く塗り込められ、あるいは塗装されない面は素材色のままにとどめられ、ポストモダニズム的な作品とは対照的な表れを獲得することとなる。すなわち装飾、あるいは建築家の私的で内発的な創意は、作品から遠ざけられていくのである。
平明さへの志向は、建物を論理的に組み立てることを要請するから、これが建築家の内発的な創意の排除に向かうことは、ある意味で当然の帰結だろう。その後、こうした志向は、建物の構成のより上位に位置し、設計における数々の決定を根拠づける、メタフィジカルな「ルール」を重視する態度へとつながっていくこととなる。

他者の許容

99年に青木淳が発表した論文「決定ルール、あるいはそのオーバードライブ」★5は、設計におけるルール設定の重要性を強く印象づけるものであった。ここで青木は、空間をつくる根拠、すなわち決定ルールにしたがって創作する空間のつくり手は、「まるで自動運転に身を委ねたドライバーである」と形容する。つまりそこには、ルールの論理的展開によって空間が自律的に生成していくイメージを見てとることができるのであるが、その一連の手続きに数学的な整合性さえ担保しようと試みるのが、計算機(コンピュータ)の飛躍的発達を背景とした「アルゴリズミック・アーキテクチャー」などの動きであると理解することもできるだろう。
ただし、この青木の論文の真髄は、論理的な手続きに則りながらも、その論理フレームを超える存在さえ許容する空間構築の方法論を提示したことにある。建築家が設定したルールにしたがって忠実に展開された空間は、そのルールの枠組みの中で完結した閉塞的な空間体験をもたらしかねない。対して青木は、決定ルールはありうべき建物の形態やプログラムから導き出すべきではないことを明言するとともに、そのことを誠実に受け入れるならば、無根拠であることに耐えうる決定ルールに「より意識的に身を委ねて、それが導いてくれる未知の世界まで、とりあえずは辿り着いてみなくてはならない」ことを宣言するのである。
空間を決定するルールの枠組みからはみ出た存在とは、すなわちその外部にある他者にほかならない。「決定ルール、あるいはそのオーバードライブ」の2年後に発表された論文で、青木はあらかじめ決められた主体が不在の空間の自由さを説いた★6。予定された者が、予定されたとおりに楽しむ遊園地よりも、誰かが何かを行うことによって、そのあり方が初めて決定される原っぱのような空間。あるいは、廃校となった小学校を美術館として使ったときの方が、美術館として計画された美術館よりも、展示がずっと生き生きと見えること。こうした比喩によって、青木は予定外の他者を許容する自由で開放的な空間のイメージを提示するとともに、自由な空間は、ありうべき形態やプログラムとは無関係な、つまり「無根拠な根拠」によって導き出されるだろうことを理論化したのである。
論理的な手続きにしたがいながらも、その外部に位置する「他者的なるもの」を設計のプロセスに召喚しようとする態度は、おそらく2000年代以降の日本の建築の潮流を決定づけている。特に2000年前後にキャリアを開始した、70年以降生まれの建築家に対する影響は絶大であったと見るべきだろう。たとえば吉村靖孝は、法規制や市場の要請など、これまで建物が暗黙的に従ってきた社会的制約を「プロトコル」という語を用いて定義し★7、作品を通じて、その場所に潜むプロトコルを顕在化させることを試みるが、ここでプロトコルを他者的なるものとして捉えることも可能だろうし、あるいはアルゴリズミック・アーキテクチャーに見られる設計者との対話的設計ツールとしてのアルゴリズムも、設計者の外にある他者であると理解することができる。

新しいコンテクスチュアリズム

ところで吉村が提唱する「プロトコル」は、建物が置かれる社会的な場所を明示する概念であるから、これは一種のコンテクストにほかならない。つまり吉村の関心は、地理的な場所性にとどまらず、より広義のコンテクストへと向けられている。同様に、メジロスタジオが試みた不動産言語の建築設計への援用★8も、不動産的慣習を、社会的空間における一種のコンテクストとして捉える態度に基づいているといってよい。
こうした新しいコンテクストへ向けられたまなざしは、コンテクストに対する建物の個別的な反応、すなわち建物の個体変異を肯定的に捉えるものであり、これは建物を厳格な図式性や抽象性から解放する回路ともなり得るものである。ここで、建物の個体的な変異のありようにいち早く着目した建築家として、アトリエ・ワンを取り上げておかなくてはなるまい。
アトリエ・ワンの仕事は、建築家としての作品ばかりではなく、彼ら独自の視点に基づく東京のフィールドワーク・リサーチについても広く知られている。後者については、まったく異なるプログラムが異常なかたちで複合した施設に関するリサーチや、彼らが「犬小屋以上建物以下」と表現する極小な構築物のコレクションが書籍としてまとめられている★9が、これらは決して、東京という特異な都市に生じた奇形的な建物を、見世物小屋的に陳列するものではない。東京の極小な構築物は、たとえば再開発地区と既成市街地のはざまに取り残された変形敷地に建設されたものなのであり、都市のダイナミズムによって、建物が極端な個体変異を遂げた結果なのである。つまりアトリエ・ワンのリサーチは、建物の個体変異のありようの観察を通じて、東京を新たに記述する試みなのであり、そこにはコールハースによる『錯乱のニューヨーク』と同様に、現象から遡及的に理論を組み立てる態度を認めることができる。従来的には何らかの現象を引き起こすものとして位置付けられていた理論は、そこでは現象との逆転した関係を取り結んでいる。
一方で、理論と現象が逆転する『錯乱のニューヨーク』における論理構成を指して、「ほかの分野の人にこれが理論なのだと言ったら、建築家はもはや社会や世界の問題を解決したり変えたりすることをやめたと思うのではないでしょうか?」と看破する、丸山洋志による批判★10も見逃すことはできない。ただしアトリエ・ワンのリサーチは、都市において形成される一種の生態系の原理を読み解き、そこに建物を正しく位置付けることによって、暴力性を増すテクノキャピタリズムが切断しつつある都市的生態系の時間的連続性を、未来に向けて延長させようとする試みであると理解すべきである。むろん『錯乱のニューヨーク』などに見られる理論と現象の逆転は、テクノキャピタリズムの台頭と密接に関連したものであり、たとえばここ最近注目を浴びているビッグデータ解析なども、現象に対して理論を上位に位置づける理学的美意識がもはや無効化していることを象徴するものだろうが、むしろアトリエ・ワンの試みは、コールハースが見せたテクノキャピタリズムへの皮肉交じりの諦念を超えて、工学主義が台頭する時代に即しながら、それを乗りこなす手段を提示しているという点で、実効的なアプローチであるというべきなのである。

テクノキャピタリズムに対する戦略

建築における平明さへの志向は、一方で、人間が生来的に備える身体感覚を最大限に研ぎ澄ますアプローチも生みだした。たとえば石上純也の作品は、個別には極めて独創的であるが、同時に生得的な身体感覚を鋭く刺激するという点で、地理的・時間的隔たりを超えた普遍性を備えている。また、こうしたアプローチは現代美術との親和性が高く、石上は実際、多数の美術展への出展歴を持つ。しかしこうした動向を、建築のファインアート化と呼び、建築家は直接的に目に見える表層ではなく、それを下部から支える社会構造こそ設計すべきであると主張するのが、藤村龍至である。社会思想の分野において、こうした社会構造は「アーキテクチャ」と呼称されるが、つまり藤村は、アーキテクチャの設計者としてのアーキテクト像の確立を目論むのである。
現代的なアーキテクト像を打ち立てるに際しての藤村の戦略は、まず最初に理論構築を行うという点で独特である。ただしこうした戦略は、かつての建築家においてはむしろ一般的なものであった。しかし理論と現象の力学が逆転する現在、思想的な立場を言葉によって明確に表明する建築家は少数派となり、たとえば思想や運動に名前を付すことによって、他の思想との分水嶺を引こうとする例もほとんど見られない。藤村は、そうした中にあって特異な立ち位置を占めており、自身の立場を「批判的工学主義」として思想的に明確化している。
批判的工学主義は、テクノキャピタリズム的な工学主義に対して、建築の芸術性を武器に抵抗するのではなく、その前提となる、あるいはそれによって生じるアーキテクチャを読み解くことによって、批判的に乗り越えることを標榜するものであり★11、その方法論として、藤村は「超線形設計プロセス論」と呼ぶ設計方法論を提唱している★12。超線形設計プロセス論は、建築設計のプロセスを、互いに独立した決定プロセスの集合へと分解しようとするものであり、藤村は、その建築設計への適用によって、法規、慣習、構造・設備、コストなども含めた広義のコンテクストを建物に取り込みながらも、効率的な設計が可能になると主張する。さらに現在、超線形設計プロセス論は、多様な意見をオープンプロセスで設計に取り込み、結果として社会や市民の集合的知性の建築化を実現可能にする方法論としてバージョンアップされている★13
超線形設計プロセス論は、広義のコンテクストを段階的に、つまり論理的明快性を伴って建築設計に反映させるものであるという点で、これまでの建築思潮の延長上にあるといって良いだろう。しかしここで興味深いのは、藤村自身が指摘しているように★14、コンテクスト、すなわち環境を構成する要素をコラージュ的に建築に取り込むという方法論が、ポストモダニズムの一つの源流をなしたロバート・ヴェンチューリが提唱する理論との親和性を高めていることである。そもそもポストモダニズムには、歴史的な都市が漸進的に改変されていく過程の観察によって理論化された側面もあり、80年代からの30年が経過し、いよいよ時間を積み重ねた日本の都市において、その言語を古典主義的言語から脱却させた、新しいポストモダニズムが再度リアリティを高めつつある可能性も否定できないのである。

おわりに──多様化する建築思想

ポストモダニズム以後から出発し、再びポストモダニズム的思考が胎動を始めている気配を感じ取ったところで、散文的に進んだ本論をひとまず締めくくりたい。ただし、伊東豊雄による《せんだいメディアテーク》(2000)に始まる新しい構造表現主義的な潮流や、その直接的な後継者ともいえる環境建築における試み、3.11以後のコミュニティへの関心の高まりなど、本論で触れることのできなかった思想的潮流も枚挙にいとまがない。このことは、高度に複雑化する社会に生じている数々のニッチ(生態的地位)に適応するため、建築家像そのものが多様化していることの表れと見ることも可能であり、したがって現代における建築思想もまた、拡散と棲み分けの方向へ進んでいると考えられるのである。
ところで、本論でメルクマールに置いたコールハースは、最初期に《エクソダスあるいは建築の自発的囚人》(1972)という作品を発表している。これはロンドンが巨大な壁で分断された後、その内側に自発的に囚われ、逆説的な自由を享受する人々の物語を描くものであるが、それは現代の拡散する建築思潮を予言的に戯画化したものとも捉えられる。この不吉な問いかけに、果たして遠くない未来の建築思潮は答えられるだろうか。建築思潮の前線は、緊張感を高めている。

★1──入江徹「展覧会:デコンストラクティビスト・アーキテクチュアとその背景」(『日本建築学会計画系論文集』No.551、日本建築学会、2002)参照。
★2──南泰裕+天内大樹+市川紘司+丸山洋志「〈建築理論研究01〉──レム・コールハース『錯乱のニューヨーク』」(「10+1website」、LIXIL出版、2013)参照。
★3──ニュー・アカデミズムに厳密な定義はないが、主にフランス現代思想の流れを受けて展開した、日本における人文科学・社会科学における潮流を指す語であり、思想家の浅田彰による難解な著書が80年代初頭にベストセラーとなり、社会現象化したことなどを受けて、マスコミが名付けた造語だと言われている。
★4──ただしこの指摘は、妹島や西沢が建築をタイポロジカルに捉えていたことを意味するものではない。一時期の妹島と西沢の図式への偏向は、本人がたびたび述べているとおり、むしろ建築の全体構成の平明さそのものを志向するものであり、空間の経験が現象的な透明性を帯びることを目指すものである。彼らの建築にタイポロジカルな側面を読み取ったのは、むしろ彼らに続く建築家たちであるという方が正確だろう。
★5──青木淳「決定ルール、あるいはそのオーバードライブ」(『新建築』1999年7月号、新建築社、1999)参照。
★6──青木淳「『原っぱ』と『遊園地』」(『新建築』2001年12月号、新建築社、2001)参照。
★7──吉村靖孝『ビヘイヴィアとプロトコル』(LIXIL出版、2012)参照。
★8──メジロスタジオ+門脇耕三「異なる価値観の同居の先に」(「10+1website」、LIXIL出版、2012)参照。
★9──それぞれのリサーチの成果は、貝島桃代+黒田潤三+塚本由晴『メイド・イン・トーキョー』(鹿島出版会、2001)および東京工業大学建築学科塚本研究室+アトリエ・ワン『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』(ワールドフォトプレス、2001)として出版されている。
★10──★2参照。
★11──藤村龍至「批判的工学主義としての建築」(『JA』No.70、新建築社、2008)など参照。
★12──藤村龍至「超線形設計プロセス論──新たなコンテクスチュアリズムへ」(『10+1』No.48、INAX出版、2007)など参照。
★13──塚本由晴+青井哲人+工藤和美+藤村龍至ほか「日本現代建築における歴史認識をめぐって」(『SD2013』、鹿島出版会、2013)参照。
★14──★13参照。


かどわき・こうぞう
1977年生まれ。建築計画、建築構法、建築設計。東京都立大学助手、首都大学東京助教を経て、現在、明治大学専任講師。http://www.kkad.org/


201404

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