ストリートの終わりと始まり
──空間論的転回と思弁的転回の間で

上野俊哉(社会思想史、批評家)
かつて雑誌『現代思想』で1997年5月に編まれた「特集=ストリート・カルチャー」が、日本語環境では「ストリートの政治」という切り口の端緒であるという。筆者はこの号に依頼され原稿を書くには書いたのだが、時差もあって送信が一日遅れてしまって落としていた。デュッセルドルフ近郊の山のなかで催された無許可の野外パーティで一晩踊りたおしたためだった。
その夜の出来事はその後のいろいろを変えた。ストリート、つまり街角に蠢く裏の広がりや動き、それらを醸す気分の律動のようなものを日常に感じるようになったことが大きい。『現代思想』の当時の編集長の考えや姿勢に、だんだん違和やへだたりを感じはじめたのも、この時期であったのは今となっては面白い。
ここでは「ストリート(的なもの)」とは何か? ということについて、あらためて考えてみる。

「ストリートはどこにあるのか?」、あるいは「ストリートはどこへいったのか?」、この問い方だとストリートは前面に出てきたり、消えたりするものということになる。しかし、それは「ストリート系」という場合のようにファッションやスタイルに関して、あるいはそうした視角からしか街角や軒先を見ていない場合にかぎられる。むしろストリートは年代や地域に関係なく横断的に広がっている。個々の実存や生にとってはすこぶる特異的な出来事を提供するけれど、世界全体の、あるいは非物体的な価値の宇宙から考えれば、ストリートもまたほかの全てのモノと同様にフラットな対象objectsのひとつであることに変わりはない。

まず、ものごとを年代やディケイドで区切って整理するのはやめにしたい。こんなことを物書きや研究者が真顔でやっていられるのはせいぜい合衆国の一部と日本語環境ぐらいだろう(たしかにブログ圏やジャーナリズムなら、どこの社会でも事情は似ているかもしれない)。なぜ年代区切りの議論が駄目かと言えば、それはあらかじめ主要な動向──つまりは市場に神経政治学的にチューニングされた感性──に同化した多数派(マジョリティ)の画一化した欲望や無意識の行動様式を疑わない感性や精神を増殖させるという意味でつまらないし、危険であるからだ。68年的なものはすでに70年代を準備していたし、80年代後半は事実上、90年代に政治/文化状況としては突入していた......このような事例は、世界中で横断的に起こっているものごとの細部を見ていけば普通に了解しうる。
本質的にディケイドという区切りはいつも場違いに設定され、何かしら異なる時代の出来事のエージェントを意図に関係なく召喚してしまうがゆえに、つねに否応なく「ずれ」をはらんでいる。だが日本語環境の言論プロレスでは、エンタメ上の優位を保つ決め技がいつまでたっても「世代論」と「ディケイド論」にあるかぎり、この構図は簡単に変わらないだろう。土着的(プロヴァンシャル)な言論プロレスの中身は地域や時代を超えることなく消えていく。日本語環境では地下鉄サリン事件と神戸の地震があった1995年に特別な意味を見出すのがお歴々の常套だが、一歩、日本語環境の外に出れば、そんな区切りは68年や89年の「出来事の特異性/範例性」からしてもほとんど全く意味をなさない。日本語環境でガラパゴス的なのは携帯だけではく、思想や理論もそうなのかもしれない。
同じように日本語環境のブログやSNS圏でしばしば語られる「ストリート vs. ショッピングモール」という対立も虚構というか、みみっちい世代間対立や趣味の違いを煽るだけの空疎な幻想でしかない(筆者にはおよそ理解しがたい取り合わせだが、たまに野外イベントでオーガニックフードも食べるが「ラーメン二郎」にも並ぶという「引き裂かれた」身ぶりが、人によっては十分にありうるように)。こういう捏造された対立の構図でしかものごとを考えられないことじたい、「ニューロ・マーケティング的」でかつマッチポンプ的な「検索脳」ウィルスに思想侵入されている証ではないか(こうした動向は「ニューアカ」と広告代理店文化の負の遺産と言える)。

雑誌『GS』や『都市』の流れをくむ雑誌『10+1』の初期4号では名前を出さない第三の編集委員として、当時住んでいた多摩ニュータウンや郊外都市の特集やフィールドワークに関わった。そのとき考えていた個人的なモチーフは、「郊外都市とその環境のジェントリフィケーションやモール化には階級闘争を見えにくくする何かがあるのではないか?」という問いだった。「格差社会」論が一般に語られるようになった現在からすると、いささかまどこっろしい話である。しかし、郊外もまたストリートであり(ストリートを抱えており)、そこには過剰なスペクタクル化やジェントリフィケーション、生政治的管理がはたらいており、同時にそれらへの抵抗のうねりもはらんでいるという視点は、その頃から抱いていた。

ところで、ストリート=貧乏暮らしではない。消費のスペクタクルに対して、カネはないけどこっちのほうが幸せじゃん、という生き方がつねにあるだけだ。このことをわたしはザグレブやモントリオール、アムステルダムの街路で、パンクスやアナルコ=テクノのトライブたち、ときには不法移民たちから学んだ。2014年の4月からほぼ1年間──途中いくどか一時帰国はしたものの──研究休暇のために住んだアムステルダムは、都市としても、運動の現場としても面白い転機を迎えていた。今回、そこでの出会いから学び逸れたことを書きとめておく。

アムステルダム大学University of Amsterdam(UvA、規模4万人ほど)で人文系の学部「改革」や一部学科の閉鎖、市内の大学の建物売却決定などに抗議して、秋頃からはじまった学生や教職員によるデモや、2015年2月以降の占拠/抗議行動がなされたのは、街の中心であるダム広場からも数分のスパイ通りSpui Straatであった。学生、教職員あわせて数千人がボランティア的に参加し、運営するこの運動はまさに現在進行中であり、オランダ国内の大学だけでなく、EU内外のヨーロッパ諸国や北米大陸の大学の占拠、抗議運動にも影響を広く与えている[fig.1-3]。(http://en.wikipedia.org/wiki/Bungehuis_and_Maagdenhuis_Occupations) 当初、この「新しい大学」De Nieuwe Universiteit(http://newuni.nl, https://www.facebook.com/pages/De-Nieuwe-Universiteit-voor-een-democratische-universiteit/364554890370545)を名のる占拠はBungeshuisという大学の運営部門(アドミニストレーション)の入った歴史的建築ではじまった。

fig.1──アムステルダム大学(以下すべて筆者撮影)
fig.2, 3──フィレンツェの街頭

家から歩いて10分とかからないので、すぐに行ってみた。入り口のドアは無数の本が積まれバリケードにされ、反対側のシンゲル運河の通りから梯子で1階の窓を通って出入りするようになっていた。まともな理論書や小説、詩集のたぐいは皆目なく、経営学や物理学、あるいは実用書など人文系とは異なる、あるいは大学で権力やヘゲモニーを握っている「専門領域」の本が多く転がっていたのが偶然かどうかはわからない)[fig.4]。むろん、入り口のドアの内側にはたくさんの机や椅子が積まれ、こちらは古典的なバリケードになっていた(スマホで写真を撮ろうとしたら、学生に「セキュリティのため」と断られた)。カフェも普段の労働者ではなく、学生によって運営され、建物のなかにはたくさんの示唆的な言葉、メッセージがちりばめられたバナーが貼られていた(「クリエイティヴィティ=創造性は産業ではない」「学部学科どうしで成長拡大を競いあうのはやめろ!」......といった日本の大学でも意義のあることばが多く見られた)[fig.5, 6]。グラフティ的な身ぶりが建造環境やディスプレイによっても反復できることにあらためて気づかされた。中心街なのでカフェや(ネタをあつかう)コーヒーショップ、レストランなどが多くある界隈だが、近隣の人たちは学生や教職員によるデモや建物の占拠を迷惑な事態としては見ていない点が印象的だった。もともと自由と寛容、アナキズム的な社会主義(福祉システム)に慣れた土地柄のせいなのか、あるいは運動する側に「ドン引き」されない温性と知性があるためだろうか。

fig.4-6

そもそもこのスパイSpui通りはストリートの政治、都市の文化政治を考えるにあたって忘れることのできない場所のひとつである。というのも、まず1966年にはパリのシチュアシオニストに先がけ、スパイ広場──アムス随一の書店アテネウムの前──で、プロヴォProvoによる運動が繰り広げられていた(プロヴォについてはこれまであちこちに書いてきたので繰り返さないが、乗り捨てで誰もが使える白く塗られた自転車の街中への配置、詩の朗読やハプニング/パフォーマンス、料理や性のオルタナティヴな実践など多岐にわたる)。またこの通りは空き家占拠(スクウォッティング)の運動が推し進められた一帯でもあった。今日でも市当局がスクウォットされたビルの雰囲気だけを残し、グラフティや垂れ幕に飾られたアパートを「保存」している。スクウォット文化の雰囲気を知らない人に紹介するのに便利なので日本からの客などはかならず連れていくが、この落書きだらけのスクウォットっぽい建物やアパートにもしっかり不動産屋による「売り」や「賃貸」のマークがついている[fig.7]。つまり、運動の「遺跡」という側面もなくはない。もはや喪われてしまった「運動」をディヴェロッパーの資本主義が「回収」した構図と見るべきだろうか?(3週間ほど前には、この区域の開発に抗議するスクウォッターによる路駐の自転車群への放火事件が発生した[fig.8])。

fig.7, 8

もともとヨーロッパの多くの大学がそうであるように、アムステルダム大学の建物も市内のあちこちに点在している。研究休暇中、筆者もビザ申請に必要な書類やメールアドレスの手続きなどに寄ったブンへスハウスBungeshuisという建物は、日本の大学でいえば事務棟や管理棟にあたるが、まさにスパイ通りに位置するこの建物も、ホテルやモールに改装すべくすでに売却予定であるという。今回の抗議行動はカリキュラム改編(人文系学部の解体)とならんで、この決定にも向けられている。
1年間住むために借りていた家は、ダム広場や赤灯地区Red Light Districtからも数分の、17世紀以来の建造物──いくつかはアムステルダム大学──も多い一帯にあるモニュメント建築のひとつだった。今これを書いている部屋からも元東インド会社や工房跡を利用した大学の学生ホールや実学系の学部の建物が見えている(通りの名前も文字どおり「糸巻き工房路地」Spinhuis Steegという名前だった)。ただし、これらの建築群も新年そこそこに立ち退きが強行され、週末や毎月のようにあるイベントや祭り時にはうるさかった雰囲気はもはやない(歌舞伎町と青山の住宅地の両方の雰囲気があるこの区域の部屋を格安で借りることができたのは、皮肉なことにともだちの元スクウォッターのコネクションだった)。

2月半ば、ブンヘスハウスの占拠は警察によって強制撤去された。朝テレビのニュースで知り、近場なのですぐに飛んでいった。機動隊の出動はなく、騎馬警官と通常の警官による温和な排除だったが、リーダー格の学生の数人が建物のなかでの「かくれんぼ」状態の追跡劇によって次々に警察車両に連れこまれていった。見守る一般学生や市民は、そのたびに一人ひとりに路上から拍手を送っていた。しかし、この時点ですでに一部の教職員の協力もあり、占拠の拠点は歩いて数分のスパイ広場にある、やはり大学の中心的な建物であるマーフデンハウスMaagdenhuisに移される準備ができていたのだ! このあたりのイタチごっこには熟練のスクウォッター経験者が関わっていたにちがいない。また学内政治の軋轢もうかがわれて興味深い。
抗議行動の学生たちは見事に警察や当局の裏をかいて場所を移したわけだが、今度は広場や通りから誰であれ、大学関係者でなくても入れる解放区としての空間がつくられた。エントランスの警備員は普段どおり「粛々と」仕事をしているのも印象に残る(日本の大学や公的機関の警備員ならまず考えられないことだろう)。入口近くにはボランティアの当番表や必要物資手配のメモ、その日のレクチャーやイベントの予定表などがびっしりと貼られ、ホワイトボードに書かれている。コーヒーなどの飲み物や朝夕の食事なども誰もが無料で口にすることができる(材料費などは教員、関係者のカンパによって賄われている)。数日に一度は全体集会(ジェネラル・アッセンブリ)が開かれ、徹底した直接民主制によって占拠/抗議運動のアジェンダ、要求項目が討議されていた。外国人学生も多いので討論は全て英語であり、NYのOccupy運動と同じように、拍手の代わりに手をひらひらさせる身ぶりで賛意は表明される(これは日本の大学の儀礼的な教授会や委員会でも流行らせてみたい)。市長すらここに足を運び、外国人も多い学生との対話をちゃんと英語で行なっている様子がテレビで生中継された。言うまでもなく、学生や大学教員のみならず、街の有象無象が大学をカフェや広場、公園のように自由に出入りし、使っている(筆者も2月の占拠以降は多くの仕事をこの空間でこなした)。
地元からはへアート・ロヴィンク、周辺国からはデヴィッド・グレーバー[fig.9]やジャック・ランシエール[fig.10]などが駆けつけ、それぞれ1時間ほどの質疑応答中心のレクチャーを行なった。マーフデンハウスは1969年にも学生に占拠されたことがあるため、当時の元学生と今日の学生活動家の対話のセッションも見のがせない試みだった。ほかにも毎日行なわれているのは、上述のようなレクチャー以外に早朝のヨガやDJによるパーティ、夜は映画上映やバンドのライヴ、果ては真夜中のパジャマ・パーティ(寝間着を着て、寝具を投げっこするアレである)などだった[fig.11]。パーティやイベントでオーガナイズの程度を探るためにトイレをチェックすることが普段の遊びで癖になっているのでバスルームも観察したが、きちんと毎日、当番制で掃除されているようだった(これはあらゆる特異な出来事=イベントの肝ではないか?)。

fig.9──デヴィッド・グレーバー,
fig.10──ジャック・ランシエール,
fig.11



ところで本稿の主旨は、大学の新自由主義的「改革」(改悪)や、金融工学への従属(日本をふくめ、世界中どこでも大きな大学では株や為替、不動産への投資specualtionが行なわれている)、あるいは都市のジェントリフィケーション(優美化)を批判し、これに抗う運動を紹介し、称えるということにはない。都市のなかに自律した解放空間をつくっていこうという提言ではないし、海外の運動形態が日本語環境のそれよりも優れているという主張をする気も全くない。むしろ、ここで考えているのは、「空間論的転回」spatial turn、つまり歴史や時間を思考の中心軸にすえる枠組みから、空間や場所、移動を軸にして社会や生活世界、都市を見つめる視点への転換が、あとで触れるもうひとつの理論の転回とはからずも密接に関わっているのではないか? という問いである。

人文系における「空間論的転回」を宣言することになった『ポストモダン地理学──批判的社会理論における空間の位相』(原著=1989、加藤政洋ほか訳、青土社、2003)をかつて発表した合衆国の文化地理学者エドワード・ソジャは、1990年の研究休暇中にアムステルダムに滞在し、アムステルダムとロサンゼルスを都市論的に比較するエッセイを、もう一冊の影響力ある著作『第三空間──ポストモダンの空間論的転回における空間の位相』(原著=1996、青土社、加藤政洋ほか訳、2005)の最終章におさめている。この論考「ちょっとした戸惑いを刺激として──アムスルダムとロサンゼルスの同時代の比較」において印象的な筆致で描き出されたのも、このスパイ通りだった。
通りいっぺんに読んでしまうと、合衆国とは違う雰囲気の街で研究休暇を1年間楽しく過ごした都市論者の気楽なエッセイに読めてしまうが、さすがにソジャはこの時代、90年代初頭のアムステルダムの空間論的、都市論的変容をロサンゼルス(合衆国)との関連で確実におさえていた。まず彼が住んだスパイ通りや広場のすぐ近くには、中世以来のベーヒンホフと呼ばれる修道女たちのための教会があることにソジャは注意を喚起している。ここは歴史的に貧民や周縁的な人間の避難所(シェルター)として機能しており、また陶酔(トランス)などの異教的要素をはらんだプロテスタントの系譜を伝える修道院のひとつでもあった。アムステルダムでもダム広場と並んで最もにぎやかな学生街で、地元のカフェ好きの集う区域である表向きの騒がしさや煌びやかさの背後には、信じられないほど静謐できちんと整序された庭園をもつ空間が控えているのだった。もともとアムステルダムにかぎらずヨーロッパの街並みは正面のファサードで見えているのとは全く別の景観をもった中庭(パテオ)やロッジァを有している建物が多い。17世紀以来の切妻をそのまま残して再建されているアムステルダムの歴史景観地区も例外ではない。どこかの建物のなかに入らないかぎり、観光客はなかなか見ることのできない空間の断片である(対象objectには認知、接近可能な側面と、かならずしも感知することのできない別のリアルな側面があると言い換えれば、これは現象学やホワイトヘッドの哲学などが引き受けてきた認識=存在論の問題とも無関係ではなくなる)。

ソジャはこのエッセイで2つほどするどい指摘をしている。第一に、アムステルダムでは80年代までつづいたスクウォット運動の一定の成功が、その後の抑圧や管理を生みだした側面があるという点。これについてはテロや事故がひたすら日常におけるセキュリティの上昇につながっていくという今日の状況にも直結している。第二に、これは本稿で問題にしたい点でもあるが、スクウォット文化とジェントリフィケーションの奇妙な混淆、あるいは当局や資本との交渉や折衝から生じる擬似的な、準=スクウォッティングとでも呼べるような実践や取り組みについてソジャは目を向けている。これはこの20年間、筆者がこの街に毎年のように出入りしてきたなかでも経験できた現象や流れである。スクウォットされていた建物が強制排除や立ち退きによって「正常化」され、半分スクウォットで半分は制度化された低価格の賃貸であるようなシェアハウス的な居住形態や住宅の分配システムがアムステルダムの都市のあちこちに広がっている(公的なものもあればアンダーグラウンドなものもある。またこうした問題において、ゲイ文化のシーンが果たした役割もこの街では見のがすことができない)。
これはニューヨークのイーストヴィレッジやチェルシーなどがたどった経緯とはおそらく微妙に異なる。つまり犯罪の温床や非合法(未確認)移民や住民の多い悪所や周辺部に芸術家やボヘミアン、アナキストやサブカルチャーのトライブが住むうちに、こうした空間が趣味的かつ美的に洗練され、優美化をめざす資本による開発にいつの間にか開かれていくという過程に似ているが、どこか違っている。端的に言って、都市におけるジェントリフィケーション(優美化)の進行は街に貧乏人が住めない状況を生みだしていく。もちろん、アムステルダムでも同じ事態はほぼ20年遅れで進行中であることはたしかである。しかし、日本語環境の街や都市にもある種の「グレーゾーン」が警察、行政、ヤクザ、不良、消費者......の間に微妙に生まれることがあるように、アムステルダムでは公的な交渉と私的な折衝のどちらでもないような戦術的なやり方、法律や官僚制と生活世界の間に奇妙な「糊しろ」が街のそこここではたらいていることに気づく。
すこし抽象的に言えば、権力や資本による回収やシステム内部での交渉に閉じない、むしろ折衝と裏切りがないまぜになった、関係なき関係(非関係の関係)のようなつながり、分かれ目が、あの運河都市のなかにはたたみこまれている、あるいは人やモノの動きから紡がれている、そんな動きを日常的に感じる。

fig.12
この10年ほどのアムステルダムの「再開発」をふりかえってもこのことはすぐに見てとれる。中央駅から無料のフェリーで渡る北部地区は、郊外住宅地以外の部分は依然として港湾や倉庫の広がる地帯である。すでにスクウォッターやパンクス、ヒップホップやテクノのトライブ、現代美術のフリークなどはかなり以前からセントルム(中心街)を避けて、この地区に移動している。これに合わせて、元倉庫や赤煉瓦の建築群は、ストリートっぽい雰囲気を残したまま再開発、端的にはジェントリフィケーションの対象になっている。お洒落でトガったアムステルダマー向けにはこっちだよ、というわけである。このあたりには往年のスクウォットを思わせるカフェ[fig.12]があったり、巨大な倉庫がスケボーの練習場や現代美術のアトリエになっていたり、ネットラジオ局になっていたりと、明らかに70年代中盤から80年代のスクウォット文化やストリートのシーンの雰囲気を人工的に残している。通常の「優美化」であればこれは回収にすぎないとされるが、この街では元スクウォッターや元パンクスがこうした再開発にくい込んでいることも多い(元全共闘のオヤジが広告代理店でブイブイ言わせるという構図とはいくぶん異なる。また、ここにはややマフィア=ヤクザ的な人とモノのつながりが関与していなくもない。これは、ここで書くには面白すぎるので別の機会に論じたい)。

fig.13
まだ日本語環境のガイドブックなどには、この北部のことは掲載されていない。同じように今後、数年以内に観光客に「占領」されるであろうゾーンをもうひとつあげておく。中心街から西に向かうはずれ、ダム広場から歩いても20分とかからないキンカー通りという、中東系のスナックや食料品店、食材市場、電化製品や自転車など日用品の安い庶民的な地帯がある。ここから1本、通りを並行して入った区域は、大きなスクウォットハウスがいくつかあり、多くの人間が住んでいたが、最近、ここが最開発され、北米大陸(ふう)のお洒落なモールになっている。モールといっても倉庫(ウェアハウス)の鉄鋼部分や赤煉瓦を最大限に活かし、たくさんの食べ物屋や土産物屋が並ぶ小奇麗な「屋台村」として若者やカフェ好きの人気を博している。一見しただけでは、世界中どこにでもあるようなジェントリフィケーションの風景であるが、裏に回ればそこにはストリートとモール、スクウォットとジェントリフィケーションの中間状態、双方が互いに自らの外にでて、互いに内包しあうようなつながりが街のなかに編みこまれている(近年、こういう街の感覚は、たとえばSF作家のチャイナ・ミエヴィルがフィクションを通して巧みに言語化している)[fig.13]

fig.14
ソジャのエッセイはアムステルダムを自分の本来のフィールドであるロサンゼルスと比較し、最終的には人文地理学や文化研究としての研究や記述のスタイルがそのままではいられなくなり、一種の詩学や美的な表現に近づいていく傾向を、一種、自己言及的な文体によって明らかにしている。『第三空間』という書物の面白さはまさにそこにあったし、資本や権力との「重層的なせめぎあい」を批判や研究の決まり文句にしたり、DiY的な「ストリートの政治」を称揚したりといった、啓蒙に自足するアカデミシャンの凡庸な態度から離脱するような奇妙なヴァイブスを響かせている。
都市空間をめぐる抵抗、ストリートで起こる交渉=折衝、この街角の前線は、その後、NYのOccupy運動においては新自由主義や金融工学にもとづく資本主義そのものの批判に向かうが、ちょうど今から20年前にソジャはこの動きが否応なくある種の表現やパフォーマンス的なものに開かれていく消息を、すでに直観的に予測していたのだった。
アムステルダム大学の占拠行動でも、このことは無意識に自覚されているように見える。たとえば、自分たちのやっていることは占拠occupationではなく、流用appropriation、あるいは解放liberationであるというバナーには、そうした感覚が読みとれる[fig.14]

fig.15
近年、注目される新しい哲学的パラダイムとされる「思弁的転回」Speculative Turnにおいても、ひょっとしてストリートは重要かもしれない。
そんな与太が例によってふと頭をよぎるようになったのは、アムステルダムのアンダーグラウンドなテクノやダブのパーティでここ数年よく見かける、長身にターバンのように上方にてんこもりになったドレッドヘアーをしていて、コーディロイやコットンのパンツに洒落たジャケットを粋に着こなす遊び人トライブの「顔役」っぽい若者が、グレアム・ハーマンやトリスタン・ガルシアといった「オブジェクト指向存在論」(Objects-Oriented Ontology/OOO)や「思弁的実在論」(Speculative Realism/SR)の当代きっての論客たちが発表するワークショップにいつも通りの格好で現われ、質疑応答でハーマンに質問していたからだった。当然、彼は占拠中の「自由大学」にもひんぱんに顔を見せている[fig.15]

近郊の都市ユトレヒトでグレアム・ハーマンが7時間ほどみっちり講義した30人規模の小さなワークショップでは、ティモシー・モートンらとともに彼の議論を面前で受講することができたが、ここに出会ったギャラリストやキューレター(合衆国人や英国人だった)のなかには、OOOやSRに強い関心をもちながら、同時に住宅の無料/低価格化を疑似/準=スクウォット的な運動として制度化しようと、弁護士や活動家と連携しながら別のワークショップを組織している者たちがいた。
残念ながら現時点での日本語環境で、このようにテクノのパーティや現代美術、占拠/抗議運動のトライブとOOOやSRに関心をもつインテリ層が直接に重なるということは残念ながらほとんど見られない。だからこそ、こういう意外なようでありうる出会いやつながりを紡いでいくためにこそ、研究者や批評家として読むこと/書くことをやめずにいたい。

モノは人間から引きこもっており、モノどうしの関係からも引いている。これはOOOやSR、思弁的転回のイロハである。この視角を都市や建造環境に向けたらどうだろう(こうした問題意識はHyperobjectという概念をとなえるティモシー・モートンのなかにも読むことができる。彼にとってOOOは原理的に親エコロジー的であり、都市空間に関しては反資本、反開発を志向する理論パラダイムとされている。OOOやSRは論者によって主張が大きく異なるので、これはモートンによる定義、提起であってこのパラダイムの一般的趨勢とは言えない)。
ストリートは空間であって、モノではない。しかし、人々だけではなく、無数のモノが住まっている場所siteである。そもそも空間spaceとは、わたしたちが認知、感覚できるモノ(sensual things)と、このモノにひそんでいる過剰な何か、まだわたしたちに接近することのできない、モノのなかのリアルなモノ(real things)との間の亀裂やずれのことを指すのではないだろうか? たしかにストリートは対象のかたち、並置の形式として経験されるけれど、つねにそこには汲みつくすことのできない何かが余剰としてひそんでいる。スペクタクル的な建造環境は文字どおり剰余価値の苗床でもあるが、そこにちりばめられたモノそのものに隠された広がりや豊かさ、あるいは感覚や認知の枠組みにおける欠如(絶対に十全にアクセスできない何かがあるということ)は、資本や数字に換算、還元できる要素以上/以下の、根元的なモノの次元の消息を伝えている。

ストリートから引きこもる身ぶりがある。
今や日本語のまま英語文脈で使われることもある「引きこもり」は、一般に都市空間や街路などからの撤退や隠遁を直示的には指している。日本よりも物価の安い海外のどこかの地域に抜け出して通常の日本での生活を捨てることを「外こもり」と呼ぶ場合にも「引きこもる」論理は同じであり、その主体はあくまで人間という行為体である。しかし、ストリートもまた引きこもっているとしたら、どうだろう? ストリートは消えてしまった? あの街路、あの広場はもうなくなってしまった、なくしてしまったというたぐいのエントロピックな語りや視角においてつねに生起しているのがストリートなのかもしれない。喪われることによって故郷や家郷が、また離脱によってホームが見出されるように、絶え間ない改編、開発=搾取による消滅によって、そのつど回顧的、事後的に語られることによって見出されるのがストリートのリアルなのではないか。問題は、この「語り」がかならずしも言語的なもの、ことばによる記述にとどまることができなくなり、ストリートのことば、理屈はつねに身ぶりやリズム(反復、ビート、リフレイン......)を通したパフォーマティヴな記述、言語に自足しない身ぶりとしての表現に向かっている、という点である。

どんな街路も見えない網の目をひそませている。さしあたり、人はそれをネットワークと呼ぶだろう。これは情報メディアのそれだけではなく、人間以外の動植物や鉱物、果ては微生物、そしてもちろん人工的な建造物などをそれぞれエージェントや行為体とするネットワークにほかならない。ある場所にこだわり、ある空間を占拠すること、領土化することは、一方である網の目を浮かび上がらせるけれど、同時に別の網の目を見えない状態にとどめておくこともする。あるモノはそれが機能するなわばり(領土)でははっきり目に見えることがなく、逆に脱領土化され、なわばりから引きはがされ、いわば強制排除されることによってはじめて触知できるようになるかもしれない。ストリートではそういうわけのわからない出会いがつねに起こっている。
対象やモノに認知的に汲みつくしえない何かがあるとすれば、本来は互いに無関係なモノどうしの間に一時的なはかないつながりを紡ぐ都市の身ぶり、街/ストリートの息吹のような何かがある。それを穿ち、辿りながら、ときに可視化する試み、あるいはストリートの裏にあるモノの動きの見えなさを何とか迂回してでも浮き彫りにするような試みが街のなかには生起する。ネットワークは資本や権力によって課せられるimposedだけではなくて、街のなかでは無数の編みこみが重合superposedされているのである。そこではストリートの知性はモノへの拘泥によって、自らが帰属し、漂流する都市のなかのはかないつながりを分節化しようとする。互いに全く基本的に関係ないモノどうし、あるいはお互いに孤独のうちにあり、どちらかといえば背きあっている者(モノ)どうしが、あるかりそめの一時的な試みにおいて出会う、関係しあうこと、これは存在論的な課題であり、同時に投資=投機的speculativeなシステムのなかでしなやかに、したたかに生きのびる思弁speculationの営みになっているかもしれない。

ストリートの文化政治を考えることは、ストリート系ファッションの盛衰を語ることでも、パンクやDiYっぽい生き方を薦めることでもないし、金持ちやセレブの価値観に対抗して貧乏人の文化を祝福することでもない。もっと端的にすべきこと、モノに即してできることが、物書きや知識人にはあるはずだ。たとえ、それが表向き、ストリートからひきこもる身ぶりにつながったとしても......。ストリートの政治から戦闘的なカラ元気や行動様式を抜いていくこと、ミリタントな姿勢を放棄することによって得られる、しなやかな強さがあるのではないか?

半ば与太で考えはじめた「空間論的転回」と「思弁的転回」の間には、大学施設や都市空間の占拠/抗議運動をプリズムにしてみると、このように意外なつながりが見えてくる。空間から思弁へ、自治から投資へ、関係論から実在論へといった移行ではない(キャッチーに語られる「〜から〜へ」にノリすぎてはいけない)。はじめから2つの「転回」は相互に自分を抜け出すこと、より精確に言えば、互いに脱領土化し、互いに内包しあうことによって、ひとつの動きとして「ある」ことができる(排中律に左右されない論理ということだ)。クァンタン・メイヤスーが意外にもドゥボールらシチュアシオニストの議論に若年から親しんでおり、さらに弟子筋のトリスタン・ガルシアの理論的背景に何と「フランクフルト学派」があったという本人たちの回顧があながち粉飾やポーズでないことの証左としても、この2つの思潮や理論的枠組みの交錯は見逃すことはできないだろう(もちろん、彼らOOOやSRの理論はそれら古典的な「左派」の枠組みには絶対に還元できないが)。
この交錯はストリートや空間の政治ではなく、理論や思弁のストリートを横断し、うがっている。ここからOOOやSRをストリートの息吹をたどることばとして読んでいくこともあながち無理筋ではないと考えはじめている。

ストリートの終わりとはじまりは、まずこのあたりから生きられるのではないか?


付記
4月11日、土曜日、このマーフデンハウスの占拠は機動隊による、今回はかなり暴力的な強制排除によって終わった( http://www.dutchnews.nl/news/archives/2015/04/university-staff-say-board-should-resign-over-riot-police-eviction/)。学生や抗議側は、ホテルやモールへの大学建物の売却撤回と大学運営の民主化、透明化をひきつづき求め、13日月曜に自発的に撤収するという宣言をしていたにもかかわらず、である。「左翼っぽいストリートの政治」には、もう何年も前から限界と退屈を感じてきただけに、正攻法のリクレイムや占拠の運動と「斜め上から」の存在論的かつミクロなストリートの動きとの共振を掘っていくことは、これまで以上に重要になるだろう(サービス業に堕落した日本の大学の大半では特にそうだ)。この1カ月あまりの「一時的自律」の種子を、この日常に散種し、見出していくことからはじめたい。




上野俊哉(うえの・としや)
社会思想史、批評家。和光大学表現学部総合文化学科教授。主な著書=『思想の不良たち──1950年代 もう一つの精神史』(岩波書店、2013)、『思想家の自伝を読む』(平凡社新書、2010)など。近刊=『四つのエコロジー──フェリックス・ガタリ論』(NTT出版)、『荒野のおおかみ──押井守論』(青弓社)、『増補版 アーバン・トライバル・スタディーズ──パーティ、クラブ文化の社会学』(月曜社)など。翻訳=ポール・D・ミラー『リズム・サイエンス』(青土社、2008)、ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック──近代性と二重意識』(月曜社、共訳)などがある。


201504

特集 ストリートはどこにあるのか?
──漂流する都市空間の現在


ストリートの終わりと始まり──空間論的転回と思弁的転回の間で
空間の静謐/静謐の空間
アンチ・エビデンス──90年代的ストリートの終焉と柑橘系の匂い
ビザール沖縄──石川竜一の作品についての少しのコメントと、多くのボヤき
ストリート・ファイト、あるいは路上の痴話ゲンカ
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