【書評】大西麻貴+百田有希/o+h『8 stories』|能作文徳:《二重螺旋の家》における「時間」をめぐって
《二重螺旋の家》における空間と時間
以前、《二重螺旋の家》(2011)の模型を見せてもらったことがある。小さな旗竿敷地に建つ住宅にもかかわらず廊下や階段が外周をぐるりと囲んでいて螺旋を描いている。合理的に考えれば、動線は極力コンパクトにおさめ、リビングや寝室などの居室を最大限に広くするだろう。さらに螺旋状の動線によって中央の居室に光が届きにくそうである。日当りのよくない旗竿の敷地に対して居室の採光を確保することをまず考えるはずである。しかしながら、この家はこのような合理性では説明できないところがあった。そのときはなぜこんなにも独特なところから設計をスタートさせることになったのか理解するに至らなかった。《二重螺旋の家》〈クリックで拡大〉
その後、運よくこの《二重螺旋の家》を見学することができた。古い木造の家屋が所々残っている風情のある東京谷中。細い路地には植栽が並び、街に人の気配が感じられる。旗竿の路地の延長に螺旋へと導く入り口がある。なかに入ると迷宮のような不思議な薄暗さがあり、ところどころに窓が開いていて光が差し込んでくる。窓からは路地の踏み石、隣家の屋根の上の空がみえる。窓辺にはデイベッドが設えられてあったり、広い窓台になっていたり、人がそっと寄り添えるような場面が散りばめられている。このようにひとつながりの螺旋のなかにある明暗のコントラストによって、先へ先へと導かれる不思議な体験をすることができた。確かに螺旋状の動線によって居室は小さくなってしまう。動線を無駄なものとみなせば、単に小さい部屋の集合と捉えられてしまうだろう。しかしこのひとつながりの螺旋は小さな部屋どうしをつなぐ長い「間」の空間となっており、小さな住宅のなかに驚くべき奥行きを与えている。なるほど螺旋状の通路を巡らすことは、小さな旗竿敷地の上に奥行きをもたらす意図があったのかと納得させられた。
- プルースト『失われた時を求めて』
よく言われていることだが、現代の都市生活は時間に急かされている。都市生活者のほとんどが賃労働者であることがその要因だろう。賃労働の時間が人間の生活リズムを支配しているのである。そして時間に換算された賃労働が人々の時間の感覚を均質で一定なものへと変えしまった。人間の労働だけでなく、都市そのもののあり方も時間と関わっている。日本の住宅は30年ほどで建て替えられるため、その集積である都市に流れる時間は、人間の一生より短いものになっている。西洋の都市が人間の一生よりも大きな時間の尺度をもっていることと比較すれば、日本の都市に流れている時間がどれほど急速なものであるかがわかるだろう。《二重螺旋の家》には、この都市の時間から、家の時間を保護するようなはたらきがある。o+hの建築に、個人的でありながら時間を超えた質を感じさせるのは、プルーストの話で触れていた、記憶と連想の作用なのではないかと思う(p.31)。時計が刻む時間を絶対的な時間と呼ぶとすれば、この住宅に内在した記憶と連想はそれを相対化するものであったということができる。空間と時間は別々に存在するわけでなく、空間と時間は切り離せないものである。空間を考えることはすなわち時間を考えることに繋がっているのだ。
《二重螺旋の家》のシークエンス〈クリックで拡大〉
絶対的時間・相対的時間・関係的時間
時間と空間の概念を整理するために、社会地理学者デヴィッド・ハーヴェイの「空間というキーワード」を参考にしたい。ハーヴェイは、「絶対的空間」、「相対的空間」、「関係的空間」の3つの空間概念を提起している。「絶対的空間」は「規格化された計量可能で計算もできる不動の格子」である。「相対的空間」は、たとえば「多数の場所が(...中略...)コスト、時間、移動手段、さらにはネットワークや場の関係性などによって測られた距離によって差異化された相対的な場所」であり、「観察する人の立ち位置が決定的な役割を果たす」のである。「関係的空間」は「プロセスに埋め込まれているか、あるいはそれに内在する。(...中略...)空間のある点における出来事や物事はその地点で起きたことだけで理解できるものではなく、そのまわりで起きたあらゆる他のことに依拠している」ものである。
──デヴィッド・ハーヴェイ『ネオリベラリズムとは何か』(pp.153-156)
- デヴィッド・ハーヴェイ
『ネオリベラリズムとは何か』
(青土社、2007)
関係的時間──山里の時間
「関係的時間」について、内山節の『時間についての十二章』を参考にしたい。内山氏は山里の時間について次のように述べている。農業の基本的な時間単位は一年である。(...中略...)春には春の労働が、夏には夏の労働があって、この労働の系は一年の単位で循環している。(...中略...)祖父や曾祖父の植えたスギやヒノキを家の建て替えや不慮の出費が必要なときに切り、新しい木を植えて、また百年をかけて大木に戻していく時間循環が暮らしのなかにはあった。(...中略...)すなわち山里の回帰する時間とは、異なるスケールをもつ様々な循環する時間の総合としてつくられ、この時間世界のなかに村人の暮らしがあったのである。
──内山節『時間についての十二章──哲学における時間の問題』(pp.48-50)
- 内山節『時間についての十二章
──哲学における時間の問題』
(岩波書店、2011)