基調講演1:表現者・堀口捨己──総合芸術の探求

藤岡洋保(建築史、東京工業大学大学院教授)

1. はじめに

今日の私がお話しするのは「表現者・堀口捨己──総合芸術の探求」についてです。
建築史の研究者という立場から堀口捨己(1895-1984)[写真1]について語るわけですが、その前に堀口の作品について、簡単におさらいをしましょう。

1──堀口捨己(堀口家蔵)

まずアムステルダム派を含む表現主義の影響からスタートし、やがてモダニズムに傾倒し、和風建築も設計します。「紫烟荘」(1926)や「大島測候所」(1938)、「若狭邸」(1939)、そして戦後の和風建築の傑作「八勝館みゆきの間」(1950)などです。戦後には大規模な鉄筋コンクリート造の作品として明治大学の一連の校舎などがあります。
堀口に対する従来の評価は、戦前には日本の近代建築をリードする存在だったけれども茶室建築の研究などを通じて日本回帰し、戦後には和風建築の大家になった、というものでしょう。建築家の中には「堀口の和風建築はいいけど、大規模な鉄筋コンクリート造の作品はどうもね」という方もいらっしゃいます。そこには近代建築と和風建築が別物だという認識が垣間見えますが、少なくとも堀口にとっては、同じものでした。また、彼は、建築史家でもあり、庭園史家でもあり、茶の湯の研究者でもあり、歌人でもあるという多才な人でしたが、その多面性を理解するうえでも従来の見方や評価は相応しくないと私は考えます。
従来の堀口研究は彼の作品と彼自身が書いた文章をもとに行なわれてきました。磯崎さんは前から堀口のプレゼンテーションに込められた戦略に気づいておられましたが、彼の文章は作為によって整えられたものなので、それを鵜呑みにするとお釈迦様の手のひらの上で飛んでいたにすぎない孫悟空のようになってしまいます。しかし、明治大学と堀口自邸にあった資料(約5,000点)をていねいに分析すると、従来とは異なる堀口像が見えてきます。それは、彼を「表現者」として評価するということです。今日はそれについて、以下の順に説明します。

1. はじめに
2. 堀口の建築観──主体重視と合目的性重視のせめぎ合い
3. 「日本回帰」に込められた堀口の戦略──近代建築のフィルターを通した伝統理解
4. 総合芸術志向
5. まとめ──すべてが「表現」に収斂

2. 堀口の建築観──主体重視と合目的性重視のせめぎ合い

まず、「堀口の建築観」についてですが、彼が主導して1920(大正9)年に発足した分離派建築会(以下、分離派)のメンバーが異口同音に主張したのが建築の芸術性重視です。なぜそのような主張をする必要があったのか。
当時建築は「工学」と「芸術」が合体したものと見なされていましたが、野田俊彦(1891-1932)の「建築非芸術論」(『建築雑誌』1915年10月号)をはじめ、佐野利器(としかた)(1880-1956)や内田祥三(よしかず)(1885-1972)らの構造学者が、その「芸術」は不要で、「工学」の成果を利用して実用性を満足させることだけを考えれば最適解(いい建築)に到達できるはずだと主張しはじめました。野田の認識では、「工学」を活用して構造や機能の最適解を追求すればヴォリュームや架構の形式が一義的に決まるはずで、「芸術」は、その上に装飾や塔をつけるとか、左右相称のようなアプリオリな原理で立面を美化する行為なので、もはや不要というわけです。
また、分離派の芸術性重視に対しては、絵画や彫刻は芸術家が自由につくれるけれども、建築にはいろいろな制約があるから、芸術にはなり得ないという批判もありました。
分離派はそれに反発しましたが、「非芸術論者」らとすべての点で見解が異なっていたわけではありません。合目的性(機能性、構造合理性、経済性、論理性など)を重視していた点では同じです。違いは、それらを「芸術」を拘束する制約と見るか、「芸術」であるための前提と見るかにありました。「非芸術論者」は機能性や構造合理性がいい建築をつくるための必要十分条件だと見ていましたが、分離派、特に堀口は、合目的性重視は、いい建築をつくるための必要条件ではあっても十分条件ではないと考えていました。合目的性重視は、31文字という「制約」が短歌という芸術を可能にするための前提(必要条件)であるのと同じようなものだと反論していました。
また、堀口は、機能性や構造合理性、経済性を追求しても形を一義的に決めることはできないと主張しました。彼は、「工学」から導き出される最適解は複数ありうるとし、そのなかから建築家が主体的に選びとることがいい建築をつくるためには必須と考えていました(主体重視)。野田らの説では、いい建築は客体の側にあって、科学的な手続きをちゃんと踏めば誰でもいい建築に到達できるということになりますが、堀口は主体を重視していたわけです。
違いとしてもうひとつ注意すべきは、野田が批判した「芸術」と堀口の主張した「芸術」が異なっていたことです。野田の「芸術」は、装飾や塔の付加、左右相称などの美的操作を意味しており、歴史主義の範疇で「芸術」を考えていたわけですが、堀口の「芸術」は、抽象的な線や面の「構成」によって美がつくられるという、新しい美学をもとにしたものでした。世界的に見ても、ドイツの美学者のテオドール・リップス(1851-1914)の『美学』(全2巻、1903,1906)が、抽象的な要素の構成による美を提唱した最初のものですから、もちろん堀口のほうが新しく、そのような新しい美学を日本の建築界ではじめて提唱した建築家であることを高く評価すべきです。
なお、堀口の「芸術」の特徴は、そのような抽象的な要素だけではなく、色彩や自然も「構成」の重要な要素に含まれていたことにあります。
また、当時の堀口にとって、芸術表現は個性の表出でした(主体重視)。
それは分離派の最初の作品集(『分離派建築会宣言と作品』、岩波書店、1920)[写真2]に彼が寄せた文章からうかがえます。ここで彼は、構造計算から柱の最適な断面積が決まったとしても、「私等の美意識に訴へて堪えられない太さでありますならば、その太さを私は直に変へるのに躊躇しません。(...中略...)私は力学上これで充分だからこれでいゝと云ふほどに構造に捕はれ度くはありません」(11-12頁)と、「工学」から最適解が導き出されたとしても、自分の感性を優先して躊躇なくそれを変更するという強い意志を表明しています。

2──『分離派建築会宣言と作品』
表紙(デザイン=堀口捨己)

しかし、その後少し軌道を修正したように見えます。堀口は、昭和初期には合目的性重視を最優先で主張するようになりました。それを象徴する彼の有名な言葉が「様式なき様式」です。これは「大島測候所」(1938)を発表した『国際建築』1939年2月号の「新時代建築の神話其他」の文中に出てくる言葉で、のちに堀口が自ら編集した作品集『家と庭の空間構成』(鹿島出版、1979)の冒頭に再録されるときに、その原稿のタイトルを「様式なき様式」に代えたほどですから、堀口が自身の建築観を象徴するスローガンとして位置づけ直したと見られます。
ここで堀口は、「過去の様式は勿論であるが、自由様式も国際建築様式も其様式である限りすてるべきであると説いてきた。(...中略...)建築は事物的な要求があつて工学技術が高められた感情の裏付けをもつて解決し充す処に生ずると思ふのであるから、建築設計の前に様式はないのである。然し建築の後に其形は何等かの形をもつあ(<ママ>)らう。それ故にそれは『様式なき様式』である。(...中略...)事物的な要求が充たされる所に建築の形が自然に生じて様式が生まれるのであつて、様式が先にあつて事物的要求がそれに押しこめられるのとは全く正反対なのである」(64頁)と、形は合目的性重視から結果として生じるかのような説明をしています。
合目的性重視は、当時の日本の近代建築家がしばしば口にしたもので、堀口の専売というわけではありません。当時ドイツの美学者アドルフ・ベーネ(1885-1948)が"Zweckbau"(目的建築)という言葉を使っていますが、おそらくその影響です。合目的性重視は、機能や構造の追求から形の最適解が決まるかのような主張ですが、ひとつの形にまとめあげるためには、分析だけではなく、統合の過程が必要ですから、そのための方法論が示されなければ、単なるスローガンに留まります。当時の他の建築家と同じく、堀口もその方法論についてはまったく語っていないので、この発言を鵜呑みにはできません。
また「様式なき様式」のなかに「建築は事物的な要求があつて工学技術が高められた感情の裏付けをもつて解決し充す処に生ずると思ふ」と、「高められた感情の裏付けをもつて」という注釈がわざわざ入れられていることにうかがえるように、堀口は主体重視の姿勢をじつは保持し続けているのです。でも、この「主体重視」と「合目的性重視」は別物なので、両者が共存する保証は得られないことになります。それが彼が抱え込んだ矛盾ですが、むしろそこから生じる葛藤こそが堀口の表現に緊張感を与えるとともに、創作の原動力になっていると私は見ています。
「主体重視」が明確に現われるのは彼の美学(主体の好み)においてで、その特徴は「強い表現」という言い方で表わせます。それが意味するものは、水平と垂直の要素の対比、自然と人工物の対比、派手な色の対比、非相称性重視、変化のある空間構成など、「対比」重視の、「動きを感じさせる、ダイナミックな表現」ということです。それが彼の表現に一貫して見られる特徴です。

それを具体的に紹介します。「常滑市陶芸研究所」(1961)[写真3]は、鉄筋コンクリート造の作品のなかでもっとも堀口らしい作品のひとつで、合目的性と、非相称に対する好み、色への並々ならぬこだわりを「強い表現」にまとめあげようとしていることにそれが見られます。

3──常滑市陶芸研究所外観

まず、正面の、向かって左側には2層吹き抜けの展示室が入り、右側には事務室や和室が入るという機能の違いを反映させて、立面を非相称にしています。それをまとめるために、頂部の庇を3.5メートルも張り出すなど、「強い表現」も明瞭に見てとれます。

立面には、明度を変えた紫色の小口タイルを、グラデーションをなすように張り[写真4]、玄関両側のガラスブロックの側面に紫のペイントを施して、透過光にほのかに紫色が加わるようにしています[写真5]。色に対するこだわりは、玄関ホールの階段を吊る鉄骨がすべて金色に塗られていることや、応接室の金色と赤の対比にも見られます[写真6]。展示室の天井と壁はすべて銀色のマット面で一種異様な雰囲気ですが[写真7]、堀口にいわせれば、それによってトップライトからの光が回り込むので、陶器を見るには相応しい(合目的)ということなのでしょう。ここでも合目的性と自分の色に対する好みを重ねている可能性があります。

4──常滑市陶芸研究所外壁タイル
5──常滑市陶芸研究所玄関脇ガラスブロック

6──常滑市陶芸研究所応接室
7──常滑市陶芸研究所展示室

「静岡サンモール修道会・礼拝堂」(1962)では、ガラスブロックの小口に緑・赤・青のペイントを層状に塗って、光が透過するときにその3色がほのかに見えるようにしていました[写真8]。「明治大学生田校舎3号館」(1965)では、人があまり通らないような裏階段のノンスリップにまで、わざわざ赤・青・黄の3色を使っているあたりにも、色に対する並々ならぬこだわりが感じられます[写真9]。その意味で、秀吉の「黄金の茶室」の復元(1981)も、彼にとっては積極的に取り組める課題でした。堀口の茶の湯の世界は、侘び・寂び重視だけではありません。華やかな茶の湯も認めていました。

8──静岡サンモール修道会・礼拝堂玄関ホール
9──明治大学生田校舎3号館裏階段室ノンスリップ

合目的性の範疇に含まれる「現代性重視」と「論理性重視」という点で、彼の近代建築と和風建築はつながっていたと思います。ここで「現代性重視」とは、機能への対応や新しい技術の活用を意味し、「論理性重視」とは、建物の各要素の存在理由が説明できる(恣意的な要素を避ける)ということです。「大島測候所」(1938)では、事務室と展示施設が地面に沿って低く並んで水平の要素を構成し、高さが必要な観測塔は垂直の要素になって高く立ち上がり、対比的な「強い表現」になっています。また、外壁を雨から守るためと、直射日光を遮るために、堀口はしばしばこのように庇を二重に配するのですが、それが水平感を強調することにもなっています。つまりここでも合目的性と自分の美学を重ねているわけです。
「明治大学和泉第二校舎」(1960)[写真10]では、ローコストでつくることを求められたため、階段教室の床の斜面に対応して外壁外側に斜めの廊下を回し(コストを下げるため、壁1枚分をなくしたということ)、その斜路を立面の構成要素にそのまま利用しつつ、全体を統合する要素として頂部に大きな庇を配して、合目的性や経済性と、彼の美学である「強い表現」を共存させようとしています。

10──明治大学和泉キャンパス第二校舎

和風建築の「八勝館みゆきの間」(1950)[写真11]の天上に見られる棹縁(さおぶち)のダイナミックな配り方は「三渓園臨春閣住之江(すみのえ)の間」の天井に由来します。つまり古典に典拠(要素の存在理由)を求めているわけで、なぜこのような棹縁の配り方にしたのかが説明ができることになります(論理性重視)。また、堀口好みの一例である、小壁いっぱいに切られた明かり障子は「桂離宮古書院」に由来します。和室でも、照明や空調のような新技術の導入に積極的でしたが、これは「現代性重視」の例です。

11──八勝館みゆきの間

3. 「日本回帰」に込められた堀口の戦略──近代建築のフィルターを通した伝統理解

次に「『日本回帰』に込められた堀口の戦略」についてお話しします。
堀口が1923(大正12)年の洋行の際にアテネのパルテノンを訪れたときに、西洋の真似をしてもとてもかなわないと覚ったことが「日本回帰」のきっかけになったといわれます。
その根拠とされるのは、「数寄屋造と現代建築について──サンパウロ日本館の写真にそえて」(『建築文化』1956年1月号)にある、以下のくだりです。
「私(引用者註:堀口)はかつてギリシアのパルテノンの傍に立ったことがあった。パルテノンの列柱の一つが修理のために地のうえに1個1個がばらばらにして横たえてあった。その柱頭の所を見入って20代の私は思わずうめき声を上げた。学校で習わされたドリア風の柱頭とは全く異なった生きもののごとき在り方であった。これはギリシアの地に生れて、豊かな世界に育ち上がったもので、アジアの東のはしの育ちには、歯のたつものではないことをはっきりと知らされた。(...中略...)それは美しい。しかしそれを模ねようとしても鳥が孔雀の尾をつけたようなわらわれるべきものしかできないような質の全く異なったものであった」(31-32頁)。
でもこれは渡欧から30年以上あとに書かれたものですし、自邸史料の中の洋行関係の史料(同時代の史料)には、パルテノンを含め、ヨーロッパの古建築に関するものはまったく見られません。代わりにあるのは、彼が撮影した、当時の新建築の写真274点と、ル・コルビュジエのVers une Architecture(1923)を含む洋書37冊で、新しい建築やデザインの新傾向に関するものだけです[写真12,13]。洋行の時に彼が関心を寄せていたのが古典建築ではなく、当時のヨーロッパの最新の動向だったことはまちがいありません。

12──ストックレー邸(堀口撮影、堀口家蔵)
13──コヴァジョビチ邸(堀口撮影、堀口家蔵)

そのような目で、上掲の文章に続くくだりに注目すべきで、彼は、近代建築においてならばヨーロッパの建築家と伍していけると考え、そのために日本の古典を武器にしようと考えたというのが真意です。そこには次のように記されています。
「ギリシアの古典は、東のはてから来た若男に『柄にあった身についた道を歩め』とささやいてくれる女神ではなかったが、冷たくきびしく寄りつくすべもない美しさの中に、打ちのめされて、柄にあう道を探さざるを得なかったのである。そこに近代建築の道がひらけて、そこで身についた柄にあう行く手を見出した。またその立場のうえで新しく身についた古典をも見出した。」(同前)
「日本回帰」が意味するものについても、再考の必要があると私は思います。堀口はけっして「日本」に閉じこもろうとしたのではなく、むしろ、西洋の近代建築家と対等に渡り合うための手段として、彼が提唱する、数寄屋造りに代表される構成美の有効性を訴えようとしていたと見るべきです。ちなみに、「数寄屋造り」は、簡単にいえば、書院造りに草案風茶室の美学が加わったもので、桂離宮の書院のようなものです。
堀口にとって、和風建築は自明のものではなかったはずで、それを探求するために「日本的なもの」とは何かを考える必要がありました。私は、その直接のきっかけはパルテノン体験というより、「吉川(きっかわ)邸」(1930)の和室を設計させてもらえなかったことにあるように思います。その堀口の「日本的なもの」が「数寄屋造り」で、堀口はそれこそが現代建築のモデルになり得るものとして、その現代における有効性を西洋に向けて発信しようとしていました。
堀口が自作の和風建築を西洋に紹介することに熱心だった(「日本的なもの」に現代的な普遍性があると考えていた)ことは、「岡田邸」(1933)がL'Architecture d'Aujourd'hui(1934年2月号)、'EIN JAPANISCHES WOHNHAUS VON HEUTE'(NIPPON、1935年11月)、『一住宅と其庭園』(洪洋社、1937、日独併記)という三つの外国語メディアに紹介されていることからもうかがえます。
堀口の「日本的なもの」について説明するために、まず昭和初期の「日本的なもの」について、私の見方をお話しします。
昭和初期には、近代建築家によって、従来とは異なる「日本的なもの」が提唱されました。その直接のきっかけは「日本趣味の建築」(いわゆる「帝冠様式」)の隆盛で、コンペの当選案を独占し、多数建設されました[写真14,15]。日本の近代建築家は、「日本趣味の建築」の瓦葺きの勾配屋根は寺院建築に由来し、それは中国起源であること(「日本的」ではないこと)、そして陸屋根で済むのにわざわざ重い瓦葺きの勾配屋根を架けることや、木造で発達した組物を装飾として鉄筋コンクリート造の建物につけることには構造合理性がない、と批判しました。しかし、彼らは「日本的なもの」の存在自体は否定しませんでした。もちろんそれは「日本趣味の建築」に示されたものとは異なっていました。堀口を含む日本の近代建築家は、彼らの考える「日本的なもの」を提唱しました。まず、寺院建築にではなく、日本固有のビルディングタイプと彼らが見なした、神社・住宅・茶室に注目し、そこに共通する特徴として、a)平面・構造が簡素明快、b)無装飾、c)素材の美の尊重、d)非相称、e)庭との連続性、などを真の「日本的なもの」としたのです。そして、その「日本的なもの」を象徴する建築として、「伊勢神宮正殿(しょうでん)」や「桂離宮」[写真16]が賞揚されるようになりました。

14──京都市美術館
15──東京国立博物館本館(旧東京帝室博物館)

16──桂離宮書院

私にいわせれば、これは「近代建築のフィルターを通した伝統理解」で、近代建築の教義や美学を日本の過去の建築に見出して、それを日本の「伝統」と位置づけたにすぎません(私は、真の「日本的なもの」は存在しない、それは解釈に依存する、と考えます)。この伝統理解には、日本の近代建築家のアンビヴァレントな心情が反映していると思います。近代建築をつくることは西洋と普遍的な価値観を共有できることを意味するだけではなく、「日本的なもの」を表現することにもなるわけですが、西洋が20世紀になってようやく発見した価値を日本が昔から保持してきたことを意味することになりますから、西洋に対する日本の先見性を示唆することにもなるわけです(ナショナリズムがほの見えます)。
堀口は、このような「日本的なもの」の主唱者のひとりです。彼は、先にあげた項目の中でも特に「非相称性」を重視しました。それはダイナミックな構成を好むという彼の美学にもかなうものでした。
彼のレトリックは巧みで、まず「茶室」に注目し、茶の湯の総合芸術性を提唱しつつ、茶室の「現代性」(現代にも有効な価値を有する建築)を強調します。つまり、茶の湯は工芸(茶器)、建築(茶室)、書画(掛軸)、庭園(露地)が一体となった総合芸術で、生活の用(この場合は喫茶)と美が融合した世界(「生活構成の芸術」、つまり「合目的の美」)だということで、その現代性を主張します。そして、茶室が茶の湯の「用」を果たすために機能的につくられているだけではなく、平面や意匠が非相称の美を構成している点に注意をうながします(「茶室の思想的背景と其構成」:『建築様式論叢』六文館、1932)。要するに、合目的性に則った非相称の構成が茶室の意匠の特徴だということであり、それは現代の建築の目標でもあるはずだから、茶室は現代の建築のモデルになると主張したわけです。
しかし、この時点では彼の和風建築の実作に見るべきものが少ない(理論先行である)ことには注意しなくてはなりません。たとえば「吉川(きっかわ)事務所」(1931)は、設計図が遺っていますので、彼が設計したことが確認できますが、2階にある和室はごくありきたりのものです。また有名な「岡田邸」(1933)では、彼が設計に加わった時には、小屋組まですでに建ち上がっていたので、あの和館で手を入れられたのは、天井高の変更と、玄関や化粧室の手直し、建具と土庇の挿入、庭の設計だけでした。
しかし、利休の唯一の遺構「待庵」を「発見」したことをきっかけにした千利休研究や『茶道全集』(創元社)執筆のための実測調査などを昭和10年代に精力的に行ったことが、彼の伝統理解を大きく拡げることになりました。その集大成である学位論文「書院造と数寄屋造の研究─主として室町時代に於けるその発生と展開について」(東京帝国大学、1944)や、『利休の茶室』(岩波書店、1949)、『利休の茶』(同、1951)を経て、その成果が「八勝館みゆきの間」(1950)に結実します。学位論文を支えているのは「数寄屋造り」の「現代性」です。前書きに、外国の建築家から日本の住宅に注目が集まっていることへの言及があることにうかがえるように、彼は西洋からの視線を意識しています。このような研究成果に対応する実作が「八勝館みゆきの間」(1950)で、ここで堀口の和風建築が一挙に高いレベルに達しました。それは、可変性に配慮した平面計画、掛込み天井(化粧屋根裏)のモチーフを使った天井照明、「三渓園臨春閣住之江(すみのえ)の間」を典拠とする棹縁(さおぶち)天井のデザイン、小壁いっぱいに切られた明かり障子(「桂離宮古書院」を典拠とする)などに見られます。ちなみに、堀口は明るい和室が好きで、茶室のにじり口の内側に障子を立て、にじり戸を開けた状態で障子だけを閉めて、茶室のその周りを明るくするという趣向は堀口好みです。
堀口が和風建築の大家になるきっかけは「待庵(たいあん)の発見」にあると私は思います。1935(昭和10)年頃に彼は「待庵」[写真17]を見ていますが、じつは学生時代にも実習旅行で訪れています。彼の回想(「日本建築のこころ」、『APPROACH』1972年秋号)によれば、その時は「ちょっと面白いなと思った程度」(15頁)だったので、近代建築の教義を受け入れ、茶室や茶の湯を勉強したあとで、ようやく待庵を「発見」できたということです。

17──妙喜庵待庵

堀口が編集・執筆した『現代建築・千利休特輯』(1940年7月)[写真18]で、彼は「待庵」を「よく古い形態を全体に保つて居て、茶室建築の古典として第一に上らるべき最も美しい最も茶室建築的特徴を示す遺構の一つ」(21頁)と絶賛します。その、変化に富んだ、非相称で立体的な空間構成や、窓の配置や室床(むろどこ)に見られる独創性、次の間の地板や露地の石の配置に見られる、用(合目的性)と結びついた美を評価しています。つまり、近代建築家の目で「待庵」を再評価しつつ、利休を単なる茶人としてではなく、建築家・総合芸術家として位置づけ直したわけです。

18──『現代建築・千利休特輯』表紙

『現代建築・千利休特輯』では、利休ゆかりの「残月亭」と、そのもとになったといわれる伏見の利休屋敷の「九間(ここのま)書院」にも注目しています。このような非相称の構成を持つ建築は、利休が茶室で開拓した新しい美学を展開したもので、それが日本の住宅の頂点である数寄屋造り(数寄屋風書院)の形成につながったとして、数寄屋造り成立の最大の功労者として利休を高く評価する、というのが堀口の見方です。これについては現代の数寄屋建築史の研究者からの異論がありそうですが、少なくとも彼はそう理解したのです。
堀口にとって、1930年代後半から40年代の利休研究は余技などではなく、彼の美学を裏づけるものを発見し、「表現者」としての自分の世界を開いていく転機になった点で、つまり彼の自己形成に枢要な役割を果たした点で、きわめて注目すべきものだと私は考えます。
そして堀口は、利休の事績を中心とする数寄屋研究を通して確信した数寄屋造りの有効性(西洋の近代建築にとってもモデルになり得ること)を、日本から発信しようとしていたのです。先にも触れたように、彼は「日本」に閉じこもることなど考えていませんでした。きわめて戦略的で、彼の「日本的なもの」を武器に西洋と対等に渡り合おうとしていたのです。
堀口は、戦後も西洋に向けて発信することに前向きで、彼の本には英語版もあります。たとえば、日本建築や日本庭園を紹介するARCHITECTURAL BEAUTY IN JAPAN(神代雄一郎と共著、国際文化振興会、1955)やTradition of Japanese Garden(同前、1962)があり、『桂離宮』(毎日新聞、1952)には英語版The Katsura Imperial Villa(同前、1953)もあります。

4. 総合芸術志向

堀口は、自然と人工物の「構成」をテーマにしたので、敷地全体の空間構成を重視しました。それが彼にとっての「建築」であり、「庭園」でした。彼は通俗的な定義にとらわれなかったので、自然と人工物の構成であれば、「建築」あるいは「庭園」と見なしました。百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)(通称、仁徳天皇陵)のような巨大な古墳は、彼にとっては「建築」でした。
また堀口が、定年後に明治大学で非常勤講師として講じていた「造園」の講義の冒頭で、彼は学生に「東京でもっとも美しいところはどこだろうか」と問いかけます。彼はその答えとして、江戸城のお堀端を挙げて、「私はそれを『庭園』と呼ぶ」と宣言します。通俗的な「庭園」の定義を軽々と飛び越えるわけです。このような見方から、宮島の厳島(いつくしま)神社も、自然と人工物の「構成」の好例ということで高く評価しました。

19──『利休の茶室』『利休の茶』

20──『家と庭の空間構成』

21──『利休の茶室』字配り

堀口の総合芸術志向は、作品集(モノグラフ)の出版や、その装幀にも示されています。彼のモノグラフは美術図集のようなやり方で、自作を「作品」として紹介したもので、日本の建築家の中では初の試みですが、そこに記された設計趣旨だけではなく、レイアウトや色に対する彼のこだわりにも注目する必要があります。たとえば、『利休の茶室』((岩波書店、1949)や『利休の茶』((岩波書店、1951)の表装は非相称になっていますし、前者では利休鼠が使われています[写真19]。『家と庭の空間構成』(鹿島出版会、1974)[写真20]では、表紙が緑で文字が金、それを納める箱が深紅で文字が銀という、色による強烈な対比表現が見られます。中を開くと、横位置縦書きを基本とするという、異例のレイアウトです。これは写真や図版をできるだけ大きく、無駄のないレイアウトで掲載するためで、見開き2ページをひとまとめにして図版と文字で「構成」しています。常識にとらわれず、合目的性重視を重視して「構成」するという、いかにも彼らしいやり方です。
また、『利休の茶』では、読むスピードをコントロールするために、句読点の他に半角のスペースを設けるという、独特の字配りにしています[写真21]。これも、彼なりの合目的性重視の一例です。
第六高等学校と東京帝国大学での堀口の先輩である藤井厚二(1888-1938)も装幀に凝っていましたが、銀砂子(すなご)をまぶした和紙を使うなど、そのふるまいはディレッタント的です。堀口は、藤井とは違って、恣意的なことを極力避けようとしています。本の装幀でも、建築のデザインと同じく、合目的性重視と彼の美学を重ね合わせようとしていたわけです。
モノグラフなどに記された彼の文章も注意して見る必要があります。そこには、事実を淡々と記すのではなく、設計という一回性の行為の中に、建築における普遍的なテーマを見出そうとする姿勢がはっきりと示されています。
たとえば、「紫烟(しえん)荘」(1926)や、「岡田邸」(1933)、「若狭邸」(1939)はいずれも妾宅ですが、「紫烟荘」は「建築の非都市的なものについて」の例として、つまり住宅建築の課題がクリアに現れる例として紹介しています。当時は関東大震災直後ですから、都市問題や住宅問題が建築界のテーマでしたが、そのことを百も承知のうえで、田園に建つからこそ住宅に求められる要件がダイレクトに関係するので、その設計には意味があるという説明をしています。
「岡田邸」の作品集『一住宅と其庭園』(洪洋社、1937)では、「住宅の和洋折衷と云ふ事」という設計趣旨で、和と洋の併存という、じつは彼がもたらした住宅のあり方を過渡的な状況として認めつつ、その和と洋は「構成」という点で共存できると主張していますし、「草庭(くさにわ)」の意義も述べています。この建物が1995(平成7)年に取り壊されるときに、私の研究室で細かく調査をしました。その調査結果から、和館に洋館がつくことになったのは堀口が仕掛けたことだと考えられるのですが、じつは自分がつくり出した和洋併存を正当化する論理を、何とか紡ぎ出そうとしていたというのが真相でした。
「若狭邸」の設計趣旨「日本の住宅様式」(『現代建築』1939年7月号)では、「今日の如き非常時」では、椅子式の洋風生活が望ましいと述べています。この住宅には女中室以外に和室はありません。日中戦争で資材統制がかかっていた時だということで、婦人労働を軽減するためには椅子式の洋風生活が望ましく、この建物はそのモデルであるという説明をしていますが、施主がモダンな住宅を求めていたからそうなったというのが実態です(それは施主からの手紙にはっきり示されています)。また、当初は鉄筋コンクリート造で計画していましたが、資材統制で鉄とセメントが使えなくなり、木造に変更して建てられましたが、建物の外観はまったく変えていません。それは「様式なき様式」などで主張していた、それぞれの構造にはそれに相応しい形があるはずだという考え方には沿っていません。
また、品川区上大崎につくられた「吉川(きっかわ)邸」(1930)の設計図面には実施案と計画案があり、同じ平面でもまったく違う立面の案もあります。実施案の平面計画は敷地に対応しているという説明になっていますが、かつて吉川家の屋敷があった場所の、関東大震災後の区画整理地(神田区紅梅町の、楯型の変形四角形の敷地)を想定してつくられた平面形状とよく似ています。つまり、実施案は敷地との対応から決まったということではないのです。
要するに、実際には「様式なき様式」などの理論通りには設計されていないということですが、そのような、彼の美学を優先させることもあったということは建築家としては誠実なふるまいだと、私は好意的に見ています。自分が納得のいく形を提出しなければ人を感動させることはできません。理論通りにできた形が仮にあるとしても、それは無味乾燥なものでしかないでしょう。
今お話ししましたように、堀口の設計趣旨の文章は事実を反映していませんが、そのズレに注目することこそが、彼がもっとも主張したいことを浮かび上がらせるポイントであることを認識するのが、堀口研究では重要だと私は信じています。少なくとも、舞台裏を暴くことが目的ではありません。建築史は、そのようなエピソード紹介に留まってはいけません。そこに垣間見える建築家の意図に焦点を当てて、そのデザインと思想について考察することが大事です。設計というのは、施主から条件を与えられてからはじまるという点で、受け身の作業で、偶発的なできごとです。しかし堀口は、そのなかに他の建築家が共有できる普遍的な建築的テーマを見出して、メディアを通してそれを提示しようとしました。このようなふるまい方は今では一流の建築家にとって当たり前のことですが、それを日本ではじめてやったのが堀口なのです。その点でも彼を高く評価すべきだと思います。
堀口は多面的な活動をした人でもあります。彼にとって、建築史、庭園史、茶室、茶の湯の研究は、それぞれ独立したものではなく、設計の意図とか設計者の好みや考え方について徹底的に知りたくて、史料を探索しながら一生懸命追求していたら、いつのまにか建築史や茶室研究の一流の研究者になっていたということで、そこに彼が見出した価値を裏付けにしながら、自分の美学を重ね合わせて、設計していたのです。堀口の研究はジャンル分けにこだわったものではありませんし、それは彼の表現と不可分のものだったわけです。
その好例として、『桂離宮』(毎日新聞、1952)に示された桂評価のひとつを紹介します。結論を先にいいますと、堀口は、桂離宮は和歌の古典を手がかりにつくられたと見ました。

22──桂離宮松琴亭
(写真1,12,13以外は藤岡洋保撮影)

それを象徴するのが松琴亭についての評価です。ここで彼は、かつて松琴亭の北側にあった朱塗りの大橋と万葉集の一首をあわせ見ながら、松琴亭の有名な藍と白の市松模様の襖のデザインを読み解きます[写真22]
まず堀口は、桂離宮には、高砂の浜が万葉集を、住吉の松が古今集を象徴しているというように、古今集や万葉集にまつわる場所があることに注意をうながします。そして史料から、かつて松琴亭の北側に朱塗りの大橋が架かっていたことに注目します。「池をはさんで、互に見合ふ大きな松、その間に朱塗の大橋、これが昔、桂離宮の庭を、組み立ててゐた最も著しい見所の中心であつた。」(11頁)と、松琴亭の北側の庭に注目しつつ、藍と白の市松模様は、『万葉集・巻九』にある「しな照る片足羽川の さ丹塗の 大橋の上ゆ くれなひの 赤裳裾引き 山藍用ち摺れる衣着て たゞ独 い渡らす児は 若草の 夫かあるらむ 橿の実の 独か寝らむ 問はまくの ほしき我妹が 家の知らなく」(下線筆者)を手がかりにしたものだというのです。この歌があの市松模様のデザインの手がかりになっていて、松琴亭だけではなく、その側にあった朱塗りの大橋を含めて一体的に見るべきだということです。堀口は、桂は『源氏物語』に出てくる歌にも関係があるともいいます。堀口が桂離宮に見たのは、万葉集や古今集、源氏物語を手がかりにつくられた雅びの世界だったのです。
堀口は、近代建築のフィルターを通した「日本的なもの」の提唱者の1人だったわけですが、桂離宮の解釈に見られるように、彼自身はその枠を超え出ています。
『桂離宮』では、過去の姿を学問的な厳密性をもとに復原しつつ、人工のモノや色と自然が織りなす華麗な世界を描き出して見せました。それは、彼の建築史・庭園史研究と美学、そして和歌への愛好を融合させた好例といえます。多彩な関心が収斂してひとつの表現や解釈に高められていくのが、堀口の仕事のもっとも注目すべきところだと、私は考えます。

5. まとめ──すべてが「表現」に収斂

堀口は研究者としても一流で、深い学識に支えられたその文章は論理的に響きますが、そのような実証主義的、合理主義的な側面だけを見てはいけません。それらと、内面から湧き出てくる表現意欲とのせめぎ合いに注目することが肝要です。それらが融合してひとつの「表現」にまで高められていくのが彼の最大の魅力です。理性と感性のせめぎ合いから紡ぎ出されたのが堀口の表現で、そこに見られる、既成の権威からの自由(型にはまった思考を乗り越える姿勢)、自分の目が発見したものを信じること、そして「表現」に必要なことを徹底して追求する姿勢が、われわれが彼から学べることなのです。
ここで堀口の和歌を四首紹介して、終わりにします。

「たかくおもひ きよく生きなむ ねがひにぞ すきびとみとを えらびたりしか」(1949)

ここには、彼の生き方が表現されています。

「梢よりこずゑにわたるかぜの音(と)は 心にかよふ春のこゑかな」(1966)

これは、「音」を御題とする新年歌会始の召人(めしゅうど)に選ばれたときの歌です。

「思ふ事書く事の世界限りなき 広さと高さ今にして覚ゆ」(1968)

ここには、研鑽を積めば積むほど、新たな課題が浮かび上がってきて、どこまで行っても果てがないという、さまざまな分野で業績を残したからこそ到達できた境地が示されています。

「散りて行くはかなさ故に花開く そのひとときこそ いのちなりける」(1969)

一瞬一瞬を大切に生きようとした彼の気持ちを歌ったものです。
以上です。

藤岡洋保氏

参考文献
藤岡洋保『表現者・堀口捨己──総合芸術の探求』(中央公論美術出版、2009)
Hiroyasu FUJIOKA, 'The Search for "Japanese Architecture" in Modern Ages' in The Japan Foundation Newsletter, Vol. 15, No. 3, Dec. 1987, pp. 1-9.
藤岡洋保「昭和初期の日本の建築界における『日本的なもの』──合理主義の建築家による新しい伝統理解」(『日本建築学会計画系論文報告集』No. 412、173-180頁、1990年6月)


ふじおか・ひろやす
1949年生まれ。日本近代建築史研究。東京工業大学大学院理工学研究科教授。
著書=『表現者・堀口捨己──総合芸術の探求』『近代建築史』。共著=『清家清』。


201306

特集 建築家とは何か──堀口捨己、神代雄一郎の問い


イントロダクション──趣旨説明
基調講演1:表現者・堀口捨己──総合芸術の探求
基調講演2:神代雄一郎、その批評精神の軌跡
堀口捨巳と神代雄一郎──二つの発言への註
プレゼンテーション+ディスカッション
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