刊行記念トークショー 第1部:「これまで」を振り返って

吉良森子(建築家) 聞き手:戸田穣(建築史)


吉良森子
『これまで と これから 建築をさがして』
戸田──本日は、嵐の予感のするなか、吉良森子著『これまで と これから 建築をさがして』の刊行記念トークショーにお越しくださいましてありがとうございます。
今回の本は、LIXIL出版から出ている「現代建築家コンセプト・シリーズ」のなかの1冊ですが、コンセプトブックというよりも吉良さんの冒険活劇のようで、ストーリーがスッと頭に入ってきます。その都度、その都度、吉良さんがどう感じ、どう判断してきたのかが丹念に描かれていて、コンセプトが前面に出てきているわけではありません。オランダと日本で活躍しておられるけれども、インターナショルやグローバルといった印象ともちょっと違う。これははたから見ていると不思議なわけで、今日の前半では、そんな吉良さんのパーソナリティをご紹介できればと思います。後半は、建築家の新堀学さんからご自身のお仕事を紹介いただき、その後、吉良さんとディスカッションしてもらう予定です。

実家のこと、留学のこと

戸田──吉良森子さんは、1965年東京生まれ。早稲田大学で建築を学ばれ、90年に修士課程を卒業されました。デルフト工科大学の留学を挟んで日本での学業を終えられた後に、再びオランダに渡られて、そこでベン・ファン・ベルケルの事務所に勤められます。その後独立し、以後はずっとオランダのアムステルダムに事務所を構えられていますが、オランダと日本の2つの拠点を持ちながら活躍されている建築家です。
まずは吉良さんの幼少期のお話をうかがいたいと思います。ご自宅が竹中工務店出身の建築家の方が設計された家だったそうですが、思い出話を聞かせてください。

吉良──私が生まれ育った東京都中野区の家は、1950年代末から1960年代くらいによくつくられたような、洋間しかないけれども障子があるような家です。建設当初は吹き抜けがあったらしくて、両親からも祖母からも、「吹き抜けがあった当時は本当に寒くて住めない家だった」と、子どもの頃から、何度も何度も聞かされました。この言葉はずっと私の頭のなかに焼き付いていました。特徴のある家に住んでいたこともあって、人の家に遊びに行くと、間取りが気になっていましたね。日曜日の住宅広告なんかもよく見ていました。そのときは意識していませんでしたが、この家で生まれ育ったことが、私がいま建築家として仕事をしていることの、原風景になっているのだと思います。

実家が竣工したときの建築雑誌の記事(『新住宅』1961年5月号、設計:村上秀也)

戸田──特におばあさまから、「建築家の言う成りに家を建てると大変なことになる」と何度も聞かされていたそうですが、建築の勉強を始める前には、建築家にどのようなイメージを持っていたのでしょうか。

吉良──建築家が設計した家に住み、建築家という言葉を幼少のころから何度も耳にしていましたが、そのことが、建築を志すきかっけになったということはありませんでした。建築の勉強を始めてからも、実家での体験が、私自身が勉強した建築や建築家のイメージと結びついたことは、実は一度もありませんでした。逆に言うと、今回本にまとめる段階で、自分自身がそれぞれのプロジェクトに向き合い、選択していく過程を振り返るなかで、この自分の生まれ育った住宅の重要さをあらためて感じるようになりました。

戸田──今回、原風景が後から発見されたということですね。実家は何度か改修されているとのことですが、どのような改修をされたのですか?

改修後の実家(2007年11月、設計:アトリエエツコ、撮影:太田拓実)

吉良──改修は、アトリエエツコさんにしていただきました。両親も高齢化してきているので、床暖房を入れるなどの変更をしています。もとの家から2、3回改修しているのですが、第三者に改装してもらうことで、逆に昔の雰囲気が帰ってきたように思っています。

戸田──その後、林昌二さん設計の大学キャンパス内のタウンハウスや、ハウジングメーカーが建てたプレファブ住宅にも住んだという話が書かれていましたが、大学で建築を学び始めてから、ショックを受けたことはありましたか? 「これが建築の世界か」というような。

吉良──建築学科に入って、最初の1、2年は、「この建物を見なさい、これは建築ですよ」というように、与えられたものをとりあえずはそういうものだと受け入れていく期間でした。それが、実際に自分自身で設計をする立場に変わったときに、「自分にしかできないことは何なのか?」をさがすプロセスが、すごく重要だったように思います。私は建築の形をつくることがとても苦手で、いつも悩んでいました。外見からオブジェとして格好いいものをつくって、それを建築にするということがどうしてもできませんでした。でも、逆に内側からつくり始めるようになると、うまくいって......私は、建物を建物としてではなく、「通りのインテリア」として考えることで、設計ができるのだな、ということを発見しました。そういう、「自分にしかできないこと」を見つけていくプロセスが、私にとっては一番の葛藤であったし、ショックでもあったと思います。

戸田──オランダに行きたいと思われたのにはどういうきっかけがあったのでしょうか?

吉良──非常に合理的な理由だったのですが、まず留学する場所としてはヨーロッパに行きたかったんですね。私が理解できる言語は英語しかなかったので、英語で留学できる国にしたかった。ただ、イギリスというのは島国で、ヨーロッパ本土からは離れているので避けたかった。そうすると場所が限られてくるわけですが、オランダには建築の文化もあるし、現在でも建築が建てられている国だということで、かなりプラグマティックにオランダを選びました。それから、私が留学する年に、レム・コールハースがデルフト工科大学で教えるという噂を聞いたので、その2つがオランダを選んだ理由ですね。

戸田──その噂は本当だったんですか?

吉良──本当だったんです(笑)。

戸田──それは、1年間か半期か、レム・コールハースのスタジオに入って、設計の授業を受けたということですか?

吉良──そうです。1年のコースの最後まではいられなかったのですが、彼のスタジオで授業を受けていました。卒業設計のスタジオのグループをコールハースがデルフト工科大学で募集をしていたのです。絶対に入れてもらえないだろうなと思いつつも、ダメもとで応募したら、希望者が10人くらいしかいなくて。それで、希望者全員がそこで勉強することになりました。そのとき一緒にいたのが、MVRDVのヴィニー・マースであったり、ヤコブ・ファン・ライスだったり、コールハースのアシスタントがベン・ファン・ベルケルだったりして......いま考えてみると、半年くらいの時間でしたけれど、ここでの体験が私に与えたショックというというのは、すごく大きかったと思います。

戸田──そのショックは具体的にはどのようなものだったのでしょうか?

吉良──私が早稲田大学で勉強していたときは、「建築家は建築をつくるものだ」と思っていたのですが、コールハースのスタジオで重要だったことは、都市のなかにおける建築、都市との関わり、あるいは建築がどのように都市を形成していくかということでした。都市とのつながりを強く重要視していたと言うか、それしかしてなかったんですね。そこに非常に刺激を受けました。ほかには、プレゼンテーションの仕方ですね。私が早稲田に在学していたころは、200人くらいの学生のなかから、5人か10人くらいの学生の作品が選ばれて講評され、ほかの人は成績がつけられて返ってくるというシステムでした。それが、デルフト工科大学では、毎回毎回プレゼンテーションさせられるんです。日本語ですら、自分の作品を人前でプレゼンしたことなんて一度もなかったのに、それを1年間繰り返し訓練を受けました。私が帰国するときにコールハースが、「君の設計のクオリティはよくわからないけれど、プレゼンテーションは本当にうまくなったよね」って(笑)。設計の訓練というのは、自分の考えをいかに伝えるか、ということなのだと、徹底的に痛感させられた1年でした。

戸田──その後、日本で勉強を終えてから、またオランダに行きたいと思ったのは、やはりそのときの経験が大きかったのでしょうか?

吉良──そうですね。特にそのスタジオのなかでの体験のインパクトというのは、私自身、言葉では表現しきれないくらい大きなショックがあって、是非もう一度オランダに戻りたいと思っていました。

さまざまな質の空間を持った建築を──箱根週末住宅

戸田──オランダに戻られてから、ご両親の別荘《箱根週末住宅》(2001)をつくられていますね。この本のなかでは一番古い作品になります。ご自身では、コンセプトありきの未熟な側面もあり、やや形式的だというように述べられていますが、日本でお仕事されるのはこの住宅が最初だったのですか?

《箱根週末住宅》(2001、撮影:淺川敏)

吉良──はい。両親の別荘住宅ですので、仕事と呼んでいいのかはわかりませんが(笑)。ただ、竣工はこの住宅の後になりますが、並行して神奈川県の真鶴町に高齢者のグループホームを設計していました。設計を始めた時期としては、《真鶴のグループホーム》の方が先です。

戸田──この住宅の設計では、あまり両親からの要望はなく、お母さまも、移動するのが面倒なので、わざわざ山に行く必要はないと言って、当初は興味を持っていなかったそうですね。設計についてはほうっておかれたと。ただ、そんななかで、自分の設計に向き合う時間が持てたと書かれていました。それまでは、設計事務所に勤めていらっしゃったので、所員としての設計作業でしたよね。自分の仕事として設計するということは大きな変化だったと思いますが、そのギャップとはどういうものでしたか?

吉良──ギャップというよりは、その2つの立場は、まったく別のことだと思うんですね。ベン・ファン・ベルケルの事務所は、とても自由なところでした。各人がプロジェクトを担当していて、ベン・ファン・ベルケルとのコミュニケーションのなかで、自分の提案をしていましたので、非常に責任のある設計ができる事務所だったんです。とはいえ、所員として図面を書いているときは、ベン・ファン・ベルケルがやろうとしていることに対して、どう応えるかというひとつの前提があって仕事をしていたわけです。それがまったくなくなって、自分自身で決断を重ねていくという仕事のやりかたは、所員としての仕事のしかたとは、まったく違う行為のような気がします。

古い漁師の家の改装・拡大(アムステルダム、撮影:ルーク・クレーマー)

吉良──この住宅を設計する前には、浴室やキッチンといった小さな家の部分的なリノベーションばかりをやっていた時期がありました。その後ということもあって、肩に力が入っていた部分もありますね。その小さなリノベーションのなかで考えていたことをこの一軒の建築のなかに実現させたい、という気持ちがありました。そういう意味では、ほかのプロジェクトとはかなり違ったものだったと思います。

戸田──それまでのリノベーションの経験というものが、どういった形でこの新築の建物にフィードバックできたのでしょうか?

吉良──どんな小さな家でも、印象の異なる空間がいくつかあるんですね。例えば、キッチンであるとかバスルームであるとか、そんな、すでにある空間の一部を変えるだけで、建物全体が変わるということが強く実感できたんです。新築の場合は、リノベーションと違って、建物の一貫性を白紙からつくりあげねばなりません。ただ、このときに、建物としてはひとつのストラクチャーなんだけれども、リノベーションでやってきたような、さまざまな質の違う空間を持った建物をつくりたいなと思っていました。

人間はパッセンジャーでしかない──シーボルトハウス

戸田──リノベーションと言えば、その後の《シーボルトハウス》(2004)の改修のお仕事が、吉良さんの最初の出世作と言っていいかと思うのですけど。

吉良──出世作(笑)。

戸田──日本でも有名なシーボルトの記念館を、彼が昔に住んでいた住宅を改修して博物館として設計しているということですが、これは役所の仕事なんですよね?

吉良──そうです。私が独立した当時は仕事もほとんどなくて、小さなリノベーションをしていました。当時のオランダは楽観的な時代だったというか、ワークシェアリングという仕組みで、若い建築家たちを、週に3、4日くらい、住宅国土開発担当庁のなかにある建築局のなかで建築家として雇って経験を積ませるということをしていたんですね。その建築局の責任者の方たちのお眼鏡にかなって、そこで働くことができたんです。
シーボルトは、「日本に西洋医学を伝えた人物」として知られていますが、ヨーロッパでは、「日本の文化をヨーロッパに伝えた人物」として知られています。1820年代に5年ほど日本に滞在していたのですが、その間に、日本の文化人類学的なオブジェであるとか、自然に関わるものであるとか、地図であるとか、莫大なコレクションを集めてヨーロッパに持ち帰ったんですね。ミュージアムの展示をみてもらったらわかるのですが、動物の剥製や植物、道具など、さまざまなものがあります。また、いまのようにカメラもビデオもない時代ですから、ものを持ち帰るだけではなくて、長崎の絵描きさんを使い、さまざまなものを描写させました。

シーボルトのコレクション。模型、絵画、実物、道具とさまざまな媒体を使って日本の当時の生活を伝えようとした(撮影:ルーク・クレーマー)
運河からの眺め(撮影:ルーク・クレーマー)

吉良──中央の背の高い建物がシーボルトの住んでいた家です。日本から帰ってきたシーボルトは、ライデンのこの家に住むのですが、持ち帰ったオブジェを王侯貴族であるとか当時のヨーロッパのインテリたちに展示して見せていたのですね。ただ、このコレクションはのちに、文化人類学的なものはライデンの文化人類学博物館、自然のものは自然博物館、地図はライデン大学にコレクションと、いくつかの場所に分けられてしまいます。
2000年が、日本とヨーロッパの交流が始まってから400年目ということで、それを記念して、日蘭が協力し、シーボルトが住んでいた家を博物館として改修することになりました。偶然そのプロジェクトが始まったころに建築局に私が勤めていたので、運よくこの仕事をさせていただくことになったのです。
シーボルトのコレクションは素晴らしいものですが、このシーボルトが住んでいた家もなかなか素晴らしい建物です。運河側のファサードは18世紀のものなのですが、庭側のファサードは17世紀、部屋によってはロココスタイルだったりネオクラシックだったり、さまざまな様式の宝庫のような建物だったんですね。今回は、日本に関係するプロジェクトということで、私が担当させてもらえることになったのですが、その時点では、古い建物のプロジェクトや正当なモニュメントを扱うのは初めてで、最初はどうしていいかわからない、何を変えていいのか、建築家として何を表現していいのかわからず、四苦八苦していました。様式建築を勉強してきたわけではなかったので、様式的な部屋については、扱いに困りました。唯一、喜楽になれる空間は屋根裏部屋というか、最上階の倉庫だったところでした。ここは構造が露出していて、やはり木の柱や梁を見ると、日本人のせいかすごく安心して、なんとかなるんじゃないかと思いました。
結局、様式的な部屋はそれを受け入れて、むしろ最大限にそれぞれの空間の違いをエンジョイしたほうがいいのではないか、ロココだったら思いっきりロココにした方がいいし、無理してそこで自分が介在するよりは、それをうまく繋げる階段の空間であるとか、そういった空間をうまくつくってあげたほうがいいのではないかと思うようになりました。リノベーションプロジェクトの第一歩は、自分に何ができるかを考えること、自分がすべてを変えられないことを受け入れることだと思います。

エントランス(撮影:ルーク・クレーマー)
植物関係の展示部屋(撮影:ルーク・クレーマー)
地図の部屋(撮影:ルーク・クレーマー)

吉良──これは、竣工後の写真ですね。エントランス部分です。次に、植物関係の展示部屋。収集されたいろいろな植物に加え、動植物の絵なども飾ってあります。そして、地図の部屋です。これら1階部分のフォーマルな部屋に関しては、壁にクロスを使ったりと、私がそれまでには使ったことのないマテリアルを使っています。

2階の部屋(撮影:ルーク・クレーマー)
3階へ上る階段(撮影:ルーク・クレーマー)

吉良──2階はもともと生活の空間ですので、天井高も下がります。1階よりも少しシンプルな仕上げで、ペイントを塗ったりしています。私が気に入った最上階では、その空間へと至る階段の設計にすべてを注ぎました。古い建物の雰囲気を殺さずに、最上階のテンポラリーな展示空間へと繋げています。

3階での展示風景(撮影:ルーク・クレーマー)

戸田──シーボルトハウスの章のなかで、非常に印象的だったのが、当時吉良さんと一緒に仕事をされていた方がおっしゃった「人間はパッセンジャーでしかない」という言葉です。建物は残ってきたし、これからも残ろうとしていると。シーボルトは、1796年に生まれて1866年に亡くなった19世紀を生きた人ですが、シーボルト自身もこの建物に対しては、パッセンジャーに過ぎなかったわけですよね。

吉良──そうですね。

戸田──建物を改修する過程で、壁や天井などを剥がしていくと、どんどん古いものがでてきましたよね。どこまで設計できるかを知るためには、いまあるものをキチンと把握しないといけないわけです。必ずしも、そういった古い建物の専門の教育を受けてきたわけではない吉良さんが、この現場に投げ込まれたときに、どうやって適応していったのでしょうか。コールハースにあこがれてオランダに渡って、そこで仕事をして......という、それまでの建築の取り組み方とは明らかに異なっていたと思うのですが、何か大きな価値観の転換のようなことがあったのでしょうか?

吉良──プロジェクトを進めている最中は、いかに成功させるかということに集中しているので、私自身が変わったかどうかというのは、意識していませんでした。ただ、やはり古い建物を目の前にしたときに、あるいは、半分解体されたような状態を見たときに、私たちが生きている時間の前に非常に長い時間があったということを物理的に意識しました。もちろん、大学時代に一応は建築史の勉強もしているのですが、それらはとても抽象的な存在でしかありません。さまざまな時代が積層されたようなレンガ壁であったり、あるいは、18世紀の漆喰の天井が崩れ落ちてその後ろに17世紀の天井が出てくるのを直接見、体験することで、歴史というのは繋がっているのだなと強く感じることができました。そして、私もすぐに死んでいく存在なのだということを意識せざるをえなくなりました。私が新しい階段をつくれば、私が死んだ後も、かなり長いあいだそのまま残っていく。自分自身の存在が時間のなかにあるということを、この建築が教えてくれました。

余計な壁を解体すると2つ目の暖炉が出てきた。部屋を小さく区切った際に暖炉の位置が変更された
シーボルトの著作『日本』が壁紙の下地に使われていた

コレクティブな住宅づくりから町づくりへ
──18戸の戸建住宅

戸田──シーボルトハウスの後に、フローニンゲンにある、コレクティブな住宅づくりに取り組まれました。吉良さんのお仕事の大きな軸には、歴史的建造物のリノベーションのほかに、建物を通じて、町をどうやってつくるかという、コミュニケーションづくりもあると思います。

コレクティブ・ディベロップメント 18戸の戸建住宅(撮影:クリスチャン・リヒター)

吉良──このプロジェクトは、18世帯の住人が自らNGOをつくって、ディベロッパーを介さずに自分たちが開発主体となって住宅をつくっていくという面白いプロジェクトです。場所はフローニンゲンの旧市街の中心のすぐ横です。発電所が移設されることになり、その場所にサッカースタジアムがつくられることになったのですが、インナーシティに近いということもあり、住宅地やオフィスなどもつくろうと、幾つかの戸建住宅のプロジェクトが計画されました。

スケッチデザインのプレゼンテーション風景

吉良──これは、スケッチデザインのプレゼンテーションのときの風景です。18世帯の住人たちは、最初からフローニンゲン市に認められて、開発の許可を持っていたわけではなく、1年ほどかけて、開発する権利を勝ち取りました。以前に同じ土地で頓挫したプロジェクトがあったのですが、私たちはそのときに建築家として設計に参加していまして、それで、お声が掛かかり、プレゼンテーションの機会を得て選ばれたというわけです。
18世帯の人たちと一緒に建物を設計するということは、私にも住人たちにも経験がなかったので、住人のコアのメンバーたちと、設計のプロセスをどうすればいいのかをまず話し合いました。一番重要だったのが、18戸の違う家をつくるのか、あるいはひとつの家をデザインして、そのなかにバリエーションをつくるのかということです。それを決めることがすごく重要でした。彼らが自分たちで開発主体となった理由のひとつに、自分の思うような好きな家をつくりたい気持ちがまずあったんですね。そしてなるべく安くつくりたいと。それと同時に、18世帯が集まることで生まれる価値も非常に意識していました。個人個人の望みをかなえることにプラスして、みんなでできることを考えていく。そのことが建築の面白みだということを学んだプロジェクトだったと思っています。
ただ、設計者としては大変でした。ひとつの基本デザインから、バリエーションをつくるという話をしたのですが、建築家としては、キッチン、トイレ、バスルームからドアノブまで、すべてを決めることに慣れています。このプロジェクトでは、18世帯すべてのキッチンを設計するような予算はもらえませんし、住民NGOをサポートする立場で関わっていた組織の担当者にも、レイアウトだけ決めて、あとのインテリアはそれぞれの家族に任せなさいと言われました。そればかりでなく、3階でも2階でも2階半でもいいというデザインにしてくれ、開口の位置も自由にさせてくれと。それはやはり設計者としてはありえない選択なわけで......一番ショックだったのは、外壁の色に4色使わせてほしいと言われたことです(笑)。工事契約をするまで、外観のデザインは変わり続けますから、果たして設計者としてこれを許容していいのだろうか? と、自分自身を疑いながらプロセスが進んでいった記憶があります。
でも、できあがってみて、最初に驚いたのが、色が全然気にならなかったことでした。また、プロジェクトの進行中は、一つひとつの建物をつくることに一所懸命で、個々の建物に意識がいっていたのですが、完成した建物の間に立ってみると、18軒の家が並んだ「通り」が出現していました。もちろん頭では、ここに通りができることもわかってはいたのですが、実際に立ってみて実感しました。私たちが設計していたのは、実は通りだったのだと。そして、設計中にはありえないと思っていた、二層があったり、一層半があったり、間口の位置が違ったりという建物のバリエーションは、通りとしてはむしろ自然な表情をつくり出していました。

竣工2カ月後に招かれたパーティーの風景
竣工後の内観(撮影:淺川敏)

吉良──色々な人たちがいて、なかにはシャンデリアを掛けてクラシックな家具を置いている人もいたのですが、完成してから18軒の家を一軒一軒訪ねたときに、ああ、最後の最後まで自分が関わろうとしなかったからこそできたのだな、そうしなければうまくいかなかったプロジェクトだったんだな、と感じました。

場の気分をあつめて──墓地のパビリオン

ハイデホフ墓地のパビリオン(撮影:ヨルン・ムッシュ)

戸田──これは、墓地の中に建つパビリオンの建築ですね。

吉良──オランダの東にある、アペルドールンという森に囲まれた市営墓地に、小さなパビリオンを建てるというプロジェクトです。青山霊園もそうですが、墓地というものは常に静寂で、緑が豊かで、お墓参りに行くだけではなく、犬をつれたりして、散歩してらっしゃる方がけっこういるんですね。そういった方たちが、立ち寄ってコーヒーを飲んだり、お墓の情報を手に入れたりする場所、あるいは、インフォーマルな葬儀をしたい方たちのための場所として、小さなパビリオンをつくってほしいという依頼でした。
プログラムはシンプルだったのですが、墓地に何を建てればいいのかと迷いました。墓地は特別な空間です。犬の散歩で訪れたとしても、普通の公園を散歩しているのとは、やはり違う。何か特別な気分を味わっていると思うのです。そういう気分にフィットする建物とは、どのようなものだろうかと。自分のなかでその答えに確信を持つことが難しくて、それで、雑多なイメージのなかから、「これは合う」「これは合わない」と、自分自身が好きなイメージを集めていくことから始めました。
例えば、貝殻やパンの生地、服だったりします。集める過程で、私のなかで次第に確信していったイメージというのは、人を包み込むような、手づくりのような、自然のようなものでした。そうして模型でのスタディを始めて、最初の基本設計で提案したのがこの案です。

模型スタディから到達した最初の提案

吉良──私が感じた雰囲気をよく表わせていると思っていたのですが、まず第一に工事費がすごく高かった。それに、形ありきのデザインだったので、プランに落とすときにうまくいかなかったんですね。工事費が予算の2倍くらいになっていたので、とにかく減額を考えて、すべてのジオメトリーを円にして、繰り返しのマテリアルでできるようにデザインを変更しました。とにかく、使う鉄骨量を下げました。そうやってできた模型がこれです。フリーフォームであるということが、実は建物を建てる、ということに落とし込んだときに、まったくフリーではなかった。むしろ、繰り返しや単純なジオメトリーを使うことで、形の雰囲気がさらにオープンで自由になりました。それがとてもショックでした。

最終案の模型と図面

吉良──オランダはプレファブの国で、大工さんが仕事をする場所があまりないのですが、このプロジェクトでは、大工さんたちに活躍してもらいました。この建物を建ててくれた工務店は、地元の家族経営の工務店なのですが、若い三代目の社長さんが来て、「ドラマチックな天井なので、建てているときはどんな空間になるかと思ったけど、中に入るとむしろ周りのお墓に目がいくところが不思議ですねえ」と言ってくださいました。それは私にとって、ほんとうに嬉しい感想でした。

大工さんたちによって天井にオークの合板が張られた

戸田──このパビリオンは、吉良さんがストレートに形をつくらないといけなかったという意味では、異色のものだと思います。形をさがすときに、「自分の気分」と「場の気分」という言葉を吉良さんは使っていますが、当然、リソースは自分のなかに求めていかなければならないですよね。

吉良──そうですね。

戸田──一方で18世帯のコレクティブハウスだと、向こうから色々な注文がきますよね。18世帯を相手にしたときに、どこまで譲っていいのかという自分の葛藤と、逆に匿名的な多数の人を相手にしたときに、自分のなかからイメージを汲み取っていくということのあいだで、建築家としてのありようには共通点というものはあったのでしょうか?

吉良──建物をつくるのはインテリアであってもパビリオンであっても一緒だと思うのですが、建物がそこにできたことによって、周辺がどんな体験をするか、あるいはその中でどんな体験をするか、そういった、なんらかの空間の質をつくっていくのが私たちの仕事だと思うんですね。18世帯の人たちが住む家と墓地のパビリオンとでは、求める場の気分はまったく違いますが、その空間や建物によって、なにがしかの効果を得なければいけないという目的は変わりません。ですので、私自身としては、建築家のポジションは変わらないと思っています。

戸田──このパビリオンを設計したような形をつくっていくプロセスは、ほかの建物でも共通しているのでしょうか?

吉良──それはプロジェクトの枠組みによると思います。集合住宅であれば、住宅の戸数も広さも決まっていますが、このパビリオンのようなプロジェクトの場合は、自由に形をつくることを求められているので、与えられた条件によって、設計プロセスや手法がかわっていくと思うんですね。ですから、このパビリオンの設計プロセスが、18世帯の住宅の場合と違っていたというのは、それは、与えられた条件が違ったから、ということになると思います。

町のリズムを感じる──柿の木坂のケーキ屋さん

キャトル柿の木坂(撮影:クリスチャン・リヒター)

吉良──これは、駒沢通りと環状七号線の交差点の近くにある、1階がケーキ屋さんで、2、3階が集合住宅というプロジェクトです。東京の住宅地というのは、20年、30年でどんどん建物が建て変わっていったり敷地が小さくなっていくので、町並みがどんどん変わっていってしまいます。ヨーロッパに住んでいると、それが残念だなと思う反面、東京に帰ってくるたびに、なぜかホッとする部分もあって......なぜだろうかとずっと思っていました。

左:© 2008 Google, Map Data © 2008 ZENRIN
右:© 2010 Google, Data SIO, NOAA, U.S.Navy, NGA, GEBCO,
Image © 2010 Aerodata International Surveys, © 2010 Tele Atlas

吉良──左の図が東京で、赤くなっている部分がお菓子屋さんの敷地です。東京の住宅地は、一つひとつの建物が独立して建っていて、粒が小さく、ピョコピョコピョコとした感じの集合体です。右の図がアムステルダムの中心地です。典型的なヨーロッパの町並みで、建物がくっついてブロック状になっていますね。パリでもアムステルダムでも、ヨーロッパの通りを歩いていると、建物が壁のように感じられるのですが、東京だと、一つひとつの住宅のあいだが空いているので、建物の粒が小さく、その繰り返しのリズムが軽く感じられて、リラックスできるのだと思います。
このプロジェクトのお施主さんである東さんは、「いまはどんどんなくなっているけれど、昔は日本のどこの町にもケーキ屋さんやパン屋さんがあった。僕がつくりたいお店は、柿の木坂に根ざした普通のケーキ屋さんなんです」とおっしゃられていました。そこで、町となんらかのかたちで会話するような建物がいいなと思いました。

ボリュームスタディ模型。中庭型から近隣の住宅の粒を意識したデザインに変遷していった

吉良──これはボリューム模型ですが、設計のプロセスを示しています。小さな粒の集まりである、東京の住宅地の雰囲気を壊さないようにと検討して、最終的な形になりました。1階はケーキ屋さんということで、通りとのコミュニケーションができるような開口の仕組みを考えました。ファサードを分割して、3つのお店が軒を連ねているようにしています。一番左がパンのセクションで、真ん中がケーキのセクション、右側がチョコレートのセクションです。「ひとり商店街」のような雰囲気になるといいなと思っていました。東京での仕事でしたが、ヨーロッパの建物が、周辺の町並みとどのような調和をとるかということを参考にしました。

夕暮れ時のキャトル

吉良──これは竣工写真ですが、ちょうど粒の隙間に木が重なっていますね。木を切るわけにもいかないので、冬になるまで待って写真を撮りました。

カフェ部分(撮影:クリスチャン・リヒター)

吉良──テラスのところがカフェになります。右に見える階段が集合住宅の入り口です。テラスの部分はペットも入れるので、犬と一緒に来られる方も多いですね。集合住宅の方へ行く階段を上がると、路地になっていて、一つひとつの粒の感じを出しています。住宅部分で実現させたかったことは、プライベートな路地以外に、周辺の町並みも見えるようにしたいということでした。近景があって、遠景があって、つねに周辺の町に繋がっていることを目指していました。

戸田──吉良さんは、色々なプロジェクトを手がけていらっしゃっていて、ひと口にこうとは言いづらいのですが、吉良さんの独特の立ち位置は、いわゆるインターナショナルな建築家とは少し違うと感じています。世界で活躍する建築家といって思い描く建築家像には大きく2つあって、ひとつは、日本で売れっ子になって海外でも仕事をするようになり、建築家のスターダムにのし上がっていくというもの。もうひとつは、早々に留学をして、向こうの有名建築家の事務所で重要なポジションにまで上り詰めて、日本に帰ってくるというもの。しかし、吉良さんの場合は、アムステルダムの町に根ざした仕事をして、一方で東京の町に根ざした仕事をしている。世界を股に掛けるというより、いろいろなところに根を張って活動しているというところが、これまでとは違う。もちろんそのことで、いろいろな葛藤があるかとは思いますが、それを非常に自然体でされていて、特別であるというような雰囲気は、吉良さんからはあまり感じない。それが、海外で活躍する建築家像の、新しいひとつのあり方なのかなと思いました。

(第2部に続く...)

吉良森子(きら・もりこ)
建築家。1965年東京生まれ。1989年デルフト工科大学留学。1990年早稲田大学建築学科大学院卒業。1992-1996年ベン・ファン・ベルケル建築事務所勤務(Un studio)。1996年アムステルダムに建築事務所設立。作品に「キャトル柿の木坂(東京)」「アイブルグの集合住宅(アムステルダム)」ほか。2000年よりアムステルダム建築アカデミー講師。2010年より神戸芸術工科大学環境建築学科客員教授。

戸田穣(とだ・じょう)
建築史(フランス近世近代建築史、日本近現代建築史)。1976年大阪生まれ。2000年東京大学教養学部教養学科卒業。2009年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了。2011年より金沢工業大学講師。


201305

特集 吉良森子『これまで と これから 建築をさがして』 刊行記念特集


刊行記念トークショー 第1部:「これまで」を振り返って
刊行記念トークショー 第2部:建築の場所/建築家の場所
吉良のように言葉をもて
「リノベーション的視点」の嚆矢
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