吉良のように言葉をもて
思わず居住まいを正して読んでしまった。本書には、主にオランダで活躍する女性日本人建築家・吉良森子による、建築が完成するまでの物語7編が収録されている。
この本が好きだ。この本には懐疑がある。しかし、ネガティヴさがみじんもない。構想段階から、さまざまな与条件と格闘し、時にはつぶされたりしつつ、結果として凛々しい建築作品が出来上がっていくプロセスを読者に的確に伝えようとする、彼女の無骨な書きっぷりが好きなのだ。なぜか。
その書きっぷりが、彼女が建築家として、たとえば言葉という、建築以外の表現手段を軽視していないことの端的なあらわれになっているからである。それがひいては、彼女が、建設にかかわるクライアントや施工業者への対等な対峙を通して、着実に仕事を進めていく姿を鮮やかに浮かび上がらせている。
現在の、民主的プロセスを含んだ建築決定のプロセスにも何やら便法のようなところがあり、なかなか馴染めていない当方には、吉良のそんな動きこそが腑に落ちる。
本書を通じて吉良から教えてもらったこと。それは、建築家の立場を堅持できるのは、建設過程においておのれが弁証法的なプロセスの一端を担えるか否かということである。
つまり新しい要求(命題)に対して常に対自的に提案し、最終的に統合の道を指し示しうるか否かである。他者──すぐれたクライアントやコンテクスト──が求めているのは、彼らの要求をそのまま実現してくれる安易な存在ではない。むしろ、彼らの問題点を具体的に示し、なおかつタッグを組んでくれるような強靭で粘り強いサンドバッグのような存在である。それゆえに吉良を迎えるクライアントがそもそも優れているのであった。それぞれのクライアントが複雑なオランダの歴史そのものとして彼女に立ちはだかるのだ。そこでの彼女の判断力の的確さを感じ取ることこそ、この本の最も面白い読み方だと思う。もちろん問題の解決にはいくつかの方法はあるのだが、デザインはそのうちのひとつを、えいっと選び取る行為である。この瞬間がとてもスリリングなのだ。
NPOにスペースを貸し与えることで生き残りを図った瀕死の教会、異国の日本人女性にシーボルトの家の改修を担当させた建築局などなど。吉良はそのような挑戦的な仕事のなかで、時には煉瓦職人となり、そしてにわか歴史者をも演じきる。もちろん影で地道な調査研究を欠かさない。これからも、きっといろいろな役割を演じることだろう。そのたびに彼女の知識や経験は増えていくのだ。
最も印象に残ったのは、最終章の「箱根の別荘とステイガー島の戸建住宅」である。
それは箱根にあった両親の別荘の設計から始まった。設計を進めるうちに、彼女は切り妻屋根のかたちにとりあえずは行き着く。
それほど独自でもない初期アイデアが、しかし、周囲に能動的に関連づけられ、意味付けられていくことで、徐々にしっかりとしたその場所ならではのイメージに展開していっている。両親も充分に満足して別荘を活用してくれている。しかし彼女自身はその結果を見てふと思う。
この反省の過程を実は彼女は設計のプロセスに意識的に含めているのだろうと思う。しかし建物はすでにできてしまっている。その反省は次の類似したプロジェクトに受け継がれてさらに検討されるのだ。その展開が彼女のなかでは「兄弟プロジェクト」としてのアムステルダム東端のステイガー島に建築した別の作品である。彼女は箱根とはまったく違ったグリッドプランの無性格な敷地に、箱根で展開した思考の軌跡をもって、根拠のある性格を付与することに成功している。
プロセスを手段のみならず目的として扱うこと。そしてそれゆえに、その経験をさらに継いでいくこと。彼女はこのような設計態度において(建築体験と言った方が正確かもしれない)、筋金入りの人格者なのだと思う。そして「建築家」という存在が、狭義な建築を離れて、普遍的な比喩として語られるとき、求められているのはこの精神にほかならない。
いまそこにある問題を見つけ出し、行きつ戻りつしながら、必ず建築をつくり上げてしまう強靭さに憧れる。建てることにこそ、建築の精神が宿っていると思わせる快著であり、それを言葉として書き留めておくことの効果を私たちに教えてくれる。