東京駅──再生と復元の美学

藤森照信×中谷礼仁×清水重敦

復原された東京駅を実際に見て

藤森──まさかこういう日が来るとは思ってなかったですよ。感動しました。とにかく壊されるのを食い止めるのに精一杯で力尽きちゃっていて。驚いたのは、昔は結構雑然とした駅周辺と背後の光景だったのに、周りにボンボン新しいビルができていたことです。実はあれがかえって東京駅にとって良かったと思いました。みんなが辰野金吾(1854〜1919年)の横綱土俵入りを迎える観客のように見えました。三菱地所は無色の灰色建築をつくっていますので、おかげで邪魔にならなかった。あの周りの空間は100%ひとつの美学、三菱地所スタイルで管理されたオフィスビルで囲まれていてすごいですね。あそこに個性を主張したがる建築家が何か建ていたら相当違っていたと思いますよ。

清水──今までより周りがすっきりしたので、こんなに長い建物だったのかと驚きました。超高層が横になっているようなスケール感ですね。

藤森──確かにすごく長いですね。今ある排気筒もこれから少しデザインが変えられて前庭が整備されるそうです。デザインも周りの超高層に負けてないよね。辰野さんは屋根をやたら頑張っていて、無機的なデザインの中にあの凸凹したスカイラインが効いています。

清水──今回は屋根のスレートにこだわったそうですね。中央線のホームからそのディテールがよく見えます。

藤森──あの銅板の細工はよくやったねえ。昔は普通にやっていたんだろうけど、これだけの細工は今後ないと思います。本来見えないようなディテールががんがん見えてきてこれにも驚きましたね。
銅と赤レンガは遠くから見ると一体化して見えますね。普通、銅は黒色か青色になりますが、こんなに赤銅色なのかということと、意外とレンガに対して違和感がなくてビックリしました。ただ、江戸時代は亜硫酸ガスなんて出す人はいませんでしたから大抵青くなったけれどそういうわけにはいきません。段々と東京の亜硫酸ガスにやられて色は黒く変わっていくと思います。

中谷──今回の東京駅とその廻りの明治以来のオフィス街を見て、精度の高いインテリジェンスを感じました。と、同時に日本人は昔からこんなに頭が良かったのかと、不思議な感覚に襲われました。というのもそのインテリジェンスが戦前の辰野のデザインが復原されたことによるものなのか、あるいはそれら復原建造物をふくむ丸の内という現代の空間づくりによるものなのか、あまり見分けがつかないことに、驚愕しながら慌てたからです。つまり現代建築と昔の建物の関係の変更の問題です。たとえば以前ならば描き割りみたいな保存で中身は現代建築というのは批判もしやすかった。しかし今の再現建築は復原しながらも、現行法規に合わせるという意味もあり、免震構造をふくむ地下空間が相対的に肥大化したりと、まるでロボットのような高性能さを誇っています。この手法だと保存vs建て替えという単純な対立ではなく、すべての建築が都市の回路として生きて、構成されているように思えてきます。これは歴史的に新しい段階のような気がしていて、どう考え、言葉で表現できるのだろうかと考えました。

藤森──確かにこの東京駅は地下も普通の建築以上に現代的な大工事をやっていて、かつ免震構造ですし、今回つくり直した燃えたところも相当丁寧です。中谷さんの言うように、丁寧につくるとそれなりの質を持ってしまうんですよ。
特にこれは街の中にある近代の大きな建築です。古建築やお寺は機能が変わっていませんから凍結されて残っています。ですが普通は街の中のものを修理すると取ってつけたようなおかしなものになります。もちろん国の重要文化財として直したということも関係していますが、今回はそういうおかしな部分がありませんね。

中谷──東京全体が様々な時間が混在しながらも等価な価値を帯びているピクチャレスクな風景になったような気がして感慨深いです。いわば『ブレードランナー』のような、様々な過去の様式の混在で成立している近未来世界です。不思議なアンドロイド建築・都市ができました。
そしてまた一方では、都市から意味の不在がどんどん消えていっている。すべての部分がデザインされ有意味化されていっている。藤森さんにひきつけていうと路上観察的な何かがどしどし消えていると思います。

藤森──確かに変な味はないね。われわれ歴史家は過去の歴史的物件にしか発揮できない味わい、得も言われぬものがどうしても好きなんだけど、今回の東京駅は相当きれいに化粧直しされています。

藤森氏

東京駅ファン──モダニズムは負けた?

藤森──今回一番驚いたのは写真を撮っていた人が山ほどいたことです。あの数は尋常じゃないですよ。普通の人が沢山いて駅の人が整理しているという状況です。オリンピックの時の丹下健三による国立代々木競技場とか、これまでも国の記念碑はいっぱいあったけれどあれだけ普通の人が写真を撮っている建物はないと思います。ちらっと思って考えるのを止めたのは、モダニズムは負けたということです(笑) 私たちは建物を見ますが、そもそも「上の方を見る」のは建築関係者だけですよ。東京駅では全員が上を見ていました(笑) おまけにしゃがんで見ている人までいて。あのくらいの高さだとしゃがんでもしょうがないんだけど(笑) 

清水──独立したいくつかの建物のようですし、ドームの空間を見ていたんですかね。

中谷──やはりデザインが良いですよね。同じく辰野さんによるアール・ヌーヴォーの旧松本家住宅(北九州市、国重文)のアーチのような中間部分もあって、その混在のさせた方の全体がうまい。ことにドーム内部見上げについていえば、作品として息を呑むほどのものに仕上がっていると思います。

藤森──元々四棟の建物を無理してひとつにしていますが、結果的にそれがよかった。一個一個の部分が強いからこそかろうじてあの周りの密度の中で成立しています。周りの超高層がみんな立ち上がって拍手しているように見えました。ミースが負けたという感じですね。ミースの超高層が建っても普通の人は拍手しないなと思いました。けれどそれ以上考えないようにした。

中谷──他の建物みんなが東京駅に道をあけた感じですよね。

藤森──確かにね。突然威風堂々たるものが登場してきてみんながさーっと道を開けた(笑)辰野さんも照れくさいんじゃないかな。ただ、辰野金吾の名前は本当に知れ渡ったね。びっくりしたよ。

中谷──かつて藤森先生は「東京駅は町並みをつくった」と書かれていましたが、本当にそうだったんだなと感じました。

藤森──普通の建築のスケールと違っていますよね。そもそもこんなに横長な機能がない。倉庫ではこの長さのものもあるけれど駅でこの長さのものはないと思います。

清水──でも入っても横に行けない。

藤森──門みたいなものだからね。あと今回思ったのは、東京ステーションギャラリーで「始発電車を待ちながら 東京駅と鉄道をめぐる現代アート 9つの物語」という展覧会をやっていて、現代美術の人たちが色々と東京駅へのオマージュをしていてそれもおもしろかったね。恐らく近代建築が現代美術の対象として扱われたのも初めてじゃないかと思います。

清水──そうですね。僕もおもしろかったと思いました。あとギャラリーの空間は壁が露出していて良いですよね。

藤森──特にクワクボリョウタ「LOST #8(tokyo marunouchi)」がおもしろかった。使っているものややっていることはある意味では馬鹿馬鹿しいんだけどね。頭にライトを付けた安っぽい電車が動いているんだけど、これが感動の空間を生んでいるんですよ。この大東京駅を相手に、安っぽいザルやらが置かれているのでなめてかかるわけですが(笑)、線路の上を電車が動いていって、たとえばザルを通るとその影の像が天井いっぱいにどんどん膨らんでいってまた消えていくわけです。あれは知恵の勝利ですね。クワクボリョウタさんはあの作品のシリーズで有名な人らしいけれど、ザルの大ドームは東京駅を見るとまた違うよね。本城直季さんの写真は、今の東京駅を模型っぽく撮っていますが、本当の模型を普通に撮っていて、並んでいると完璧に同じものです(笑) 本城さんもあんなにわかり易くやったことはないと思います。丸ビルの普通の人がいけないところから撮ったそうですが、日の加減とかが難しく何度も通ってついに完全に模型として撮ることに成功したと(笑) あの写真の問題も中谷さんの言った問題と繋がっていますね。実体なのか虚なのかという曖昧さがあります。そういう意味でも展覧会含めてとてもおもしろかったです。

中谷氏

入り混じる時間──古建築のあり方をどう考えるか

藤森──古建築をどこまで復原するかで難しいのは、室生寺の五重塔は朱色が塗られています。その右側にある本堂は何も塗られていません。最初にその朱色の塔を見た時は「こんな最近のものなんて......」と思ったら実は国宝だったので驚きました。当然できた当時は朱色に塗られていたからということで塗り直したんだろうけれど。われわれは特別なものを除いて日本の古建築の素木に美しさを感じてしまいます。法隆寺も当時は塗られていたの?

清水──塗られていました。武田五一(1872〜1938年)が修理に携わった時にだけ塗り直しをしています。メインの伽藍から夢殿へ行く途中にある東大門は赤く塗られています。あれは武田五一によるもので、奈良時代の古建築が塗り直された唯一の例だと思います。

藤森──武田五一らしいねえ。あの人は根がデザイナーだから。しかし五重塔が塗られなくて良かったね(笑) これはパルテノンの色塗りと同じ問題ですね。パルテノンはわずかに残っていた成分から克明に顔料まで判明したけれど、再現はしないようです。なぜかと言うと、どの程度塗られていたかという資料がまったくなくて、わからないそうです。色は厚く塗るか薄く塗るかで相当違うわけですが、そこまではわからない。また、どういう模様かもわからないから復原はできないそうです。法隆寺東大門は模様まで復原されたの?

清水──模様はないですね。全面的に丹塗りです。ただ、その成分については分析して一生懸命考えられたそうです。

藤森──一緒にしたらまずい問題だけれど、今回の東京駅には不思議なきれいさがありますね。過去が現代にもたらす意味については歴史家と建築家、また歴史家と一般の人との間には深い溝があります。われわれはどうしても時間の経ったものが好きなのですが、建築家も一般の人も結構ピカピカの新築が好きです。ただ、あと100年経ったら過去に近づくわけだから大丈夫ですよ。それはたとえば京都御所も同じです。江戸時代に再建されたものだけれど、当時の材料や形式でつくられているから、やはりあれがわれわれのイメージを決めている寝殿造です。
そこで思ったのですが、第二次世界大戦で燃えた全国のお城を昭和の時代にコンクリートで建て直していますが、もし木造で復原していればあと300年後には江戸と昭和が近づいて「戦争で燃えました」と言われても安土桃山時代の戦争で燃えたのか、昭和の戦争で燃えたのかわからなるんじゃないかと(笑) だから当時の技術で復原をしていくことはすごく重要なことだと思います。もし名古屋城が今までコンクリートで再建されていなかったら、市民と地元企業がお金を出して木造で復原されたと思います。

清水──中谷さんはまさに新品に近づいてしまったようだと感じられていますね。

中谷──そうですね。何が何だかわからないような部分が消えて、合理的・因果律的にしっかり納まっているわけです。「おぉー」と思うけれど「あぁ別のものになったな」とも思います。「純粋階段」的なものがなくなった(笑) ただ、それとは別の問題として、東京駅が生き返ったことの方が驚いた。本当に生きているように感じた。今回の復原に関わられた鈴木博之さんの美学が貫徹されたような、丸の内全体がサー・ジョン・ソーン博物館みたいだと思いました。

藤森──なるほど。東京中にきれいになったものが嵌めてあると(笑) 東京駅はサー・ジョン・ソーン博物館の壁に付いている柱頭みたいなものか。今まで曖昧だった問題が新たに明らかになってきたということですね。

中谷──サー・ジョン・ソーン博物館にはヴィクトリアン様式の鋳鉄のハイサイドライトがあり、その光の下に収集されてきた様々な時代の建築の断片が独特な配列法で展示されています。アトリウムの天蓋部分を復元じゃなくてガラスをかけることを提案したのは建築史家の鈴木博之さんと聞いて、ジョン・ソーン的な歴史的デザイナーの意識によるものだと思いました。生きている折衷様、もちろん現代建築をも含めてです。

藤森──確かに東京中は家政婦が雑巾がけをしたような状態になってきていますね。かつて槇文彦さんは鈴木博之さんと私の前で真顔で「東京ほど美しい都市はない」と言った。槇さんは世界をあれだけ知っている人ですし、「それは槇さんの周りだけですよ」と言ったら槇さんは「そんなことはない。銀座の普通の人が歩いているところと、ヨーロッパやアメリカの同じようなところと比べてみろ」と。最近はその謎の言葉が少しわかるようになってきました。東京駅はまさしくそうですね。槇さんの建築空間のようにきれいにさっぱりしています。周りの超高層含めてある独特のクオリティをつくり出していますね。歴史的な建築があのような状況に囲まれているというのは世界でも珍しいですよ。ヨーロッパでも歴史的大建築物は中途半端な歴史的建造物ををいっぱい引き連れて建っていて、決して孤立していません(笑)

中谷──その状況の方が、まあ普通ですし、何とも言えない味わいがあるわけです。一方で確かに東京はこの10年で本当にきれいになったと思います。驚くべきクオリティの達成です。

清水氏

藤森──要するに謎がなくなったと。今思えば、「路上観察学会」は最後の抵抗、最後の火でしたね。掃除で消されるものを予見的に記録した。赤瀬川原平さんは本当に予見的な人です。たとえば中古カメラを突然集めだして、みんなは「そんな古いカメラ集めてどうすんの」と言っていたわけですが、やり続けて20年くらい経つとそういう人たちが世に出てくるわけです。赤瀬川さんは理論的なことは全然言わないけれど、ものすごく極端に、純度の高い形で予見をするわけです。本当に変な人だったと思います(笑) 他にもいくつか予見をしています。路上観察の写真をおもしろく撮っていたわけですが、彼は途中から別の写真を撮ってみんなに見せるようになりました。何だか情緒的な美しさがあって、われわれは「そんなものは違うだろ」とか「昔の芸術みたいだ」と言って批判していたのですが、段々とわれわれにも情緒的なものが出てくるわけです(笑)われわれ路上観察学会の内部においてすら予見的でした。
東京駅もあと40〜50年したら、変な情緒が出てくると思います。私はその頃はもう生きていませんが、中谷さんは「昔はああ言いましたけども、この味わいはなかなかイイもんですね」とか言ってますよ(笑)
やはりわれわれは時間のもたらす質、その独特な価値を忘れてはいけないと思います。美術の世界では時間の蓄積という概念はありません。たとえば油絵を評価する時には「あの時代でなければこの絵は書かれなかった」という見方はあるけれど、その絵の古びた良さを認めるということはまずありませんし、洗ってきれいに直すわけです。そういう点ではやはり建築が一番時間を蓄積しやすいという気がします。

中谷──建築は大気に晒されてなんぼですね。

藤森──まさに雨が漏って修理に修理を重ねて、という世界です。今回は保存の専門家たちの中では時間を帯びてしまったことはどう論じられているのですか?

清水──僕はこの東京駅は典型的だと思っていますが、文化財系の世界では「昔の方が良いのだから昔の姿に戻そう」という議論が批判なく進んだと思います。

藤森──それに対しては、その後の修復や事情によってできた形もまた大事ではないかという議論がありますね。平井聖先生は「ドームを片方だけ復原して、あとはそのまま残せ」とおっしゃっていました。

清水──日本ではほとんどその議論は起きないですね。いろんな人が意見し始めてはいますが、結局元通りに復原しようとなります。

中谷──それはどうしてなのでしょうか?

清水──やはり木造ベースで考えられているからだと思います。

藤森──確かに木造は屋根をやられてしまうとすべてやられてしまうからですね。たとえばイタリアの建築には大した屋根がありませんし、屋根がやられても他は残ります。

清水──戦争で被災した建物の修復には、ノーマン・フォスターが設計したベルリンの「ドイツ連邦議会議事堂"ライヒスターク"」のような解決がありますが、僕はこの東京駅を見た瞬間に、日本にはそういった発想自体がなかったんだと思いました。鈴木博之先生はドームだけをガラスにするようなものもお考えだったように思われますけれど、そういう議論が起きなかったことは不思議です。

中谷──かつて清水さんは、建築保存における、建築史家による当初の姿への復元派と歴史的蓄積を残すべきという歴史学派の攻防を研究されておられましたよね。最近は「歴史学派」の人はいないんでしょうか?

清水──いますよ。たとえば東京駅にも関わられていた木村勉さんという方は事あるごとに「後の時代に改造されたものには恐らく意味があるから、その場合は何らかの形で残せ」と言っていました。僕もそれに共感します。木村さんと一緒に町並み保存のことを考えた時におもしろかったのは、改造されてボロボロになった建築の写真ときれいに修復された写真を見せてくれて、「ほら、元の方がいいでしょ」と言っていました。あと、佐渡の宿根木に「三角の家」というものがあるんですが、最近そのお施主さんが亡くなって保存することになりました。そこでは、お施主さんが亡くなった時のままに家具も保存しています。説明には建物のことはあまり書かれておらず、生活の空間が良いんだと書いてありましたが。

中谷──木村さんと、ある倉庫建築の保存再生についてどういう方向で考えるかという話を現場でしたことがあります。転用のために切り取られた鉄格子の断面を見ながら「復原しますか」とお尋ねしました。「今はしない。ここに鉄格子跡が断面として残っているから、想像すれば元鉄格子であったことは理解できるし、切り取られたことも意味がある。」とおっしゃっていました。つまり切り取られることでむしろその建物は時間的プロセスを増やしてきたと、僕は解釈しました。木村さんと言えば日本の近代建築保存にアナスティローシスを大々的に尊重した筆頭だと思っていたのですが、その部分は残しつつ、しだいに路上観察学会的になっておられると思いました。

藤森──木村さんと言えば山形県旧県会議事堂に鉄骨のバットレスを付けた方ですね。

清水──しかし文化庁の方針はやはり復原です。彼らは「そんなことはない」と言っていますが。

藤森──確かにやはり基本は復原ですよ。そうでないとすべて設計事務所に任せれば良い、文化庁の仕事は要らないとなってしまう。

清水──東京駅の復原では、残っている部分とその上に積み足した部分の区別が問題になります。

藤森──今回は内部が完全に燃えていて、復原不可能だったというのはその通りだと思いました。私も古い資料を見ましたが、ディテールや仕様や色が書いてあるものはありませんでした。あと、不思議に思うのはなぜ竣工の時に写真集が出ていないのかと。普通あのクラスのものは写真集が出ます。昔の、色を手で描いた彩色写真があったら良かったですね。でも、大ドームの見上げは建築雑誌の写真しかなくて。復元の色がかろうじてできたのは、実物が裏側に少し残っていたからだそうです。でなければ、この地の黄色はどうしていいかわからない。
それともうひとつ難しいのは辰野葛西建築事務所にいた松本与作さんが、鳥は金色で塗ってあったと言っていたことです。写真を見てちょっと不安になったのは、金色がこう映るのかなと。結局今も金色にはしていませんね。色の記憶は曖昧で、二度聞くと二度違うというような問題があります。

辰野金吾と周辺

藤森──あと松本さんが言ったことで私だけが聞いた話があります。辰野さんは佐野利器(1880〜1956年)に「これからの時代は鉄筋コンクリートだ」と言われて、彼は弟子の言うことを信じた人だから「そうか」と言って鉄筋コンクリートに赤レンガを貼ろうと本気で思ったようです。森山松之助(1869〜1949年)が、日本で最初の全鉄筋コンクリートを台湾の台北市電話交換局(明治42年)で実現していたので、それを見に行ったそうです。松本さんの記憶では、帰ってきた時に「あんなに薄くても構造的にもつなんてあり得ない。やはりレンガ造でやる」と言ったそうです(笑)
台湾の鉄筋コンクリートは壁構造でしたが、それはシロアリ対策によるでした。森山さんは台湾総督府の技師のトップだったから初めて実験的にやったわけですが、佐野利器もコンクリートに興味を持っていて、それを知っていたわけです。
わからなかったのは、なぜあれだけ鉄骨を入れたということです。私はドームをつくるためかなと思いました。もうひとつ実際に見て驚いたのは、鉄骨レンガ造は写真を見て知っていましたが、鉄骨の断面はH形ですし、鉄骨は一部斜めに走っているから、その周りを少し空けてコンクリートを詰め込んでいるんだろうと思っていました。ところが、レンガを全部鉄骨の形にして切って、びっしりと詰めてありました。そんなことを職人にやらせたのかと(笑) 普通はH型の内側くらいコンクリートでやらせると思いますが、おそらく鉄骨とレンガという方針がそうさせたんだと思います。一方、通路の上のまぐさにはコンクリートを使っていました。それとレンガの上に壁に漆喰を塗る時に、木の壁は木のブロックを入れて打つから焦げて残っていますが、レンガの上に直接漆喰を塗る時にはひとつひとつ叩いて凸凹を付けて付着をよくしていました。あれにもびっくりした。ちょっと尋常ではないですよ。辰野金吾が大林組の職人連中にしっかりつくれと言ったんだと思います。

清水──パッと見の印象ですが、ドームが古写真で見るよりも小さく感じました。

藤森──私もそうですね。ただ、あのドームの内側にいる鳥は2mだって。だから下から見た時には目が狂ってくるということですね。あのあたりは完璧な図面が残っていましたから。この図面を見ると鉄骨造に近いでしょ。これにレンガをびっちりと入れていてすごいものですよ。

──かつて33mという高さ制限がありましたが、皇居との関係はどうでしょうか。

藤森──辰野金吾は第二案で高い塔を付けようとしましたが、その理由はわかりません。あの距離だと皇居を見下ろすまではいかないと思いますが、とにかく付けなくてよかったと思います。

中谷──僕は第一案が好きです。

藤森──これはおもしろいのですが、実は辰野さんが描いた図面は行方不明なんです。私は調べたことがあるのですが、この図面はある雑誌に突然ぽっと載ったのです。誰も注目しませんでしたが、私はすぐ編集者に「あの図面はどこにあったんだ」という電話を掛けました。そうしたら掲載の条件が持ち主を詮索しないということでした。つまり誰かが東京駅から持ち出したんだと思います。辰野さんの図面について一応わかっていることはあって、東京の辰野葛西事務所のものはある時期まで早稲田系統の誰かが持っていたようです。今井兼次さんのお弟子さんで、戦後、今井さんのところに図面を載せたリアカーを引いて来たそうです。今井さんは辰野に興味がないし、早稲田だから義理もない。また当時はまだ歴史的なものを大切にする時代でもないということで、すごすごと去ったようです。大阪の辰野片岡事務所の図面は、ずっと片岡安(1876〜1946年)さんの家にあった可能性があるし、違うかも知れない。片岡さんの義理の父・片岡直温は日本生命を設立した人ですから京都の伏見に立派な家があって、敷地内に開かずの蔵がありました。そしてお孫さんと連絡を取っていて、その蔵を開ける時は先生に必ず連絡しますと言われていました。ただ、設計図を本当に蔵に入れるのかなという心配はありました。年賀状だけはやり取りをしていましたが、ある時から連絡が来なくなって多分亡くなられたんだと思います。その後、片岡邸も壊されたようです。美術品等はちゃんと処分されたと思いますが、推測では蔵の中には歴史的資料はなかったと思います。普通遺族は蔵の中に図面は入れないと思います。結局はわからないわけで残念でした。
松本与作さんは原図の青図を残していて、そこには建築は書かれているけど、色や細部の装飾は書いてありません。結局、当時のあまりちゃんとしていない写真しかない。写真集が出ていればね......

清水──辰野研究という面で言えば、辰野のイギリスへの官費留学時代の野帳が出てきて、今読んでいます。思っていたより日本のことを考えているなというのがよく伝わってきます。日本に西洋建築を持って来る時にどう選択するかという意識がすごくありますね。

藤森──それは相当はっきりあった人だと思います。向こうで流行っているからやるということではなく、どれを選ぶかは日本の状態を考えて意識的だったと思います。

清水──あの世代は西洋の様式を習得するのに躍起になっていた世代だったと大きく括られがちですが、意識的に木造を持って来るとか、辰野式の縞々模様も何らかの理由で選んでいるわけですよ。ただ、その理由を直接野帳に書いてくれているわけではないので、断片的な資料を集めて推理で書くしかないと思っています。

藤森──辰野さんがクイーン・アン様式というノーマン・ショウの手法に言及したのは一度しかありません。留学中に「こちらではクイーン・アン様式というものが流行っている。今の日本にはこれは合わないけれど、将来の日本にはこれが良い」と書いています。そして日本に帰ってきて日本銀行系の建物をつくっていきますが、様式的にはヴィクトリアン様式ではなく、ジョージアン様式です。一方、クイーン・アン様式はヴィクトリアン様式の最後に、クラシック化していく時にノーマン・ショウが定型化したものです。それがなぜ将来の日本向きだと思ったかには、おそらく民間の建築だという意識があったと思います。なぜ日銀系の建物をジョージアン様式でやったかと言うとおそらく産業革命からです。大きく言えばイギリスが経済的に新しいことをやって伸びたのは産業革命で、その頃はジョージアン様式です。そして、その富が固まった時に派手なヴィクトリアン・ゴシックが出てきて、また揺り戻しの時にクイーン・アン様式が出てきます。ひとつの国が富を得た時にヴィクトリアン様式をやる。そういった認識だったのかなと思っています。
辰野は誤解されていますが、実は民間好きな人です。東大を突然辞めた後に民間事務所を始めてクイーン・アン様式をやるわけです。

清水──明治14年、留学中にノーマン・ショウがクイーン・アン様式で頑張っていると書いていた頃はショウも縞模様はやっていません。真っ赤な赤レンガです。だからその後1920年代に銀行関係の建物をやり始めた時にまた見に来て、影響を受けて日本に持って来た感じですね。辰野金吾は遅れていそうで、実は当時の最新のものを持って来ています。

藤森──「スコットランドヤード」(ロンドン警視庁、1887-1888年)が一番わかりやすいですよね。ただ、ノーマン・ショウは町並みの建築家なんですよ。絶対角に塔を建てない。デビュー作の「スワン・ハウス」もある意味で町家ですから。ストリートをどうやって整えるかということをやった人です。辰野さんは違っていて、日本の伝統的な街の中にガツンと(笑)ヨーロッパ式の強すぎるドームと塔があって大違いです。

バルツァー案をめぐって

清水──辰野が東京駅の設計に当たって平面計画を踏襲したのが、ドイツ人の鉄道技師フランツ・バルツァーによる和風駅舎案です。この案を見ていて気付いたんですけど、中央の皇室用昇降口も、一般の昇降口も、いずれも中央に柱があって、2つずつ入り口があるんですね。皇室用昇降口には、唐破風が二つ並んでいます。天皇と皇后に対応するものでしょうか。

藤森──その問題は気付かなかなかったな。バルツァーの四棟がバラバラで困るということでひとつにしたのが辰野さんの案です。元のバルツァーの案を見て思ったのは、意外とバルツァーは線路を見せたかったんじゃないかと。ベルリンの有名な鉄道技師で線路をつくるために日本へ来たわけだから。われわれはつい建物ばかり見てしまうけれど、線路が本体でここは適当にこんなもんで、みたいな(笑)

バルツァー案fig_1:中央駅
バルツァー案fig_2:乗車口駅舎
バルツァー案。中央駅配置図

バルツァー案fig_1:中央駅
バルツァー案fig_2:乗車口駅舎
同、乗車口駅舎平面図

清水──自分で図面を引いていたらすごいですね。この二連の破風は誰もやっていないですし。でも側面図はボリュームがなくて、ちょっとおかしいんですよ。

藤森──建築家は連れて来ていないから自分で引いていると思います。ただ、日本の建築家を使った可能性はありますね。

中谷──武田五一とか(笑)。

藤森──「ちょっといい仕事があるよ」「はいわかりました」って武田さんが辰野先生を裏切ったと(笑)。あり得るかなと思うのは、辰野さんはこのバルツァーの原図を見ています。そもそもこの図面が発見されたのは、図面が掲載されたバルツァーの明治36年の論文「東京の高架鉄道」を所蔵していた島秀雄さんから見せてもらったからです。ただ、辰野さんは「赤毛の島田髷」と言ってこの案を批判しています。実は武田五一がやっているところを「お前何やってんだ」と見つけたという説はあり得ますね(笑) ただ、バルツァー案もよくできてはいます。変なことをしていながら上手です。

中谷──この破風は銭湯みたいだ。

藤森──いや、あれ唐破風付きの宮型銭湯は戦災復興の頃ですからまだこの頃の銭湯には唐破風は付いていません。このバルツァーの破風は千鳥破風、唐破風と江戸から持って来ている。それで、ここがひとつじゃおかしいと。うーん、これは多分バルツァーじゃ考えられないよね(笑) この頃武田五一はどうしていたかな。武田は留学から帰って京都高等工芸学校に流されていた時期で......。当時こんなふうに和風と洋風をちゃんと一緒にできる人は武田と伊東忠太と関野貞の3人しかいないよ。長野宇平治(1867〜1937年)さんは唐破風はやらない人ですよ。伊東忠太(1867〜1954年)っぽくもないしな。何か平坦というかグラフィカルで武田五一っぽいんだ。

清水──バルツァー案が掲載された論文が明治36年だから、その少し前の設計ですかね。

中谷──Wikipediaには「1901年(明治34年)文部省より命ぜられ図案研究のためヨーロッパ留学(1903年まで)」とありますね。

清水──うーん、どうなんでしょうね。

バルツァー案。乗車口正面および側面のスケッチ

同、長距離の降車口(上)、ローカル線専用の降車口(中上)、皇室専用乗降口(中下及び下)

東京駅論

中谷──今日は記憶の話が少し出ましたが、内田百閒の短編集『東京日記』(昭和13年)は定宿だった東京駅のステーション・ホテルで執筆されている様子も登場してきます。中にいくつか東京駅にまつわる話があって面白い、というかかなり不思議な話がたくさんある。たとえば、ある日突然丸ビルが消えていたという話(その四)があります。話のオチは「これだけの大きな建物になれば、時々さういふ不思議なこともあるのだろう」という作者の述懐ですからね。そして旧丸ビル跡の水面のアメンボを見ているという凄まじい終わり方です。一番こわいのは最終話その二十三です。
主人公が東京ステーション・ホテルで缶詰めになっています。で夕刻になると階下の精養軒食堂に行きます。そこで特定の年配の男の声だけが、毎日おなじ調子で聴こえるというんですね。あるとき咳払いしたその男の声音を聞いて、その声が死んだ主人公の父の声にそっくりなことに気づくのです。彼は思わず「お父さん」、とか言ってしまうのですが、「それも死んだ父がもっと年を取っていった時の声であるような気がした。」と結んで日記を終えています。〈死んだ人がなお歳をとった声〉なんていうモチーフは驚くべきものです。ここに都市がこうむる歴史と人間の主観的な時間感覚、歴史観との関係との曖昧さがあますことなく語られている。今回の復原された東京駅を見て、歴史がなお精緻になったというような感覚があったことを冒頭でお話しましたが、東京ステーションで書かれたとおぼしき『東京日記』の存在を思うとなかなか不思議だなと思います。
その不思議な力も含めて、東京駅がみんなの記憶にとって重要なものになりつつあるということは、今回のカメラを持った見物客の群れといい、如実に感じました。

藤森──まさに予見力がある人ですね。東京駅についての研究で言えば、そもそも私以前には東京駅を研究をした人はいません。私自身も東京駅自体の研究をしたわけではなく、辰野金吾と日本の都市計画の研究の中でやっただけですから。

清水──論ではありませんが、東京駅ができた時に伊東忠太は「絶望的に破綻している」というような大批判をしています。その後、稲垣栄三さんや藤森さんがフォローするように町並みとして見ると救うことができると。改めて今回見てみると、やはりひとつの造形としては決してまとまっているとは言い難いですよね。

藤森──後藤慶二(1883〜1919年)は東京駅ができた年の『建築雑誌』に「今年は何もありませんでした」と書いています(笑) 遠藤新は『読売新聞』に「東京駅が街を分断した」と書きましたね。それらの批判に対して辰野さんは全く気にしていませんでした。遠藤新を買い続けます。遠藤さんは「辰野先生はいくら批判してもなかなかおもしろいことを言うなくらいだし、そんな辰野さんに褒められて私は大丈夫だろうか」という意味の日記を書いています(笑) 建築学会で辰野さんが議長をやって批判が沢山出ても「今日は私が来なかった方がよかったですね」と言って締める(笑) それと妻木頼黄(1859〜1916年)とあれだけの論争をしながら、辰野家と妻木家との家族ぐるみの交流はいつも続いていて、本当に公私が分けられていたようです。伊東忠太も長野宇平治後藤慶二も遠藤新も優秀な人はみんな辰野を批判するんです。おそらくみんなしょっちゅう先生に対して批判を言っていたんじゃないかな(笑)

日本の中央駅というシンボル性

──将来的に東京駅と皇居との関係は組み替えられていくのでしょうか。

藤森──それは恐らく変わらないでしょうね。今でも皇室玄関ですし、実際には外国の新任大使があそこから馬車で出ていきますから。東京駅の皇室用玄関の入り口部分は空襲を受けていないのであの内装の小さな大理石も当時のままです。そういう意味では天皇玄関だけが当時から残っている部分かもしれません。誤解されやすいのですが、東京駅そのものは最初の計画では日本列島縦貫鉄道の中央駅という位置付けです。中央口は市街鉄道用として入っていて、右側と左側は全国へ行く人たち用の出入口です。今で言えば、外国船に乗る波止場のようなイメージです。まず駅へ行って、待って、場合によっては別れをして列車に乗るというものです。いつまでその出入口が分けられていたからはわかりませんし、なぜ分けていたかというのもちょっとわからないですね。天皇の玄関が真ん中に来て、どのホームも地下から行けるようになって真ん中を横切れなくなったかも知れない。
あと変な話があって、東海道新幹線の一号車は先頭に付いていますが、東北新幹線の一号車は最後に付いています。疑問に思って国鉄の偉い人に聞いてみましたが、その人もびっくりして、そんなこと考えたこともないと。ただ、すぐに聞いてくれてわかったのは南へ向く方を一号車とするのがルールだそうです。実は今まで青森から鹿児島まで走った電車がないのですが、今年初めて新幹線が通るそうです。東京駅が復原されただけではなく、本当の意味で日本列島の中央駅になるわけです。

藤森──芳川顕正という東京府知事が明治17年に列島縦貫鉄道の中央駅として東京駅計画を立てて以来、今回初めて日本列島の中央駅として完成したわけです。辰野さんが設計していた時は東京駅とは書いていません。オープンの時に急遽「中央駅」から「東京駅」になる。

中谷──なるほど、今回の東京駅の復原には中央駅がようやく完成したという意味もあるわけですね。今回の作業の実はもっとも重要なことかもしれません。と同時に、このきわめてインテリジェントな復原作業には、アジアにおける日本近代の歴史のこれからのつくられ方と深く関係してくると思います。中国や韓国でも復原は流行していて、昔のものを新たに相当新築している。そのとき、あれ、こんな建物あったかなとおもいつつ、「まあこんな大きな建物だから、こういうこともあるかもしれない」と白昼夢のようにその歴史的新築物を肯定してしまった経験があります(笑)。そういう状況との拮抗があると思いました。その状況の中では、やるなら復原しかない、というバイアスがかかる。平城京の大極殿の復原の動きなども見ていると、そういったアジア的な関係性の中にあり、もしそういった力学がなければ半分はそのままで半分は復原という歴史主義的なやり方もあり得たかもしれません。

清水──みんなそれはあまり思わないようにしているかもしれませんが、見えない力として確実にあるでしょうね。

藤森──なるほどね。韓国もどんどん古いお寺ができているよね。関野貞以前の記録はないはずですからいい加減な話です。仏国寺も45年前は橋もなくて小さなせせらぎを飛び越えて境内に入りましたよ。せせらぎの畔に受付けはあるものの誰もいなくて。石の塔だけは立派でしたが、周りには本殿の他はなかった。ですが、次第に建物が増えていますよ。しかしそれで新しいイメージができてしまう。

中谷──そうですね。人間の記憶は曖昧です。建物を更新する力をうまく制御したいと、心ある現場の方は感じていると思います。

東京駅丸の内駅舎

[2012年11月10日、工学院大学藤森研究室にて]

ふじもり・てるのぶ
1946年生。建築史。工学院大学教授。

なかたに・のりひと
1965年生。歴史工学。早稲田大学准教授。

しみず・しげあつ
1971年生。建築史。京都工芸繊維大学准教授。


201212

特集 東京駅・新考


東京駅──再生と復元の美学
リビング・ヘリテージとしての東京駅──建築保存における「インテグリティ」の指標をめぐって
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