鼎談を終えて

吉村靖孝(建築家)

CCハウスができるまで

インターネットは消費行為と創造行為が肉薄する場である。パブリックと見なされるネット上の空間で、誰でも著作物を公開できるこの時代に、従来の著作権法による保護を続ければ、ネットは著作権法違反に充ち満ちた足の踏み場もない地雷原と化してしまうだろう。著作権を一部放棄するクリエイティブ・コモンズ(以下CC)は、そんな時代に対応するあたらしい枠組みである。しかしこういった懸念は、実は古色蒼然たるわれらが建築にも当てはまる。つねにパブリックに晒されている建築物の外観に著作権を付与し始めたらどうなるか? 誰かが勾配屋根に著作権を主張し始めたらどうなるか? 街並みに配慮し隣の建物に似せたら違法か? 建築物を改装したら違法か? と、ほんの少し考えてみただけでも、建築という表現領域に著作権という考え方が馴染まないことはすぐにわかる。建築に十全の著作権を付与すれば街はやはり地雷原と化してしまうのだ。その意味で、1900年に日本の著作権法が施行された際の「本法ハ建築物ニ適用セズ」との条文は、英断であったと言ってもよい。長い時間をかけて多くの知性を堆積してきた建築は、堆積を持続するためのあたらしい地盤を必要としている。そう考え、「CCハウス」を提案した。著作権法に替わる地盤としてCCライセンスを採用したのである。

CCハウスにはほかにもさまざまな背景があるのだが、多くは事後的にフレームインしてきたものだ。それらの原点、いずれプロジェクトになるかもしれないという思いを抱きながら手を動かした直接の引き金は、某プロジェクトの設計中に設計体制から外されてしまうというアクシデントであった。自分が設計した建物が自分の与り知らぬところで建ち上がる現実に愕然とし、慌てふためいて保護されるべき知的所有権の詳細を調べ、ふたたび愕然とさせられることになった。結論を言えば、自分が設計したその建物が著作権法で守られる可能性は極めて低いのであった。1900年の英断について書いたが、その後1910年の法改正で、建築も著作権保護の対象となっている。しかし「創造的であること」など抽象的な条件が枷となって、現在まで実効性に乏しいままなのである。すがるものを失って建築の著作権をめぐる環境を改善したいという思いが起こり、それがこのプロジェクトへの布石となった。つまりはじめは、著作権の保護に焦点が合っていたことになる。

しかしCCハウスという成果を得た今、著作権を頑なに守ることへの興味は薄れ、著作権の存在を主張しながらも一部を放棄し、複製や改変を誘発するCCライセンスの導入が計画の要となっている。でもだからといって、振り上げた拳を下げ単にトーンダウンしたわけではない。加藤雅信は『「所有権」の誕生』★1のなかで、所有権はけっして所与のものではないことを解き明かしているが、その証左となったモンゴルの草原のように、需要に対し供給が過剰な状態であれば、所有の感覚は芽生えない。CCライセンスの著作物は共有の財産として獲得されるが、公開される作品が一定の量に達すれば所有と共有の境界が薄れ、やがてクリエイティヴィティの輪郭が再定義されるだろう。CC化はトーンダウンどころか、よりラディカルな飛躍なのである。

このような飛躍が、一度にではなく徐々に起こったことも付け加えておきたい。展覧会に至る過程で、事務所のスタッフや、改変を依頼した友人、法律の専門家などの助言を得るうち「図面をリサイクルする」「建築家が図面をプロダクト化する」「ディテールをデータベース化する」「建築に合ったライセンスを整備する」「業務報酬体系を再構築する」など少しずつ意義が書き加えられていったのである。議論を重ねているうちに、ネガティヴな詮索が漂白されて、未来につながる活動へと転じたことに私自身が驚かされたが、やがてその過程そのものがCC的であると感じるようになった。

CCハウスの行方

門脇耕三氏とドミニク・チェン氏を迎えた今回の鼎談では、設計手法としてのCCハウスについて議論が白熱した。これもまた、あたらしい側面に光を運ぶ貴重な機会になったといえるだろう。ユニット派と呼ばれた複数の主体がフラットなチームを組む設計手法も、コンピュータのアルゴリズムを用いた自己生成的な設計手法も、模型を大量につくることで着想の外部化を繰り返す日本的な設計手法も、遠方より眺めてみればいずれも設計過程に他者の眼差しを織り込むための試行である。この延長にCCハウスが位置づけられるという指摘には目の覚める思いがした。CCライセンスを適用すれば、他者の介入は必然となる。そればかりか設計する主体が入れ替わるのだから、原著作者にとって制御不能な領域をより広く確保することができる。また、設計手法としてのCCを掘り下げることによって、ヴォランタリーな運動体としてのCCを軸に据えたArchitecture for Humanity★2の活動との差も際立ってくるものと思われる。このヴェクトルの先に広がる風景に、私は今大きな関心を寄せている。

しかし私自身がそう考えるなら、設計過程に「介入する他者」は非常に重要なキャストとなる。それはいったい誰なのか。この問いに対し鼎談では「建築家」とお茶を濁してしまったが、その後、専門家よりむしろアマチュアの参入を期待すべきという思いが日増しに強くなっている。冒頭に消費と創造が肉薄する時代と書いたが、こと建築に限って言うならば、専門家以外の参入による特筆すべき成果は今のところ現われていない。しかし、施工過程を開放するDIYではなく、設計過程を開放するDIYが登場すれば事態が急転する可能性もある。実際のところ、建築家が盤石と信じる設計行為の専門性は、ごく初歩的なオープン・レビュー・システムを稼働させるだけで不要となるだろう。それで建築家という職能が崩壊するわけではないが、建築家の役割を、より上流の構築と下流の調整に二極化させる可能性がある。今後も、変わりつつあるクリエイティヴィティの在処を注意深く見守りたい。




★1──加藤雅信『「所有権」の誕生』(三省堂、2001)
★2──キャメロン・シンクレア(Cameron Sinclair)が主催するNPO。建築の社会貢献を標榜し、建築図面をCCライセンスで公開する。

201103

特集 「CCハウス」はなにを可能にするか


鼎談:「CCハウス」はなにを可能にするか
鼎談を終えて
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る