ニュータウンと幻想

福嶋亮大(文芸評論家/中国文学者)

ニュータウンの現在

「ニュータウン世代の新言語」というテーマで原稿の依頼をいただいたのだが、おそらく僕(1981年生まれ)の同世代では、ニュータウンと言っても具体的なイメージを持てないという人も多いだろう。簡単に個人史を語っておくと、僕は、幼稚園から小学校卒業にかけての約10年間を京都のあるニュータウンで過ごした。とはいえ、1980年代半ばから1990年代前半にかけてのその時期においては、ニュータウンにはすでにシンボリックな意味合い──先端的なアメリカン・ウェイ・オブ・ライフの象徴というような──は乏しく、ただ、収入や親世代の年齢の近いひとたちが集まるばかりの均質的な空間になっていたように思う。その均質さは、僕を含めたクラスの子どもたちの間にどこか神経症的な空気を生み出していて、一種独特の思い出もあるのだが、今それについて詳しく書くのは止めておこう。

現在のニュータウンということで言えば、やはり人口減少の問題を避けて通ることができない。僕の家族が住んでいたニュータウンにしても、1990年代前半まではとにかく住人が多く、通学していた小学校も生徒数1,500人に近づくマンモス校で、分校もつくられたくらいだったが、今はだいたい全盛期の四分の一程度の生徒数にまで落ち込んでいる。結局、団塊世代とその子ども世代に人口が集中しているために、子どもが成人してニュータウンを離れれば一気に高齢化が進むわけだ。さらに、新規住民を呼び込むだけの魅力があるかと言えば、それもまた疑わしい。たとえば、ニュータウンで「まちおこし」をしようにも、何の土着的伝統もない以上、有名企業や大学の研究所の誘致くらいしか手がなかったりするのだが、それも別に成功する見込みはない。そうこうするうちにも、諸般の不便さを嫌って(駅から遠い、同年代の友達が少ない、盛り場がない......)どんどん子どもは減っていくだろう。今や少なからぬニュータウン/団地は、適切な郊外化が進まなかった事実を示すものでしかない。そう考えていくと、かつてのニュータウン住民としては、いささか暗い気持ちになる。

とはいえ、そういう重い現実から少し離れて、ニュータウンを文化史的に振り返ってみることもできる。実際、ニュータウンや団地というのは、生活の利便性や合理性以上に、むしろ幻想の磁場が強くなりがちなところでもある。それは、性的な匂いを帯びた紋切り型の物語──それこそ「団地妻」的な──ばかりではない。ここで特に注目しておきたいのは、1966年に放映が開始された『ウルトラマン』シリーズのことである。『ウルトラマン』は、まさにニュータウン/団地を主な舞台とした特撮作品であり、ニュータウンや郊外をベースとする表現としては大変ユニークな地位を占めていると言ってよい。本特集の趣旨から外れすぎない程度に、ちょっとだけ細かい中身を紹介しておきたい。

『ウルトラマン』が紡ぎ出した都市的幻想

いろいろ論じるべきことはあるが、ここでは、表現に関わるテーゼを一つだけ出しておこう。それは「『ウルトラマン』シリーズは「時制の二重化」によって特徴づけられる」ということである。たとえば、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』で数話監督を務め、きわめて印象的な作品を残した実相寺昭雄は、作中の「怪獣」に東京の失われた風景が投影されていたことを認める。「わたしは"消えた風景"の空気感が『ウルトラマン』であり、怪獣たちであったと思う。とりわけ、怪獣たちは消えた風景そのものだった、と思わずにはいられない。わたしたちは、怪獣に、ある時代風景を投影してきたのである」(『ウルトラマンの東京』)。実相寺の発言からもわかるように、『ウルトラマン』は疑いもなく高度成長期と深く対応した作品だったのであり、怪獣はその成長に対する一種のアンチテーゼ(=破壊者)としての位置を占めていた。

しかし、ここで注意しておきたいのは、その怪獣たちが、必ずしも古い風景にしがみついていたわけではなかったことである。それどころか、当時(1960年代後半)の円谷プロダクションは、まだ完成して間もなかった横浜のたまプラーザ団地や、造成中の大阪の千里ニュータウンで積極的にロケを行ない、そこに怪獣や宇宙人を出現させていた。『ウルトラマン』シリーズにおいては、未来のイメージはしばしば郊外の集合住宅によって代表されており、"消えた風景"の代弁者であるかに見えた怪獣たちは、むしろその新奇な空間においてこそ再生を果たしていたのである。のみならず、怪獣や宇宙人の「生息地」は、郊外の居住区から、徐々に商業地域にまで広がっていく。実際、怪獣の「商品化」(人形化)と呼応するかのように、制作陣は、ついにデパートのおもちゃ売り場に人間大の怪獣(ピグモン)を紛れ込ませたりもするだろう(『ウルトラマン』第37話)。これは、怪獣の商品化=市場化をわざと作品中で実現してみせた、一種のメタフィクション的な遊びと読み解いてみてもいい。

こうした時間的な二重化(=古いものが新しいもののなかで再生する)については、やはりウルトラマンという超人の存在が大きい。たとえば、『ウルトラマン』に先立つ『ウルトラQ』の怪獣には、戦後民主主義が排除した荒々しさ・まがまがしさがかなり直接的に具現化されており、物語もしばしば近代文明に対する復讐譚のような様相を呈していた(実際、化石や絶滅した動植物が怪獣のテーマとなることが多かった)。これは、古いもの・失われたものが、新しいもの・システマティックなものに復讐するという(いわば疎外論的な)構図であり、ドラマツルギーだけ見ればさほど珍しいものではない。それに対して、郊外に軸足を据えた『ウルトラマン』シリーズは、もはやその種の二項対立を維持することができなくなっている。怪獣や、怪獣と闘うウルトラマンは、郊外の新しい風景にいったん深く順応してしまっているからだ。だが、その新旧の二重性にこそ、この作品の魅力がある。

現在のたまプラーザ団地

二重化する「アーキテクチャ」

そもそも、表現というのは、見慣れないもの・まがまがしいもの・排除されたものをいきなり突きつけるよりも、見慣れたものが同時に見慣れないものでもあるという両義性(=フロイトの言う「不気味なもの」)によって力を得ることが多い。その点で、ニュータウン的=郊外的なイメージ言語──しかも、おもちゃの領域に片足をかけているような──を、そっくりそのまま怪獣(排除され、消失した風景)を象る言語に化かしてしまった『ウルトラマン』シリーズは、「不気味なもの」の位相をうまく表現していたと言えるだろう。怪獣という「古い風景」は郊外という「新しい風景」のなかでのみ生き延び、その「時制の二重化」から来る「不気味さ」が視聴者の印象を操作する。平たく言えば、見慣れないものをやり過ごすことはできても「見慣れたものの見慣れなさ」をやり過ごすことは難しい、ということだ。ニュータウンの草創期から、そこを舞台にした「不気味」な特撮作品が存在し得たということ(ついでに言えば、これは日本文学が郊外に目を向けるよりも遥かに早い)、それは今一度確認しておくに足りる。

むろん、冒頭で言ったように、ニュータウン自体は今となってはシンボリックな意味合いを持たない。したがって、今後そこから新しい表現が育っていくことは望み薄である。しかし、かつてニュータウンを足場とするファンタジー作品があったという事実を、あえて今日的な文脈において読み換えることもあながち不可能ではない。

たとえば、最近思想や批評の業界では、特にインターネット界隈を中心にして「アーキテクチャ」という語がよく使われている。これまでインターネットと言えば、中央集権型のツリー構造から自律分散型のネットワーク構造へという大きなストーリーが語られてきた。しかし現在、日本のインターネットについては、自律分散型というよりはいわば「非自律分散型」の世界、つまり自律的な個人どうしが実のあるコミュニケーションを行なうというよりは、むしろ移り気で簡単に付和雷同する大衆がゲーム(娯楽)のようにコミュニケーションを行なう場として捉えられている(その詳細は、濱野智史『アーキテクチャの生態系』を参照されたい)。日本でアーキテクチャが独特の意味合いを持つのは、この「非自律的で分散的」というある意味では最悪の状況を、にもかかわらずプラスの方向に転化するシステムが必要とされているからである。

そもそも、十分に洗練された社会システムにとって、人間というのはある意味で最大のノイズである。だから、生身の身体を除外できないところでは、人間工学的に身体になるべく優しい空間を設計する。他方、認知上の不協和が起こりやすいインターネットでは、ノイズを笑いに変え、偶発性を創造性に変える仕組みが必要となるだろう。人間そのものを消去できない以上、身体的・認知的な軋轢がなるべく発生しない──あるいは発生してもすぐに無害化できる──ようなシステムを構築しなければならない。そして、今は、そのシステムに「アーキテクチャ」という名前がつけられているのである。

翻って言えば、ニュータウンもまた、1960年代の段階では、最も洗練された(=ノイズの少ない)ライフスタイルを実現し得るアーキテクチャ(建築)だったのであり、そのまっただなかから『ウルトラマン』のような作品が産み落とされた。僕が考えるのは、今日のアーキテクチャについても同じような道があり得ないか、ということだ。『ウルトラマン』が、ニュータウン的なイメージ言語をそっくりそのまま略取して「時制の二重化」を実現したように、今日のアーキテクチャを織りなすイメージ言語をそっくりそのまま転用して、何らかの時間的ズレを孕んだ幻想を語ること。アーキテクチャの不可避性が明らかである以上、今日の表現者は、そういう特殊な幻想を紡ぐことが求められているのではないかと思う。

ふくしま・りょうた
1981年京都生まれ。文芸評論家・中国文学者。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(中国文学)。日本学術振興会特別研究員。論文に「ホモ・エコノミクスの書く偽史」(『思想地図』vol.3)など。


200908

特集 ニュータウン世代の新言語


アトラクションの郊外──ポストモダン都市、名古屋
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ニュータウン/郊外における「併置」の問題
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