アンチ・ステートメントの時代なのだろうか?
El croquis: Herzog & de Meuron 2002-2006, El Croquis, 2006.
Zaha Hadid: Thirty Years of Architecture, Solomon R. Guggenheim Foundation, 2006.
Princeton Arch Staff, Talking Cities, Birkhauser, 2006.
設計にあたって建物のコンセプトを考え、それを雑誌などで発表する際には自ら解説を行なう。そうした行為は普通のこととして馴染まれているし、それがされるかどうかが建築家の作品か否かを判別する基準のようにもなっている。しかし、コンセプトを考えステートメントを発表するのは、建築家の振舞いとして決して普遍的なものではないようで、それには恐らくモダニズムの運動との関連があるようだ。
とりわけ、モダニズムのリーダーであったル・コルビュジエは、自らの作品の革新性を訴えることに長けていた。よく知られているように、コルビュジエは実作をものする以前に、多くの扇動的な著作によりその存在を広く知られるようになる。彼は新しい時代の到来を予言し、そのための戦いを行なうことを宣言した。そのような革命的な建築家の姿勢は、神話として語り継がれ、後の世代に大きな影響を及ぼす★1。
一方、コルビュジエの生きた時代とはまさに社会の変革期にあり、また建築も大きく変わるターニングポイントにあった。モダニズムという流れがアヴァンギャルド(前衛)とパラレルであったように、新しさが疑問の余地のない価値であった。しかし、世紀も変わった現在においては、建築のあり方が当時とは大きく違うことは想像に難くない。
『El croquis Herzog & de Meuron 2002-2006』は、ここしばらくのヘルツォーク&ド・ムーロンのプロジェクト23点が集められた、ヴォリュームのある本である。彼らの勢いは留まるところを知らず、作品は世界中に広がり、スタッフは200人を超えるようだ。これまでの常識では、アトリエ派と組織事務所という区分けがあり(とりわけ日本では)、ある人数を超えると創造的なデザインはできないとされてきた。しかし、今もっともクリエイティヴな活動をしている彼らが、大人数でもそのクオリティを保っているのは謎である。それには、ITに代表されるような技術革新による、仕事の環境の変化も影響しているかもしれない。
ヘルツォーク&ド・ムーロンの最近の特徴として、建築の表面の装飾性が深みと素材感を増していることはよく指摘されるが、造形のヴァラエティーも加速して、もはや以前のように統一したヘルツォーク&ド・ムーロンのイメージを持つことは難しい★2。
彼らの最近の設計手法をもっとも象徴的に示すのが、昨年のロンドン、テート美術館での展覧会であろう。ヘルツォーク&ド・ムーロン自身が改修を手がけたもとタービン・ホールの巨大スペースに、250の模型を含む1000以上のオブジェが並べられている様は、写真で見ても圧巻であるが、それはそのままこのエル・クロッキーから受ける印象とも一致する。1995年のポンピドゥ・センターでの展覧会のディスプレイが、きわめて精緻で整然としていたのとは対極的であり、それはここ10年での彼らの変貌振りをよく示すものとなっている★3。
さまざまな話題作が目白押しのヘルツォーク&ド・ムーロンであり、彼らの動向を伝える出版物は大量である。しかしあらためて探してみると、彼ら自身による発言なりテキストというのはほとんどないことに気付く。これだけ影響力を持ちながら、自らはほとんどその説明をせずにいるわけである。それは、ごく最近までアイゼンマンや、リベスキンドといった問題作を披露する建築家が活発に言論活動を行なっていたのとは異なるし、現在最も挑発的な言動で常に注目を浴びる建築家レム・コールハースにしても、実は彼自身によるテキストというのはほとんどない。これは一体どうしたことなのだろうか。
大上段に理想を訴えたり、自らの正当性を滔々と述べるのではなく、まずは実作を作れということか。かつてレムは、グローバリゼーションの波とは戯れるしかないとの発言で物議をかもしたが、その発言そのものがステートメントなのか、アンチ・ステートメントなのだろうかとふと考えてしまう★4。いずれにせよ、今号のエル・クロッキーには、ジャック・ヘルツォークへのインタビューが収められており、建築家の生の声を聞くよい機会を提供してくれている。
ニューヨーク・グッゲンハイム美術館での回顧展に合わせて、ザハ・ハディドのこれまでの軌跡をまとめたカタログ『Zaha Hadid: Thirty Years of Architecture』が刊行された。このように集められてみると、彼女の一貫したモチーフと、一方での変化というものを読み取ることができる。曲線が特徴的な彼女の造形だが、それは初期から現代まで、動きや流れをはらんだ空間が彼女の関心であることがよくわかる。他方、近年の作品は全体でひとつのヴォリュームになっている傾向があり、それはかつての断片的な要素の集合といった作風とは異なっている。
『Talking cities』は、この夏、エッセンで開催された同名の展覧会に合わせて編まれた本だ。ツォルファラインにある、工業国ドイツにあっても最大級の工場遺跡群(世界遺産ですらある)の再生のマスタープランを・レム・コールハースが手がけており、それだけでも大きな話題になりうるのだが、そこにノーマン・フォスターやSANAAが参加し、この夏には建築・都市に関する展覧会やシンポジウムが開催されている。SANAAによるデザイン学校もちょうど竣工したばかりであり、これからのドイツ旅行時にはツォルファライン訪問が欠かせなくなるだろう★5。
★1──そうしたことから考えると、コルビュジエへの評価は相変わらず高いものの、昨今の関心は造形的な側面に偏っているようで、なんだか骨董を愛でる好々爺のような感じであり、コルビュジエのプロパガンディストとしてのキャラクターはあまり尊重されていないようである。
★2──最新作のひとつ《ウォーカー・アート・センター》では、いくつかの長方形がそれぞれ角度を振って並べられているプランを持つ。建築評論家カート・フォスターは、《ウォーカー・アート・センター》についての評論のなかで、この配置の手法はルイス・カーンが1960年代後半に試み、それを1987年にジェームス・スターリングがベルリンのプロジェクトで採用し、そして90年代のダニエル・リベスキンドのデザインへとつながったという、興味深い指摘をしている。Kurt W. Foster "Polyhedral personality(多面体のパーソナリティ)", Log No.6(Anyone Corporation, 2005)所収。
★3──この展覧会のついてはいくつかの雑誌でレヴューがされているが、たまたま見かけた2冊では、ともに1995年の展覧会は記録的な動員数の少なさであったことを強調している。
・『a+u 』2005年11月号(特集「アートを発信する場」)、新建築社、2006
・Thomas Weaver "Rumble in the Jumble", Log No.6(Anyone Corporation, 2005)所収
★4──日本では、磯崎新がコンセプトを語る建築家という像を確立し、またそうでないものを厳しく批判した(例えば「日本の建築教育の惨状を想う」[『手法へ』所収]といったテキストにそうした論旨が明快に見て取れる)。それは続く世代に圧倒的な影響を与え、今の日本の建築界において独特な文脈を形成した。その磯崎が、最近はポストクリティカル状況にあると、発言している。例えば「日本現代建築の定点が失われた[新建築2006年9月号]」参照。
★5──talking citiesのウェブサイト=http://talkingcities.org/talkingcities/pages/1_de.html。また展覧会のサイトはhttp://www.entry-2006.de/。
[いまむら そうへい・建築家]