住宅/建築の内部をつくることから

鈴木了二+今村創平

今村創平──本日は建築家の鈴木了二さんをお招きし、「住宅」「内部」をテーマにお話を伺います。私は『10+1No.41特集=実験住宅』で鈴木さんの《池田山の住宅》《神宮前の住宅》の二つの作品を拝見する機会に恵まれ、強い印象を受けました。この2作品は現在設計中の《麻布台の住宅》とあわせ、「空洞三部作」だと伺っています。本日は私から問題提起をさせていただいた後、鈴木さんに「空洞三部作」についてお話いただき、議論を進めていきたいと思います。

会場風景
会場風景
「聖ジェロームの書斎」
1 「聖ジェロームの書斎」
所蔵:ロンドン、
ナショナルギャラリー
『日本名建築の美』
2 「待庵」水屋
引用出典:西澤文隆
『日本名建築の美』講談社
「宇治上神社拝殿」
3 「宇治上神社拝殿」
撮影:今村創平
今村創平 福岡でのプロジェクト
4 今村創平《福岡切断空間》
撮影:吉住美昭
今村創平 福岡でのプロジェクト
5 今村創平《福岡切断空間》
撮影:今村創平

《聖ジェロームの書斎》から
まずは「内部」に関連し、1枚の絵をご覧いただきます。《聖ジェロームの書斎》(画像1)です。ダ・ヴィンチ、デューラー、レンブラントもこの聖ジェロームを描いていますが、これはアントニオ・ダ・メッシーナの作品です。一見普通の書斎のようですが、きちんと囲まれていない、不思議な中途半端な空間です。家具のようでもあり、舞台セットのようでもあり、非常に大きなゴシック建築の中に入れ子状に入っているようでもある。サン・ジェロームは内部にいるのか、外にいるのかよくわからない状態が不思議です。 つぎに「待庵」水屋の写真をご覧ください(画像2)。茶室は、床や内部の雰囲気など、内部空間について言及されることが多いのですが、西澤文隆氏の分析によると「待庵」は構造的に大変アクロバティックなことをやっているようです。この写真をご覧いただくと、床の柱の上部が切断されていることがわかります。本来なら何かを支えるものが切断されている。とすると、これは柱なのか、何なのか。 次にこれは、宇治上神社拝殿です(画像3)。この拝殿については、鈴木さんが「美しさの脱力タイプについて」(『ちくま』2002年2月号)というエッセイの中で書かれています。屋根を見ていただくと、切妻の屋根にリズムをつくりながら、足していて、これは縋破風というつぎ方です。鈴木さんも金比羅山プロジェクトで、屋根が微妙に曲線を描きながら連続する箇所で、この宇治上神社の屋根を意識されたといいます。このように、微妙に力が加えられたり、流れが少し変わったり、これみよがしな、ドラマティックなものではない、このようなあり方を鈴木さんは「脱力タイプ」と名付けられています。
「切断」という暴力的で強い関係のもち方と「脱力タイプ」のような柔らかい関係のもち方。これは、鈴木さんの以前の作品群と現在の作品との違いとも考えられるのではないか。この二つの言葉と鈴木さんの作品との関係性についてお聞きしたい。
三つめにやはり「内部」に関連し、私自身のプロジェクトをご覧いただきます。これは築20から30年の古い和室をある一定の幅でぐるりと、表層をはぎとるように切断をしたプロジェクトです(画像4、5)。表面の材を剥いでいくと、ありきたりな素材がリアルなマテリアルだということに気付かされ、内部空間が変容していきます。
それでは、私の問題提起はここまでとし、鈴木さんにお話いただきたいと思います。よろしくお願いします。

鈴木了二──こんばんは、鈴木了二です。最近、啓蒙的な話をする機会が多く、身体がだるくなっているので、今日は自分でもよくわからないことにまで踏み入って話したいと思っています。一緒に考える感じで聞いていただけたらと思います。
まずは今村さんが出してくれた、この《聖ジェロームの書斎》、これはすごく魅力的な絵ですね。作者のアントニオ・ダ・メッシーナは15世紀の人です。僕は同じ頃のアンジェリコが好きで、彼の《最後の審判》の部分の模型を作ったことがありました。墓地にあたる部分でした。宗教画なのですが、その墓地の部分だけを見るとものすごくモダンです。この《聖ジェロームの書斎》もまさにそうで、この家具だか都市の模型なのか、内部なのか外部なのか、とてもモダンに見えます。
装飾性のなさが、荒涼とした中にあるのではなく、様式性によって守られたその内側に生まれているところにルネサンス初期、14--15世紀の凄みを感じます。この絵は今日の議論を深めるのではないかと思います。

空洞三部作/《池田山の住宅》《神宮前の住宅》《麻布台の住宅》
最初に「空洞三部作」の《池田山の住宅》《神宮前の住宅》《麻布台の住宅》について少しお話します。これらはここ数年の間につくったもので、といっても三つ目はまだできていません。「三部作」ってかっこいいですよね。「漱石の三部作」とか「スターウォーズの三部作」とか言うでしょう。僕も一度言ってみたかった(笑)。この「空洞三部作」という呼び方は完全に後付けですが、でも、後で気付くことって多いものです。この3作品は共通性がないわけではない。
まず高級住宅街やオフィス街のような場所にどれも建っています。東京のど真ん中と言っていいでしょう。今日は模型をもってきました(画像6、7)。これを見ると3つとも非常にシンプルです。《池田山の住宅》は、ずぼっと抜けているトンネル状の断面です。連続体の両側ぶったぎりの状態。言ってみれば引き抜き材ですね。どこまでも長くなるやつをばーんと切っている。《神宮前の住宅》のモチーフは階段です。これは最近気付いたのですが、階段も実は引き抜き材なんですね。階段もどこまでも同じ断面でだーっといけるのを、ある幅で切っている。そして、引き抜き材の内部の空洞が住宅になっている。そして今つくっている最中の《麻布台の住宅》、これが一番明解だと思うのですが、漢字の「日」みたいな切断面で、いくらでも長くなるやつをカットしている。一方の切断面は開放で反対は壁。引き抜き材の切断モデルであることは三つとも共通しています。引き抜き材の切断モデルが面白いのはなかなか好きなようにいじくれないことです。容赦のない空間というか。

『神宮前の住宅』 『池田山の住宅』
6 左:《神宮前の住宅》模型
右:《池田山の住宅》模型
7 《麻布台の住宅》模型


「空間」と「空洞」
では、この三作品に何故「空洞」という言葉をつけたのか。僕らが建築をやりだした時分、「空間」という言葉にはすごく力がありました。「空間的だ」というのは、建築におけるひとつの価値だった。今でもその名残りはあると思います。
それでは一体、空間とはなんだろうと起源を考えると、どうもバロックあたりです。例えば相互貫入という考え方です。空間体が抜けるとか、軸線が通っているとか、対称的だとか、視覚的な空間操作、そういうものが出てくるのが、絶対専制君主の登場と同時だと思います。それに哲学者たちが気付き出すのが18世紀後半です。初めて「空間」という言葉を登場させ、芸術を空間的芸術(建築、都市)、時間的芸術(音楽、演劇)にわけたのはシェリングだそうです。未分化だった芸術が時間と空間とに分解した。それ以降「空間」は建築の概念として重要になってゆく。そして19世紀末から20世紀に入って、「空間」という言葉が建築評論などでも多く使われるようになるわけです。
それでは、その時に実際の空間はどうなっていたかというと、フーコーの「狂気」の概念と同様、実際の空間の「空間」性は失効していったのではないか。ある営みが名付けられるとき、その意味している中心は消滅している。それなのに、60年代になってもまだそのままの「空間的」という概念で建築を考えている、言葉が実態から取り残されているというのが僕の認識でした。だから、なるべく「空間」という言葉を使わないで空間を記述できないか、空間を考えられないか、と「空洞」「空地」「空隙」というような言葉を使うことで、できるだけ「空間」という言葉を避けていました。
もう少し空間についてお話ししましょう。ハイデガーの空間についての考え方です。彼は空間というものはそれ自体では存在せず、空けて、そこで何ごとかが生起した時にそれが、われわれが「空間」と呼ぶものに近づくと言っています。だから事物の間にある拡がりを簡単に「空間」と呼ばないほうがよい、というのがハイデガーのニュアンスです。そして「空虚」というのは、何もないことではない。何かが充満しているところ。何かが生起するところである、と。これは面白いなと思います。ハイデガーは建築の空間がわからない人だ、という批判もあるようですが、僕は「空間」以後を指し示す考え方として、さすがだなと思っています。

住宅の内部を根拠づけること/がらんとした空洞
今村創平──初めから、核心的な話になりました。少し質問をさせてください。
《池田山の住宅》《神宮前の住宅》の二つの住宅を拝見した時、私はアドルフ・ロースのことを考えました。アドルフ・ロースは「住宅は外部から分離するべきである。すべての豊かさは、内部に表わされるべきだ」と述べています。この最近の二つの住宅では、以前の《麻布エッジ》などでは峻立するような外観があったのとは対照的に、内部はあるけれど外部がない、という印象を受けました。外部に関心がなくなったのか、外部についてのお考えを伺いたいと思います。
また「空洞」という言葉からは内部空間への強い関心を感じますが、それはどういった内部なのか。通常のインテリアの感覚とは異なり、洞くつのように外部が内部に織り込まれた状態なのだろうか。いかがでしょうか。

今村創平 鈴木了二
左:今村創平氏/右:鈴木了二氏

鈴木──ちょっと難しくなってきました(笑)。
まず現在に続く住宅の「室内」は、いつ生まれたのかと考えてみるとそう古くない、おそらくベンヤミンが『ボードレール』で指摘した「年金生活者の室内」あたりでしょう。私的と公的なもののバランスが崩れてきて、住宅のなかから私的なものとみなされていたものが外部に出てくるし、一方外のものが内に入り込んでくる。内外部が流動化していく状況です。そのようなベンヤミンの思考をなぞるように、アドルフ・ロースのインテリアが出てきたのではないかと思います。内部が外部化し、内外部が反転していく。これは私的領域にとって危機的な状況です。ロースはだから住宅を外部から分離しようとした。有用性と芸術性とが分離したように。だから外部はぶっきらぼうで、ニヒリスティック。対照的に内部は濃密です。伝統的な建物の外部にあった襞や色彩が内部に現われる。さらには内部空間がむしろ都市的なスケールをもってきます。ロースの内部は普通いうようなインテリアではない。それでは、現在における内部はどうか、と考えると、さらに事態は昂進しており、もはやその程度の認識では追いつかない。極端に言って床、壁、天井という部位を基準とするような見方をせず、例えば建築を装置、パーツの組み合わせと考えるだけで、内外部をわけられなくなる。しかし、内部をインテリアとして根拠づけていかないと、住宅の存在理由がなくなってしまうという強迫観念がある。内部は建築家の職能とともに危機的状況にあるのではないか、と思います。住宅というのは、どうしても間仕切りのようなものがでてきますね。でも実際の使い方をみていると、10年もたって、子供がいなくなると室が空いてたいがい最後には納戸化していく。しかし間仕切りをとっぱらうと、がらんとした空洞ができ、そこに残る何かがあります。これはもう内外部という区分けでは意味をなさない。使い勝手、機能を無視しても、なお残ってくる何かについての関心を、とりあえず「物質」という言葉で言いたいのですが。「空洞三部作」に内部への関心がご指摘のように共通して感じられるとしたらそのことかもしれませんね。
また「空洞三部作」について、外に向けて関心がないのではないかというと、そうではない。近年、住宅は隣との関係がシヴィアな場合が多いです。一種の領土問題ですね。そういう状況の中で、外部に積極的に開かれるべきというのも、あるいは排他的に閉じるべきというのも、どちらも違うだろうと思います。この3作品は、密集地域、高層建築にとり囲まれています。それは集って住むというような牧歌的な都市でなく、あたかもコロラドの断崖絶壁のようです。そのなかでグラウンドラインを考えること、周囲を2メートルほどあけ、広めの空域をつくることなどから、一見外に無関心のように見えますが、実は外部への即物的な新しいコンテクストが生まれているとも言えるのではないでしょうか。

「物質試行」は政治活動か
今村──鈴木了二さんは、藤田省三さんや市村弘正さんなど政治思想、社会学の研究者との交流がある一方、芸術家肌で、自室に篭ってジャズを聴く人というイメージがあります。それは、公的領域から撤退し、書斎に篭っていく態度ともとらえられます。
しかし以前鈴木さんから、外が晴れがましい場所、中が日常的な場所、という考え方は違うのではないか、とうかがったことがあります。具体的に東京という都市を考えても、外はウルトラポチョムキンのようなきわめて表層的な状況ですが、室内にこそ密実なものがつまっているのではないか。
ハンナ・アーレントは、「経済的利益の再分配や福祉を行うことが政治ではなく、アテナイの広場でディスカッションすることが政治」と言っていますが、内部/外部の問題と政治性の問題についてお聞きしたいと思います。調子に乗って言ってしまうと、「物質試行」は政治活動なのでしょうか。

『人間の条件』
8 ハンナ・アーレント
『人間の条件』

鈴木──僕の建築活動が政治活動!うーん、でもかっこよすぎですね。そういう側面があるといいと思ってはいますが。僕が篭って、ジャズを聴いてひたっているって話、まぁ確かにひたっているんだけど、だから公的な空間から撤退して、自分の空間に逃避している、というのは違うと思っています。このことを考える時にすごく面白いのは、ア-レントの私的と公的の概念規定です。僕はこれを読んで勇気がでました。皆さん、ぜひ『人間の条件』(ちくま文芸文庫、画像8)を読んでください。現代を考えるうえでの必読書です。
この私的、公的の話には前段があって、ア-レントは、人間の行動を「労働」「仕事」「活動」の三つにわけている。そして「労働」「仕事」には目的があるが、目的のない「活動」が人間にとって大変重要だと言っています。現代では、利害関係にひっぱりこまない、「没目的の判断」「美的判断」の判断力が大切で、それが「政治判断」に通じていくと考えています。アーレントによると、美的活動がいきなり政治に直結しているのですね。なぜなら、近代以前の「伝統」「権威」「規範」が、20世紀の全体主義の登場の後、一切無効となったから。基準の消滅。私たちは、アガンベンの言う「戦争か、内戦か」という状況のなかにいる。国際法が通用しない、すべてが警察化しているような世界です。その判断基準なき状況で判断しなくてはならない。この判断は美的判断と同じだとアーレントは言うのです。
その上でアーレントの考える「私的」というのは、生命を維持するためのもので、例えば家族の問題だと言っています。一方「公的」のモデルはポリスです。支配関係から離れ、自発的に、自由に判断を行なう空間。これこそが公的な空間だと言っているわけです。ところが、「社会性」については、意外にもアーレントは批判的です。「社会性」というのは、国民国家の登場と並列し力を得ていった。私的空間のなかにあった家族的なものが巨大化して、国家まで展開したものと考えています。空間性と同様に、社会性というとそれだけで価値があるように思う傾向がありませんか。
ここで建築に話を戻すと、建築のプランニングや使い勝手を考えることは、家族のなかでの社会性に応えているだけかもしれない。もちろんそれは必要ではあるけれど、それ自体があまりに目的化しすぎてはいないでしょうか。それが職能のすべてであるかのように。僕が「物質」という言葉を使うのは、「訳のわからない世界がどこまでも残っている」という感じです。社会性で解消できないものが常に残されてくることです。だから内部とは引き篭もりどころか、公的領域そのものであって、アーレントの「没目的判断力」の作動状態と共通していると思っています。建築には「社会的でなくてはならない」という既成観念がありますが、アーレントの考え方はそういった観念を根本的に変えるものだと思います。

『建築家の条件』
9 鈴木了二『建築家の住宅論』
『建築零年』
10 鈴木了二『建築零年』
『July2001〜May2004  EXPERIENCE IN MATERIAL  NO.47 Project Konpira』
11 鈴木了二
『July2001〜May2004 
EXPERIENCE IN MATERIAL
NO.47 Project Konpira』
編集出版組織体・アセテート

「零」の感触/アーレントの時間概念
今村──美的判断のお話を伺っていて、ご著書の『建築家の住宅論』(鹿島出版会、2001)(画像9)の中で、住宅論のはずなのに、冒頭オペラから始まって、音楽についてのお話が延々と続くのを思い出しました(笑)。
お書きになったものを拝読していると、鈴木さんのアーレントへの関心は大きくは二つであるように思います。ひとつは「美的判断」や「新鮮さ」について。もうひとつは、アーレントの「時間は連続するものではない」という考え方についてです。著書の『建築零年』(画像10)の「零」の感覚とアーレントの時間の捉え方には関係がありそうです。この二つのアーレントへのご関心の繋がり方についてお聞きしたいのですが、いかがでしょうか。

鈴木──『建築零年』は2001年12月、小津安二郎の命日に出しました。零の感触とは何か、ということを書こうとしていました。零の持つ拡がりを書きたかった。2001年5月頃執筆していたのですが、その年の9月に9.11がおこり、この事件が零を見事に体現してしまった。あの後だったら僕は書けなくなってしまっただろうと思います。ですから、先に書いておいてよかったし、あの事件の後だと印象が強烈すぎて肝心のところが見えなくなってしまったと思います。あの事件が零をいっぺんに陳腐化した、とも言えるのです。
またつい最近、『室内』2月号にアーレントの時間について少しだけ書きました。アーレントの現在の捉え方はたいへん独創的です。現在は過去から未来につながる中間点ではなく、切断面、ギャップだと言っています。『過去と未来のあいだ』(みすず書房、1994)では、カフカの寓話を引用し、現在にあたる男が、常に未来からも過去からも引っぱられ、ひきさかれる状態をイメージしています。ギャップというのは空間的な捉え方です。「空隙」ということですから。一方、ベンヤミンによると、現在は一瞬蘇る過去であるということになる。常に一瞬というものに賭けているのがベンヤミンですね。歴史の折り返し地点のまさに点の上にベンヤミンがいて、折り返した先に拡がっている真空のような世界にアーレントがいると思います。
アーレントはカフカを敬愛しているのだけれど、過去と未来にひっぱられる男の寓話については、過去と未来が一線上にあるところがカフカの欠点だとも言っています。アーレントはそこに斜めのベクトルを持ち込み、平行四辺形ができるのだと言っています。時間概念のなかに、こじ開けるように空間概念としての空きを持ち込んでいる。『建築零年』の零には、過去と未来の間の空けの中で何が成立するのか、という意識があったかもしれません。「新鮮さ」についてもっと具体的に言うと、その空けで生起することの新鮮さと言っていいでしょう。
僕の一番新しいドローイング集『July2001--May2004 EXPERIENCE IN MATERIAL NO.47 Project Konpira』のなかでも初めに時間についてのアーレントの言葉を引用しています(画像11)。

建築の力、闇の力
今村──あっという間に残り時間が少なくなってしまいました。最後にひとつだけ伺いたいと思います。ヴェネツィア派のテッツィアーノは光の画家と呼ばれ、輪郭を描きません。ミケランジェロやダ・ヴィンチからみるとデッサンが下手ということになるのですが、彼こそが後の印象派を準備したと言える。鈴木さんは「闇の印象派」「黒の印象派」と名づけられた、一連の作品を制作されています。今日もそのなかの1枚を持ってきていただきました(画像12)。建築家は普通輪郭線を描きます。断面図や立面図を線で描き、それをもって空間を描いたという気になっている。鈴木さんのこの絵ではそうした慣習を避けているわけですが、それはどのようなお考えに基づくものなのでしょうか。

鈴木了二『物質試行46』
12 鈴木了二《物質試行46》

鈴木──印象派は、19世紀の終りに風景と光を発見しました。室内が宗教画や静物画をもはや実現することのできない、気の抜けたブルジョワジーの小宇宙になった時、つまり内部が矮小化されてしまった時、彼らは室外に出ていき、それまでとはまったく異なる世界の眩しい光を浴びるように感じたのだと思います。しかし、現在ではもう一回それが反転しているのではないか、という気持がこの絵にはあります。
建築の持つ力とは何だろうと考えると、まず動かないことがあると思います。それとは異なるもうひとつの能力が闇を閉じ込める力です。それは彫刻も文学も音楽でも無理なことです。にもかかわらず、現代では闇が建築から追放されているのではないか。隅々まで明かるみに晒そうとしているかのようです。だからこそ僕は闇を描きたいと思いました。でも闇の色を出すのは難しい。黒のインクの上にほかの鮮やかな色をのせていっても濁らない唯一の方法なので、僕はリトグラフで制作することにしました。「Fly Me to the Moon」というシリーズで《物質試行46》にあたります。輪郭線はないが、それでも建築の構造があるかもしれない、と見えるでしょう。ノルウェーの画家であるムンクはフランスの印象派と同時代ですが、なぜか夜ばかり描きました。だから「夜の印象派」です。そこで僕は「闇の印象派」って言っているんですけどね(笑)。

[2006年2月16日、JUNKU堂書店池袋本店、4Fカフェにて]

[鈴木了二]
1944年東京生まれ。建築家。1968年早稲田大学理工学部建築学科卒業。竹中工務店、槇総合計画事務所を経て、1977年早稲田大学大学院修了後、fromnow建築計画事務所を設立。1983年鈴木了二建築計画事務所に改称。現在、早稲田大学教授。1977年「物質試行37 佐木島プロジェクト」で日本建築学賞作品賞を受賞。また2005年、「物質試行47 金刀比羅宮プロジェクト」が第18回村野藤吾賞に輝く。美術家とのコラボレーションや映画の制作も行なう。ICC企画展「バベルの図書館」において《物質試行39 Bibiloteca》(1988)、16mmフィルム《物質試行35 空地・空洞・空隙》(1992)。主な著書に『建築零年』(2001)や『非建築的考察』(1998)などがある。

[今村創平]
1966年生まれ。建築家、ブリティッシュ・コロンビア大学大学院、京都造形芸術大学、工学院大学、東京理科大、桑沢デザイン研究所、それぞれ非常勤講師。早稲田大学卒業、1990-92年AAスクールに学び、長谷川逸子・建築計画工房にて勤務の後、2002年- アトリエ・イマム一級建築士事務所代表。03年から、プロスペクター・アソシエーション共同主宰(http://park16.wakwak.com/~prospector/)。共著として『Tokyo from Vancouver』、『現代住居コンセプション』などがある。

[2006年2月16日、JUNKU堂書店池袋本店、4Fカフェ]

200604


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