戦後日本建築のチャンピオンをめぐる「批評と理論」のシンポジウム──TANGE - ISOZAKI 1970/2005

菊池誠

去る4月28日、早稲田大学、井深大記念ホールにて公開シンポジウム「『批評と理論』の状況〈1〉──丹下健三あるいは建築状況2005」が行なわれた。磯崎新、鈴木博之、石山修武を中心に、歴史のなかのいくつかの日本建築をめぐって2000年から01年にかけて建築会館で行なわれたシンポジウムと2004年の対論をまとめて、2005年3月に刊行された『批評と理論』の関連企画である。が、とりわけ今回のシンポジウムの副題が上述のようになったのは、もちろん日本建築界の巨星丹下健三が3月22日に逝去したことによっている。壇上には、上記3人と、『批評と理論』のレクチャー、ディスカッションに参加した福田和也が並ぶ。定員500人ほどのホールは満席状態。意外にというべきか、学生らしき若い聴衆が多い。

シンポジウム会場
シンポジウム会場

司会も勤める石山修武が、シンポジウムの背景に簡単にふれるとともに、「2005年の状況」につなげるのに中国の話題をひっぱりだす、ある種の苦し紛れに言及するが、ちょうどこのシンポジウムの開催時期はまた中国における反日デモについての報道の喧しかった頃でもあった。

福田氏(左)、磯崎氏(右)
石山氏
福田氏(左)、磯崎氏(右)
鈴木氏

続いて、鈴木博之が丹下の代表作をスライド映写し、小レクチャーを行なう。丹下はその前の世代の分離派が西欧の新動向の紹介者としての前衛という立場であったのに対し、日本から発信する前衛というあり方をはじめて切り拓いた。このあり方が、丹下の戦中、戦後を通じての連続性に関連している、そして、それをもたらしているのは、丹下の作品に見られうる際立った特徴、聖なる場所から伸びる軸線が示す超越性である、と鈴木は述べる。戦中のプロジェクトにおいてもそうだが、戦後の《広島ピースセンター》(1952-55)においても、原爆ドーム、慰霊碑、展示館ピロティの軸線は、たとえば神体から伸びる軸線に構成された厳島神社と同型で、同様のことは、「東京計画1960」の東京湾を横断する軸のはじまりが、皇居であることにも現われている。この超越性は丹下の最高傑作、《代々木国立屋内総合競技場》(1964)と同時期に設計されながら長らく発表されなかった《戦没学徒記念館》(1967)にも特徴的に見られるものの、これが丹下の転換点となり、その後丹下作品から超越性は消える。
福田和也は、丹下の「広島計画」とイタリア・ファシストによる「新都市E.U.R.」の類似に触れ、前衛でありつつ至高性を希求するあり方を丹下とファシスト期のイタリア芸術に見る。それはまた、たとえば西欧文学の世界において、T・E・ヒュームやエズラ・パウンドへと連なる線にも関係するだろうし、翻って日本においては保田與重郎や亀井勝一郎ばかりでなく広範な影響を及ぼした日本浪漫派の思想にもどこかでつながっていく。
磯崎新は、自身が丹下のスタッフとなった頃の話を交えつつ、戦後の丹下の出発点になる《広島平和記念館本館》(1955)が細い木造のプロポーションを持つコンクリート造フレームであり、そこから丹下が出発したことにこだわる。戦時中も日本に入ってきた『カサベラ』誌に紹介されていたジュゼッペ・テラーニの《カサ・デル・ファッショ》(1936)などの作品との類似性を言う。
シンポジウムの副題をなすもうひとつの「建築状況2005」のほうだが、中国深センで建設中の磯崎による「文化中心」に触れられるとともに、現今の中国における建設量はEUを凌ぐ、その建設スピードの速さは建築家にまともな建築デザインの時間を許さない一方で、世界の建築家にとって残された最後のフロンティアになっているのかも知れないといった指摘が壇上でなされる。
そこで話題は中国から再び丹下にもどる。磯崎は、大阪万博が開催された1970年において、丹下と岡本太郎をはじめとして当の万博に関わった全員が言わば挫折を味わったのだと述べる。その結果、岡本はマス・メディアの世界に飛び込み、一方、丹下は「国外亡命」したのだ、という。たしかに丹下の1970年代は中東産油国に、80年代は東南アジアに仕事が集中している。つまり19世紀帝国主義から20世紀後半に独立する植民地であり、そこに勃興するナショナリズムがその衣装を建築的モニュメントに必要としたときに丹下が呼ばれたということでもあるのだろう。

福田氏(左)、磯崎氏(右)
福田氏
福田氏(左)、磯崎氏(右)
磯崎氏

シンポジウムからは離れるが、1970年の『新建築』1月号の特集「世界現代建築の展望」で、「世界現代建築の行方」と題する対談を丹下と磯崎は行なっていた。丹下56歳、磯崎38歳のときである。
対論の中で磯崎は「60年代の終わりごろというのは、丹下さんを中心として日本の建築界が世界のひとつの地域というリージョナルのところからもうひとつ広い視野の中に広がっていった、グローバルな観点からの日本の建築の考え方というものが、いろいろの面でつくりあげられた時代だと思うんです」と述べる。
対論の全体は世界の建築界を覆う文化的多元主義の認識といちおうの容認が論調を占めるように見受けられる。が、その末尾で、世界の建築界で、もはや共通のトピック・問題意識がなくなってしまって、これからも復活しそうにない、と述べる磯崎に対し、丹下は「文明史的な状況というのが、何か空気みたいな形で存在していて、それはあまり気にしなくてもいいという中で、個人個人が勝手なことを考えているんじゃないか。しかしそのベースには文明史的な世界的に共通な状況がかなり強く存在していて、その中でしか踊っていない。......しかし情報化社会というものはかなり個人が自由で、自発的に自分の思想を表現できるようなメカニズムを内蔵していると思いますが、それはいまいったことと両立するのではないですか」と応じ、この前後から丹下が時々言及する情報化社会に焦点を合わせている。
その後ひとつの10年期を経て、『SD』1983年9月号の丹下特集に掲載された「情報化社会の建築と都市のあり方を索って」で、丹下は、美術出版社から出された作品集、第1巻『現実と創造──丹下健三1946-1958』、第2巻『技術と人間──丹下健三+都・建築設計研究所1955-1964』に続いて、『建築と都市──丹下健三+都市建築設計研究所1965-197x』と題されるべきものを考えていたが、出版社の閉鎖で実現できなかったことを書いている。つまり、当の『SD』は丹下の作品集第3巻たるべきものの代替物だということだろうか。同誌にはサウジアラビアほかの中東諸国、イタリアやシンガポールなどのビッグ・プロジェクトが並び、磯崎がシンポジウムで述べた、丹下の「亡命」期の作品群のオンパレードになっている。
そしてその掲載作品群の末尾には1972年から計画が始まり1982年竣工した《赤坂プリンスホテル》が置かれる。シンポジウムの場で磯崎は、70年代・80年代の「亡命」を経たのち丹下は商業建築家として日本に帰還したと述べていた。その意味での「帰還」第一作にあたるといえようか。
『SD』誌上、これに続いて上述の丹下論文が掲載されるのだが、その中で丹下は次のように書いていた。
「......1960年ごろから社会が情報化しつつあることを身をもって感じていた。近代建築の前期をコルビュジエやグロピウスによって代表されるもの、工業化社会の表現を軸として、そこにそれぞれの個性的な肉づけが行われて、第1期の近代建築はつくりあげられたものである。これに対して、1960年以後の情報化社会における建築のあり方はどのようなものであるかと、探し求めてきた私にとって、ここに発表するプロジェクトはそれぞれのプロジェクトの性格の違いはもっているが、いずれも、大なり小なり情報化社会の表現を探ろうとした意図が、改めて私には感じられてならない。なにか近代建築の第2期に入っているというふうに思えてくるのである」。そして論考をこう結ぶ。「私は、まだ情報化社会の建築や都市のありかたについて、これだという確固たるものは探しあててはいないが、しかし、尚まだ、私は、それを探し求めたいという希望を捨ててはいない」。
ところで、上でふれた丹下・磯崎の1970年の対論は、後に磯崎の対談集『建築および建築外的思考』(鹿島出版会、1976)にも収録された。その際のノートに、「この対談がなされたのは万国博が開催される半年ほど前であった。にもかかわらず万博についてはまったくふれられていない。その頃すでに意識のなかでは万博はもう終っていたためだったのか。少なくとも私は万博にふれることを最初から避けようとしていた記憶がある」と磯崎は記していた。丹下の作品歴の中で、1964年の《代々木》は圧倒的なマスターピースであるとの評を誰からも得るのに対し、1970年大阪万博の《大屋根》、《お祭り広場》はネガティブな批評を受けることが多い。本シンポジウムでもほとんど話題とされることはなかった。だが、70年万博の写真として時折用いられる竣工後の、無人の広場の夜景写真を見ると、丹下の戦中のプロジェクトを前川國男のそれと比較してなされた次の批評が、1970年のこの作品においてもあてはまるのではないか、と私は思うのである。
「丹下氏の日泰文化会館の建築が、その最も見事な効果を示すのは粛然たる祭の日であり、前川氏の建築がその最も見事な姿を示すのは大勢の人間が楽しくそこで集う日である。......前川氏のは機能的であり、丹下氏のはモニュメンタルである。」(浜口隆一「日本国民建築様式の問題(IV)」[『新建築』1944年10月号、所収])と、同時に「商業建築家」のスタイルをまとっては到達しえなかった「情報化社会の建築や都市のありかた」の片鱗のようなものが──無人の夜景の、それも写真の中にだけかも知れないが──ここに垣間見えるのではないか、という主観的な印象を私は持っている。
ともあれ、早稲田でのシンポジウムは、およそ3時間という短くはない時間を費やしても、議論が尽くされたという感じがしない。建築の状況をめぐる、こうした批評的討議の機会がもっとたくさんあってよいと感じたのは、私だけではないと思う。会場に来ていた若い聴衆──彼らの誰も60年代、70年代を知らない──が熱心に耳を傾けていたのを、私はたしかに見ている。

[きくち まこと・建築家]


200505


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