家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?

八束はじめ

今回と次回に分けて住宅関係の本をいくつか取りあげる。これがアップされる頃には終わっているはずだが、工学院大学で予定されている「私たちが住みたい都市」と題した4回連続のシンポジウムの3回目に、西川祐子さんとご一緒に話すテーマが「住宅」だからというのもそのきっかけである。だからといって急ごしらえでこのテーマの書評をするというのでなく、ちょうど住宅のことを考えていたところにお誂え向きの主題で依頼があった(全4回のモデレーターである山本理顕さんから)ということなので、自分の現在の仕事(や関心)のあり方と平行して書いてみたい。これと一緒に山本さんご本人の本『住居論』(新編、平凡社、2004)も(基本的には再刊とはいえ)出たので、この本も含めての紹介としたいが、ここでやってみたいのは、住宅のみならずその中身である家族の問題も含めての議論であり、従って議論の対象も建築関係書には留まらせるつもりはない。とりわけ今回は建築外のほうに眼を向けることにして家族論関係の本を取り上げる。もちろん、この関係はそれ自体専門領域を形成しているし、従って研究蓄積も膨大にある(歴史的な対象にまで話を拡げると尚更)。私は専門家ではないし、ここでそのすべてを取り挙げることなどハナから無理な話であり、その一端を紹介するにすぎない(専門の人からすれば当たり前のリストであろう)ことはお断りした上で話をはじめたい。

とはいえ、いきなり本自体に入るというわけにもいかない。建築屋がとりあげるからにはそれなりの枕(仁義というか?)がいるだろう。住宅を考えるには家族について知らなければというように、ハード(建築)をやる際にソフト(内容)を知悉しなければならない、といったら話は通りやすいかもしれないが、あまりに正当な意見でありすぎ、かえってそれは本当かなどとひねくれて問い返したくもなる。基本的にソフトとハードの間には必ずずれが生じるからである。いくらソフトに密着しても、それがうまく機能するとは限らない。例えどのように調査主義的に事実を並べても、そこから立ち上げられる、例えば「生活」像なり、「家族」像なりは、一旦抽象的なモデル化を経てはじめて成立する。同様にこれを空間の配列に置き換えていく作業もまた無媒介的に自律するわけではない。図式化されたプランは抽象物(これもモデル)であり、現実の空間はそれに留まらない次元(美的な、あるいはデザイン的なと限定するつもりはない)をもっているからだ。さらには現実にその空間に介在してくる人間も計画通り振舞うはずはない。時間的なファクターまで入れればそのずれはさらに拡大する。私は計画は可能性をつくりだす(それがなければ建築をつくる意味はない)とともに、それ以外の可能性を──閉め出すとはいわないまでも──著しく限定するという意味で一種の(権)力の行使であると思っている(これは設計者がユーザー・フレンダリーか否かとは別のことなので念のため)。しかしそれに対してユーザーが計画意図を裏切る自由をもっているとも思う。このずれは建築を廻る最も面白い要素なのではないか? しかし、だからといってソフトはどうでも、ユーザーが何とかするさという話でもない。とりわけ私のように思想的な意味に関心をもつ者にとっては、ソフトがもつ思想的な意味(正直ここが微妙で説明しにくいのだが、社会学的な意味とはあまりいいたくない)はそれ自体として関心を惹く事柄である、と、これが枕の位置づけ。

ところで、工学院のシンポジウムに戻って、山本さんの依頼はこうした私の最近の関心を捉えてのものというわけではなかった。お話しも発表もしていないのだから当然である(それに正直にいえば、こちらはいろいろなところに疾うに発表済みであった山本さんのテクストも、こっちは一部しか読んでいなかったのだし)。山本さんは私にロシア構成主義の共同住宅のことを話して欲しかったらしい。このリクエストには応えるつもりだが、今の関心は随分別のところにある。何しろ『ロシア・アヴァンギャルド建築』(INAX出版、1993)が出たのは10年以上も前である(山本さんのテクストの一部は、それよりさらに遥かに前だったりするが)。そこで書いたのは、革命後のソヴィエト=ロシアで新しい社会形態の模索として、家族をブルジョア的な形態から社会主義的なそれへと改変する企てがあり、自発的なコミューンなどを経て、建築的には集合住宅を超えた共同住宅が提案された、そして少なくともその移行期のタイプ(完全に共同化する前の)がいくつか建てられたというような事柄である。私ののみならず海外の研究者のテクストでもそんな扱いを出たものはないし、ちょっぴり弁解しておくと、私の本では社会学の分野でやられていたコミューン(アルテリ)研究まで前史として紹介してあるが、建築関係ではそこまで筆が及んでいるもの(ですら)もほかにないと思う。

最近の私の考察の対象は明治以降の日本が中心となっていた(過去形で語るのはそろそろひと段落だからだが)。そこでは大正期に「住宅」が「建築」として浮上していく状況を書いていったわけだが、物理的及び概念的な建築の形式の問題を住宅というそれまで「建築」のうちに入ってこなかったビルディング・タイプと明治以来国民国家としての日本が整備されていく状況との関係性の上で記述しようということが企てられている。私のアプローチはかなり思想史的なものなので、狭い意味での建築(あるいは住宅)のみならず、その背景を為す郊外とか地方とか風景というようなものも取りあげているし、一方住宅建築史や民家論のようなものも取りあげている。

しかし、それを調べているうちに(やっている人たちから見れば今さらのことなのだが)行き当たったのが、今回のシンポジウムでご一緒する西川さんも含む一連の家族史の研究の蓄積である(正確にいうともっと回り道──外国の諸研究から──したのだが、それはすぐあとに述べる)。闇雲に坑道を掘っていったら出てしまったひとつが、別の方面から掘られていたこの道だったといってもいい。西川さんも『10+1』の連載をもたれていたのだから、もっと早くに気づいていて当然だったのだが(この点は山本さんのほうがずっと先行していたことを認めておこう)、この点は不明を恥じるしかない。でも、自分を棚に上げるようだが、住宅は建築の基本である、というようなことを建築学科に入ったばかりの学生たちに仕込む割には、建築界の人々がこの問題にきちんと取り組んできたかといえば、怪しいのではないか? せいぜい計画学的な家族調査の域を出ず(軽んじているわけではないので、そう聞こえたら陳謝)それが思想(史)的な考察の対象にはなることはあまりなかったのではないか?

私は「ビルディング・タイプ」とか「プログラム」とかをいって、『10+1』本誌でもその特集を組んだ。ここには底流としてロシアの社会変革のプログラムとしての建築みたいなものへの関心があったわけだが、もっと前からあったフランス革命の頃の建築と社会制度との関連への関心なども重なっている。これはもともと私の世代としてはご他聞に漏れず学生時代に圧倒的だったミシェル・フーコーの仕事(監獄論や病院論がある)からの影響に発している。フーコーのは知の制度、権力としての施設論ともいうことができるわけだが、そこ(フーコーというより当時の私)には家族という私的な領域への目はまだ備わっていなくて、専ら公共領域だけが映じていた。これがあまりに近視眼的な見方であったことは、わかってしまえば愚かという以前の話である。そもそも公/私という二分法自体が権力(フーコーを知っている人には甚だしく蛇足だが、これは政治権力のみを指すものではない。もっと匿名的な力の働きをいっているのだし、上記の建築計画の行為とは一種の(権)力の行使であるという命題もこれと重なる)によって規定されるのだから。

自分の研究史を述べる場でもないので本のほうに話を移すと、フーコーの仕事に近接した領域には、現代の理論でいえばブルデューのプラティーク論があり、史的な作業でいえばアナル派の仕事がある。ここではまず後者に話を絞る(ちなみに前述の仕事では地理学の問題も重要な対象だったのだが、それともアナル派はクロスしている。創始者と目されるリュシアン・フェーブルが地理学にも深くコミットしたから──岩波文庫の『大地と人類の進化:歴史への地理学的序論』(岩波書店、上巻:1971/下巻:1972)参照──で、さらにここには我がル・コルビュジエが絡むシーンもあるのだが、それはまた稿を改めて紹介する予定)。家族論を現在という観点だけから取り上げるのは計画学的には(あるいは社会学的にも)正当な理解だろうが、とりあえず遠くから眺める習慣がついている私のような関心でいうとちょっと像が近すぎる。相対化することで思想としての姿がはっきり見えてくるからだ。現在はそこから再接近を試みればいいと考えている。

ということでようやく本題である個々の著作の概観に移ると、史的な考察として家族を取りあげて一躍脚光を浴びた本が、前記アナル派のなかでの異色の存在フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』(みすず書房、1981)であったことは広く知られている。これは原書の初版は1960年だから改めてこの欄で取り上げるようなものでもないが、中世には子供は最低限の成長を果たすとすぐに大人と同じように扱われるようになり、親に慈しまれながら育てられる存在などではなかったという立論は、次にごく一部を紹介するようなそれにつづく議論がいろいろと出ている今でも十分に衝撃的である。ついで、カナダの社会史の研究者エドワード・ショーターの『近代家族の形成』(昭和堂、1987)が邦訳され、これも我々が抱いている家族像が基本的には近代のものであること、決して人間の本能に基づく普遍的なものではないことを証した。アリエスはどちらかといえば上のほうの階層(史料的にフォローしやすい)を対象にして、子供(と今なら考えられる)の時期が就労(徒弟のような)から就学へと移行していくというような観点を中心にしているのに対して、ショーターは1960年代の彼が第二次性革命と呼ぶ時期と比較しながら、下層階級の性行動のようなものをフォローするなかから論を組み立てており、議論はよりラディカルである。基本的にブルジョア的な形態である現在の家族形態をもとにするとショーターの描き出す、子供や配偶者への情動的なつながりをほとんど欠落させた、(下層民の)家族像(しかもそれが19世紀半ばまで持続した)は充分ショッキングである。ただし、ショーターも認めているように限定された史料にもとづいての考察だから、反駁は山ほどあったようで、それはペーパーバック版への序で触れられている(だから、それがもはや定説であり常識であるというような拙速な議論は差し控えておく)。

この両書は家族の問題を思想として考える際の基本文献(古典)としての位置を失っていないはずだが、新刊のレヴューを旨とする本欄の対象としてはいかにも古いので、新しいものから挙げておくと、キャサリン・ベルシーの『シェイクスピアとエデンの喪失』(法政大学出版局、2003)があって、これは去年の暮に出たばかりだ。「家族の価値の文化史」という副題をもったこの本は、「家族の価値」が自然なものではなく文化的に定義されてきた──それ故に相対的な──ものでしかない、というショーターなどと同じテーゼを、それがイギリスで定着されていった時期に書かれたシェイクスピア劇や同時期の絵画などのヴィジュアルな素材をもとにフォローしている。これらの資料は社会学的な資料ではないが、そこから社会的パラダイムの転換の徴候を読むことができるというわけだ。アリエスやショーターのように広く全般的な議論をしているわけではなく、限られた素材に光を当てるカルチュラル・スタディーズ系のアプローチで、論じられるのも家族トータルというよりは夫婦の間の嫉妬と暴力(エリザベス朝時代のドメスティック・ヴァイオレンス)だったり、兄弟関係だったり、独身の男たちがいかに世のなかに出ていくか(教化の問題)だったりと微視的な局面の議論が中心だが、テクストとしては(易しいテクストとはいえないが)面白い。民衆のメンタリティに主眼を置いているショーターは、文学を史料に使うと文字に関係ある上層(ブルジョア)階級の問題を全体に敷衍してしまう間違いを起こしがちだと述べているが、そのショーターでも、こうした、当人たちが直接的に信頼できる数のドキュメントを残しているわけではない主題の議論は、むしろ議論を挑発することに意義があるとしているくらいだから、ここで調査主義に身を委ねることはいずれにせよできない。家族論が私にとって刺激的なのは、この想像的な仮説性である。翻って住宅をただの箱の連なりとしてだけ見るのは(建築雑誌の発表のあれ方)、芝居無しのステージセットを見るのと似ている。

ちょっと脱線するが、正月にテレビを見ていたらこの間アカデミー賞の外国映画賞にノミネートされた「たそがれ清兵衛」をとりあげて監督の山田太一さんがインタビューを受けていた。この映画のテーマは家族、あるいは親子愛であるらしい。主人公の清兵衛が出世競争みたいなものに背を向けて娘たちへの愛情だけを糧に生きている。そこに普通の、つまり当時の意味で普通の感覚をもった叔父が訪ねてきて意見をするわけだが、それに対して清兵衛が、娘たちが成長していく日々を見るだけで何とも心が和むのですよ、みたいなことを言う。それは出世などをするよりずっと価値があるんだというわけだ。山田さんはこれが映画のキーワードになっていると言う。つまり、ここには立身出世を第一にする封建的な価値観と、家族愛に生きる人間的な価値観とが対置されている。それで後者がもっと普遍的なものであるという描き方である。山田さんご自身もそう思われているみたいだったが、洋の東西こそ違え、アリエスやショーターの議論を経てみると、それって本当は今現在の投影からする「人間的」ということであり、「普遍的」であるということではないのではないかという反問が生じないではおかない。ショーターの西欧家族の議論ではそれが上層階級に成立したのは18世紀の終わりくらいで、下層では前述のように日本の明治維新にあたる時期のことになるから、すでに幕末の話であり下級とはいえ武士である「清兵衛」は時期的にも社会的にも位置づけは微妙ではあるが、このケースの当否は別として、このような反問が見えてくることが歴史を題材に選ぶ時のメリットである。親子の情愛みたいなものの上に組み立てられた家族像が普遍的であるというテーゼは、先ほどの、住宅こそが建築の基本であるという命題と一脈を通じているように思われる(これは次回にまた述べよう)。

山田太一さんの作品は多くが家族もの(その断絶が主題であるにせよ)だが、氏は岩波書店から出ている『変貌する家族』という叢書(全8巻、岩波書店、1991-92/1990年代初頭だから新しくはない)の編集メンバーにも上野千鶴子氏、鶴見俊輔氏などとともに名前を連ねている。これには前記アリエスやショーターなどの問題提起を受けた研究者(主題上か、女性が多い)の諸論考も掲載されているが、建築界からも第3巻で黒沢隆、隈研吾、片木篤の諸氏が寄稿している。黒沢氏のは寝室を中心とした間取りと家族の構造の問題を論じたもの(いわゆる個室群住居論のベースをなす展開で歴史的考察も多い)、隈氏のは社会体制のなかでの住宅及びそのデザインのあり方を論じたもの、片木氏のものは当時流行し出していたインテリア(マイルーム)ブームを論じたものである。黒沢氏のはこの分野での基本論考といえ、隈氏のは面白いが私には少々あざとく見える。一方意図的に軽薄な対象を扱ったと見える(この頃の彼の仕事の流れはそうだった)片木氏のは後述の西川さんの考察と並べると面白い。この叢書は大部分現代の問題を扱ったものだが、史的な考察が中心になったものとしては、ごく新しい『日本家族史論集』(全13巻、吉川弘文館、2002-03)があり、多くは書き下ろしでなく過去のテクストの再録だが、そのぶん定評をえたテクストが並べられており、住居との関連では第12巻が「家族と住居・地域」に当てられている。近代の部分は後述の西川さんの担当である。次回にも触れるつもりだが、こういう企画で建築畑の住居史の専門家が登場しないというのは象徴的な問題といわざるをえない(かつて太田博太郎博士が自嘲的に「空家建築史」といった事情は多少は変化してきているはずではあるが)。ただこれらの史的論考の多くからは、制度は見えてきてもアリエスやショーターのような心性(マンタリテ/メンタリティ)の問題を窺うことは難かしい。このような本でハンディなものには天沼香『家族』(日本史小百科、東京堂出版、1997)がある。

『変貌する家族』の著者に女性研究者が多いと書いたが、家族論はフェミニズムの問題と平行に走るから当然であり、そうした仕事のなかでは上記の叢書のみならず個別の著書に見るべきものが多い。ただ家族史とかフェミニズムとかいっても、各々の研究者で分野も方法も違うし、それに従って力点も違う。そのうち日本近代を扱ったいくつかの著作を挙げておくと、小山静子『家庭の生成と女性の国民化』(勁草書房、1999)はおもに教育史的な観点から書かれたものだが、もっとも総合的な記述がされているテクストで、明治の戸籍法成立前後の事情なども含みながら、明治20年代と大正期から戦争に傾斜する昭和前期、という家族イデオロギーが節目を経験する二つの時期を総括的に論じている。とりわけ後者では文部省の実践した生活改善運動に包含される諸々のイヴェントがとりあげられているが、この運動は建築、とりわけ住宅や庭園などその附属環境の改善をも含む広範なものであり(今和次郎などもコミットしている)興味深い。この二つの時期のうちで明治に焦点を当てた論考には(後者も論じていないわけではない)牟田和恵『戦略としての家族』(新耀社、1996)がある。この本は基本的に社会学的なアプローチだが、最初にアリエスやショーターなど西欧の研究の概括があり、また家族をミクロな像でなくマクロに扱ってきた人口動態論(歴史人口学)の動向も紹介し、その上で日本の近代化の特質、それと家族概念との関係などを論じている。アリエスやショーターのテーマである心性も当然日本では西欧と違うし、日本でも時代によって違う。この辺りを論じているわけだが、小山氏が運動やイヴェントをとりあげているのに対して、牟田氏は明治期の総合雑誌などのメディアをとりあげて、そこに現われる家庭像を論じている。私としては自分の仕事と考察対象が同じ時期だったので、いずれも面白く読ませてもらえた。

ちなみに人口動態論は、具体的な家族について、あるいはそれに対応する住居像に関して直接教えるものでは当然ないが、社会(共同体)の基礎条件を記述するものとして見落とせない分野で、最近この領域における日本の権威である速水融氏の編によって、西欧におけるその基本文献を集めたアンソロジーが出た。『歴史人口学と家族史』(藤原書店、2003)。フランスと英米の研究が中心だが、時期的、地理的な出生力のばらつきをさまざまな方法で論じ、確定しようという試みである。第4部「家族史」に収録されているハメルとラスレットの世帯構造の理論は、家族/世帯、つまり「住宅」を定義しようとする際の主体でありながら時代と地域を拡げてしまうと容易に集約しない図式を理論化しようとした有名な企てで、一度は目を通すべきテクストだ。これとは別に、速水氏のさまざまな論考も史的な考察としては教えられるところがじつに多い。比較的最近のものとしては『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001)、『歴史人口学のフロンティア』(東洋経済新報社、2001)、『近代移行期の人口と歴史』(ミネルヴァ書房、2002)などがある。多くは宗門改帳を通じて把握された近世の農村の動態を記述したもの(ちょっと脱線してしまうが、先頃亡くなった網野善彦さんの一連の仕事はいうに及ばず、佐藤常雄+大石慎三郎『貧農史観を見直す』(講談社、1995)なんかを見ても、近世の農村のイメージは随分変ってくる)。

家族史一般に戻って、西川祐子さんはもともとフランスなどの近代文学研究から出発された研究者だが、家族史に取り込んでさらには住居そのものにまで目を向けたという意味で、我々には最も近いポジショニングであるともいえる。ここでは『近代国家と家族モデル』(吉川弘文館、2000)と『借家と持ち家の文学史』(三省堂、1998)を挙げておこう。前者は国民国家を成立させるための最小単位としての家族モデルがいかに整備されていったかという、小山氏や牟田氏(あるいは次回に取り上げる上野千鶴子氏)などと同じ問題意識から出発しているが、もっと建築寄りで、明治後半の住宅改良事業から戦中、戦後の西山卯三氏や吉武泰水/鈴木成文両氏の仕事までもとりあげられている。これらのテクストではモデル化がすこぶる明快であること、さらにそれが住居という空間モデルと一体的に論じられているところが面白い。例えば、明治期は「故郷のいろり端のある家」が「家」の核としてありながら、戸籍法では次男三男が都会に出て別の世帯(「家」とは区別される「家庭」)をもつことを許容したために、都会に「茶の間」をもつ住宅のモデルできた。それは「いろり端」への回帰の道を残す二重制度だったが、戦後になるとその回路が実質断たれて、茶の間モデルがリビング・モデルに変貌し、この縮小された「家」から今度は家族成員がより都心部に個室をもつというかたちで新しい二重制度へと横滑りした、という具合である。明解この上ない。前記片木氏の「マイルーム」は必ずしも別個の家(部屋)ではないが、家の全体とはイメージ上でも離れた小宇宙としてのインテリアが成立していく過程(「マイルーム」は「アワハウス」を見えなくして成立している)はすでにそれを予兆している。「貸屋と持ち家の文学史」はこのような現象と関わる住居(や部屋)の描写を日本の文学作品のなかに広く探した連載を収録したものである。

ちなみに(脱線ばかりで恐縮)西川さんにその意識があったとは思えないが、この手のアプローチは昔の国学者の有職故実の学とも似ているが、日本で最初の住宅史とも目される(近代的な意味でそうはいえないにせよ)幕末の国学者沢田名垂の『家屋雑考』もそうした著作で、この本は寝殿造と書院造という用語を最初に定着させたものとして名高い(実際その部分は結構いけてる)が、ほかの部分は家屋の部分が故実として延々と言及されている(西川さんの本とは違って知識のための知識という感じだが)。これは『故実叢書:25巻』(改訂増補、明治図書出版、1993)として今でも簡単に入手可能なのでここに挙げておく。一読の価値はある。

[やつか はじめ・建築家]


200405

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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