「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層について

八束はじめ
五十嵐太郎『戦争と建築』
五十嵐太郎『戦争と建築』
2003年8月発行
晶文社
定価:本体2,300円+税
ISBN:479496580X
253頁

プロの書評子は知らないが、私のような人間がすると、その本の前に読んでいたものが何かが微妙に影響する。塚本由晴『「小さな家」の気づき』の書評の時も中国共産党の「長征」ものを読んでいたと書いた。評される本の著者たちからすれば関係ない話だから迷惑なことかもしれないが、人間のやることとて止むをえない。今度私が読んでいたのはアレクサンドル・コジェーブの『ヘーゲル読解入門』である。「入門」とあるが、とんでもない。サルトル、メルロー=ポンティからバタイユ、ラカンに至るまで将来のフランス思想界の大立て者になる人々を前に行なわれたヘーゲルの「精神現象学」の微に入り細を穿った注釈の講義である。その7章につけられた注(厳密には講義よりずっとあとの第2版に追加されたもの)、つまり「歴史以後」の姿をコジェーブが日本に見たという件りで有名になった(日本以外でもここのところはよく引用される)。そこばかり孫引きでやっている人も少なくはないはずで私自身もその例に洩れなかったから、今更とはいえ読んだというわけだ。

本書の内容とは直接関係なさそうにも思えるかもしれないが、私も骨折って難解なテクストに挑戦したわけなのでちょっと我慢して紹介につきあってほしい。本文はヘーゲルの歴史観、つまり人間は自然のままの欲望で動く動物と違って人の欲望を欲望するという厄介な存在であり、そのために命を賭して他者と戦う。それが「主」と呼ばれる存在で、彼らは本来生きる(食べる)ための生産は行なわない。それを行なうのは生命を賭けた闘争などに後を向けた存在、つまり「奴」である。この主と奴の弁証法的な関係が歴史を形成する(あるいは発展させる)が、両者の関係はやがてこの差異が意味をもたない国家(あるいは反国家)となることで歴史そのものを止揚する、つまり人間はそこで存在を止め動物的な存在に戻る(主も奴もなくなる)、というのがそこで述べられている「歴史以後」のヴィジョンで、ヘーゲルはそのヴィジョンをフランス革命とそれにつづくナポレオン戦争以後の状況に予感していた。つまり最終戦争は闘争(矛盾)を止揚するというわけで、亡命ロシア人のコジェーブはこれにロシア革命と大戦(講義は第二次大戦よりは前だから第一次)を重ね合わせていた。しかし第二次大戦後になると、ヨーロッパとは違う世界にすでにそれを達成しているかのような社会があることをコジェーブは目撃した。アメリカである。ヘーゲルの主と奴の関係は容易に想像できるようにマルクスの階級闘争史観に転じることができるが、アメリカではすでに階級は融解しつつあったというわけだ。しかし、彼はさらにそのあとに極東の島国で、300年も前に鎖国というかたちで自から歴史の発展を止めた状態──彼の形容では究極のスノビズム──を見いだした(その場合の最終戦争は関ヶ原──か大阪の冬および夏の陣──ということになるのか?!)。ポストモダンは日本において先取りされている。このヴィジョンはその日本人の血を引いたアメリカ人が半世紀後に繰り返すことになるが、それはまぁここでは触れる必要がない。要は私がこんなものを読んでいたということだ(因に、読んだわけではないが、シャディア・ドゥラリーという著者による「ポストモダン政治のルーツ」というサブタイトルのコジェーブのモノグラフが最近出ている)。

そこへもってきて「戦争と建築」である。菊池重郎博士によれば、「建築」ということばは幕末にこれまでの日本のものとはまったく違ったカテゴリーの構造物を指すべく、オランダ語のbouwの翻訳語として移入された。カテゴリーの違いとは技術や様式のことではない。「軍事建築」というカテゴリーである。日本には存在していたそれはもはやまったく役に立たなかったからその移入は日本の植民地化につながりかねない死活問題だった。つまり「建築」は最初から「戦争」と縁があった(皮肉なことに、その導入はスノビズム状態である鎖国の終焉を意味したわけだ)。このニュアンスは間もなく薄れて全然違うかたちで伊東忠太に拾われるが、その後もこの二つは深い因縁をもつ。何しろ技術革新の最大の促進者は戦争だからこれは無理からぬことだ。そして一方、コジェーブ的なヴィジョンのあてはめられる概念、つまりポストモダンはまた建築というジャンルにとくに浅からぬ関係をもっている。本当は現代詩からつかいはじめられたことばらしいが、何といっても人口に膾炙したのは建築からである。戦争と建築とポストモダンと、それがどう関連し合うのか?

このタイムリーな主題を扱う著者は気鋭のという形容ももはやいらない歴史家・批評家である。ざっと目次を眺めても第二次大戦から9.11までの戦争と建築の関係がとりあげられている。(偶々)コジェーブの次に本書を読んだ私としては出来過ぎの巡り会わせだ。歴史的論考としてはこれ以上ないテーマである。が、alas!というかおやおやというか、読み進んでいくとどうもそうではないのだ。私の早とちりなのか、歴史家が書いた戦争と建築の本だという意識で読んでしまうと、どうも違和感がある。著者がどう考えたか知らないが(それを考えていなかったとすればちょっと問題かな?)、マグリット流に「これは歴史の本ではない」とでもいおうか(意味深なことに、著者は渡部直己の「これは〈戦争〉ではない」という一文に言及しているが)? 確かに歴史的なエピソードにはこと欠かない。この著者のことだからさすがに目配せもいいし、興味深い資料も使っているから情報をえようというには役立つ。議論の方だって、コジェーブに対抗するかのように石原莞爾の最終戦争論まで抜かりなく(?)言及されている。読んで損な本ではない。

しかし、コンテクストがあまり見えない。たとえば岸田日出刀を中心とする建築の曲線/直線という問題はどう戦争につながるのだろうか? じつをいえばこのテクストはもともと私と著者の共同編集のようなかたちで出た『10+1』に掲載されたもので(「戦争」特集ではない。「言説としての日本近代建築」という特集)、その前後に関連する情報を交換していた。それもあって議論としては首肯しうる、というか共通する所は多い。でも、それを戦争というテーマにつなげるにはまだ距離がある(と私には感じられる)。私が一番関心のあるのはこの隔たりに生起する諸問題であり、個々の事象をコンテクストにはめこむ(歴史家の)手つきなのだが、それは、ここでは見事に回避されている、という印象がある。もちろん、それはこちらの勝手な期待からの印象に過ぎないのだが。しかし、ほかの章でも、読者は(私も)防空そのほかの戦争関連建築情報の数々に、へえそんなもの(こと)もあったのかと思うだろうが、その先に踏み込む回路、つまり「歴史」はやっぱり見えない。通史でないからということではない。どんなに個別事象を扱っても歴史的な記述の仕方というものはある。これが書き下ろしではなく機会に応じて書かれた独立したテクストのアンソロジーだからということでもない──もちろん、それはテクストにある種の限界を与えているには違いないだろうが。大体、あとがきによると、この「戦争と建築」とは文を集めてから便宜的につけられたタイトルではなく、少なくともその途中で立てられた企画であるという。奥付によると半分くらいのテクストはその企画のあとに書かれている。ならば、成立の事情はこの違和感を説明しない。

違和感とは何なのか。これは私が感じたものだから、説明の責任は著者にではなく私の方にある。しかし、そのためには、この問題に正面から当たるのではなく、もうちょっと迂回してみよう。本書には、「フラット派」(あるいは「ユニット派」)なる若い建築家たちをめぐって著者よりはやや年上の評者と交わされた論争が収められている。行きがかり上、もう一方の言い分も読んだ★1。因みに両方とも著者自ら送ってくれた本である。こういう取り上げ方はやや礼を欠くようにも思われるがご寛恕願いたい。それから読者には読みにくいのを承知の上で固有名詞は出さないようにする。別に気遣ってというのでなく、「スーパーフラット」風に気取ってみただけでシリアスな他意などあるわけもないのだが(名前のリストは文末に出ている参照文献を見ていただければ概ね分かる)。

著者は、本書で(というか雑誌発表時に)、同世代である「フラット派」に対してこの評者から発せられた批判に答えている(弁護を買って出ている?)わけだが、じつのところ、それが行なわれた当時、私は目の端には引っ掛けてはいたものの、何とか派という名称を見ただけでそれがどういう人たちのことを指すのかすら知ることなく、敬遠していた。業界内のレッテルには(というよりいまや業界そのものに)とんと興味を惹かれないからだ。「フラット」のもとになった「スーパーフラット」なる概念も基本的に同様である。でも、こうして本になって読んでみると、そこには二人の世代の差が浮き出ている。批評で世代論を持ち出すのは下の下というくらいは承知しているが、そう説明するより効率的な位置づけは見つからないのでお許し願いたい。それはご両人よりずっと年長である私が本書に感じた違和感にもつながると思えるからだ。

しかし、この論争それ自体に踏み入るつもりはない。もう前の論争だし、別に年上面して今更判定役を買って出るお節介をしたいわけではない。大体、時評的なコメントはここのところずっと避けてきたものだし、「フラット派」に関する意見を(少なくとも正面切って)書きたいとも思わない。私が問うてみたいのは、何故この論争が本書に収められているのかである。つまり(いきなりだが)、コジェーブ/ヘーゲル的な位置づけからするとポストモダンは戦争を論じる立場をもたないのではないかと問うてみたいのだ。馬鹿なことをいいなさんなという反論がありそうである。ナポレオン戦争が(いわんや関ヶ原が)最終戦争だなんてのは論外としても、2度の世界大戦のあとだって、いや9.11以後のいまだって世界中に戦争は満ち満ちている(自衛隊のイラク派遣も決まったみたいだし)、現に「反フラット論に抗して」でも戦後の廃墟から9.11までの話は出ているし、最後の部分は9.11の標的だったWTC再建コンペのレビューではないか、と。

ややこしいことに、「スーパーフラット」を論じる人々は「戦争」というテーマがお好きらしい。その流行のもとになったあるアーティストは(それ以降のことだが)やはり9.11のことを述べたり「戦争と芸術」なる「芸術徹底討論会」を開いたし(2001年10月20日 於東京都現代美術館)、そこにも出席したこれまた気鋭の美術批評家も戦争画まで遡りながら、それが日本の現代美術の状況(というかそのサブカルチャー/この人たちの認識ではいまや肥大して──www的に?──社会全体を覆いつくし「サブ」ではないのかもしれないが)のルーツであるというようなことをいっているらしい(らしいというのは、これはウェッブでやったつまみ喰いだからである。無責任な引用でしかないのはこれもご寛恕を願う)★2、3。上記の「フラット派」論争では最初に仕掛けた論者の方がこの構造及び、それと現場の創作の同調ぶりに苛立ったところからはじまっている。彼のなかにはそんな能天気いっている場合かという危機感がある。それに答えるべく、著者は冷戦以降のスーパーフラット状況についての認識を論じているから、論争が『戦争と建築』に収められたってなるほどおかしくはない。しかし、それは最初の方の章に取り上げられている前大戦下の話と──戦争という点は別にすれば──どうつながるのだろうか? その間で「建築ゼロ年」(1999年に水戸芸術館で行なわれた現代美術の「日本ゼロ年」展にあたる)というリセット行為があったのかどうか?

さて、コジェーブで切り出したが、コジェーブと「スーパーフラット」は無縁ではない。後者の理論的代弁者ということになっているらしい気鋭の哲学者が2年ほど前に「オタクから見た日本社会」というサブタイトルをもつ『動物化するポストモダン』なる本を出している(現代日本を代表する気鋭の論者が揃い踏みのように出てくるので、いささかたじろぐのだが)★4。この「動物化」はもちろんコジェーブのキー概念である(当時のコジェーブは当の「動物」の末裔が自らの「動物化」について書くようになるとは夢にも思わなかったろうが)。この哲学者はまたいまや世界はデータベース型になりつつある、といっている。彼によると、昔は作品の後に「大きな物語」があってそれ(コンテクストだ)を読み込むことが批評だったが、いまはそれがなくなっている。だからといって、このデータベースという背景を見ていけば批評は可能だろうというわけだ。いうまでもなく「大きな物語」は、失われた「モダン」のバックボーンを指すべく、リオタールのポストモダン論において挙げられたものである。いい変えれば「歴史」(ここ数十年の「歴史」観ではそれを「物語」として見ること──一種の構築主義のヴァリエーション──がひとつの流れだが)そのものである、かくて──コジェーブの予兆したように──「歴史」は失われたというわけだ。この説の可否については問うつもりもない。ただし、私が何故現代の時評に触手が動かなくなったのかについては分かりやすい説明(そんなのが要るのかは知らないが)を提供してくれてはいる。なるほど。

肝心の本書に戻ろう。こう考えてくると、私にとって本書が歴史書に見えなかった理由が少しは分かってくる。つまり歴史的言説に伴うはずのパースペクティブがここには見えないのだ。すべてが並列的につながれ、「戦争」というキーワードのなかに融解されている。それは意図的な排除、なのだろうか? フラットなものなわけだから、それは当然、なのかもしれない。データベースに奥行き感を求めても意味がないというのもその通りだろう──データベースというには本書はちょっぴりエピソード的すぎるといわざるをえないし、そう思ったら、たとえばフラーやイームズに言及するならそもそも(格納庫を設計した)ワックスマンはどうなのとかいう類の突っ込みが色々とできそうなものだが。もちろんデータベースはデータベース型の、つまり非歴史型の論じ方があるだろうといわれれば原則的にはその通りとも思うし、これがそうだといわれれば恐れ入るしかないのだが、とはいえ、「戦争と建築」で本気でデータベースをつくったら、それは凄まじい──殆どユートピア的な──ものとなるだろうことは請け合いだし、私は正直そっちの方が見てみたい。

先に筆者のことを歴史家・批評家と書いたが、私がいいたいのは、この二つのステータスのうちでもし後者がポストモダンの状況に鋭敏な伴走者たらんとするなら、前者とは両立し難いところがあるのではないかということらしい。この辺の所はどう意識されているのかを著者には問うてみたい所だ。歴史は、それ自体(ヘーゲルその人に体現されるように)近代のプロジェクトである。だからスーパーフラットなポストモダンはポストヒストリーなのだ。これを抽象論にすぎないと評するのは思想の重さを値踏み損なっている。少なくとも「近代」のそれの重みは。別に「歴史以後」の現在、歴史家は止めたで一向に構わない。著者はすでに上に挙げた諸々の「気鋭」の著者たちの仲間入りを果たしている。寿ぐべきことかもしれない(皮肉に聞こえたらご免。悪意はないんだけど)。ただ、相変らず「歴史の物語」に興味をもっている私としては、もともとすぐれた歴史家である筆者がそうでない方向に行くとしたらそれを惜しむ気持ちは止められない(これはレトリックではない)。

この書評を書きながら、もうひとつの本を読んだ。上の『動物化するポストモダン』の著者が「親子ほどに年が離れた」(表紙の返しの形容)作家/批評家と行なったウェッブ上の往復書簡である★5。この作家/批評家は私と同じ年である(いやだね、「親子ほどに年が離れた」、か)。この往復は所定の回数はこなしたものの行き違いから事実上破綻して終わっている。この判定をする気も私にはないが、その破綻の理由は、やはり──下の下であるはずの──世代の違いにあって、議論自体はすれ違いが多いからじつはこの部分だけが面白いというような本になっている。年少の批評家の方は彼が過ごしてきた80年代、90年代を細かく区別しようとしているが(また説明好きが......)、年長の作家/批評家はそれを前の時代の変形的な反復と捉えている。ポストヒストリーであるはずの前者の方がより微細な差異にこだわっているのは面白いが、もちろん、この差異づけはすでに歴史ではない。フラットななかでの擬似的な起伏に過ぎない。そこにこだわろうとしているのは各々彼らが生きてきた体験が重ねられているからである(動物的な差異?)。このギャップは80年代、90年代が物心ついてのすべてである世代とその後半分でしかない世代の違いだ(この割合の違いが年長者にとっての時間の経過を早く感じさせるのだという説がある。本当だろうか?)。

フラットな方の哲学者(兼オタク批評家?)が9.11以降を語りたがっている、つまり律儀に伝統的な知識人の役割を果たしたがっているのも面白いが、そういえば、先日これも別のある高名な、私より更に年長で『10+1』誌にも深い関わりがあった批評家とお話していた際に、この方は最近の建築家は何故9.11の話をあんなにも語りたがるのだろうといっておられた。その時に私はあまりそうした認識をもっていなかった(要は知らなかった)ので適切な反応ができなかったのだが、そのあとで二人の名前が出ていたからどうも上記の「フラット派」論争のことが念頭にあってのことだったらしい。さてどうなのだろう? その時われわれは歴史のことを話していた記憶がある。戦後の左翼史観が如何にわれわれの認識をスポイルしたかというようなことである。この件でわれわれは一致した(その認識の一端が『10+1』の次号の私の連載で出ている)。この関連で上記の本書へのコメントが戦争なのだから深刻に書けという意味だと誤解されたくないので付記しておくと、上記のオタク批評家の上の世代でやはりデリダをやって論壇に出てきた人々がやたら重い戦争の記憶論を振り回す構図には私はうんざりしている。脱構築も何もあったものではない。戦争(及びその関連事象)について、われわれはクリフォード・ギアーツ流にいえば(正確にはこの文化人類学者がギルバート・ライルから借りた)「厚い記述」、つまり多次元的=奥行きのある(フラットではない)解釈を行なう必要があるだろうと私は思っているので、単線的に強度のみを上げるのは苦手なわけだが。もちろん、国民国家間の戦争といまのそれの大部分がそうであるような別の要素(国家の内部にある、もしくはそれを横断する、「主」でもなければ「奴」でもない、民族や宗教などの)の介在するコンフリクト(テロリズム)とでも記述は違ってくるはずだ、少なくとも歴史的な言説としては。である以上、私などには簡単に9.11について、もしくはTWCコンペのデザインについての言明を行なうことは難しい。現代にはかつての大戦に比べて様式(表象)で理念を表現することが格段に困難であるからだ(サイードの『オリエンタリズム』のはじまりは自己表象能力における不均等の指摘であったことを想起されたい)。私には「フラットネス」に意味があるとしたら、この不可能性のうちにしか見当たらない。表現は如何に黙示録的なものであろうと、また能天気なものであろうとも、すべて商品化しうる状況にポストヒストリカルな資本主義(ネグリ/ハートの『〈帝国〉』)は達しているからだ。それは表象をも歴史をもフラットにする(これについてはそのうちに書いてみたい)。

上記の二人の論客の往復書簡で私が感じたのは、私の世代には(一般化はすべきでないかもしれないが)現在に対する違和感が強くあって、その補償を過去に求めるという傾向に導いているということなのかもしれないということだった。それがこの作家/批評家の場合は60-70年代にかけての彼の実存であり、私の場合はもっと前の歴史への着目だったようにも思える。ルサンチマンだね、はっきりいってしまえば。これは本来歴史家ではない私に、本来歴史家である──しかし補償を求める屈折などとは無縁の──著者のこの仕事に違和感をもたせたものなのかもしれない。それとも歴史家だというのは私の勝手な思い込みにすぎないのだろうか(でも本書の裏表紙には「建築史・建築批評家」とされている)? 批評家が歴史的な題材を扱って悪い理屈はもとよりない。私も最初はその積りだった。ただ、徐々に現在に対してコメントをする気が失せていっただけだ。そうなると歴史家でない私には居場所はないことになるが、この書評はそういう意味では精一杯の状況論になるのかもしれない。

ところで、最後に「戦争」や「歴史」とは離れて、「批評家」五十嵐太郎氏にひとことだけ。建築は同時代的なものである。「ユニット派」論争での位置づけがどうであれ、作家たちは建て続けるだろう。それはかつての(あるいはいまでも)「建築家なしの建築」の主体の行為とは違って、無言のままの無償の行為などではない──たとえ限りなく作家的でなくなることを望むと公言しようとも(だって彼らはジャーナリズムに受けることは結構嫌いじゃないのではないか?)。それはそれで良い。しかし、少なくとも、日本では建築批評は「作品」としては残らない。フラットな状況での議論はその圏域を出ることはない。つまり瞬時の鮮度だけが問題とされる「商品」なのだ。お前のはどうだと切り返されるのを覚悟で言えば(つまりその空しさを知った者としてということだが)、この本が十年先にも──少なくとも全体としては──読まれるとは思えない。これは個々のテクストの出来映えの問題ではない。ポストモダンの批評家はこの条件を引き受けなければならないのだが、余計なお節介であることは百も承知でいえば、あたら才能が便利な解説=伴走者としての振舞いに費やされるとしたら残念というほかはない。

如何にも融通のきかないモダニスト的な繰り言になってしまった。妄言多謝。

★1──飯島洋一『現代建築・テロ以前/以後』(青土社、2002)。
★2──村上隆編著『スーパーフラット』(マドラ出版、2000)。
★3──椹木野衣『日本・現代・美術』(新潮社、1998)。
★4──東浩紀『動物化するポストモダン』(講談社現代新書、2001)。
★5──東浩紀+笠井潔『動物化する世界の中で』(集英社新書、2003)。

[やつか はじめ・建築家]


200312

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
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