柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?

八束はじめ
柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』
柄谷行人『定本 柄谷行人集〈4〉ネーションと美学』
2004年5月発行
岩波書店
定価:本体2,600円+税
ISBN:4000264893
267頁

柄谷行人氏のアンソロジーの(五巻本の)一巻で、6つの独立の論文が収録されている。これを取りあげたのは、柄谷氏が建築畑でも少なからぬ読者がいるからではあるが、私の現在進行中の本(ほぼ終了しているが)にも関わりがあるからでもある(だからその関係の論考に焦点を当てて全部のテクストは扱わない)。それは、もともと柄谷氏の『日本近代文学の起源』(講談社、1980、この定本では第一巻がその増補改訂版である)のような、あるいは北沢憲昭氏の『眼の神殿』(美術出版社、1989)のような論考を建築でもしてみようという、じつに安直なはじまり方をした作業である。その後思いもよらぬ展開をしてしまったが、初心という意味では私は柄谷氏には「学恩」がある。とはいえ、じつを申せば私は氏の新刊が出れば漏れなく眼を通すような熱心な読者というわけではない。本書に収録されたものでも「美術館としての歴史──岡倉天心とフェノロサ」と「美学の効用──『オリエンタリズム』以後」の二篇以外は初読である。この二篇も英語で読んだ(おそらく初出は英語ではないか?)。前者はその後日本語でもざっと読み直したが、後者は日本語でははじめてである。そんなわけで熱心なファンからすれば不十分な言及しかできないことははなからお詫びしておく。

私の読んだ二篇は狭義の意味での「美学」を扱ったものだが、全篇としてはそうではない。このことは冒頭の表題論文で明らかにされている。ここでいう「美学」は、カントのいう感情(理性および悟性とは区別される)の問題を扱うものである。それは、従来低く見られていた感情(情念)が理性や悟性と互角以上の評価を受けるようになった啓蒙期の産物であり、もともと美に関する学(芸術論)はその一部でしかないと柄谷氏は説く。つまり広義の意味での美学を設定するのだ。厳密には「美」自体が啓蒙期的に自立していくのであって(そこで「美」は「趣味」から弁別される)、それをさらに大きな枠組みに繰り入れたというのではないように私には思われるのだが、それは話題を限定しようというものでない以上さして重要な指摘ではない。肝心なのは、この情念が、ネーションという国家にもエスニシティにも限定しえない新しい共同体の基底をなすことである。これは国家やネーションを商品交換(狭義の経済としての)とは違うタイプの交換に基づいて理解しようとする柄谷氏の定式化につながる。これは序説の冒頭で議論されているが、狭義の経済を下部構造として理解する伝統的なマルクス主義の理解──それは商品交換の経済が肥大化した状況においてようやく成り立つ理解だと氏はいう──へのオルタナティブであり、いうなれば「一般経済学批判」として本書は構想されている。感情や精神や文化もあくまで交換(経済)として理解しようというのである。ネーションという共同体は、その互酬的な交換システムの上に成立する。「美学」はそのための学だというわけだ。その端的な現われが民族的なエートス(このことばは本書では用いられてはいないが)である「道徳」(こちらはアダム・スミス以来のものとしてフォローされている)であるとすれば、本書は「道徳の系譜学」でもある。それは生産共同体(アソシエーション)──本書では中心的な命題として論じられているわけではないが、明白なテマティックな伏流として存在している──の問題などにもつながっている。フランス革命の「自由、平等、友愛」の三つ目の標語もそこに関わる。柄谷氏はこれをスミスが共感あるいは同類感情と読んだものと同じだとして、それを「想像力」でもあるといっている(ほかのところでは何度も名前が言及されているハンナ・アーレントのコンパッションの概念がここで言及されていないのは不思議なくらいだが)。この系譜学は国家による産業の発展と社会問題の解決を図るサン・シモン主義的なアソシエーショニズムにもつながり、サン・シモン主義者であった(と柄谷氏はいっている。それを纂奪したともいえるだろうが)ルイ・ナポレオンのポナパルティズム、つまり超階級的なナショナリズムへともつながる。

上述のように、私のこのところの探求は柄谷的な枠組にヒントを与えられたものではあるが、つねにそこに立ち戻っていたわけではない。私の論考の直接の対象は当然柄谷氏のものとは違う。しかし、出発点が共通している限りにおいて、その経路がいろいろとクロスするのは当然で、私にとっての本書を読むこと(久々に氏の仕事にあたること)の面白さはそのような部分にある。例えば『10+1』本誌の「グローバリズム」の連載の後に「リージョナリズム」について書こうとしているのだが、それは近代では上記のルイ・ナポレオンの下に発している。彼の庇護のもとでフランス革命が推進した中央主権による弊害を回復すべく地方の地理的、社会的、経済的、そして文化的アイデンティティ(アソシエーション)を探究する「レジョナリスム」を展開したピエール・フレデリック・ルプレェの存在などを、1930年代にサンジカリズムと結びながら地中海共同体スケールでの地域主義を主張したル・コルビュジエと結び付けられないかというのがそこでの私の仮説的な関心であり、この間には社会学、言語学、地理学、民俗学、民族学などさまざまな規範が介在する。私の作業はそれらをまとめて(拡張された)美学といってみることでもあったかもしれない。

上に美学と道徳の関係について述べたが、それはイコールではない。カントは道徳と感情を分けた。道徳感情が想像力の問題であるということは、実体ではないということで、柄谷氏はこれを実体化することを「美学化」と呼んでいる。シェリングやヘーゲルなどロマン派の哲学者たちは思弁(知ること)を存在論の枠組みとすることで哲学を美学化したというわけだ。その手前で踏み止まったカントはネーションや国家とは異なった想像の共同体を構想しえたが、ヘーゲルらは国民国家を実体として主体化してしまった。ロマン主義期はドイツというネーションが国家主体である可能性をナポレオンによって奪われた時代であり、それを補償するために多くの美学的な装置が発案された。ヘルダー、フィヒテ、グリム兄弟そのほかの(一国)言語学的な探求がその例であり、それは民族を感性的な面からバックアップするものとして想定される。しかし、彼らはそれを理性と統合することで美学化をしてしまう。「たとえば、言語(文学)を通して、山や川がナショナルな風景として美学化されるのである」。

自己宣伝になって恐縮だが、私の仕事の冒頭は日本の最初の公式美術史である『稿本日本帝国美術略史』の序文(九鬼隆一)と志賀重昂の『日本風景論』の比較から始まる。それは風景や美術をともに「日本」という国民国家の枠組みの中で語る言説だった。この考察は本書の「美術館としての歴史──岡倉天心とフェノロサ」をも念頭において書かれた(九鬼は岡倉とフェノロサのパトロンであり、「稿本」の序は岡倉からの敷衍であった可能性は否定できない)からこれは必ずしも偶然の一致ではない。「山や川がナショナルな風景と」されること(志賀は端的に富士山をその中心に据えた)、物理的実体(および、ここでは触れられていないがそれに付帯する讃仰などの感情)を他の(認識的な)カテゴリーに置き換える操作であり、それを美学化と呼ぶことは確かに適切な形容である。しかし、ここには罠はある。美学は──それを狭義の意味で考える時には──二重の意味での罠となりがちなのだ。

美的判断が主観的であることは誰にでも分かっていることだが、にも関わらず、「美しいもの」を実体化しないでおくことは困難である。「美術館としての歴史」は前述したように私の作業と重なる。これはグッゲンハイムでの「戦後日本の前衛美術」展のカタログのために書かれたものだと記憶するが、ここで柄谷氏は明治の西洋化、つまり西洋的な概念(あるいは方法)による諸学問・芸術の再組織化の例外としての美術の制度に言及する。岡倉が中心になった東京美術学校(現東京藝大)の発足に見られるように、美術だけは伝統的な実践が中心となったからだ。しかしこれはアメリカ人フェノロサ(岡倉の師)によってもたらされたという特異な事情をもつ。この間の事情は前述の北沢氏あるいは佐藤道信氏(『〈日本美術〉誕生──近代日本の〈ことば〉と戦略」、講談社選書メチエ、1996)をはじめとする美術史の専門家たちの仕事が多く存在している。それらに比べると、このテクストには必ずしも首肯しえない細部がかなり目立つ。例えば美術で伝統的な規範が近代制度に受け入れられたのは、日本の美術工芸がフェノロサに先立って西欧で受け入れられていた(いわゆるジャポニズムの問題。これについても馬淵明子『ジャポニスム──幻想の日本』[ブリュッケ、1997]がある)からだというのだが、それは条件の半分をあてているにすぎない。ジャポニズムの対象になったのは、フェノロサや岡倉の賞揚したハイアートとしての「日本画」ではなく、フェノロサが軽視していた浮世絵や工芸のようなローアートだった。ここでは日本(東洋)対西欧という二項対立が、議論の運びの都合(とくに西欧の読者に向けて書かれたということも含めて)もあって強調されすぎる。このことだけとれば修正を加えれば良いだけの細部だが、問題は、それが「日本」の美学化──それこそフェノロサ-岡倉-九鬼の意図したものではあったのだが──につながるのではないかというところにある。

柄谷氏は東京美術学校において岡倉を追放してとって代わった西欧派(岡倉を失脚させたのは西欧派ではないし、それにはまた別の理由があるがここでは敷衍しない)が、日本においては先端的・反伝統的でも西欧においては模倣に過ぎず、かえってフェノロサ/岡倉ら伝統派のほうが先端的と見えたし、今日でも何らかのかたちで伝統に回帰したアーティストのほうが西欧での評価が高いという構図には変わりがないと述べているが、西欧の評価をそのまま正当な評価とする後段の「美学化」=「実体化」という勇み足はさておいても(そこに存在していた、あるいは今なお存在しているに違いないエキゾティシズム、つまり「オリエンタリズム」の問題が等閑視されているところは納得がいかないが)、前段に関しては歴史的段階をスキップないし一般化しすぎている。当時の西欧(とくにヨーロッパ)では、西欧派であろうが伝統(日本)派であろうが日本の「近代美術」はさほど評価されていなかったのだ。この点での岡倉の矜持(大観らの朦朧体の評価を含めて)を柄谷氏は少々まともにとりすぎているように思えるし、引いては同時期の小山正太郎や高橋由一ら西欧派の問題を過小評価している。これは美術史上の評価だけのことであれば、別に専門家ではない柄谷氏を咎める理由はない(その手の小姑的な書評にしたくないと思いながらこれを書いている)。しかし、美術と産業のみならずほかの諸々の「術」の再編成の描く複雑多岐な系譜学がここで美学の正統性の問題に局限されているように見えるとすれば、本書の意図自体を裏切っているということにならないだろうか?

この論の後半、つまりやはりフェノロサ-岡倉に由来する「美術館」はいかにも柄谷好みのテーマ、つまり交通の場であり、それ故にこそこのテクストが執筆されたようにも思える。とりわけ岡倉が日本を東洋の博物館と定義する時(私はそれを世界の公園というもうひとつのテマティックと結んだ)、それは本書全体のテーマであるナショナリズムと結んだ文化の政治の問題へと発展する。「重要なのは狭義の美術館ではない。私は、先に近代の〈世界史〉そのものが美術館という装置にほかならないとのべた。岡倉が明瞭に自覚していたのはそのことである」(ちなみに九鬼が彼らと創設した博物館はもともと役所の部局の名称である。施設はそれから転じたもの)。岡倉の「アジア」のONENESS(ひとつであること)はかくして西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」と結ぶ──すべてを融通無碍に包含するもの。それはファシズム、つまり政治の美学化(ベンヤミン)に抵触する。この構図に(限っていえば)異議はない。よくあるような、岡倉の意図が戦中に「利用」されたという類の議論に陥っていないことは当然としても、首肯しうる。しかし、「美術館」を丸山真男のいう日本の思想の伝統的な特質(確固たる座標軸の不在のために新しいものをただそのまま移入する)と結ぶのはどうだろうか? 岡倉の意図したものはむしろ座標軸の設定であり、日本美術史とはそのような作為以外のものではなかったはずだ。それは従来の「日本」とも「美術」とも「史」とも断絶した企図である。というより従来は「日本」も「美術」も「史」もほとんど存在していなかったのだ。柄谷氏がいうように「日本」とは何か実体的なものでないことは確かだが、岡倉の「日本美術史」とはそれを実体化、要するに美学化するための座標軸そのものだったのではないか? 丸山のいうような特質にそれが果たせるとは思えない。それは外来の思想を映し出す鏡に過ぎない(がゆえに実体化もしない)が、岡倉の日本美術史は、日本古来のものを定着する外来の枠組みであり、構図は反転している、と私には思われる。

「美学の効用」は『10+1』本誌(No.32)の連載の第2回、タイトルも「ナショナリズムとその美学化」と題した私のテクストにヒントを与えた文章である(私の読んだ英語版のタイトルは"Use of Disinterestedness"だった。ここでいう「美学化」は、古き美しき日本という類のパラダイムを指しているから、分かりやすい。サイードのいう「オリエンタリズム」のヴァリエーションである。我々のように文化や芸術を扱っていると大なり小なりこの手の反応には必ず行き当たる。だが、この問題は核心ではない。柄谷氏は、その淵源を道徳的判断と趣味判断を優劣とは別に峻別したカントに求める、つまり非西欧が「外部」を知的道徳の優劣とは別に美学的に賞賛するということが可能になるというわけだ。判断はこの分離(柄谷氏のことばでは括弧入れ)、このDisinterestednessの上に築かれるが、貨幣経済においても使用価値が括弧に入れられ、利益interestとは別のものとされる。 「かくして、『芸術』は、それがそのように見なされたときから、商品化と裏腹に結びついている」。普通には醜悪さを連想させる便器がデュシャンによって美術館に置かれることはその判断を括弧に入れよというインペラティフなのだというわけだ。ちなみにフィラデルフィアでそれを見た私の印象は便器の形は改めて見ると結構美しいというものだったが、美的反応の多くがある種の括弧入れ、つまりそれがほかならぬ美術作品であるという括弧入れによってはじめて成立することは誰でも認めるだろう。しかし、この括弧入れの政治学は結構際どい。柄谷氏も引いているジャポニズムやアフリカの美術などは美学化(美学のみによって対象の属性を判断する)の端的な例ではあろうが、しかし、普通の西欧批判の類型に乗らない場合もある。例えばウィーンのジャポニズムではそれが「精神」を欠き、「神経」のみで成り立っているという理由で評価された(ヘルマン・バール)のだが、これは通例のオリエンタリズムのように西欧の「精神」の優越を確保した上で東洋の美学のみがクローズアップされたケースではない。バールは「精神」を否定するためにジャポニズムの生活への密着を讃えたのだ。「美学化」には違いないが、その政治学は柄谷氏の総論よりも少し込み入っている(しかし一方、デュシャンの《泉》ではそのような政治学は発動しないことも考慮されるべき問題である)。問題は上記の「裏腹」の内情である。前章同様ここでも行なわれている岡倉の日本美術論とその商品価値の議論はどう裏腹だったのか、そこのところが素通りされているのはいささか物足らない(これは美術史ではないのだからといえばそうなのだが、岡倉と西欧派の議論では美学化の際に括弧に入れられるはずの「生活」の問題が問われていたのだし......)。

とはいえ、岡倉による東洋の理想の顕揚が産業資本主義(西洋の理想?)へのオルタナティブとして発動される時、それは産業資本主義の覇権の確立の上にこそようやく成り立っているという指摘は首肯できる。この章の最後では岡倉がその東洋の民衆芸術を評価する時、それを「生きている民衆を括弧に入れていた」のみならず、それをはずすことをしなかったことが問題であるとして、柳宗悦による朝鮮民衆への肩入れが比較される。しかし、これは相対的な違いでしかないのではないか? 彼はどのようにして美的評価を下したのかといえば、近代の日本人として行なったのであって(それ以外のやり方があったはずもないが)、その観点から行なわれた柳の朝鮮美術評価(「悲哀の美」)は停滞とつながるものとして一般に朝鮮の人々からは評判がよろしくない。柳も後にはより日常的なものを尊ぶ方向に転じたわけだが、そのどちらが望ましい受け取り方かということが問題なわけではない。そこに微妙な「括弧入れ」と「括弧外し」があり、現地の人々はそれに引っかかった、つまり彼らが見てほしいように柳が見なかったことが気に入らなかったわけだ。これは二重三重の「オリエンタリズム」である。それを美学化の咎とするのか、その不徹底とするのか? 美学化の問題は指摘だけでは充分ではない、それが現実の政治のなかで発動するがゆえに、つねに問題は個々の事例に回帰するように思われるのだが......。

本書にはほかにフロイトとカントを論じた「死とナショナリズム」とソシュールと時枝誠記を論じた「ネーション=ステートと言語学」、最後にエピローグ風につけられた「文字の地政学──日本精神分析」が掲載されている。誌面(というのはないのだが。書く方のエネルギー)の問題と、この覧の読者層の傾向、およびもちろん筆者である私の能力を考えてそちらに言及することは行なわない(ソシュールと時枝などは色々といってみたことはあるし、エピローグで素描されているラカンとコジェーブの日本観も本書で何度か引かれる丸山真男のテーゼと重ねる時、例の「スーパーフラット」の問題にも通じるが、きりがない)。議論は全部触れたら済むというものではないからだ。各論は無限に分岐していく。だから記述はつねに部分的にしか可能ではない。「神は細部に宿る」。学恩にも関わらず、そして本書にも学ぶべきテーゼは多いにも関わらず、その点では私には展開されるべきと考えられる問題は多い。しかしそれはこの間にしてきたことを含めて、むしろ私自身の問題で筆者に注文すべき事柄ではないだろう。柄谷氏の本来の領域であるはずの近代文学に関しても、当の文学研究者には必ずしも評判が芳しくない──例えば亀井秀雄氏(『感性の変革』、講談社、1983)における手厳しい批判──ことは知っている。しかし(亀井氏の批判は批判として)、そこから受け取るべき問題があってそれを自分が展開できるものであれば、私にはそれで充分であり、感謝すべきものだと思われる。むしろやるべき仕事が残されていることは喜ばしいとこそいうべきだろう。

[やつか はじめ・建築家]


200407

連載 BOOK REVIEW|八束はじめ

「空間」論への助走としての「時間」論「空間」を(とりわけ社会の中で)考えようとする者たちへグローバリズム論の最も広い地平を柄谷行人「一般経済学批判」──もしくは「神は細部に宿る」として見るべきか?住宅論の風景家族論──それは住宅という建築の形式か内容か?建築と文学をめぐる鉄人同士の知的蕩尽「芥川賞」の受賞作を論じてその現代的意味を吟味し、我が造家界の行く末を繰り言風に臨む「ショッピング・ガイド」へのガイド「メタジオグラフィ」、あるいは「超空間誌」のほうへ「〈ポスト〉マン」は何度ベルを鳴らすのか?──歴史と批評の間に広がる「スーパーフラット」な断層についてシュマルゾーと立原道造──現象学的空間論の系譜に遅ればせながら「21世紀の『共産党宣言』」を論ずる書評最もル・コルビュジエを愛した建築家による美しいエッセイあまりにポストモダンな?日本建築の現場への文化人類学的アプローチ歴史の迷路・迷路の歴史個々の木は良く見えるが、1930年代という森が見えない!内田隆三さんの大著に関して思ういくつかのことども藤森さんの記念碑的大著に最大限の敬意を
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る