アートの現場から
Dialogue:美術館建築研究[3]

Dialogue[1][2][4]
   中村政人
 +
 青木淳

 
都市をカスタマイズする
「秋葉原TV」「QSC+mV」
▲中村政人氏
▼青木淳氏
 

青木淳──以前から中村さんの作品自体への興味もありましたけど、それだけでなくて、中村さんに作品とそれを成立させている場──場というのは、広い意味で制度という意味でも、都市というような現実的なものも含めてのことですけれど──について、どのように考えていらっしゃるのか、一度お聞きしてみたいなと思っていました。実際、中村さんは、『美術と教育』というインタヴューをお続けになっていて、それは美術を美術と捉えることの場への関心から発している活動だと思います。中村さんは、「秋葉原TV」のように、街にちょっと手を加えることで街全体を変えたり、これが作品ですと美術館に展示するのとはまた別の活動をされていますね。街のなかに出かけていって、なにかを行なう場所を探し、そこでなにかをやってみる。そういう場合と、最初からなにかがされることを前提につくられている美術館とでは、場の意味がずいぶん違うと思うのですが、その両方の場で作品をつくっている。その2つが両立している。どうして、両立できるのかな。
中村政人──おっしゃるように、僕は1999年、2000年に「秋葉原TV」という展覧会を2年続けて行ないました。これは、ハード・ウェアにはまったく手をつけずにヴィデオ映像だけをインストールして街の風景を変えようというもので、秋葉原の街のモニターをジャックしたわけです。テープをもっていってヴィデオ・デッキに入れるだけという、とてもアナログなものですけれども(笑)。これは、店の人の協力がないとできませんのでそのための説得が一番苦労するところですが、現在3回目も予定しています。一方、美術館の展覧会や、国際展などにも参加しています。両立というと勉強とスポーツのどちらかしかできないように感じるのですが、基本的には美術の内側から派生することと、外側から派生することを両側から同じ問題意識で行なっているにすぎません。場を規定しているものは、主観で変化することと変化できないどうしようもないものがあります。通常その場を規定している対象は実感しにくく作品や展覧会を制作していくプロセスの中で体感していく場合がほとんどです。
青木──一方、マクドナルドのmサインを使ったシリーズ(「QSC+mV」)を美術館のなかで展開されている。どちらも許可が必要なものですね。
中村──許可を取らなくてはならない社会だということです。異なる社会環境では必ずしも必要とは思いません。マクドナルドの作品は今後も展示のたびに許可をとり続けていきます。しかし、こちらからの希望が全て通るわけではありません。
青木──「秋葉原TV」の場合は、あの店はOKでしたよと言って次の店に行くわけ?
中村──秋葉原電気街振興会がOKしてくれたので多くの店に協力してもらえました。秋葉原電気街振興会は秋葉原の約400店舗の社長さん達で運営されています。展覧会としてはまずそこから交渉が始まりました。参加店舗が決定した後、各店舗の店長、フロア長に企画内容を説明し続けたあと実際にテープをデッキに入れる店員さんと話ができるのです。参加店舗数の3〜4倍の店員さん達と「秋葉原TV」の話をしたことになります。しかし、実際は商売と結びつくことではないのでなかなかスムーズにスタートボタンを押してはくれませんでした。ボランティアの若い女性スタッフが再生してくれるよう何度もお願いしやっと流してくれるという状況でした。そのようなプロセスから秋葉原という街が初めて感じられてくるのです。ショッピングしているだけでは感じられない要素を発見することができるのです。同じように美術館や画廊、美大のあり方、またその環境がどのように社会に位置しているのか?一つひとつのあり方をじっくり考えていくというのは大事なことだと思うんです。僕はそれをやっているつもりなんです。たとえばマクドナルドの「m」を置くときにもなぜ美術の枠の中に置かなければならないのか、どうすれば置けるか、置いたらなぜ美術だと思うのかというところのせめぎあいをずっとしているんです。一歩枠を越えて中に置くたびに、場の問題がいっぱい関わってきます。壁を一つひとつ乗り越えていかないとできない。乗り越えることによって初めて感じる部分があって、ではなぜこの壁があるのか?ということにります。
青木──たとえばマックの場合、具体的に言うと、どういう壁があるのですか?
中村──まずはマクドナルド社に、このプロジェクトやアートに対して理解を示してもらうことです。その理解がもっとも大きな壁です。同時に、美術館に設置するので、展覧会として美術館側の内部をも説得しなければなりません。両方を説得していきながらお金の問題や、構造的な問題、作品として成立させた後の問題――この作品は展覧会が終わった後にはどうなるのか。僕が死んだらその作品はどうなるのか――といった、長いスパンでのことも考えます。購入者がいたら購入者との関係はどうなるのか、そういう一つひとつの壁を改めて考えなくてはならないのです。


 
ヴェネツィア・ビエンナーレの
「m」
中村 政人
「QSC+mV」
1998年
SCAI THE BATHHOUSEでの展示風景
撮影:木奥 恵三
協賛:日本マクドナルド(株)  
協力:東亜レジン(株)、
   
広島市現代美術館、
   キリンビール(株)
Masato Nakamura
courtesy of Shiraishi Contemporary Art Inc.
 

青木──マクドナルドを観たときの最初の印象は、きれいなものがそこにあるっていう感じがすごくしたんです。もちろん、そう感じるのは美意識のある制度の中にぼくがいるからですね。中村さんが「場との関係」と言うときには、物理的な空間だけではなく、そういう目に見えない制度も含まれている。街を見ても、画廊を見ても、目に見えることだけでなくて、それを成り立たせているものとの関係まで含まれている。
中村──それを含む街や社会がどういうことなのかということなんですね。アートでなければ成立しえない構造や美しさに興味があるんです。たとえば、建築家が建築として「m」を建物の一部に取り入れたいと言って成立しますか(笑)。
青木──うーん、できるでしょうね。でも、ぼくが思う建築というのは、たとえばマクドナルドの存在との距離を「表現する」ことではなくて、その距離をそのまま存在に変えていくことなので、あまりに意味作用が強すぎ「m」は、ちょっと使えない(笑)。
中村──ひとつの記号を超えたという意味で、街もしくは都市の中でのマクドナルドの存在を含むアートっていうキーワードを、僕らがどのように感じることができるのかというのは日本だけの問題ではなくて、各国でやればやるほど痛感するんです。今年ヴェネツィア・ビエンナーレ(http://194.185.28.38/、2001年6月10日−11月4日)に参加するのですが、コミッショナーが提案した日本館のテーマは「Fast&Slow」なんです。そこで僕は、いままで以上に大きな「m」を展示しようと考えいます。日本館の天井ぎりぎりの4メートル40センチのものを五つつくりました。これは大反発を食うと思っていたんですけど、イタリアのマクドナルドは、アメリカのマクドナルドの直営だったので交渉はすんなりいきました。あとは民間の人の反応がどうなのかなと思います。イタリアでは店舗に糞を投げられたり、ガラスが割られたりしているんです。マクドナルドはアメリカの資本主義の象徴としてやり玉にあがるわけですね。これは世界的なことかもしれませんが、一番反発が激しいと言われているので、どういう反応があるのかと思っています。


 

インスタレーション・スタッフとのチームワーク

 

青木──主催者側との関係はどう?すんなりと受け入れられている?
中村──そうですね。でも、場所は日本館ですからね。制作の現場の話をすると、展覧会というのはアーティストだけではつくれません。キュレーターとプロデューサーと施工業者というようにプロフェッショナルな人たちが集まってはじめてシビアないい展覧会ができると思います。美術館の仕組みもまったく同じです。僕自身そんなに数多く展覧会をやっているわけではないのですが、98年にカナダのパワー・プラント(http://www.thepowerplant.org/)という美術館でやった展覧会はいままでのなかで一番よかったんです。この美術館は水力発電所をリフォームしたもので、天井が12−13メートルくらいあって中央の水が通る壁を残してうまく再利用しているんです。
僕が一番驚いたのは、施工をするインスタレーション・スタッフのための部屋がすごく大きいことでした。たぶん美術館の4分の1くらいの面積を取っていると思います。日本であればふつうはそういう部屋は置かないですよね。海外ではインスタレーション・スタッフというのはポストが高いんですね。インスタレーションするプロの人たちが、美術館のなかで非常に重要なポイントになっていて、かつ作家に対して「お前、どんなプランでもいいから好きにやってみろ」って言うんです。いかなる不可能なことでも形にしてやるっていう気持ちがある。「僕の作品は大きいのでコンテナに入らないですよ」って言ったら「いいよもってこい」って、結局大陸をトラックで横断することになった(笑)。けっこうそういうところがかっこいいじゃないですか。
たとえば、ドナルド・ジャッドが「床を全部はがして」って言ったらコンクリートを全部はがすんですって。また埋めればいいじゃないって。そういう発想なんです。はがすことに価値がある。修復するなんて簡単なことじゃないですか。美術館の場としてつねに内在している、創造のためならなんでもやってやるぞっていうチーム・ワークがあることに驚きました。
こういうことは、全県に最低ひとつは美術館があるにもかかわらず、日本にはないですね。一館くらいあっても良さそうなものなのに。ものすごい数の美術館があって、毎日施工してるわけでしょう。それを施工業者や外部に発注するのではなくて、プロフェッショナルを自分たちの館で雇い、館の構造を完全に把握してもらう。年間の経費の何パーセントかをまわすだけでできると思うんですね。どこの壁は弱いとか、あそこのペンキははげかかっているということまで把握している人間がいないと、僕らみたいな作家からするとやりづらい。


 

●「反芸術」の遺したもの

 

中村――それで思い出すのは、かつて、横浜市民ギャラリーで「今日の作家展」という企画に参加したことがあります。僕が参加したのは第29回の「視えない現実 InvisibleRealities」(1993)で、キュレーションが逢坂恵理子さんだったんです。
横浜市民ギャラリーは当時、壁が汚いことで有名だったんです。それで「壁を白く塗ってください」と美術館にお願いしたんです。でも「だめだ」って言うんですよ。「なんでだめなんですか?」と聞いたら「塗ったことがないんです。だからだめなんです」って言われて、とても憤慨した。釘を打つことさえ許されない。なぜならば壁が弱いんで梁がなかなか見つからないんです。ある作家は梁を探す機械をもってきて釘を打ってましたね(笑)。信じられないですよ。そこで三日前に赴任してきたばかりという館長と食事をする機会があったんです。赴任されたばかりで館内の事情に明るくない。壁のことやなんかでみんないらいらしてた。そこでいっしょに参加していた椿昇さんが、食べ終わったところで館長に「僕、食事終わったんで、これで食べてくださいよ」ってミートソースかなにかで汚い状態の皿をわたしたんです。なかば冗談ではあったんでしょうけど「いま、横浜市民ギャラリーっていうのはこういうことなんですよ。人が食べ残した汚い皿の中で僕らはご飯を食べなければならないんですよ」って言ったんです。一週間後には何十年ぶりかに全館真っ白です(笑)。そういうのって楽しいじゃないですか。
青木──あはっ(笑)。日本の美術館っていうのは、まだ昔の陳列のための、そしてそれを権威づけるための聖なる美術館という概念から逃れられていませんものね。それが無意識だから、余計にそこから派生してきたしきたりが残ってしまっている。
中村──いつからそうなったのか調べてみたんです。「読売アンデパンダン」のころに赤瀬川源平さんたちが、館内で火や水を使い、臭いを出しっていうことをやってるんですよ。それがだめになったのはその後なんです。火は使っちゃいけない、水は使っちゃだめだ、臭いは出すな、壁に変なものは塗るなって(笑)。全部だめだめだめなんです。それは学園紛争後に道路交通法が厳しくなってくるのと似ていて、はがして投擲できるようなブロックから、はがせないアスファルトに歩道も変わっていく。何か制度ができる前には必ず原因があるんですよ。
青木──そうなの? もっと古い制度の名残かと思っていた。もっと新しいハネカエリに対しての反動だったわけね。
中村──もちろんその反動の前にはまた別の制度があったわけですけれどもね。そう思うと美術館を取り巻く現在の堅い状態も次の反動の前兆かもしれないとも思えるんです。


 

●壁と可動パーテーション

 

青木──壁は、もうどこでも、釘は打てるようになるだろうし、壁を塗ることもできるというようになってくるでしょうね。でも可動パーティションはまだまだ残りそうですね。先ほどのお話のように、設営ということの重要性はまだまだ認知されていないし。可動パーティションは、パーティションとパーティションあるいは本設の壁との間に、たとえ1mmだとしても、隙間がでるでしょう、動かすために。それがすごく目障りですね。これは、つまり、そこにかけられる作品だけを見てください、という考え方の上にだけ成立する空間。作品は、それがなんらかの場に置かれていることで作品になる、という意識はない。ぼくたちも、可動パーティションだけは絶対にやめたいと思うのだけど、そんなところでは展示しないって、展示する側も言ってくれないかしら(笑)。壁を新しくつくってペンキを塗って展示が終わって、その壁を壊して元の状態にするということは、金額的には大したことではない。少なくとも、最初にちゃんとした可動パーティションをつくるお金があれば、何回ともなく壁をつくったり壊したりすることができる。
中村──つらいですね。可動パーティションで空間構成がまず限定されますよね。学芸員の人たちもあのレールのある位置でしか発想しないんですよ。
青木──フレキシブルにしようと思って考えられた仕掛けが、逆にフレキシブルを奪っている(笑)。僕は、むかし磯崎アトリエにいたときに、《水戸芸術館》を担当しましたけど、あそこは可動パーティションがありませんでした。欲しいという話さえなかった。だから、これがあたりまえのことだと思っていたんですけど、実はそうではなくて、その後も、あいかわらずどこも可動パーティションだらけですね。
中村──水戸がそういう意味では最初ですけど、まだまだ作品から壁を守っている感じがします。壁のための美術館ではないのです。


 

●職業としての学芸員

 

青木──そのためには、美術とはどういうものかという考えがはっきりと意識される必要があるでしょうね。美術はそれ自身で美術なのか、それともそれをとりまく場を含めて美術なのか。どこで展示されるかを考慮に入れないで描かれた絵画であっても、どういう場にそれが置かれるかで、その見え方はぜんぜん違ってくる。だとすれば、少なくとも美術を体験する人にとっては、美術はそれをとりまく場と無縁ではいられない。そういう考えに立てば、ある展示ごとにきめ細かく展示計画をしていく必要があるという考えが出てくるのが当然でしょう? さらに進めば、それはそういうふうに重要なことなんだから、展示設営のセクションが美術館の基幹機能に必要不可欠という話になる。専門の人も専門の工房も必要になってくる。いま生きている作家の展覧会をするなら、作家と一緒に場をつくっていくことが必要であって、そういうことをしていく場所が美術館なんだという考えになっていく。
中村──日本では、なぜ美術館というものができてきたのかという制度的な疑問はまずもたないですよね。なんの検証もなく、ぼんぼんとできてしまっていると思うんですよ。学芸員制度もそうであって、美大の中で学芸員になろう、美術館で働こうとしている人たちのカリキュラムがあまりにもチープなんですよ。僕でももってるくらいで、自動車免許をとりに教習所に通うより簡単ですよ。要するに花嫁修業の一環ぐらいにしかなってないんですよ。ですからその勉強をしてもプロフェッショナルと言えるのかと。まずそこだって疑問ですよね。学芸員の人が日本の場合どういう状況かっていうと何でも屋なんですよ。会計もやらなければならないし作家との交渉もしなければならないし、作品の管理もやらなければならないし、広報もやらなければならない。スーパーマンを目指しているとしか思えないですよね。そんなことは不可能じゃないですか。
青木──何をする職種かはっきりしない。同じ学芸員と言われる人でも、何をもって学芸員かという考えが人それぞれ違っている。
中村──ですから、美術館で働く人の職種でさえある必然性があって生まれてきているのではなくて、単に最初に学芸員という枠を決めただけなんですよ。そこが問題ですよ。だから、書物を読んで研究しているっていうくらいで、学芸員として美術館にいる人ってすごく多いんですよ。
青木──日本の場合、もともとは学芸員っていうのは研究者という位置づけから始まっているんじゃないの?
中村──ちゃんと研究しているならばいいんです。そうではなくて、展覧会も見に行かないし毎日学芸員の部屋にいてただ座っている人がすごく多いんですよ。
青木──学芸員に展覧会を見に行くことを仕事と見做さない美術館もあったりするんですよね(笑)。
中村──特に公の美術館には多い。お客さんが来るのにスリッパとかはいていて、がっかりしちゃいますよ、そういうのは。単にサラリーマンのおやじなんですよ。美術というものに接している職業なんだって自覚がないですよ。作家を選ぶことで何か特別な判断力をもっていると誤解しているスノビッシュなキュレーターが多いのも問題です。
青木──少なくとも、学芸員が、展示の内容について、どのくらい面白い企画を立てて、それがどこまで膨らませられて、どのくらい現実化できたかで評価されるようになるといいのですけれどね。でも、いずれにしても、いま言われたようなことが美術館の現実であるわけですね。作家は、そういう環境の中でつくらなければいけないわけでしょ。その環境の中でなんとか折り合いをつけて、そのなかで作品を膨らませるわけでしょう。


 

●美術館の構造/学芸員の部屋

中村政人
「ショウケース、航空障害灯、イエロー」
1994年 
福岡市美術館、第4回アジア美術展での展示風景
ショウケース、航空障害灯、スピーカーなど
100x300x2000 cm
(インスタレーションサイズ)
協賛:中川ケミカル(株)、小糸工業(株)旭硝子(株)
撮影:藤本 健八
Masato Nakamura

 

中村──以前に一度そういうアプローチをした作品があります。福岡市美術館で94年に行なわれた「第4回アジア美術展 時代を見つめる眼」です。日本の美術館であれば焼き物や掛け軸を展示するようなショーケースって必ずあるんですよ。必ずあるっていうところがおもしろいと思ったんです。横に長いショーケースがあって当然搬入口があります。通常は搬入口には誰も行きません。その搬入口の3メートルくらいの扉を取り払ってガラスをつけたんですね。そうすると20メートルの奥行きの長い部屋ができるんです。そこには二重の構造が裏側から見えます。焼き物や掛け軸を置くガラスの空間とその前に立つ白い壁です。その白い壁の向こう側つまり展示室にはアジアの作家の油絵が掛かっています。その20メートルの部屋には高層ビルの屋上で赤く点滅してる航空障害灯というのを借りてきて設置しました。結構大きいレンズの固まりのようなものです。航空障害灯をあえて置いたのは、都市の中での美術館の存在を感じてほしいと思ったんです。美術館の構造を別の視点から見せようと思った作品です。また、美術館側からは制作経費がまったく支払われなかったので、全てのマテリアルを借りたり物品協賛などで行ないました。
97年に上野の森美術館で行なわれた「眠れる森の美術展」では、さらに発展させて、学芸員の──いまは水戸芸に栄転してしまったんですが──窪田さんの部屋をつくりました。部屋の窓が上野公園に面していてちょうど歩く人たちの目の高さぐらいにある。公園ですから通行人が中を見られるわけです。部屋の中に置いてある全てのものは僕の予算の中から窪田さんに買い与えました。学芸員という立場で、美術館という制度の中で仕事をするのに必要なものを買ってくださいと言いました。イタリア製の椅子だとかマッキントッシュだとか、マーガレット・ハウエルのジャケットだとか、ヘア・デザイナーまでつけたんですね。それを本人自ら──ご自分で企画した展覧会で──やってみてくださいということになったんですね。「スキーマの生成」つまり、何がどういうふうに自分の体験が知識として形成されていくか?学芸員とはいかなる要素にアフォードされているのか?身をもって体験してほしかったんです。これも美術館という制度の中でのアプローチです。マクドナルドのようなアプローチもあれば、こういった制度的なものに対するアプローチの仕事もしているんですよ。こっちのほうはあんまり言われてないんです。ただ光ってると単純に思う人が多くて……。
この延長線上に『美術と教育』というプロジェクトがあります。人に会って、もっとちゃんと話を聞かなければだめだと思ったんです。作品を成立させる前に「なんでこうなの」って疑問をもつと、それを解決するのに2年も3年もかかっちゃったりするんです。いますごく気になるのは、美術界のいろいろな人についてなんです。この人たちは何でこんなに力があるのかとか、何でこんなにいっぱい仕事ができるのかということです。たとえば画廊で言えば、銀座の南画廊があって、むかし清水さんというオーナーがいて瀧口修三さんだとか東野芳明さんなんかとジャスパー・ジョーンズの展覧会をやったりして非常に中心的な活動をしたんですね。そこから、東京画廊の人が出たりとか佐谷さんが出たりとか南天子画廊の人が出たりとかして、いまはさらにその子供たちが画廊をつくってきているわけですよ。ここの流れをちゃんと考えてあげないと、いまいる人たちが何でこうなのかはわからないじゃないですか。そういうことを調べようと思っています。日本の美術界マップをきちっとインタヴューしてつくろうと考えています。
青木──現実の画廊とか美術館がどういう構図のなかにあるかということね。
中村──もう僕らの世代が最後で、もっと下の世代になるともうぜんぜんわからないんですよ。彼らはまったく銀座にどんな画廊があるのか知らない。たぶん僕らはそれにあこがれをもっていた世代なんです。いまの若い人はたぶんあこがれなんてもってないんですよね。そこをちゃんとおさえておかないとわからなくなっちゃうんで、調べたいと思ってるんです。


 

「スキマ・プロジェクト」

 

青木──ところで中村さんが行なっている「スキマプロジェクト」は、必ずしも物理的な意味での隙間ではないですね。
中村──違います。いろいろな人がスキマについて言っています。最初の教育の話にも関係してくるんですけど、自分で何かを始めようとしたときにはすでに目の前にやった人の、他者の存在があるじゃないですか。それは物理的な空間でも同じで、建物がすでにある。もう絶対的に最初にまず何かがあるわけですよね。となると、何もない状態だったらいいんですけど、何か最初にある状態から初めからつくるのはとても難しいんですよ。ですから、結局やれることと言ったらすでにあるものとすでにあるものの関係──スキマ──だったり。物理的には建物と建物の非常にタイトな隙間だったりする。制度と制度のスキマというのもあるし、美術制度のスキマを考えているようなアプローチもある。70年代に磯崎さん達が企画した「間」展とは異なるリアリティです。
青木──あるいは、もともとある仕組みのうえで、でもぜんぜん違うことができるかもしれない。ひとつの建物は、それが建つ文脈との関係を持たざるをえません。その文脈は、ぼくには選ぶことができない。実際に、敷地の外にあるものは、基本的にはいじってはいけないし、斜線制限などの法律にも従わなくてはならないし、そこにある建物をつくるという意図もぼくのコントロールの外にある文脈です。ぼくは、そういう文脈がないということがいいとも思わないし、どんなものをつくるにしても、既にそこにあった文脈がないということはない。そういうところで、その文脈をそのままにしながら、なにかをつくることで、その文脈のあり方を変えてしまうことができたらいいな、と思うわけ。で、それが高じて、自分のコントロール下にあるものも、それと連続した同じような質をもたせられたらいいな、と。実際には難しくて、ずっと手探り状態なんですけれど。
中村──スキマっていうのはなかなか形になりにくいんですよね。
青木──そうですね。スキマというのは比喩ですから。言葉が一人歩きしてしまってはね。たとえば、スキマといわれると、やっぱり建物と建物のスキマみたいな空間をイメージしてしまうではないですか。でも、たとえば、美術館という捉え方、画廊という世界、いろいろなネットワーク……というような眼に見えないものは、必ずしも独立事象ではないわけで、そうなるとパシッと切れていたり、それらの間に空白があったりするのではなく、オーヴァー・ラップしていることもあるわけでしょう。そういうものもスキマと言えば言えるけれど、それはもうスキマという言葉がイメージさせるものからはだいぶ離れてしまう。そういうものも、スキマ学会はスキマと呼んでいるの?
中村──スキマ学会としてはまだ答えが出ていないし曖昧なんで研究課題として位置づけていきたいんです。スキマのことを考えること自体が果てしないことであって、決まり切ったことではない。目的が見えていることでもないし、こうだと言い切るものでもないんですよ。それぞれの考え方が集まってきてしまうというほうがおもしろい。また、こう考えなければいけないっていうものでもないんです。それこそスキマ的なものにはなっていくとは思うんですけど(笑)。
青木──なるほどね。スキマっていうのはふつうに見ているときには見落としているものというぐらいの意味なんだ。
中村──そうですかね……?。どうにも答えにくい。ただし、東京のタイトなビルのスキマや、満員電車の人と人のスキマに象徴されるようなスキマのリアリティから創造を組み立てていかなくてはならないということは共感をもてるのです。
青木──路地のような物理的な都市の隙間以外のスキマって、たとえばどんなものがあるのだろう?
中村──プランで言うと川の水を浄化するっていう人がひとりいました。汚い川を毎日汲んできてそれをずっとひとつの器に入れてどんどん水を蒸発させていく。川の中で水と不純物のスキマ──っていうのかな? その人はそう言ってるんですけど──をあぶり出していく作業をずっと半年くらいやってるって言ってますね。
このあいだBゼミで都市の隙間を考えるゼミをやったんです。ある女子学生の提案で、雨が降ったときに建物と建物の隙間に雨水が溜まって地面に落ちて行くけれど、そのラインを伝って水が上から下に行く間に、隙間のすべてを水を浄化する装置にしようというのがありました。。雨が降るたびに雨水が絶えずきれいになっていくわけで、実現したらおもしろいなと思いました。こういう現実的な傾向の人もいれば、一方で建物の間に布を敷いて上から絵の具を投げつけるパフォーマンスをしたいっていう、わけのわからない発想をする人もいました。そこの空間を使って何かをしようと思ったときに通常のギャラリーよりももっとわくわくする要素があるんです。そこですよね。今度新しくできた銀座の資生堂に打ち合わせで行って裏口から入っていったんです。華やかな銀座のしかも新しい建物の裏側は、建物なんかよりもぜんぜんおもしろかった。
青木──わかる、わかる。裏側って結果としてできてしまうものですものね。つまり隙間をつくるという言い方は矛盾していて、隙間は最低でもAとBがないと生まれない。AはBを気にしてないし、BはAを気にしない。そのAとBの間が隙間って呼ばれる。先に隙間を生みにいっていないというところが、おもしろい。この場所をつくろうっていう意図が生まれたとたんにつまらなくなる。
中村──隙間をどう再利用するのかを考えればAの違う考え方が見えてくるかもしれないし、Bの違う考え方が見えてくるかもしれない。そこがおもしろい。何もないところだからこそ、そこを形成している両者が見えやすくなる。これはアートの成立の仕方に非常に近いんですね。コップをぽんと置いてなぜこれがアートなのかを考えたときのコップと周りの空間の関係ということにも近い。


 

●作品の展示室をどう作るか

 

青木──ええ、そうですね。ちょっと強引かもしれないけれど、美術館の展示室をどうつくるかという問題は、そういう意味での隙間性の問題とちょっと重なっているように思います。美術館をつくるとき、ぼくたちは展示室をつくらなければいけないわけです。そう頼まれますから。で、どういう展示室をつくればいいのか。もちろん、そこはいろいろな視点が関与している空間です。作家というそこでなにかをつくる視点があります。そのつくることに応えて、一緒につくっていく学芸員の視点があります。そこを管理する事務方の視点があります。作品に訪れる人の視点があります。でも、ぼくは、そのなかで、もっとも本質的なのは、そこでつくる人の視点だと思うんです。つまり、展示室は基本的には作家のためにつくるものだと思うわけ。そのためには、少々学芸員が大変になっても、事務方の作業が増えても、見に来る人が見にくくなっても──もっとも、それを見にくくするのも見やすくするのも作家が判断した上で、そうつくることができるわけですが──構わないと思うんです。では、作家のためにつくるというのは、どういうことなのか。作家がそこで行なうことを予測して、それにあわせてつくるということなのか。でも、それだと、作家がそこでやることは既に想定されているということになり、作家の想像力が既に枠内にあるということになってしまうのではないか。仮にぼくが作家としてそこで何かをしろと言われたら、展示のことをなにも考えられていないで、何か違う理屈でただそれを徹底的に推し進めた空間の方がやりやすいな、と思うんです。つまり隙間性を持った空間ということですね。もちろん、どんな予測をしても、作家はその予測を越えることができる、と言えばそれまでなんですけれど。
青森県の美術館をいま設計しています。この美術館は、すぐ隣に三内丸山縄文遺跡があって、それがすごく大切な場所になっている。というより、それが大切だからこそその隣に美術館をつくろう、という順番です。そこでぼくたちは、この遺跡の発掘現場の質をそこまで延長させて、それを美術館として使うというアイディアを提案しました。発掘現場のように地面を縦横に切って、土の上向きに凸凹の場所をつくる。その上から、下向きに凸凹の構造体を被せる。構造体のなかにあるのが「ホワイトキューブの展示室」、上下の凸凹の隙間が「土の展示室」、この2種類の展示室が交互に現れるという構成です。「土の展示室」では、壁も土なら床も土。で、どうしますって、作家に差し出しているわけですね(笑)。


 
初期条件としての「土」
 

中村──その上に壁をつくってもいいんですか? 
青木──うん、そういうことになりますね。何かをしてはいけないとは、ぼくたちには言えません。でも、そこにある土を削ってできた空間というのは、ぼくたちの恣意でそうなっているのではなくて、ちょうど自然の岩山なり鍾乳洞なり、たまたまそこに存在してしまっている空間として捉えられるものになって欲しいと思っています。つまり所与として感じられる空間という意味。こんな展示がでてくるだろうから、こういう空間をつくろうというふうにつくられたな、というのではなく、ただたまたまそこにあった、という感じの空間になったらいいと思う。そういう空間には、ぼくなら、その空間の持っている質を白紙に戻して、まったく別の空間をつくってしまうということはしませんね。その質を利用するという方向で考える。でも、それを作家に対して、誰かが強制するというのはまずいことではないかと思う。もし万一、パックになった巡回展で、ほかの館でやった展示方法を踏襲するために、そこに壁を立てるということがあれば、そのときはすごく悲しいでしょうね。どうしてその場所を利用した展示方法を考えないんだと思う。それは感性の貧しさに対する悲しみですけれど(笑)。でも、基本的には、土でできているというのは、この展示室の初期状態みたいなものですね。
中村──とすると、土というのは守らなくていい壁や床なんですね? 初期状態ということは前の人がつくった壁を次の人が壊してもいい?
青木──うん。それはそうでしょうね。ただ、難しいのは、ある作家が土のある部分をたとえば白く塗ったとします。そうすると、その白く塗られた状態を次の展示の初期条件と考えることができるのかということです。もっとも、この美術館には、その場所が持っている場所性ではなく独自の空間が欲しいという場合に対応できる「ホワイトキューブの展示室」もあるので、土でできた空間ということと無縁のことをやる場合には、そちらを使ってもらったらいいと思います。
中村──コレクションもするんですか?
青木──工藤哲巳さんや、奈良美智さんなど、ありますね。工藤さんの展示は、「ホワイトキューブの展示室」の方がいいでしょうね。でも、奈良さんだったら、土の場所もうまく使いこなせるかな。でも、いずれにせよ、こういう展示室のつくりかたは、ぼくはとてもいいはずだと思うのですけれど、その良さをうまく引きだしてもらえるかどうかは、できあがった後、運営にあたられる人々次第ですね。
中村──キャラクターがある美術館なのでそこで何を見せるか、どういう展覧会をやるかというときに、美術館の建物がもっている特徴が十分に発揮できればいいのですが、そうはなっていない。たとえば個展だったらいいのかもしれないけれど、年間に何本も展覧会をやるときに、現代美術の次に印象派の展覧会をやったりするというように、美術館の個性がない、展示のポリシーがない美術館がほとんどです。
青木──しかも、まだ評価の定まっていない作家の個展は、議会に説明がつかないという理由で、ほとんとできない。それでは、学芸員が育つこともなければ、作家も育たない。美術館も育たない。


 
好きな美術館、作りたい美術館
▲中村政人
「ショウケース、ナショナルのペンダントライト、イエロー」
1995年 
世田谷美術館、第4回アジア美術展
展示風景
ショウケース、ペンダントライトなど
1250x300x280 cm
(インスタレーションサイズ)
協賛:松下電工(株)
撮影:大谷 一郎
Masato Nakamura

▼中村 政人
「Sleeping Beauty(学芸員、窪田研二のために)」
1997年
上野の森美術館、眠れる森の美術展
展示風景
166x1097x356 cm
(インスタレーションサイズ)
撮影:中村政人
Masato Nakamura

協力:白石コンテンポラリーアート

 

中村──貸し美術館的な要素が多すぎますね。それが重要な問題だと思います。僕が好きな美術館は、イタリアのミラノの上のほうにあるパンザ・コレクションという美術館ですが、パンザ伯爵のコレクションで私設の美術館です。おもしろいシステムを採用していて、60年代後半から行なわれているのですが、作家をよんで2カ月ぐらい滞在させて全部面倒を見て、作品を買い取るんです。ジェームズ・タレルの初期の部屋などもあって、建物の中をリフォームして作っている。作家自身の考え方が永遠にそこに設置されるので、作品としてはパーフェクトです。こういうやりかたがあると思います。つまり建物を作るとき、作家ときちんとコラボレーションをして、その作家の考え方と建築家の考え方が一緒になってベストのかたちで作られ、作品が設置されていくことが僕らにとっては理想的です。そうすると作品のあり方を考える時間は長くなり、すでにある作品を巡回させるというのとは違った発想になります。
青木──美術館を作る場合、まずカーペンターと学芸の部屋を作っておいて、展示室は後から作家と一緒に作る。
中村──実際そういう美術館は海外にできてきているし、作家自身もそいういうことに命をかけている人もいる。ジャッドもそうだし、マイケル・ハウザーは最近町を作っているそうです。
青木──中村さんはもし頼まれたら、どういう美術館を作りますか?
中村──もしやるとしたらですが、街の特色を生かしたいのでその特色のなかで考えますね。「コマンドN」というアプローチはそれに近い。すでにある美術館という考え方ではなくて、街の中にはいろいろな機能をもった建物、たとえば交番、コンビニ などがありますが、現在だと街の中の美術館という機能はしっくりこない。だれも行かないし、場所も遠い。そうではなくて、街の便利なところにあり、たとえば人と人が出会ってコミュニケーションをすることがアートの価値だという作家が喫茶店をや ったりするように、街の中であるファンクションを与えていけるような器という美術館のあり方です。
青木──いま既にあるファンクションに、別のファンクションを重ね合わせていく。
中村──そうなると、秋葉原の「コマンドN」でやろうとしていることはもっとおもしろくなる。あまり大きな建物を作ろうという気持ちはなくて、建築家たちが話し合う場面でアーティストの役割の必要性をかち取ることが大事だと思っています。たとえばミーティングにアーティストが必要にならなくてはいけない。そういう活動をしているアーティストはあまりいません。実際アーティストの考え方なんてたいしたことはなくてちょっとくせがあるだけです。アーティストというと奇異な考え方をすると思われがちですが、アーティストほど自分の経験や考え方をしゃべれる人はいないと思う。だからそのちょっとしたくせを使ってほしい。「コマンドN」に関して言えば、プロジェクト単位、スペースの運営自体もプロジェクト単位で、ずーっと存在する必要はないと思います。学校も同じで永遠にある必要はない。たとえば先生と生徒と予算があって2カ月で終わり、そのために場所があるという学校があってもいいと思う。アートプロジェクトも同じで、アーティストがいて、学芸員がいて、予算があって、スタッフとして生徒がいる。そこでキュレーションを勉強したければキュレーションの人につく、作家志望の人は作家につくというように、プロジェクトのなかで構造を作りながらやって、それで展覧会を終えて解散というのがいいですね。そういう機能をもった空間、施設……。
青木──そのための空間があるのではなくてそういうことができる余地がある。
中村──本当は美術館はそういう自由度をどこかにもっていなくてはいけないのだけれど、建物も、作品も、そこで生まれる価値も永遠に存在しなくてはいけないということが前提になっている。それは疲れるんです。それを前提にしたらすべてが重くなってしまう。そうではなくて、瞬間がおもしろい、瞬間がおいしい、そいういう価値を作るためだけに場所の機能はあっていいと思います。
青木──そうね。美術館というのは、物理的空間を指して言うことではなく、ある活動の仕組みのことですね。ある活動をしていくためには本拠地はいるだろう。どんなことをどんなふうにやろうか、ミーティングしたり試したりする場所がほしい。そういう順番で考えなくてはいけない。展示室を展示室としてつくることが悪いとは思わないけれど、そういう順番で考えると、美術館のなかで展示室は最後に出てくる空間なんではないかな。なぜなら、これからやることをどこでやるか、その自由度は高い方がいいと思うんです。今度はあの高速道路の下の空間でやろう、次はあの倉庫でやろう、とか。そういう自由度があった方がいい。でも、少しは自分のところでいつでも使える場所がないとつらいわけで、それで自前の展示室をつくる。そういうふうに考えていけば、やはり美術館の展示室は妥協の産物なのかもしれない。ところが、いまの美術館は、逆にまず展示室があることが前提になっているわけで、だから、こういう考え方から生まれてくる展示室は、いま言った展示室とはまるで違う質をもっているはずですね。そこで、もう一度、最初の質問に戻るのだけれど、中村さんは、街のなかで場所から探す活動と美術館の展示室での活動と、その両方を横断しているわけですけれど、でもやっぱり、美術館の展示室というのは、だとしたらすごくやりにくいのではない?
中村──僕に関して言えば、今は検証し、体験している段階で、その後で美術館はこうあるべきだと言えるように思う。しかし少ない経験のなかでもおもしろかったことと、そうではなかったことはありましたが、おもしろくなかったことのほうが多かった。日本の美術館はやりにくい。
青木──どういうふうに?
中村──建築家の意志が強すぎる。展示室が作品より主張しすぎている。東京現代美術館もよくなかった。僕がやったのは吹き抜けのところですが、あの石のところは触っても、もちろん傷つけてもいけないんです。
青木──あそこでうまくいった試しはない(笑)。
中村──「m」が最初で最後(笑)。あれだけ大きな空間を作るときに、どうして触ってもいけないようなことができてしまうのかわからない。重さも平米1トンくらいしか耐えられなくて。あのくらいの大きさの空間だったら、もっと耐えられるべきだと思う。最初のプランは本物の家を建てようと思ったんですが、重さも耐えられないし、石を傷つけてもいけなくて固定の方法がなかった。
青木──うん、実に不思議。悪意さえ感じる。あそこは展示室なのだろうか。ならば、なぜ他の部屋同様に白い壁にしなかったのか。たぶん展示室としてつくられたのではないのでしょうね。でももったいない。あんなに大きな空間なのに。
中村──今、ロンドンのテイトギャラリーは街が変わってしまうくらい入館者が集まってるらしいですね。テイトの改装費用は東京都現代美術館に比べてはるかに小さいのに成功している。
青木──でも、人が一杯入って、収入をあげて、それでなにかをやるというのがいいのかどうか。
中村──美術館のひとつのあり方だとは思います。現在は美術館運営に対しして予算が黙っていても出るという状況ではないわけですから、美術館は自立しなくてはいけない。その資金を作るために、人の集まるわかりやすい展覧会をという発想も出てくる。しかし、そうするとどんどん作品の質が一般化して、わかりやすい作家に集中し、その結果僕らみたいな作家は追いやられていく(笑)。ですから、美術館とて自立して稼ぐ方法を考えることも重要だけれど、そのなかでアイディアを出していく力が問われているとも思います。低予算でおもしろいことができる力がある人に大きな美術館で予算を与えて、そのくらいの規模でやってくれるチャンスを用意してほしい。
そういう意味でも、今日の青木さんの言われた美術館と制度の問題というのは非常に本質的な問いだと思います。
[2001年4月17日東京にて]