アートの現場から[2]
Dialogue:美術館建築研究[4]

Dialogue[1][2][3]
 
 奈良美智
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 青木淳

 
原っぱ的空間/遊園地的空間
福生の奈良美智氏アトリエにて
左=青木淳氏
右=奈良美智氏
 

青木淳──今日は奈良さんに、作品と展示される空間の関係――もちろんつくる空間も含めて――についてお話を伺えたらなと思っています。作品そのものについてお聞きするのではないと言うのは、作家の方には失礼な企画ですけれど、『美術手帖』(2001年12月号)で「奈良美智★読本」が出たばかりで、奈良さんにとっても、何度も同じことを聞かれるのもつらいかな、とも思いますし(笑)。
奈良美智──それはつらいですね(笑)。
青木──それならよかったです(笑)。もっとも、空間と作品の関係と言っても、抽象的なことよりも、現場のというか、日常の生の声をお聞きできれば、と思っています。作家の方がつくりながら、どんなことを日常的に感じたり、考えたりしているのか、ぼくの日常がどんな建築空間がいいか考えてそれを実現していくことだからかもしれませんけれど、興味があるのです。よろしくお願いします。
先日、建築雑誌に書いた文章(「原っぱ」と「遊園地」/『新建築』12月号)で、ちょうど横浜美術館の奈良さんの展覧会のことに触れたんです。牛込の廃校になった小学校の「セゾンアートプログラム・アートイング東京2001――生きられた空間・時間・身体」という展覧会と比較してなんですが。あのセゾンアートプログラムは、学校を美術館として使うと、往々にして学園祭みたいになってしまうんだけども、そうならずにうまくいっていたでしょう。ご覧になられました?
奈良──入ったところにお茶飲むところがあったりしましたね。僕自身、あれはすごい良いものとそうでもないものとの作品自体の評価が別れましたが。
青木──どの作品がよかったですか?
奈良──好みでしょうけど、「小瀬村真美 」の真っ暗な部屋で花が咲いては枯れてゆくビデオと「藤城凡子」の黒板にお尻が突き出ていて、ちっちゃな人形が鏡の所にあった作品。あの鏡は前からあそこにあったんですか?
青木──そうでしょうね。
奈良──「藤城凡子」の作品は心理的にも空間をよく利用していると思いました。美術展を見に来る人たちは、小学校を経験しているわけだから、意識しようがしまいが校舎に入った時には必然的に小学校時代を思い出してしまうでしょう。その辺が効果的ですごく良かった。
青木──花の朽ちていくビデオ作品は、部屋を真っ暗にしていて、そこにあった空間とあまり呼応していないように思えたんだけど、そうでもない?
奈良──あれも利用しているように思いました。あの映像は時間というものが大きなポイントになっているんじゃないかな。校舎内に入ってきて身体が学校体験を思い出す。暗室では部屋のディテールは見えないし広さも分からないけれども、小学校の中へ入っていく時から作品への序章が始まっているような……。
青木──なるほど。小学校に入ると、ふうっと、ずっと昔の時間に戻っちゃうところがありますものね。大人から子供へ、コマ落としで戻っていくような感じ。その逆の時間か。小学校は、空間だけでなく、大人からすれば、時間の上でも特別なんですね。ぼくは、教室にステンシルを当てて、スプレーで吹いて、壁紙を貼ったようにした作品(小野瀬裕子 )が面白かった。そうかー、教室と洋館の空間は、壁紙が貼ってあるかどうかだけの違いだったんだ、と思った。講堂での作品(デジタルPBX)も、真っ暗なところも恐る恐る歩いていって、舞台だったところに出くわしたり、壁にぶつかったり、出てきてて、空間の具体的な大きさとそれが「講堂」であったことが残る。石灰の置いてあった体育倉庫を雪景色にしているのも、面白かった。
奈良──あれも面白かったですね。
青木──全体として、とても楽しく、久しぶりにいい展覧会に出会えたなあ、って思った。で、その同じ日に横浜の奈良さんの展覧会に行ったんです(笑)。
奈良──やばい(笑)。
青木──いえいえ(笑)。カーペットを全部剥がしていたでしょう。これは、そうでもしないととても使い物にならない、と奈良さんは思ったんだろう、って想像して、実は確かめもしないで、そう建築雑誌に書いてしまいました(笑)。
奈良──それはその通りです。
青木──カーペットを剥がすと接着剤の後が残るし、やっぱり少しベトベトしますよね。しかも、カーペットは、剥がして展覧会が終わるとまた貼るわけだからお金がかかるわけでしょう?
奈良――かかるみたいですね。
青木──お金がかかったようには、ぜんぜん見えない。
奈良──ええ。
青木──なのにやっちゃう。床がどんな仕上げかというのは、実は大きな問題なんだなあ、って思った。奈良さんは、奈良さんがそこでやろうとしていることのためには、展覧会予算のけっして少なくないだろう比率を、下地モルタルを露出することにかけている。
奈良──作品が死んでしまうことは確かです。悪い建物ではないと思うんですけど、内装なんかがどうしても気になってしまって……。
青木──小学校としてつくったものが美術館としてうまくいき、美術館としてつくった方は美術館としてうまくいかない。
奈良──ええ、すごく皮肉っぽい。
青木──まったく皮肉。牛込の小学校なんて、小学校として一所懸命つくったわけでもない。授業をやるのに適当な大きさをクラスの人数から割り出して、特別教室との関係や日照や建設費や、それほど多くない、誰でも理解できる観点から考えて、それらが求めていることを最大限に叶えて、というつくり方でしょう。そういうつくりが、美術館としても、それからきっと小学校としても、ちょうどよかったんだと僕は思うんです。でも、いまは、小学校をつくるなら、小学校として何が求められるのか、美術館として何が求められるのか、微に入り細に入り、そこを使う人の心理まで踏み込んで、計画するようになったし、そしてそれはいいことだ、という風潮が強くなってきている。何年か前に、学校建築計画のある権威の人が、小学生が廊下を走るのは実は教育上でいいことなので、走るための「はし廊下」をつくりました、小学生が廊下でおしゃべりをするのは実は教育上いいことなので、おしゃべりをするための「しゃべ廊下」をつくりました、って自慢気に話されているのを聞いたことがあるんです(笑)。びっくりしました。余計な御世話ですよね。
奈良──僕も「はし廊下」とか「しゃべ廊下」は嫌ですね。そういうのが逆に創造性を奪う。だってきちんとした設計がなされているわけでもない広場とかがない、普通の雑然とした街でも、自然に場としての「しゃべ廊下」や「はし廊下」が生まれるわけでしょう。人はそういった場所を自然につくることができるんですよ。
青木──僕たちが子供の時には、遊ぶところは大きく二種類に分けられたでしょう。一つは原っぱで、もう片方は遊園地。
奈良──児童公園みたいのですか?それともディズニーランドみたいな?
青木──ディズニーランドはまだなかったけれど、そういう意味での遊園地。なぜか土管が置いてあった。風邪ひいて3日くらいいかないと、もうそこでやってる遊びの意味が分からなくなってしまう。どんどん遊びのルールが変わっていきましたよね。
奈良──置かれている資材の位置が変わったりとか(笑)。
青木──U字溝のコンクリートが、突然、道路側に引っ越してきたりね。原っぱが原っぱであるためには、案外、そういうU字溝や土管が大切だったのかもしれませんね。そういうものが増えたり減ったり、移動したりするのは、子供にとっては、一種の自然現象でしょう。どうしてだか、わからない。でも、それにあわせて、遊びが変わっていく。原っぱは、単なる「なにもないところ」ではない。やっぱり、あるひとつの特徴をもった空間なのでしょうね。ともかく、そういうところでは、奈良さんが言われたように、創造性が必要。それが子供の遊び場のひとつの極。それから、その反対側の極が遊園地で、そこは創造性が必要とされない。
奈良──歩く順路が計算されていたりしますからね。
青木──誘導されているわけですからね。子供がここでこういうふうに喜ぶ。そういうことが前もって計算されている。いや、こういうのもいいと思うんですよ。でも、やっぱり、原っぱに象徴されるもうひとつの極があって、それとのバランスが必要だと思うんです。個人的には、ほとんど原っぱで良くて、まぁときには遊園地も、でいいくらいだけど。でも、いま、小学校もそうだけど、その原っぱ的空間は遊園地的空間に取って代わられようとしていないだろうか、って思うわけ。町とか建物だけでなく、僕たちの生活全体において、原っぱ的なものは風前の灯火ではないか、って。なぜ横浜美術館が美術館としてよくないのか。それは、美術館が美術という人間の創造性のためにつくられた空間だとしたら、やっぱり、美術館は遊園地であるわけにはいかない、しかし横浜美術館は、原っぱでなく、遊園地としてつくられている、だから駄目なんだ、ということなんです。奈良さんの展覧会は、そういうことを、カーペットを剥がすことで、はっきりと見せてしまいました。もっとも、これは日常が空間をつくる側から見た言い方。そのなかでつくる側からすれば、こんなひどい空間に誰がしたんだ、と思われるのでしょうね。

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