アートの現場から[3]
Dialogue:美術館建築研究[5]


 田中功起
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 青木淳


●不思議なワークショップ
青木──最後に、今日のテーマから離れますけれど、このところワークショップということが気になっているのでお聞きしたいと思います。田中さんの作品は、他者の存在という点でワークショップと必ずしも折り合いが悪いとは思えませんが、しかし、田中さんの作品の質が持っている完成度からは、ワークショップをやられるということは想像しにくい。田中さんはワークショップをどのように捉えていらっしゃいますか?
田中──ワークショップというのはコラボレーションの考え方を拡大して、より多くの複数の人たちによってひとつのプロジェクトなりなんなりを進めていく形式ですね。ここでめざしているのは個人という作者をなくしていくというコンセプトです。この概念自体には可能性を感じます。例えばアートにおけるワークショップの場合、アーティストがなにかしらのきっかけを与え、そこにいろいろな人が参加することでなにかが生まれてくる。このときアーティストは参加者と同じ位置にいるはずです。そうでないと参加者は単なるお手伝いさんです。ぼくにはあまり向いていない方法論だと思うのですが、そういったことがなにかを生み出す可能性はある。けれども、いまのワークショップの大半は、子どものためになにかするとか、地域社会とどう関わるかというように、前提となっているワークショップを行なう目的がアートによる社会貢献にある。そもそもアートで社会に貢献なんてできないと思っているんですけど。地域社会の関わりをつくろうとするアートプロジェクトに質を求めるのは酷なことなのかもしれませんが、おおかたの質の悪いものが生み出される原因には構造的な問題があるように思います。そこには半ば強引にアート、つまり文化ということを社会との関わりにおいてのある種の免罪符として引き入れているフシがある。社会貢献のような効用や効果を求めているのであれば、それこそパソコンを数台でも多く図書館に導入するとか、公園を整備するとか、コンサートを開くとか、もっとやるべきことがあるように思うのです。アートは万能ではないけど、アートはアートそのものでも十分に豊穣なものなわけです。それでも活動をしたいのであれば、市民活動のようなものを組織すればいい。
またワークショップと称して、アーティストの制作過程とおなじことを行なうことで追体験させるようなものもありますが、そもそも感覚や経験というものは共有できないものです。共有できない制作過程を追体験して、その作品がわかったような気持ちになるよりも、その作品そのものの鑑賞をこそより深めた方がいいのではないかとも思うのです。いろいろなところで、このようなことが起きているように思います。
青木──先ほど自分がつくったという意味での主体がなくなってもよいということをおっしゃいました。それは、自然と同格のもうひとつの人工自然をつくる、つまり、主体に対する、ものの側のもうひとつのあり方が現実のかたちとして完成していけばよいということですね。そういう意味ではアーティストが自分の内なるものを外側につくり出すこととは違って、たんに自分が関わっているだけという点では、ワークショップの目標は、田中さんの目指すところと通じてなくはない。でもそれなのに、何故かいまのワークショップは違う不思議な方向に向いている。
田中──アーティストの主体はそのなかで消えていきませんよね。そこが不思議です。
青木──プロセスよければそれでよしみたいな。主体はなくなってもいいけれど、それでもあるということが問われていない。制作はやはり個人ですね。
田中──主体が消えていかない原因はもしかするとたんにそのアーティストのエゴである場合もありますよね。あくまで自分のキャリアとして築き上げておきたいという。それから、ワークショップには難解なアートを参加者が制作の現場を体験することで理解しやすくするという教育的な側面もあると思うのですが、だとしたらそもそもなにがそれでわかったのか、なにをもってわかったとするのか、その基準が不明確ですよね。
青木──その通りですね。

●不自由さとのコラボレーション
《鳩にキャビア》
田中──今年の11月から8カ月の予定でパリのパレ・ド・トーキョーで、10人くらいのアーティストが集まるレジデンス・プログラムに参加するのですが、そこではアーティスト同士のコラボレーションもひとつのテーマになっています。ただ、制作は個人的な営みではあるので、そもそもぼくはつくることにおいてコラボレーションはできないのではないかと思っています。はじめからグループや二人組で制作をするアーティストたちはいますが、それとコラボレーションというのは別個の問題であると思います。前者はそのグループや二人組でひとりのアーティストとして機能しているわけですし、後者はあくまでふたつ以上の異なる考えを持ったものたちが出会うわけですから。そこでは、コラボレートするときにいずれかが優位に立って主導権を握ってしまったら意味がないとも思いますね。あくまで対等なものとしてあるべきです。
青木──例えば建築においてコラボレートすると、責任の所在がよくわからなくなることがあります。例えば田中さんと私で犬小屋をつくりましょうということになっても、できあがったものが悪かった場合、誰が責任をとるのかという問題があります。建物の場合、その問題は非常に重要で、私たちは依頼されて、よいと思われるものをつくらなければいけないという責任をもってつくるわけだから、責任の所在がはっきりしなくなるようなかたちでのコラボレーションはできないわけです。今日、はじめにお話しいただいた群馬でのインスタレーションでも、適当に積むということが人それぞれ異なることを意味するわけで、でもそれがもしコラボレーションであれば、その人のやり方が好きがどうかは括弧に入れて、その人の主体を認めなければならないですね。
田中──話し合いをしてお互いにお互いを理解しなければならなくなる。
青木──でも、なんのために、そんなことをしなくてはならないのでしょう? 例えば、ハリウッド的な映画のつくり方で、全部のイメージを先につくってそれに沿ってものをつくっていくという方法であれば、コラボレーションはできると思うんです。けれど、もしもそこでなにかに出くわす度に判断していくようなつくり方であれば、そのときどきの判断が一番重要だから、コラボレーションできない。コラボレーションは、だから、あらかじめ共有するものがあるなかで有効な方法なのでしょう。もしコラボレーションが可能であれば、問題となってぶつかってしまった出来事とのコラボレーションなのだと思いますね(笑)。
田中──そうとしかいえないですよね(笑)。
青木──映像の不自由さとコラボレートとか、ね。
[2005年5月12日、青木淳建築計画事務所にて]

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