美術館の現場から[3]
Dialogue:美術館建築研究[8]


 蔵屋美香
 +
 青木淳


●美術館という組織 青木──とはいえ、どういう道筋を経ることになるかわかりませんけれど、きっとこれからの日本で、いままでの美術館とは違うかたちの美術環境が生まれてくるような気もします。
蔵屋──美術館という組織を飛び出して、もっと自由に美術を考えるために、NPOや個人事務所を立ち上げる人が今後いっそう増えていくだろうという実感があります。美術館という組織の大きな転換期にあって、自明のものだと思っていたさまざまな前提が崩れていく。そのなかで、現状の組織を冷静に眺め、その仕組みの中ではもはやできないことがたくさんあることに、皆が気づきやすくなっているのではないでしょうか。
青木──組織的なところでは、たしかにやれることが頭打ちにはなりますね。
蔵屋──組織に残ってそうした状況を打破するか、組織を飛び出してしまうのか、どちらを選ぶかは自分の判断ですよね。ただ、実際にはNPOなどの組織で経済的に苦しいところも多いと聞いています。しかし、今後こうした層がどんどん厚くなっていけば、例えばホワイトチャペルがそうであったように、美術館がそれらのNPOに業務を委託するケースも増え、美術館側は経済的な安定を、NPO側は開かれた組織としての風通しのよさを、互いに提供しあえるようになるのではないでしょうか。
青木──ひとつの組織の中に安住するのではなく、流動化した状態でいろいろな仕事があるというのが理想ですね。
蔵屋──これは美術館のみならず、日本社会の働き方全体に関わる問題だと思います。さきほどのジョブ・シェアをとってみても、週3日だけ働いて、定収入は少ないけれど残りの時間は自分のためにとっておく、イギリスはそうした選択が可能な社会だと感じました。自分でリスクを背負う覚悟があれば、組織に完全には属さない生き方が普通にありうるのです。こうした層がプロジェクトごとに仕事を請け負ったりしながら、さきほどのアーティスト・エデュケーターのように、さまざまな美術関係の機関のあいだを動き回っている。また、一般にイギリスの美術館では、たとえ正職員であっても、よりよい待遇、よりよい仕事を求めて、あっという間に別の機関に移ってしまいます。これも、たとえ組織に所属していても、その組織に対してやみくもな忠誠心を抱くのではなく、さまざまな組織を冷静に比較する視点を持ち続けているせいではないかと思います。
青木──早く日本もそうなるといいのですけれど。
蔵屋──だからといって、日本がだめだというわけではもちろんありません。日本のやり方はなにより非常に丁寧だし、組織としての仕事の一貫性も保たれやすい。ある日誰かが突然やめて、すべてがゼロからやり直し、ということばかり続くと、実際には大変でしょう。しかし、頑丈に守られているからこそ、やはりなにか新しいことを起こしにくい面があるということは確かです。


●美術に触れる「場」/美術のための施設を超えて 青木──僕はこの5年間、青森県立美術館の設計に携わってきて、その建物がようやく2005年9月に完成しました。この美術館は県立美術館としてほとんど最後の美術館であって、だから前向きに言えば、いままでの日本中の県立美術館の全経験を踏まえて、これからの県立規模の美術館運営のひとつのモデルを築くこともできるわけです。しかもいままでのやり方を無批判に踏襲していては先がないだろうというほどに、いまの日本の美術館が危機的な環境にあるということも考え合わせれば、新しいモデルを構築できるというより、構築しなければならない、と言ったほうがいいかもしれません。美術館の人たちはそれを模索しています。もちろん、イギリスの真似をすればいいというわけにはいきませんが、もしまったく新しく美術館を始めるとしたらどうしたらいいのか、ロンドンの経験から、蔵屋さんは、なにかお考えになることはありますか?
蔵屋──これは青森での美術館のお話にも繋がると思うのですけど、美術にかかわる場の形態というものをもっとフレキシブルに考えたほうがいいと思っています。ファンドレイジングや広報担当の専門家を配するというのは、私の勤めている東京国立近代美術館のような、いまある美術館の制度を守りつつどう生き残っていくかという発想ですよね。でも、現在美術を見る場というのは当然ながらものすごく広がっていて、美術館というのはもはやかつてのように美術に触れる唯一の場所ではない。単にひとつの選択肢なのです。もし新しい組織を発想するとしたら、いま必要なことは何で、そのためにはどんな組織なり場なりが必要なのか、そこから発想していくほうがいいと思います。
演劇「津軽」
「津軽」の宴会シーン。アレコ・ホールで、俳優と観客が宴会する
青木──水戸芸術館は、諸芸術の融合ということを目的にしてオープンしました。劇場、音楽ホール、コンテンポラリー・ギャラリーの3つの部門が、有機的につながりながら、時によってはひとつのテーマでイベントを開催するというようなイメージですね。でも開館後15年経ったいまでも、一度も共通テーマで企画が行なわれたことがありません、たぶん(笑)。そのくらいに、演劇、音楽、美術は独立した専門性を持っているのですね。ところが、この15年のあいだに、いろんなところで、おもしろい動きが起きてきたように思えるのです。音楽ホールや劇場で展覧会が行なわれたりすることはありません。でも美術館でパフォーミング・アーツや音楽会が開かれることはあるのです。美術館には、音楽や演劇を引き寄せることができるのです。いわば美術館はブラックホールのようなもので、いわゆる美術以外の文化活動も可能ということです。必ずしもオーディトリウムでなくても、それを可能とするような展示室があれば、展示室でも演劇や音楽会は可能なのです。つまり美術館の展示は、僕の言葉で言えばまさに「原っぱ」であって、「原っぱ」としてつくられていれば、美術に限らず「なにかをつくる」ことができるのではないか、と思われてくるのです。こうなると美術館というのは、括弧つきの美術のための施設というのを超えて、人がもっと一般的に「なにかをつくる」ことのできる「原っぱ」と定義し直すことができるのではないだろうか、と。
偶然とはおもしろいもので、青森県には弘前を本拠地として活動している「弘前劇場」という劇団があるのです。活動は国際的です。その主宰者であり、劇作家であり、演出家である長谷川孝治さんの名前は、美術館の設計を始めた頃から聞いていましたけれど、2年前(2003年)にようやく知りあいました。まだ骨組みの状態でしたが、美術館の建設現場を見てもらって、水戸芸術館の学芸員の森さんも一緒に、青森で小さな座談会をやりました。森さんが「この美術館を使うの大変だよね、ここで学芸としてやれと言われたら大変」とわれて、長谷川さんが「おれがやってやるよ、ここで一日かかる芝居を美術館全部使ってやる」と答えた。そうしたら、本当に1年前、長谷川さんが舞台芸術監督のポストとして、美術館に招かれた。それで、2006年7月13日のグランドオープンに先立つプレイベントとして、彼が展示室の5箇所を訪ね歩く、6時間の演劇「津軽」を企画し、この(2005年)12月に実現することになっています。きっと展示室を「原っぱ」として活かしてくれると期待しています。ともかく、演劇の世界の人はアクティヴです。美術の世界の人にはない特質ですね。


●美術館の「無時間性」 蔵屋──現在の美術館は、18-19世紀のヨーロッパでその原型ができたものですよね。ここではいまあるすばらしい作品を時間による損傷なしで後世に伝えていく、歴史の貯蔵庫としての役割が重視されます。作品に手を触れてはいけない、直射日光を避けなければならない、時間を超えて作品を保存するために、空間や建築のあり方にさまざまな制約が課せられてきた結果、どこでもよく似たタイプの展示室となりました。加えて、モダン・アート以後に特徴的な空間であるホワイト・キューブの問題もある。これまた、外の世界で流れる一日の時間や季節のうつろいをシャットアウトして時間を超越しようとするものですし、また、前にあった展示の記憶を一回ごとに消し去って、時間の蓄積を持たない、つねにニュートラルな、なんでも入れられる箱であろうとするものです。しかし青木さんのおっしゃった演劇も音楽も、一回性で、時間とのかかわりによって成り立つものですよね。青森のお話をうかがって、美術館の超時間性の中に時間性を放り込んでいくと、空間も少し変わっていくのかなと思います。人がつねに生きて動いていることの流動性が実感できる。
青木──「超時間」というのは面白い視点ですね。たしかに、保存の役割は時間を超えることだし、ホワイトキューブという空間も時間を超えていますね。でもそれと同時に、僕はそこはなにかが「起きている」場所であることが大切だと思います。一般の人は、空っぽの状態のホワイトキューブを見ることはありません。見るのは、そこに作品が展示された状態です。つまり、超時間性を備えたホワイトキューブが、ある一回性の中にある状態を見るわけです。見る側からすれば、そこでの一回性の経験を求めているのだと思います。一般の人にとっては、美術館とは、そこで今後は何が起きているのかな、と一回性を期待するような施設ですね。
蔵屋──あるものを後世に伝えたいという気持ち自体は、わたしは否定できないと思います。人間が必ず死する運命にある以上、どんなかたちであれなにかをあとに残したいというのは、本能的な欲望です。こういったいわば時間を超越する使命を担っていくところはどこかになければならない。でもそれを超えて、一回性のものとか時間が終わったら消えていくものに特化する施設も出てきていいと思う。青木さんの考えられていることは、そちらのほうが大きいということでしょうか。
青木──その度ごとに、仮設の空間をつくって活動し、活動が終わったら撤去する。そういう方法の可能性もあるでしょうね。ホワイトキューブをニュートラルな空間と捉えるならば、それはホワイトキューブのひとつの可能性なのでしょう。でも、超時間性を備えた空間だからこそできる一回性があるのではないかな、と思うんです。例えば蔵屋さんが展覧会(「美術館を読み解く──表慶館と現代の美術」展、2001)を企画された東京国立博物館内の明治の美術館建築、表慶館には、地としての強い質がありますね。この質は、一回性のものではなくて、未来永劫に残ることを欲望した「無時間性」を帯びています。つまり、展示空間がある方法で「無時間性」を帯びていることで、逆にかえって展示が「一回性」として可能になり、そしてその「一回性」が積層されて、変質しながら「無時間性」に戻っていくような気がしました。
蔵屋──すると、ホワイト・キューブが求めるような、時間の痕跡の残らない「無時間性」と、「無時間性」を強く欲望することによってある種の濃厚な質を備えてしまった古い美術館のような空間とを、区別して考えたほうがいいということでしょうか。そして後者には「時間性」を際立たせる地となる質が備わっている、ということですね。しかしまた、一口にホワイト・キューブといっても、ほんとうになにごともゼロにしたい、という強い欲求に支えられたものは、これだってある種の狂気をはらむ強烈さを供えてしまうのではないかと思います。それはヨーロッパにいるとよくわかる。日本と違ってヨーロッパでは、たいていの建物にいやというほど歴史が染み付いている。ロンドンでも、安いという理由だけで古い物件をリノベーションして使っているギャラリーのほうが多数派です。この中であえてホワイト・キューブを目指そうとするには、じつは大変な意思の力が必要なのではないかしら。それでいうと、わが東京国立近代美術館などは、そうした「狂気の」ホワイト・キューブにも、表慶館のような長い時間が積み重なってある種の始原に戻っていくような空間にもなれない、中途半端で意志薄弱な展示空間であるといえるでしょうね(苦笑)。
青木──そう、ホワイト・キューブには、狂気と言ってもいいような強い空間の質がありますね。ホワイト・キューブはニュートラルであるということと同時に、強いキャラクターを持っています。そして、そこでの多くの展覧会は、その非日常的なキャラクターに保証されて行なわれている。つまり、ホワイト・キューブでもまた、無時間性ゆえのキャラクターが消去されずに、むしろそれが利用されて、一回性の展示が行なわれている、と思うのです。その意味では、表慶館の空間と相通じるものがありますね。表慶館のような空間での展示はもうされないのですか?
蔵屋──今後もそういうことができればいいなと思う一方で、みんながそれをやる必要もないかな、とも思います。そういうことが得意なところがあって、それに特化するのでもいい。いろんなヴァリエーションの館や組織があって、選択肢をたくさん持つことが重要です。


●展示空間を構成するという表現
青木──ところでちょっと「無時間性」ということで思い出したのですけれど、ホワイトチャペルの館長のイオナ・ブラズヴィックは、テート・モダン時代に、モネと抽象表現主義の作品を向かい合わせた展示をして、時を超えた作品配置をしていましたね。
青木氏
イヴォナ・ブラズヴィックのキュレーションによる「Faces in the Crowd(群衆の中の顔)」展の展示作業風景(ホワイトチャペル・アートギャラリー、2004-2005年)。
そのビルボード風の表現の持ち味を活かすため、アレックス・カッツの作品を、天井高を利用してかなり高い位置に展示している。手前にはゲルハルト・リヒターの作品が見える。
蔵屋──彼女はテート・モダンで、美術の歴史に沿った時系列によってではなく、とりあえず時代を無視して類似や対比によって作品を組み合わせ、それを空間の中にどう置いていくかという発想で展示を構成したんです。「ヌード」「風景」「静物」「歴史」という4つのテーマにしたがって各時代の作品をはばらばらにばらし、時系列という目安の代わりに、空間内の作品の配置によってコンセプトを伝えるシークエンスを作ったわけです。例えば、さきほどのモネと抽象表現主義のように、ある作品とある作品が隣り合わせに飾られていれば、それらの作品の構成原理の共通性を読み取ってほしいんだな、と、展示した側の意図が空間内の作品の配置によって明確に見えるようになっている。
青木──実際の制作時期ではなく、制作した作家が見えているもので並べる。
蔵屋──そうですね。彼女のモデルというのは私にとってすごく刺激的です。というのも、空間の中に作品を配置するプロセスが、そのまま作品の本質を捉える解釈行為となっているからです。彼女の頭の中にもおそらく展示室の空間がしつらえられていて、ここに作品を配置し、組み替えていくことで、つねに作品を理解しているのでしょうね。大学の先生と違う学芸員の醍醐味は、まさにそこにあるのだろうとわたしは常々思っています。
青木──ある種の研究者であるけども、それ以上に現場がある。
蔵屋──研究成果を伝える一番の手段は、最終的に展示空間の組み立てでありたい。展示って展覧会の作業で一番興奮する部分です。たとえ中途半端な東京国立近代美術館の空間であっても、それは同じです。作品をどの順番でどの間隔で並べるか。壁をどう建て、その壁と壁の隙間からのぞく次の空間の予告としての作品はどんなふうに見えたら期待が高まるか。毎回楽しみ、悩みは尽きません。もちろんこの際には、既存の空間を知り尽くしてうまく利用するとともに、既存の空間に縛られずに発想できる距離を保つ、その両方の側面が必要です。

[2005年11月30日、東京国立近代美術館にて]


PREVIOUS←