地下・風景をめぐるノート(5)|野村俊一

地下の季節


地下の花
地下を散策して気付くことは、植物やそれをイメージさせる人工物の多さである。八重洲の地下街然り★1、「中野ブロードウェイ」然り[fig.1]、最近では大手町周辺の地下道にさえ以前には見られなかった植物の写真が壁一面に張り巡らされている [fig.2]

ホンコンフラワー
fig.1──中野ブロードウェイ地下「プチ・パリ」に
設置された「ホンコンフラワー」



大手町周辺地下道の内壁
fig.2── 大手町周辺地下道の内壁。
以前訪れた時と比べてまったく雰囲気が変わっている



どうやら地下では植物イメージの需要が大きいようである。そして植物のイメージが喚起されれば、具体的なオブジェクトは生きた植物だろうが人工物だろうが関係ないようでもある。例えば利用されるものには「植栽」のほか、「ホンコンフラワー」という花がある [fig.3]。これはほとんどが軽いプラスチックでつくられているため、場合によっては実際の花よりもカラフルであり、そしてなによりも枯れることを知らない、不死の花なのである。

ホンコンフラワー
fig.3──「ホンコンフラワー」


しかしこの花をただの偽物だと侮ってはいけない。以前あるランドスケープ・アーキテクトから聞いた話によると、現在商店街のデザインで使われるほとんどがこの「ホンコンフラワー」だというのだ。そして地上に限らず、「ホンコンフラワー」は「植栽」に負けず劣らず地下を寄生しているのである。
★1──http://tenplusone.inax.co.jp/underground/data/yaesu/fieldworktop.html

自然の多義性
これらの花たちは〈自然〉を模倣している。しかしひとことで〈自然〉といっても、その意味は社会や文化ごとに多種多様である。例えばギリシア語「ピュシス(physis)」、ラテン語「ナートゥーラ(natura)」に端を発し、おのずからなる生成・展開によって成り立った自律的な自然がある。アリストテレスが「制作されたもの」から区別したそれである。またほかにも、この古代ギリシア的な自然観や新プラトン主義的、ヘルメス的、さらには魔術的自然観を否定する、近代科学が発見した外的経験の対象としての生命を欠く他律的な自然がある。前者は有機体的な自然、後者は機械論的な自然と言えよう。
この区分で言えば「植栽」も「ホンコンフラワー」も、地下を彩り鮮やかにする構成要素として捉えられるゆえ、機械論的な自然である。両者とも人間が操作しやすいようにと発明された、数量的に捉えられる商品としての花なのである。
とはいえ面白いことに、これらは機械論的な自然にとどまろうとしているわけではない。どちらも時間がたつと交換される運命にある点が共通しており、姿や形だけではなく、交換されることでおのずから生長する様まで人為的に真似されているのだ。つまり「植栽」も「ホンコンフラワー」も、有機体的な自然を機械的に模倣しているのである。

〈自然〉という言葉にはほかにも意味がある。私たちが日常に「彼の行動は不自然だ」と言うときの〈自然〉である。これは本性・性質といった意味に近く、そして人間の自己という概念に関わる鍵語のひとつとしても挙げられよう。この〈自然〉は有機的自然、機械論的自然と比べると★2、人間の内的なものに大きく関わり、自己のありようを便宜的に解釈するさいによく使われる。そして自己に関わるぶんこの〈自然〉は、具体的な他者や環境へケース・バイ・ケースに接することで変化する流動的な事態としても捉えられよう。
「植栽」や「ホンコンフラワー」で飾られた地下の環境を初めて見たとき、私の印象はまちまちだった。そして正直〈不自然〉でもあった。即座にこの理由を説明することはできないが、ともあれこの場合の〈自然〉は数量化・規範化されることが難しく、誰もが生きている限り感じる、気分としての自然なのである。
 
★2――ギリシア人は内的な自然より外的な自然へより注目していた。詳しくは、芦津丈夫ほか編『文化における〈自然〉』(人文書院、1996)p.118。

自然素材とプラスチック
「植栽」も「ホンコンフラワー」も機械論的な自然であり、同時にそのあり方が〈不自然〉であることが共通点として挙げられよう。しかし決定的に違うのはその素材である。前者はいわゆる(客観的に捉えられる)自然素材が使われており、後者はプラスチックが使われている。
宇波彰は「自然素材」と「プラスチック」を対比的に論じている。後者には前者と違い「過去のノスタルジーもトポフォリアも全く存在し」★3ていない。「過去を持たない素材」★4なのである。例えば「植栽」には固有名が付けられているため、何科の植物であるのかが判断でき、原産地を特定することができる。さらに個人の美的観念を投影することも可能だ。逆に「ホンコンフラワー」を観察してみても、その具体的な種類について判断することはできず、せいぜい色で種類を見分けられる程度である。つまり「植栽」はあらかじめ指定されている意味が読み取られることを期待され、「ホンコンフラワー」はのっけからそのような期待がされていない。そして「植栽」を見る眼はその意味を了解することで、先に記した「不自然さ」を補完する。一方で「ホンコンフラワー」には読み取られるべき意味は最初から不在なのである。
★3――宇波彰『デザインのエートス──〈人〉と〈物〉のアイデンティティをめぐって』(大村書店、1998)p.48。

★4――前掲書、p.49。

地下の季節
──エンブレマティックな季節とプラスチックな季節
〈自然〉は私たちに季節感を提供する。例えば日本において、私たちは桜を見ると春を感じる。この場合「桜」は春の象徴として機能しており、日本に季語があるように、このような風物はコード化されているのだ。そしてこのコードを読み取ることが一般に風流であるともされている。地下の「植栽」にも風物としての可能性はもちろんあり、「植栽」を巧みに交換することで歩行者に季節感を提供することが可能なのであって、さらには観察者側が読解の技術を磨くことによってもそれは可能になるだろう。
一方で、「ホンコンフラワー」はどうだろうか。ランドスケープ・アーキテクトの話でさらに驚いたのは、「ホンコンフラワー」も季節に合わせて交換されているらしいのだ。交換する頻度は、それぞれ商店街の活気によって違い、つまりこの活気次第で商店街から受ける季節感が変化しているというのだ。

地下は春夏秋冬を通じてそれほど変わりのない調整された風土を備えている。地下において植物をイメージさせる要素が多い理由は、この風土に対する反動として、自然観や日本特有の季節感の需要が地下で高まっているからなのかもしれない。今後も「植栽」や「ホンコンフラワー」は地下を寄生していくだろう。ただし植栽と「ホンコンフラワー」が提供する季節感は大きく異なる。「植栽」が提供するのは、その奥に秘められた象徴的な意味の読解を促す「エンブレマティックな季節」である。これに対し「ホンコンフラワー」の季節感は、容易に春夏秋冬へ還元できない、それこそ季節感への気分が複数生成・変化しうる、過去の記憶に制約されない「プラスチックな季節」と言えるものなのかもしれない。人工化が進む地下のただ中で、地下の季節は思いのほか多様化しているのである。
   

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