地下空間に関する考察(2)|松田達

underground、5冊の写真集をめぐる冒険

 
吉祥寺パルコの地下2階にあるパルコ ブックセンターをよく利用している。吉祥寺近辺では、一番本が揃っているのではないだろうか。フロアはひとつだけだが、かなり広い。そのフロアの一角にアートロゴスというアート系の本のコーナーがある★1。僕は大体、フロア全体をぶらぶらと巡った後、そのコーナーに行き着く。 そこには映画、建築、デザイン、美術など、それぞれの分野の本が並べられているのだが、最近特に面白いのが写真のコーナーである。以前からちょくちょく見ていたつもりだったが、ずらっと置かれているいくつかの写真集が、妙にひとつのテーマで結びつけられるような気がしてきて、そう考えると写真集が、俄然面白くなってきたのだ。そういうわけで、今回は写真集について書いてみようと思う。 ★1――パルコブックセンター吉祥寺店
http://www.inax.co.jp/Culture/pub/month/9811pbc_george.html
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二つの地下、内と外のアンダーグラウンド  
「地下」と名付けられた二つの写真集が昨年出版された。内山英明『JAPAN UNDERGROUND』(アスペクト、2000)と、畠山直哉『アンダーグラウンド』(メディアファクトリー、2000)である。  
 
前者は、内山が7年間かけてとった全国61カ所の地下空間の写真である。内山の写真では光が圧倒的な美しさをもっている。地下空間には光が入らない、あるいは人工光で照らされた空間である。だが、内山の写真に写されているのは、光そのものであるといっても偽りではないだろう。光がなければ全くの闇である空間、インフラや機械のための単調で非人間的なスケールの空間、そこには風景と呼べるものはないはずである。だがそれが、恐ろしく美しい空間として見えてくる。内山の写真においては、光によって照らされたものが撮られているのではなく、光そのものが撮られているといえるだろう。逆説的ではあるが、光だけを撮るためには光のない空間を探さなければならない。だから地下空間こそが、最も美しい光の空間なのである。  
一方後者は、渋谷を流れていた川、現在は半ば洞窟となった地下5メートルの空間に降り立った写真家によって撮られた写真集である。にぎやかな都会のど真ん中であるはずなのに、それらの写真から感じられるのは静寂である。畠山の写真は、次第に空間をかたちづくる表面そのものへと対象を拡大し、ドブネズミの糞に生えるカビを撮る。極彩色の模様や、フラクタルのようないびつな形態。カビは自分の美しさを知らないと畠山はいう。
内山が都市の外部の地下空間を彷徨うとすれば、畠山は都市のその最も内部において地下空間を見出す。畠山にとってのアンダーグラウンドは、渋谷という都会のまっただ中、都市の内奥の闇に求められる。次第にスケールアップし、奇妙な光彩と幾何学が浮かびあがる畠山の世界を見ていると、それがわれわれの意識のアンダーグラウンド、内面の無意識の世界へとつながっているように思える。
 
そう考えると、この二冊はどちらもundergroundを撮った写真集ではあるが、それぞれ全く対照的なアプローチを示している。内山は外側へ、畠山は内側へ、undergroundを探求しているのだ。  

東京、時を失った都市
 
次の写真集に移ろう。この二冊の隣りに置かれているのが、中野正貴『TOKYO NOBODY』(リトルモア、2000)である。この写真には人が写っていない。文字通り誰もいないのだ。渋谷、新宿、銀座、首都高と、あらゆる東京の風景から人が排除されている。明け方であるのか、夕暮れであるのか、いつともわからない不思議な時間の感覚が漂う。驚くのは、近景、中景だけではなく、遠景に至るまで、写真の隅々にまで、どこを探しても人がいないことだ。根気と体力のいる撮影だったに違いない。  
 
ところで、この写真集は地下とは関係がない。けれどもここに写された東京は、どうも地下空間であるように見えてくるのだ。人が消え、のっぺりとした建物だけの風景。その風景は、人々が活動する内部空間から剥がれ落ちてしまった、外皮だけの風景のようにも見える。人が消えることによって、東京自体が巨大建築として、立ち現われてくる。そして建物の外形は、内部空間との対応関係を失っている。形式と内容のずれ。つまり、中野の写真から僕が感じたのは、内部と外部の古典的な関係が消失した都市の姿である。それを、地下空間化した地上空間といってもよいのかもしれない。  
内山が都市の外側のundergroundを、畠山が都市の内側のundergroundを撮ったとすれば、中野は現実の都市に重なり合うundergroundの世界を撮ったといえるだろう。  
人の消えさった東京の風景。この風景の美しさは、廃墟の美しさとも似ていると思う。廃墟は、建物が風化され崩れ落ちているから廃墟と見えるというよりも、そこに誰もいない、誰も住んでいないと感じられるからこそ廃墟といえるのかもしれない。廃墟とは、時を失った都市である。誰もいないことによって時間の流れが止められる。中野の写す東京は、だから、廃墟なのだ。
ついでにいえば、『TOKYO NOBODY』の最後に、誰もいない東京に突如雪が降る。その雪はまるで生き物のように見える。雪によって、止まった時間が一瞬動き出すような錯覚におそわれる。雪は降り止み、そしてまた東京は静かな廃墟へと戻っていく。
 

廃墟、意味の溶解したメトロポリス
 
廃墟としての東京。これを手がかりに、次の写真集へと移ろう。『TOKYO NOBODY』のすぐ横には、高梨豊の『地名論』(毎日コミュニケーションズ、2000)と金村修の『SPIDER'S STRATEGY』(発行=オシリス、発売= 河出書房、2001)が並ぶ。どちらも東京の風景をモノクロの写真によって切り取った写真集であり、それらが隣同士に並べられているのはよくわかる。だがそれ以上にこの二冊は対称的な写真集である。実は、前者には鈴木博之が、後者には磯崎新が、それぞれテキストを寄せている。  
 
鈴木によれば、「地名は廃墟と現実の都市をつなぎ止め」る。高梨の写真それぞれには、その写真が撮られた地名と住所が添えられている。地名は場所の由来だ。都市が廃墟になろうと地名は残る。だから、地名によって、現実の都市が廃墟へと接続すると鈴木はいうのだ★2。そしてそれは、鈴木の地霊論へと接続するだろう。目に見ることができないが、場所に宿る地霊=ゲニウス・ロキ。高梨の写真は、地名を写すことで、目に見えない地霊の存在をあぶり出す★3 ★2――鈴木博之「地名論の世界」
(高梨豊『地名論』、毎日コミュニケーションズ、2000)
★3――『地名論』の英字タイトルは「genius loci, tokyo」である。
一方、磯崎が見る金村の写真でも、廃墟がキーワードとなっている。金村が写す路地や裏通りやガード下の雑多な光景、磯崎はそこに廃墟を感じている。それはゴミ捨て場のゴミであり、震災の後の瓦礫でもある。ゴミ捨て場では超高級ブランドもユニクロも無印良品も、一切が価値を剥奪され、すべてが等価なゴミとなる。あるいは震災のあとの瓦礫。建物の構成部材は意味を剥ぎ取られ、単にモノとしてそこにある。「想い入れもない、構成もない、ドラマもナラティヴも消え去っている。建物と自転車と看板と電線の区別さえない。すべての物品の表層から由来や名称が消えている。意味という価値さえ取り払われている」★4。金村が撮る東京とは、そのような意味が剥奪され、ゴミと同じくすべてが等価になってしまったモノたちの風景であるという。 ★4――磯崎新「蜘蛛の戦略、あるいは記法の廃墟に」
(金村修『SPIDER'S STRATEGY』、発行=オシリス、発売=河出書房、2001)
興味深いことに、鈴木と磯崎がこれらの写真集から読みとる都市は、全く正反対のものである。鈴木は高梨の写真から都市の由来を読み取り、磯崎は金村の写真から由来の消えた都市を読み取っている。高梨=鈴木が場所という軸によって都市を垂直に読み解こうとするのに対し、金村=磯崎は縦にも横にも読み解けない、意味の溶解したメトロポリスをそこに見ている。前者は地名によって時空を一本の糸で繋ぎ、後者は蜘蛛の巣の上に時間と空間をばらまく。  

ジャンクスペース、蜘蛛の巣の地下空間
 
磯崎はレム・コールハースを引きながら、比例も均整もない、ビッグネスだけが特徴の建造物からなるメトロポリスはジャンクスペースでしかないという。ジャンクスペースとは、ゴミ捨て場のゴミと同じく、一切が価値の序列を失った廃墟の空間である。外形が意味をなくしたインテリアだけの都市。そこは形式と内容が一致しない都市であるという。磯崎はそんなメトロポリスの正体を、金村の写真の背後に読み取る。
『SPIDER'S STRATEGY』の視点は、実は『TOKYO NOBODY』の視点と似ている。『SPIDER'S STRATEGY』がインテリアだけの都市を捉えたのだとすれば、『TOKYO NOBODY』はエクステリアだけの都市を捉えている。どちらも内部と外部が対応しない都市である。それを地下空間的な特性といってもよいだろう。
 
メトロポリスとは、形式と内容、外部と内部の対応関係が溶解してしまった都市である。ビッグネス、ジャンクスペース、インテリア都市、地下空間、それをどう呼ぼうと同じことだ★5。いずれも限界を超えて巨大化し、収集がつかなくなってしまった都市を、指し示そうとする言葉であるに違いない。 ★5――レムの言葉をあげておこう。「ジャンクスペースはいつだって内部空間だが、あまりに広すぎるので、いったいどこまで続くのか見当もつかない」(レム・コールハース「ジャンクスペース」土居純訳、『a+u』2000年5月号臨時増刊「OMA@work.a+u」、エー・アンド・ユー)。
金村の写真には、電線や鉄パイプ、電信柱や路地、自転車のフレームなど、あらゆる線的な断片が蜘蛛の巣のように張りめぐらされている。それは、よりリテラルな意味でも地下空間を連想させる。地下空間においても、地下道や配管、基礎杭や洞窟など、あらゆる構築物が、蜘蛛の巣状に序列のないネットワークをつくっているからだ。  
金村修『SPIDER'S STRATEGY』より
金村修『SPIDER'S STRATEGY』より
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そんな5冊の写真集が、意図的にか、そうでないのか、並べて置かれている。いずれもここ1年の間に出版された写真集である。「underground」という言葉が、これらの写真集を結びつけているような気がした。
そんなことを考えながら、僕はエスカレーターをのぼり、地上へ出てから気がついた。この本屋も地下にあったのだと。偶然にしてはあまりにうまく写真集が並べられていた。地下へ潜り、都市について考える。こんなフィールドワークもあるかな、とそのとき思った。
 
   
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