11_みなとノ
空地
ビルの谷間にポッカリと宇宙が広がる……ミクロコスモス。
さまざまな植物がいつの間にか育つ。つい先週は何も生えていないただの(しかも文字どおりの)空地だったのに。いったい何処からタネはやってくるのか? 風に乗ってやってくるタネ。鳥や動物に運ばれるタネ。そして何十年も前からひっそりと地中奥深くで表面に出てくるのを待つタネ。それら植物の策略を知ってもやはりこれだけ増えるのは不思議だ。
そのなかでも、ひときわ目立つ黄色い花も持ち主――セイタカアワダチソウ。這いつくばって見る。観る。視る。11月中旬、太陽さえ出ていれば、まだ暖かい。セイタカアワダチソウは根っこから自分だけには害のない毒素をばらまきどんどん仲間を増やす北米原産の多年草である。根っこ周辺の土壌質が変わり、他の植物が育たなくなってしまうらしい。だからセイタカアワダチソウはどんなところにも育つという。そして悪い噂がつきまとう。花粉症だ。花粉症はもともと世の中には存在しなかったが、人間が作り出した新しい症状である。しかし、花粉症はどうやらぬれぎぬらしい。セイタカアワダチソウだって、鮮やかな黄色で目を楽しませ、虫にたくさんの蜜を提供する(もちろんそれも植物の策略のひとつだが、それも養蜂家の蜜源ともなる)。アブラムシのびっしりいるセイタカアワダチソウを気持ち悪いとみるのか、ああ、ここで虫たちは食事をしているとみるのか……。やがてセイタカアワダチソウも、本来は他の植物を寄せつけないための毒素が自らの足元に蓄積され、ついには自分をも殺してしまうというから不思議だ。
這いつくばって〜犬の視線で見る空地は、黄色い花の向こうにそびえ建つビル群が人間のつくるセイタカアワダチソウのようだ。黄色い花とビル群がだぶった。子供の頃、どこの空地でも遊んだオナモミは、いったいどうしてしまったのだろう。近頃はセイタカアワダチソウも少なくなって来た気がする。
榎本寿紀(美術家)

都市の「空き地」

このあいだ月島あたりを歩いた。古い建物や構造物を見て歩くつもりが、目に入ってきたのは駐車場や高架下、空き地だった。
空き地を気にしながら歩いていたら、ある風景と出会った。そこはバブルの時代に地上げにあったと思われる場所で、古い住居と空き地が虫食い状に混じり合っていた。どちらかというと空き地が勝っていて、住居はつっかえ棒で支えられながら弱々しく立っていた。空き地と言ってもこの区域の空き地にはどこも2段式の立体駐車場が据え付けられていた。空き地じゃないといえば空き地じゃない。
機能を持たない空間を空き地とすれば、ここの空き地は空き地でなく、むしろすでに人が住んでいない住居のほうが空き地なのかもしれない。ここでは空き地としての意味が機能的に逆転していた。駐車場とそれに負けそうな住居によって生まれた対比的風景がやけに印象的だった。
しばらく歩くと、昔の線路敷きにたどり着いた。今は何にも使われていないただの空き地だった。ここの場合は、建物が取り払われて空き地になった場合と違って、その場所の機能だけが取り除かれて空き地になっていた。線路はまだ残っていた。線路敷きの横の道路を大きなトレーラーやトラックが次々と通過していった。機能が置き換えられた結果生まれた空き地との対比関係がここにも見られた。
二つの対比的風景は、一見性格が異なるようにも思えるが、どちらもめまぐるしく成長し続ける都市の一瞬の表情というところで共通している。都市は変化を続け、変化の瞬間に空き地は生まれる。空き地という都市の成長過程の一断面だけを見ると、どこか寂しさや懐かしさというイメージを抱きやすいが、見方を少し変えると、次の活躍の時を待つ満ちあふれたエネルギーや今まで働き続けてきた土地のエネルギーの余韻といったものが感じられてくる。駐車場や線路敷きといった空き地がそれにあてはまる。
一見ネガティヴに捉えられがちな空き地であるが、その周囲との対比的関係に気付くと、空間の持つ意味がまた違ったイメージで伝わってくる。
御代田和弘(土木系デザイナー)
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