遍在する東京、あるいは地下街の現在
山崎泰寛 YAMASAKI Yasuhiro


 

地下街のフィードワークを始めた頃は、まだイチローはアメリカで一本もヒットを打っていなかったし、たしか総理大臣も別 の人だったはずだ。一年間という時間は、あきれるほどに長いが、意外とあっけなく過ぎるものである。時間は人に変化を強いる。2001年という一年間は、ぼくをやたらと地下街に詳しくさせた。ぼく(たち)は一年間で7つの地下街を歩き、思考していた。だから過去の日付を帯びたフィールドノーツの数々が、このフィールドワークの根幹を構成していることは言うまでもない。それぞれの地下街についての考察と経験の軌跡は、過去のコンテンツや、他のメンバーが今回書き記した文章を参照されたい。そこには一年間という時間を凝縮した、各人の経験が書き記されている。
ぼく個人はこのフィールドワークを継続する最中、横浜から京都へと住まいを変え、その結果 、東京は必ずしも「すぐ近くにある街」とは言えなくなってしまった。しかしおかげで、東京をより対象化して観察することが可能になったと思っている。住まいが京都にある以上、東京の地下街は踏破されるべき目標地域となっていた。要するに、何気なく歩く場所なのではなく、「かつて」何気なく歩いていた場所となったのだから、自然と観察対象して意識にのぼってきたのである。月に一度は、京都から東京に、それも主に地下街を歩くために足繁く通 っていたのだから、はっきりいってこれは相当な物好きだちと言っていい。まずはその成果 を振り返っておこう。


7つの地下街を歩くことで、それぞれの回に個別 の発見があった。2001年2月。八重洲地下街では偽装された自然の量に驚愕し、都市を彩 る「自然」の人為性をとおして、東京の中心に「郊外」が形成されていることを発見した。八重洲地下街は交通 面(鉄道路線、首都高)で実際に郊外住宅地と都心を結びつけているだけにとどまらず、自らも完璧な計画性と空虚さを兼ね備えた「郊外」と化していたのである。4月には池袋の地下街が、「ワンルーム」の巨大な個室に見えた。3層に重ねられたワンルームマンションのような地下街は、屋上に庭園まで有していた。
6月には梅雨の横浜を歩いた。横浜駅地下街は、厳しい敷地の条件に寄り添って計画されたことで、地下街の表示機能から大きく逸脱してしまっていた。横浜地下街を歩く人たちは、まるで横浜港に注ぐ川の中を流れているかのようだった。真夏の新宿はとにかく暑かった。「超高層地下街」は、新宿駅近辺の地下街から西口の超高層ビル群の上部まで、一度も地上に出ずに到達できることから気付いた。超高層ビルの「出られなさ」は、地下街の閉塞感と接続されていたのである。都市における地下街の「位 置」を、ぼくたちは新宿で思い知った。
渋谷地下街を歩いたのは10月である。渋谷地下街はスクランブル交差点という「谷底」にあり、地上の道路やビルの建ち並ぶ状況に即して、入り組んだ構造を晒していた。地上の渋谷で空のエッジを切り取るのは、ビルに被せられた、アンバランスなほどに巨大な看板群だった。新橋地下街は交通 の結節点にふさわしく、JRと地下鉄各路線の間にぼんやりと広がっていた。実はその茫漠としたありようは、明治以降常に変化し続けている東京の時間軸を表象していた。新橋の地下街の変化は、東京という都市が常に変化に晒されていることを示している。なにも、東京が新しかったのはここ数年のことではないのである。
神田地下街は、2001年の2月と12月に歩いている。これほどのインターバルをおいてなお、神田地下街は神田地下街としてそこにあった。人通 りもまばらな、それでいて地下街としての自立性を見せつけていたのである。しかし神田地下街は、東京がいまも保存している時間の流れを湛えているが、そのことを何よりも雄弁に語るのは、一枚の壁の改修の痕跡だった。








では、地下街のフィールドワークとは、いったい何だったのだろうか。フィールドワークが個人的な経験としてスタートすることを考えると、ここでもいったんはぼく個人の経験として語ることもあるいは許されるのかもしれない。
もともと地下街のフィールドワークは、東京という都市を捉え直すきっかけとしてはじまっている。地上に立ち並ぶ建物だけではなく、東京には地下空間も広がっているではないかと。事実、そのように考え始めたことで、地下街にある地上的な部分や、あるいは逆に地上にある地下的な空間を発見できた。東京は地表にのみ成立しているわけではない。ぼくたちは地上空間と地下空間のせめぎ合うところに、東京という都市のありようを発見した。このフィールドワークを通 して確認されたことは、なによりも、地表面が東京にとってなんら特権的な場所ではないということである。 しかし同時に、地下街は特別な場所ではない。少なくとも地下街だけが東京にとって重要なのだ、などと考えるのは性急である。地下街がぼくたちに教えてくれたのは、そこもまた確実に東京の一部分であり、どうやら東京という都市の現実をしっかりと反映しているということである。それは次の例を考えてみればわかるだろう。
JRの駅で降りると、周辺の地図を探すのに苦労することがある。しかし地下鉄の場合、どこの駅で降りても、独特のデザインでレイアウトされた美しい地図を見ることができる。地下鉄の地図は、更新頻度が高い。地下街の構造をドラスティックに変えてしまう大事件は少ないが、しかしよく見ると、「地図の上にテープが貼ってあり、上書きされている」箇所を何カ所も発見できる。そうかと思えば、利用者が何度も指さしたからであろう、一番重要なスポットの塗装が無惨に剥げていることもある。要するに、地下街の地図は何層ものレイヤーで成立している。だからその地図は、地表の変化を記録しており、いってみれば都市の更新の痕跡を表象している。利用者のアクセス可能性の高さとともに、東京の現在をもっとも頻繁に記録しているのが、地下街にある地図なのだ。

ところで、フィールドワークにとってもっとも危険なのは忘却である。どこを歩き、何を見たのか、それをうっかり忘れてしまうことがとにかく憂慮される。だから当然、皿のように目を開け、まるでついさっき東京に出てきたばかりなんですよと言わんばかりの視線を街中に投げかけながら、ぼくたちは地下街を歩いていた。ここで、メイド・イン・トーキョーの観察十箇条を思い出すこともできるだろう。ぼくたちはいまなら、「その2 上を向いて歩く」のすぐ後に、「でもたまにはうつむいてみる」という項目を追加することができる。
もしあなたが地下街をフィールドにして調査をしたいのなら、やはりあなたが人間や建築物に接するときと同じように、ときにサワサワと壁を撫で、あみだくじのように伸びている配管の行く末に思いを馳せることがあってもいいのだと思う。そしてさらにそこが一体どこなのか、そう問い続けながら歩き、または立ち止まり、繰り返し思考してみてほしい。ここは、本当に地下街なのか、と。


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