地下設計製図資料集成

八重洲地下街フィールド・ワーク


埋められた郊外
山崎泰寛 YAMASAKI Yasuhiro



拘束感と地下街
フィールドワークに伴うこの奇妙な拘束感は、なにも八重洲地下街に限ったことではなかったのかもしれない。いや、これはむしろ切迫感に近いかもしれない。追いつめられた感じさえする。なぜだろう。原因は天井が低いせいかとも考えたが、たぶんそうではない。そのうち、道行く人の多くが両側に並ぶ商店には目もくれないですたすたと早足で歩いていることに気づいた。東京駅から中央通 りまで、地上の道路を横断する面倒を避ける人が、ゆっくりと商店群に目をやる姿は想像しにくい。たしかに他の多くの地下街もそうであると想像できるのだが、オフィス街に隣接する八重洲はさらに抜け道的な要素が強いのではないか。抜け道であるということは、商店群であるにもかかわらず、そこが通 路でもあるということだ。八重洲地下街は地上と27カ所の階段で結ばれているが、その単純な形状と相まって、サインさえ見間違えなければ利用者は目的地付近の階段までほとんど迷うことなく到達できるだろう。通 路としての地下街は、利用するぶんにはまったく気にならない。わたしに迫ってきた拘束感のようなものは、おそらく、そのような利便性をいったん離れて地下街を観察しようとしたために生まれたものだったのだろう。

このような通路としての商店群は、かつて地上に存在した商店街をなにかしらの力がなにかしらの目的をもって地下に封じ込めた姿なのかもしれない。貝島桃代の言うように、さまざまな工夫を凝らすことで招致計画からたった6年で開催にこぎつけた東京オリンピック(1964)にはたしかに驚くべき構想力を見出すことができるが★1、この驚異的なスピードが発揮された時期、つまり昭和30年代前半における地下街(東京では浅草、渋谷、銀座)が「駅前を不法占拠する露天商の一部を収容するかたちで」形成されていったことにいまは留意すべきだろう★2。そして、八重洲地下街は1957年の計画開始からオリンピックをまたいで、1965年に完成を迎えていた。ここに別 の「拘束力」を発見できるのではないか。

大規模な構想力が都市に働いていたこの時期は、実は地下街にとって大きな転換点だった。1956年に「駅前広場における地下施設の設置に関する日本国有鉄道・建設省間の覚書」(都市交通 改善のための都市計画上の立場からの、駅広地下への地下道・駐車場等地下施設の設置に関する覚書)が交わされて以降、特に1957年以降に計画された地下街には、広大な駐車スペースが地下に用意されている★3。 八重洲地下街は、その第一号である。八重洲地下街は、東京駅と直結している。そして、首都高にも接続しているのだ。車に乗って、駅へ行こう。「今日、買い物に行かない?」と若い夫婦が話し合うとき、手段は車でも電車でも地下鉄でもいい。乗り物を選ばずに同一の行き先を志向する可能性が生まれたのだ。この若い夫婦はどこから地下街にやってきたのだろうか?

「郊外」との類似性と差異
拘束感の話題から問題を転じよう。27もの出入り口を有して利用者の移動を簡便にする地下街だが、この過剰なまでの合目的的な計画性における類似点にとどまらず、実はその用途を考えるうちに、われわれは都市の「周辺」との不気味な相似性に気づかないではいられない。その「周辺」とは、ときに「郊外」と呼ばれる。いわゆる「郊外」と地下街との相似性は、まずは次のような文脈で見出せるだろう。「1958年から69年にかけてニュータウン開発が事業決定し、日本中で郊外への人口の誘導が始まっていた」なかで「団地や家電や自動車が大量 生産されただけではなく、家族そのものが大量生産された」ことが指摘されているが★4、この変化は宮台真司によれば、戦後の社会的な「郊外化」の中でも、1950年代後半から始まった「団地化」であり、これは「『バラ色の郊外家族』という夢=フィクション」に支えられていた★5。つまり、このような幻想は、団地や家電や、そして自動車と抜きがたく結びついていたといえよう。郊外から、地下街へ。車に乗って、駅へ行こう。たしかに、あの若い夫婦は郊外から地下街へと移動できるのだ。

郊外も地下街も、綿密な計画の賜物である。八重洲フィールドワークを進めていくと、両者の「計画」における重要な近似性を発見した。「自然」の存在である。郊外の住宅地は、広大な土地を新たに造成し住宅を建てることで成立していく。虚構の「問題」を解く「解決」方法として、都市としてきっちり「計画」された★6。解決方法のひとつとして結果 的に捏造された「緑地」はイデオロギー化し、「緑地=快適さ」という特殊な文法を一方的に補強してはこなかったか。緑色系に彩 られることをもって正当性を獲得する「自然」までもが周到に配置される★7、緑化イデオロギーの浸透した地下街と郊外。地下街の隅々にまで行きわたるあまりにも手厚いこの配慮を通 じて「不自然さ」が発見されるとは、なんと「自然」な出来事だろう。自動車の存在、移動手段としての可能性だけではなく、「自然」の計画という面 でも、地下街は足下に広がる「郊外」である。

しかし、急いで指摘しなければならないが、地下街において見出されるのは「植栽」であって、郊外的な「緑地」ではない。そこで見出される植物は、ある程度の広さをもった緑色の範囲ではなく、一本一本の根本を確認できるぐらいの、あまりにもささやかな存在にすぎないのである。資料中の植栽をプロットした画像で一目瞭然だが、地下街においては、一つひとつの「自然」は上から見れば文字通 り単なる点にしかなりえないのである。一方でニュータウンでは、「緑地」は平面 的な広がりをもった範囲であり、その一部についてはまるで「森の方が先にあったという気がする」とさえ指摘されている★8。「緑地」は成長するのだ。植え替えなくても、勝手に育っていく。

一方で、地下街はいったいなにを偽装しようとしている(いた)のか。繰り返すが、地下街で見出されるのは「緑地」ではなく「植栽」である。「植栽」であるということは、管理人のナイーヴな判断が通 底するインテリアだということである。だから、地下街における「自然」は、過剰に計画された都市の一部などというよりは、ささやかな速度で人知れず交換され続ける「部品」と言ったほうがいい。植栽と地上の季節感との対応は今後見ていかねばならないが、この部品交換は、細胞が身体の持ち主にさえ気づかれないようにしながらすっかり入れ替わってしまうような、そんなひそやかさで絶えず進行しているのだ。

「最前線」としての地下街
このように、地下街においてはどこまでも操作可能なインテリアとしての「自然」を発見することができる。地下街における「自然」とは、いまのところ完全に外部と関わらない(関われない)内部であるようだ。ディズニーランドのように完全に計画された「緑地」(または鉢植えの集合)では、外部といえば季節の変化を指すのだろう。だが季節の変化も管理の基準の一部である。いくら屋外にあると言っても、それは完全に管理され操作されるインテリアである。ディズニーランドの「自然」も、地下街のそれとなんら変わらないのではないか。われわれの足下には、わずかここ数十年の間に捏造された「問題」が埋設されているのだ。郊外のニュータウンに見られるように、歴史のある時点で特殊な「問題」が社会的に構築され、それを「解決」するための都市計画が地上以上に先鋭化された場所として、地下街を捉えることもできる。この一見退屈な空間はややもすると廃墟に見え、それは退却戦の殿を想起させるかもしれない。しかし地下街がいくつもの選択をしながら息をひそめて進んでいることだけは確実なのだから、それは依然、都市の最前線に位 置しているといって間違いないだろう。




★1——貝島桃代「トーキョー・リサイクル・オリンピック計画」
(『10+1』No.20、INAX出版、2000)
★2——地下街整備の経緯については、「地下街の現状と検討課題」
http://www.hiroi.isics.u-tokyo.ac.jp/chikagai.html)に詳しい。
★3——http://www.metro.tokyo.jp/INET/KEIKAKU/SHOUSAI/7063R05G.HTM
★4——三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史』(講談社現代新書、1999)p.29
★5——宮台真司『まぼろしの郊外』(朝日新聞社、1997)
★6——西沢大良「近代都市」(『10+1』No.1、INAX出版、1994)
★7——〈地下の植栽図〉
★8——千葉学×塚本由晴「対談 都市の隙間をどうつくるか」
(『建築文化』2000年11月号、彰国社)
※八重洲地下街公式ホームページ  http://www.yaechika.com/
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