まえがき+あとがき(特に初めてアクセスしてくださった方へ) 塩田健一 SHIOTA Ken'ichi |
|
なぜ地下か 「今日はお客さんがくることになったから部屋を片付けなさい」と母親に言われ、仕方なく子供は床に散乱したオモチャと本とTシャツを押入れに押し込んで、片付け完了。地下街はその押入れに似ているように思います。つまり地下空間は、地上で許容量
を超えてしまった問題(床面積の不足、交通機関の飽和、環境の悪化等)を保留にしたまま、しかし都市機能を新たに拡張するための解決策として利用される側面
が強いからです。たとえば、八重洲地下街(昭和40年)、新宿駅西口地下街(同41)、池袋駅西口地下街(同44)、新橋駅東口地下街(同47)、新宿歌舞伎町地下街(同48)などが開設された昭和40年代というのが、「東京都公害防止条例」(同44)や「東京における自然の保護と回復に関する条例」(同47)が制定された時期だったことを考えていただけば、イメージしやすいでしょう。ちょうど、昭和39年の東京オリンピックを契機にに首都高速道路などの交通
網が大整備された直後の時代です。ならば、地下空間を観察することで、その街が抱えている問題とダイレクトに出会えるのではないか。さらには地下空間が、都市について考える「きっかけ」になるのではないか。そんな勘を足がかりにスタートしたのが、この「地下設計製図資料集成」と題したフィールドワークでした。
|
|
東京駅八重洲地下街。2月だというのに、目に映る「緑」(八重洲の植栽写
真参照)は青々としていまいした。その「自然」を管理する綿密な人為性に私たちは郊外との類縁性を発見し、また、今日多くの都市に共通
する偽装性を嗅ぎ取ったのです。 |
|
|
「超高層地下」からの眺望 |
新橋地下街。ただしここでは、地下街そのものよりも新橋という街の性格に考察が及びました。様々な交通
網が交差した結果として、初めて「新橋」が浮かび上がってくるという理解です。そこからなんと瀬山は、遠くフランスは「リール」にまで思いを馳せてしまいます。
因みに谷崎潤一郎の短いエッセイ「都市情景」では、避暑地からの帰途、汽車が新橋駅に到着すると、駅前に降り立ち「ああ東京はやっぱりいいなあ」と安堵し、電車に乗り換え日本橋の自宅に向かったと記されています。大正15年、既にここが交通
の中継点として描かれていたのです。 |
ユーラリール駅付近 |
|
|
そんなわけですから、私(たち)と経験も興味も異にするであろう皆さんが私たちの描き残した記述を読んで、心から納得していただけることなど大変稀であるかもしれません。しかし、ある程度はそれでいいのです。たんなる「場所」の羅列として計画された都市が利用者各人の経験や志向性を通 して時間化され、「空間」へと再編成されてゆく。見出されてゆく。都市「空間」は百人百様です。そうした個人々々の認識の差を尊重するためにも日記(フィールド・ノーツ)という記述形式を用意しておいたのですから。 ただし、反省点は、その「個人の認識の差」を擦り合わせる時間をもっとメンバー内で共有すべきだったということです。つまり、地下空間で行った観察や想像を個人的な体験のレベルにとどめてしまうことなく、不特定多数の人々が共有しうる理論的枠組みへと飛躍させる努力に注力すべきだった、という反省。 繰り返しになりますが、現場に行って体験して頂かないとわからない。行ってみたら、まったく私たちと違う体験をした。それこそ素晴らしいことなのです。4人のメンバーがフィールドワークをすれば、そこには4通 りの地下街が蜃気楼のように立ち現れます。みなさんも、ぜひ地下街を歩いて、五感で感じてみてください。「誰にとっても正しい」ような事務的な地図や教科書からは零れ落ちてしまう、各人各様の「地下」を経験し、街を思考するアプローチの一助になれば、とりあえずの目標には近付けたといえます。最後に。 他人のことを知りたければ、その人の本棚を見よ、あるいは交友関係を見よ、などと言います。いま、同様に、都市のことを知りたければ、その地下空間を見よ、とも言い得るのだと感じます。
|
▲TOP ■HOME |