地下設計製図資料集成第8回
新橋地下街

 
  不在の地下街から、東京の現在へ
山崎泰寛

□「新橋論」の不在
渋谷の谷の上に露出していた銀座線に乗って、新橋駅に降り立つ。新橋はながらく都市として論じられてこなかった場所である。もちろんバラエティ番組では酔っ払いへのインタヴューは恒例だし、新橋への最大公約数的なイメージも、「サラリーマンの街」といったあたりに落ち着くだろう。しかしそれゆえ、新橋に対して「サラリーマンの街」以外のイメージを抱くことはむしろ困難であると言わざるをえない。
これまでフィールドワークを行なってきたいくつかの場所と比べれば、論の不在ぶりは際立つはずだ。たとえば〈渋谷〉は、東京南西部方向からの交通が集結する地点や、若者文化を生み出すエネルギーの源泉などとして論じられてきたし、〈新宿〉は、圧倒的な量の建築物がメガロポリスの象徴的な風景として論じられもした。つまり、ここ数カ月間にわれわれが歩いた場所は、単に〈渋谷〉や〈池袋〉などといった地名を指す名詞としてではなく、既存の「論」を想定できる街でもあったのである。
しかし繰り返すが、われわれは「新橋論」など一度も目にしたことがない。(私の不勉強を棚に上げて言うならば)ひょっとするとその理由は書き手の怠慢に求められるのかもしれない。書き手たちは、事件を発見し物語を再構成するのに都合のいい場所――要するに自らの生活空間としてリアルな街――ばかりを選択的に論じてきたのではないか(たとえば、青木淳のヴィトンのファサードと妹島和世のオペークのそれが一本のストリート上で同時に視界に飛び込む銀座の事実にはもっと驚くべきではないか)。怠慢はともかく、新橋が議論の対象となってこなかった背景には、都市の現在を記述しようとする批評自体の不在があるように思えてならない。
多少話が逸れたが、ここで急いで言い添えておかなければならない。われわれは新たに「新橋論」を打ち立てようとするわけではない。そうではなく、〈新橋〉を基点とした都市――東京――を記述するための方法として、地下からの思考を採用するまでである。

□新橋という「駅」
まず、新橋という街それ自体が〈駅〉であり続けた点を確認しておこう。1872(明治5)年に、最初の鉄道が新橋−横浜(現桜木町)間に開業したことを思い出す者は多いはずだ。ただし、新橋が東京にとって特権的な場所であったことは、都市交通としての地下鉄が成立する過程を振り返ることでより明瞭になる。
当時最大の歓楽街だった浅草と新橋の間には、1882(明治15)年に東京馬車鉄道がはじめて走り、1903(明治36)年には電化された、市内交通の最重要幹線である。省線電車も新橋駅はすでに高架化しており、新橋が交通の要所だったことを窺わせる。1910年代の東京には路面電車と省線電車(現JR)が成立していたが、この時期東京の都市交通はすでに限界に達しており、地下鉄の開発が進められるのは必然的な出来事だった(当時ロンドンとパリは地下鉄が開業していた)
現在の営団に統合される前に、二つの会社が新橋を起点として地下鉄を営業していた。まず東京地下鉄道株式会社が、幹線である浅草−新橋間(8.0キロ)を1934(昭和9)年に全通させている。一方、1939(昭和14)年には東京高速鉄道株式会社が渋谷−新橋間(6.3キロ)を開通させた。両社間には激しい確執があったものの、1939年には新橋駅での相互乗り入れ運転が始まっている(現在の新橋駅付近の急激なカーヴはこのときの二路線併存状態の名残だ)。当時の渋谷駅はすでに郊外からの路線が集結するターミナルと化しており、都心に直結する地下鉄との連絡の整備は急務だった(和久田康雄『日本の地下鉄』[岩波新書、1987]11−48頁参照)
さらに言えば、現在東京の臨海副都心と都心を直接結ぶ路線も、新橋を発着駅とするゆりかもめである。鉄道の発祥から地下鉄を経てゆりかもめに至るまで、時代を超えて新橋は東京の基点であり続けており、もはや東京という都市にとってきわめて重要な位置を占め続けている場所であると言うほかない。特に交通に限定すれば、都市の結節点としての重要性は明瞭だろう。
もっとも地上に目を転じれば、新橋は「静岡新聞・静岡放送東京支社ビル」(丹下健三)から「電通汐留本社ビル」(ジャン・ヌーヴェル)を経由してテレビ局にまで接続される。それぞれの場所はバラバラの時代背景、つまり時間的な差異を背負ったまま、新橋という場所に接続されるのである。もはや新橋が近代メディアの発信地でもあり、なにも交通に限った基点ではないことが明らかであるはずだ。地上においても、また地下においても新橋はつねに開発にさらされ続けてきた。このように流動する時間を生きる〈新橋〉には、間違いなく東京の現在がある。
なぜそこが〈新橋〉でなければならなかったのかは依然不明である。だが、その理由を問うて「新橋論」を構築するのではなく、ここでは東京という都市にとって新橋が要所であった点を確認しておけば十分だ。瀬山は、ヨーロッパ圏の基点としてリールを引き合いに出すことで、都市としての新橋の特異性をより明確にするだろう。

□〈しんちか〉という不在/東京の現在
とここまで論じてきたところで、結局新橋の地下街〈しんちか〉について一言も触れていないことに気づかれただろうか。文字上は一言も触れていないが、私は一貫して新橋の地下街の性格に言及してきたつもりである。ここで新橋駅地下街に手を付けないということは、文字通り「新橋論」に手を出さないことにほかならない。「新橋論」の不在ぶりを徹底させることで、地下からの思考が都市全体に押し広げられる可能性がかえって際立ったのではないだろうか。
もはやこれまでのフィールドワークで行なってきたように地下街の形式を分析するだけでは、新橋をとらえることは不可能なのである。渋谷池袋 では地上を範疇に入れることで、新宿 では超高層ビル、横浜では地形への思考を練ることで、都市の把握に立体的な広がりをもたせてきた。さらに新橋では、新橋という呼び名では指し示せない外部との交通、さらに同一の場所に成立し続けながらも差異化されてきた時間を生きてきた場所として思考した。
「新橋論」は放置するほかなく、新橋を構成するいくつもの場所を曖昧に重ね合わせ、曖昧なままの〈新橋的なるもの〉を思考すること(上図)、新橋を地上と地下から、過去と現在から、いわば同時多発的に発想すること。いまや、東京の現在が新橋「にも」あることを疑う者は誰もいないだろう。

■フィールド・ノーツ
■論考「解ける地下街」
 瀬山真樹夫































スタッフ

狩野朋子(協力)
塩田健一
瀬山真樹夫
田中裕之
戸澤豊(協力)
山崎泰寛