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201108

連載:Think about the Great East Japan Earthquake

東日本大震災を考える[2]:移動と定着のメカニズム──災害の歴史から学ぶこと

牧紀男+青井哲人 


3.11からの1カ月

牧紀男──震災当日は京都大学にいまして、最初、僕個人は感じませんでしたが、研究室の学生の話で気づき、確かにフワフワという揺れを感じました。京都は東北から距離が離れていたこともあり、最初はそれほど大きい地震だと思わなかったのですが、テレビを付けると仙台沖で非常に大きな地震があったと言っていました。
防災の専門家の観点から言うと、この30年間の地震発生確率は宮城県沖で99%、三陸沖で80〜90%でしたから、その地震が来たのかというのが第一印象で、そのふたつは陸側と沖側で分かれているのですが、最悪のシナリオとしては両方が一度に動くことになっておりました。今回のマグニチュードの値を見て、同時に動いたのだと思いました。テレビを見続けていると、津波は到着予定時刻の3時になっても来ず、ならば今回は大丈夫かと思っていたら、その後、3時10分頃、大きな津波が釜石に押し寄せる映像が流れてきました。

想定された地震

牧紀男氏

三陸地域はそもそも防災対策が進んだところで、例えば釜石には津波防波堤があり、大きな被害が出ない想定だったのですが、それを超える大きな津波でした。その後、マスメディアからいくつか問合せの電話がかかってきました。夜になって気仙沼の火災の様子がテレビで流されていて、事態は大変なことになっていると。1993年の北海道南西沖地震による奥尻島の津波の時も同じですが、港にある石油タンクや漁船に入っていた石油は比重が軽いので浮きます。そこに少しでも引火すると大火災になる。そういった様子を見て、大変なことだと分かってきたのが初日です。
僕は災害の研究をしていますが、災害現場でどれだけ役に立つのかが重要です。今回は地震の1週間後から2週間までは岩手県庁の災害本部に行きました。そこで、3日後や1週間後にこんなことが起きるといった想定できるその後の災害についてアドバイスをしていました。対策の先手を打つためです。大きな災害では、なかなか全体像が見えづらいものです。対策本部には、毎日3cmもの厚さの会議資料が出てくるのですが、誰もそのすべてを読むことができません。ですから、それを「可視化」するという事を災害対策本部でやってました。例えば電気は山田町、釜石、大船渡などで、どこが回復しているのか、遺体の捜索の状況、生活再建の状況、さらにその先の復興計画など、自治体ごとに色塗りをして全体像を把握する図を作成していました。いかにして県庁全体の情報や、市町村ごとの情報を分かりやすく示すお手伝いです。また情報を共有するためには建築の専門領域である、空間で考えるということが非常に重要です。災害対策本部の机の並べ方やレイアウトをどうすれば効率的に情報が上がってくるかなどのアドバイスもしていました。その後、一度京都に戻り、その後もう一度岩手県庁に行ったわけです。
今回の災害直後の一番の問題は、ガソリンが不足したことです。集積場には支援物資が溢れていたのですが、その先に持って行けなかった。動脈は動いているのに毛細血管がダメになっていたわけです。
直後に復興についての取り組みを考えることが重要ですとアドバイスをしていたのですが、バタバタしていてまだ先ですねというお話でした。しかし、通常は災害から3カ月目に大きな枠組みが示され、6カ月後にその具体化についてをまとめ、自治体レベルまで計画するのが7カ月後というペースですが、今回宮城県は1カ月後にかなりしっかりした計画を出し、大きな枠組みを示しています。ただ、僕たちの専門である空間計画にはまだ手が付いていません。これから、復旧・復興については空間計画を踏まえて考えていなければいけないというのが震災から1カ月の今の状態です。

青井哲人──地震が起きたのは金曜日でしたが、まず帰宅困難者の問題が身近にも起きていました。週末は情報も不十分で、ある種の真空状態のようでした。しかし日曜日くらいから徐々に具体的な情報が入り始め、津波被害の衝撃的な映像がTVで流れたり、原発事故の不気味な動向も含めた今回の災害の深刻さや大きさが分かってくると同時に、買い占めやデマなどある種のパニック的現象も始まったと思います。予定されていたシンポジウムや卒業式などの行事の中止を検討するメールが次々に入ってきて、当初は躊躇する意見も混じっていましたが結局発災翌週中には3月中のほぼすべての予定がキャンセルになりました。その結果、何もすることのない時間がポッカリとできるという何とも落ち着かない経験をすることになりました。

青井哲人氏

その間、大学時代の同期である宮城大学の竹内泰さんによる仙台市や三陸海岸地域の精力的な調査レポートを読ませてもらったり★1、都市計画コンサルタントの友人から情報が届いたり、建築家の友人と仮設住宅について意見交換をしたりということがありました。竹内さんは、現地は悲惨な状況でとても緊急から応急へとか、復興計画とかを云々するようなリアリティはないということを強く言っていました。そもそも本当にそこに住み続けられるのかどうかという、都市計画や集落計画が成立する以前の問題だということです。例えば、大部分の船が失われている中で、水産業をどうするのか、段階的に手を打たなければいけない。彼自身は漁協の人たちとも接触していて、日本各地あるいはアジアからでも色々なネットワークで船が手に入らないかということも考えていますし、水産業などの生産分野に関わるような施設の再生にも動いています。阪神淡路のときとは性質の異なる、津波被災地での水産業を中心とする生産拠点の再生という問題が、今回重要になることのひとつだと思っています。
ところで牧さんは京都大学の先輩で、出身の研究室は同じだけれどまったく違う研究分野に離れたと思っていたら、最近ぐっと関心が近づいていますね。僕は、災害や戦争の後のある種真っ白な状態、傷ついた状態から、どういったプロセスやメカニズムによって都市が再生していくかというダイナミックな動きを見ることで、平時には見えにくい潜在的な都市の本質が見えてくるのではないかと考えていて、そういうことを研究室でやっている。一方、牧さんは防災の観点から世界中の被災地を回られて、災害後に人は移動し、モビリティが上がるということを復興の観点に組み込もうとされています。牧さんも僕も、フォーマルな都市計画とその歴史だけでは追えないような、インフォーマルな人・組織・プロセスを含んだ都市の柔軟性やしたたかさについて考えているわけです★2
今回の災害は非常に広域に渡るもので、津波被害の甚大さに加えて、福島原発の問題があります。だから移動が多層的に起こっていて、それらを的確に捉えないと空間のフィジカルなプランニングの前提が見えないのではないか。復興にあたり絵を描くことは当然ながら必要で、すでに首都圏の都市計画コンサルタント等でも半ば強引に絵を描くことが始まっているようですが、現地のリアリティや歴史的経緯、そしてモビリティや産業を踏まえた復興あるいは再生の議論がこれからされていくべきだと思います。

被災──5つの様相

牧──今回の災害で大きく5つのことが起きていると捉えています。それらをひとつの事象として考えると災害の対応、これからの復興のあり方を間違ってしまう。
ひとつは津波による甚大な被害。特に岩手の三陸から石巻にかけての被害です。 ふたつ目は仙台市の被害です。仙台は百万人都市ですから沿岸地域とは少し様相が違っています。ガス・水道の復旧に1ヶ月程度必要で、ライフライン停止に伴い都市活動が止まってしまった。これは実は1978年の宮城県沖地震の時と似ています。また、仙台平野の津波被害は三陸とは異なっており、内陸部深くまで津波の被害が及んでいます。
3つ目は福島原発。これは僕たちが歴史上経験したことのないもので、1999年に東海村JCO臨界事故がありましたが、あれは半径350m以内の住民約40世帯への避難要請と500m以内の住民への避難勧告でしたから、規模がまったく違います。広域避難については、日本で戦争やテロ攻撃があった時の法律として、国民保護法というものが平成16年に成立・施行されています。その時に防災の専門家に協力が頼まれ、避難計画をつくり、テロ攻撃を想定した住民のバスによる避難訓練もしていました。われわれ専門家は有事の際にそのような避難は難しいのではないかと思っていましたが、今回は実際に行われました。
4つ目が東京都市部で起きた帰宅困難者の問題と計画停電による混乱です。これも実は今後30年間に発生確率70%の首都直下地震が想定されていたので、検討はされていました。防災系の本としてはよく売れた『震災時帰宅支援マップ 首都圏版』(昭文社)もありますが、都心から郊外へ向かう交通が麻痺するということが本当に起きてしまった。また、長周期地震動ということで、超高層のエレベータが止まったり、壊れたりで、閉じ込められるなどの被害も発生した。また初日には東京湾でコンビナート火災が発生した。2003年の十勝沖地震の時は、震源から300km離れた苫小牧でも石油コンビナートの火災が起きています。

石巻

以下、被災地の写真は全て牧紀男氏撮影による。大きな写真は以下で閲覧可能。
https://picasaweb.google.com/noriomaki?authkey=Gv1sRgCI3eiNTBroi0Sg

5つ目はサプライチェーンの問題です。被災地からの部品の出荷が止まると世界中の工場が止まってしまう。これは前例として、2007年中越沖地震の時に、リケンというピストンリングをつくっている会社がひとつ止まっただけで日本中の自動車工場が止まったということがありました。
そういったわけで、それぞれ個別には想定できたのですが、今回はこの5つすべてが同時進行で起こった。エリアも岩手から千葉の浦安あたりも含めた南北600kmほどのエリアに被災地が広がっていて、様々な被害が複合的に起こっているのが今回の災害の特徴です。メディアで注目されるのは大変なところですが、様々な視点から復旧支援や防災対策の強化を考えなければいけません。

女川町

僕は現在京都に住んでいますが、出身は和歌山です。残念ながら2030〜40年くらいにこの「西日本大震災」と言うべき東海・南海・東南海連動型地震が発生すると考えられています。これは周期性のあるもので、1944年に東南海地震、1946年には昭和南海地震があり、その規模は今回の東日本震災とほぼ同じく広域にわたっています。その時、東京では長周期地震動が起き、津波は和歌山や高知に到達します。またサプライチェーンの問題も同じく起きるでしょうし、都市で言えば真下に震源域がある静岡には大きな揺れが来ます。今回は、西日本に住む人にとっては、電気も60Hzですし、ほとんど影響はありませんでしたが、しかし、今度は西日本大震災です。西日本に住む人にとって明日は我が身です。今回の災害からいかに学ぶかが重要です。
大きく5つの問題が発生していますが、津波を受けたエリアについて考えていくと、当初、高齢化が進んだ限界集落かと思っていたのですが、人口のデータを見ると比較的若い。中越沖地震の際の山古志村のようなイメージで捉えてはいけないと思います。現金収入が得られる産業である漁業は立派な船を見てもわかりますが、多くのお金がかけられていました。また、三陸沖は暖流と寒流がぶつかる良い漁場ということもあり、住民をどこか別の場所に移して復興を考えるエリアではありません。今後も人が住み続けなければいけないと思います。
漁業は農業と違って元々移動しながら仕事するものです。例えば、2000年の三宅島噴火災害の時は、漁師さんたちは別の場所に港を移して、そこから出漁していましたし、自分の港に水揚げする必要はありません。高知で獲ったものをその時に値のよい愛媛で揚げたりもします。そういったわけで漁業は比較的災害に強い産業です。ただ、原発の問題は唯一困った問題です。外国人は東京からかなり西日本に移っています。震災の後、東京に来て、繁華街の外国人の少なさに驚きました。東京以外の場所へ移動しても仕事ができるような、移動力の高い人については今回の災害での問題は少ないですね。一方、仙台平野の海水を被ってしまった農地の被害は甚大です。

青井──僕も三陸の小漁村などの被災地では限界集落化がひとつの問題になるのではないかと思っていましたが、人口構成的にはそうでもないのですね。ただ、若い人はモビリティが高いが故に自分の仕事を探して動いてしまうと結果的に限界集落が残ることになりませんか。

牧──それはあり得ますね。若い世代が動く理由はふたつあって、ひとつはその仕事の問題。もうひとつは自分の子どもの問題ですね。小学生の子どもを2回転校させるのは酷ですから、一度出てしまうとしばらくは帰って来られなくなる。移動できる人が災害に強いと考えていますが、今は出稼ぎが少なくなっており、昔は農家の方は冬の間に南部杜氏に出ていたという話もありました。津波の被災地域で漁業をされている方の割合がどれくらいか、さらにどれだけの人が残るかが問題ですね。

災害による移動と定着のメカニズム──山口弥一郎の仕事

青井──さきほども言いましたが、僕は戦災からの復興など、都市の再生プロセスを歴史的に捉える研究をしています。関連する先行者としては田中傑さん(東京理科大)による関東大震災後の復興研究や、初田香成さん(東京大)による戦後ヤミ市の研究などがあって、色々教えてもらっていますが、個人的な問題としては、今回の震災はそのような歴史研究が、実践にどういう回路で繋がり得るかを考える試金石と捉えたいと思っています。三陸地域の津波被害は反復的に起きているもので、1896年、1933年、1960年、そして今回というように、明治以降だけでも大規模な津波は4回あり、資料も相当な量があります。それらを集落ごとに集成することで、移動の問題も含めて、集落計画や都市計画の基礎データとして役立つのではないかと思っています。
そういう関心から、今日僕から紹介したいのは、三陸地域の漁村を中心に調査をした福島県出身の山口弥一郎(1902〜2000年)★3という人についてです。歴史学・地理学・民俗学など幅広く研究し、数十冊の著書と数百本の論文を残しているのですが、その中に集落地理学の研究群がある。これは津波災害後の集落移動の問題を調査したもので、最も早い調査は1935年ですから、1933年の津波から少し落ち着いた頃のものですね。彼はそれから三陸地域の漁村に入り、戦争中も戦後も調査を続け、集落の数にすると200以上、年数は20年以上にわたる追跡調査をしている。生資料があればたいへんなアーカイブでしょうが、発表されたものだけを読んでもきわめて興味深いものです。

上:田ノ浜(現岩手県下閉伊郡山田町、田ノ浜地区)
下:田老(現岩手県宮古市、田老地区)
チリ地震津波が起こった1960年当時の地図で、1933年昭和三陸津波後に行なわれた復興の形態がよくわかる。
出典:建設省国土地理院『チリ地震津波調査報告書』(1961)

山口弥一郎の関心は、津波被害があった時にどんな移動が選択されたのか、移動計画が立てられながらうまくいかなかった場合その理由は何か、そしてせっかく移動したのに原地復帰してしまうのはなぜかといった、移動と定着のメカニズムにありました。その調査と考察は、人が定住することの意味を問い直す仕事だと解釈できます。集落の研究というと普通、観察した時点の集落構造をスタティックに共時的に再現するわけですが、山口はむしろ動く時にこそその本質が出てくると見ていたのではないかと思います。実際、彼はその研究によって「集落地理学の根本問題」が解けるのではないかと書いている。
大雑把に言ってしまうと、津波災害にあったときの集落のフィジカルな対策には3類型あります。ひとつは集団での移動です。例えば岩手県旧船越村の田ノ浜(現・山田町)では、1896年の津波では集団移動を計画しながら失敗し、1933年の津波で甚大な被害を受けた後に集団移動しています。集団移動には、広い土地が見つかるなどのさまざまな条件が必要です。基本的には被害が大きくて土地が見つかった場合は集団移動しています。
一方、被害が大きくても相応の土地が見つからないとか、土地造成のコストがかからない小さな土地が分散してある場合は個別の分散移動になります。そして、そういった移動適地が一切見つからない時には非移動ということになるのですが、その場合でも、道路の基盤整備や地盛、防波堤建設などの対策がとられる。これも集落地理の変化ですから、移動の一形態として扱うと山口は言っています。
また、そのような移動の後に何が起こるかも重要で、集団移動をすると元々あった地割の上に分家の集落が形成されてしまうこともあれば、分散移動の場合には集落の元々の凝集構造が解体されて、斜面地にバラバラと展開した景観になる。いずれにせよ集落景観が二重化するのです。集団移転がうまく定着したケースでも、原集落の地割はしっかり残って、区画がそのまま田畑に転換された中にお稲荷さんや祠、墓地が残ったりする。そうすると、お墓参りやお盆の行事があったりと習俗上の繋がりがあるので、簡単には原集落を消すことができません。また、水産業のための納屋や番屋と呼ばれるバラックのような仮設建築物はつくられる。そうして、景観的に二重化を呈しても結合は切れず、住民は両者の往復運動をすることになるし、二つの場所の間にある種の力学が発生します。1933年の津波の後の移動により空いた屋敷地には、戦争からの引き上げ者や復員兵、疎開者が流入してきて、原集落を占拠します。牧さんが言われたように、すぐに現金収入が得られるという漁業の性質も関係しているでしょうね。やがて戦後復興を経て好況になってくると、先住民の方が不便な生活をしているわけですから、だんだんと新住民の形成した海岸に近い集落の方に引き寄せられていきます。例えば、繁忙期には漁具を納めている納屋・番屋に住み込みになることもあるでしょうが、収入が増えてくると一斉に恒久的な住宅への建て替えが起きるということもある。仮設物が恒久化して恒常的な空間組織を形成していくプロセスは、災害後に普遍的にみられる現象でしょう。
そういった複合的な力学的諸関係が規定するダイナミズムの中で、人が動きます。被害後の共同的・計画的な意志による移動と、その後に起こる出来事が生み出す力学が重なり、集落が段階的・連鎖的に動くのです。こうした観察は、今回の災害復興へのヒントになるのではないかと思っています。
フィジカルな計画に直接参考になるところでいえば、昭和の集団移動でも原集落にあった学校とか産業関連の共同のファシリティを組み込んで計画移動したために比較的、元の場所に戻らずにすんだという例もあります。原地復帰が少なかった集落では、チリ地震津波でも、津波が比較的小さかったということもありますが、ほぼ被害は出ない。ところがその後防波堤が建設されると再び低地に集落や市街地が形成されるようで、今回の津波ではその部分は壊滅的になっています。

牧──すごくおもしろい調査ですね。防災では分家の災害というのが有名です。日本の人口が増加する時に、本家は漁村の安全な場所にあっても、分家をつくる時に、人が住んでいない危ないところにつくり、土砂災害などの被害を受けるということがよくありました。
日本には津波災害があまりなく、近年も奥尻島以来大きなものがありませんでしたが、災害ごとに集落が動くということはパプアニューギニアでもあります。ここは100年に一度の周期で津波があるのですが、被害による奥地への移動と、また海の方へ出てくるという運動を繰り返しています。公共施設を高台につくると定着がうまくいく点は共通しています。また、1992年にインドネシア・フローレス島地震の津波がありましたが、この時も小さな島の住人が本島の高台へ移動しました。島には番小屋があり、今でも仮住まいをして漁業や農業を行うのですが、学校がないので、子どものために家族は移住先の本島に定住しています。
三陸地域には「ここより下には住んではいけない」と書いた津波の石碑が残っていたりして、防災意識も非常に高いのですが、護岸の整備が進んでいたので、ある程度工学的な技術で勝てると思ってしまい、海の方へ下りて行ったことが被害が大きくなった原因かもしれません。

災害と再生のタイムスパン──移動と要塞都市

青井──そうですね。歴史的に見ると、1933年の津波では福島県も岩手県も高所移転を推進しました。集団移動が実現できそうな場合は、内務省が指導し、県が計画・設計して、補助金をつけて町村の事業として実施された。高所移転が原則で、できない場合は防波堤をつくろうという方針です。ただ、1960年のチリ地震の津波の復興では高所移転はほとんど見られないようで、かわりにほとんどの集落で防潮堤を建設し、戦前の昭和津波のときとは違う集落景観の変貌をもたらします。田ノ浜も防潮堤は1960年以降の整備です。つまり、1960年以降の漁村の整備は、防潮堤と港湾施設に膨大な土木予算を落とすことによってなされてきたわけです。
山口弥一郎はおもしろいことを言っています。村落は定着できる移動を検討すべきだけれども、地方の拠点的な都市に成長した集落は、投入された資本も大きく、それが空間的にも社会的にも経済的にも密度の高い結合をつくっているため動かせないので、さらに資本を投下して守るしかないと。山口は「城郭都市」という表現を使っていますが、「要塞都市」と言ってもよいでしょう。実際、出漁するときなどは城壁のような防波堤の間を船が出陣していくような格好になる。どことなく戦争をイメージさせるけれども、敵は津波なわけです。今回の津波被害にあった漁村もたいてい山と防波堤・防潮堤に囲まれて、要塞のようです。これは高度成長期以降の土木予算の投入によって、要塞都市の原理を一般の漁村にまで拡大して適用してきたと考えることもできそうですが、これは戦後史の問題として検討に値するでしょう。

牧──防災都市で有名なのは、岩手県宮古市の田老町ですね。ここは川からも、海から両面からの津波に備えた高さ10メートルの防潮堤があったのですが今回の津波はその防潮堤も乗り越えてきました。二重の要塞が津波に乗り越えられてしまったわけですね。地域のすぐ裏に山が迫っていますからこれ以上の防災の方法はありません。この田老町にはもう住めないのかという問題ですが、今回は1000年に一度の規模で、今まで想定していた30〜50年のサイクルの津波とは種類が違います。今後史上最大クラスの津波に対しても完璧に守るようにつくるのか、または山に逃げるしかないと考えるのかということが問われます。僕は個人的にこれ以上の防御は疑問です。避難はしなければいけませんが、1000年に一度の津波からまちを守ろうとすると、日常生活に大きなストレスを強いることになると思う。

田老町

青井──どの災害でも同じですが、大きな時間の流れの中で災害と再生をどう位置付けていくかという歴史観が問われますよね。いま牧さんが言われたように人間のタイムスパンで把握可能な循環・反復する時間と、それを切断するようにやって来る時間の波があります。一方で、建設技術を含む科学技術や経済成長といった、少なくともこれまでは直線的に進歩するように見えていた矢のような時間の流れをどう捉え直すかということもある。そうしたなかで今回のような規模の津波をも展望に含めて変えていくのか、あるいは自然的・循環的な時間に対して順応していくのか。

大船渡

牧──今回の浸水面積は、2005年にニューオリンズで起きたハリケーン・カトリーナによる被害と実は同じくらいですね。ですから復興をやりとげることは可能だと思います。三陸地域では瓦礫の片付けがほとんど終わったところもあります。1000年サイクルの規模の津波に対しては避難により命を守ることを考え、役所や学校などの重要施設は高台に移転させるという、明治・昭和の三陸津波で実施したのと同様の復興対策を考えるのが良いと思います。復興が遅れれば遅れるほど、人が帰って来ないので、限界集落化の問題が出てくる。ただ、原発や仙台平野の田んぼの被害は大変です。

青井──移動力が高い人は災害の被害が少ないという牧さんのお話がありましたね。移動を復興への阻害要因と捉えるのではなく、災害に対する適応のひとつの形態と考えるべきで、旧状に戻すことが復興だという前提に捕らわれてしまうと柔軟な適応や移動が抑圧されてしまう。関連して、コミュニティ信仰が強すぎるのも問題かもしれないという、相当過激に戦後史を相対化する見解も牧さんはお持ちです。しかし一方で、好んで移動する人は決して多くはないでしょうから、たんに移動礼賛と言っているわけにはいかない。あるいは、戻りたい人が潜在的には多くても、復興に時間がかかると戻る人は少なくなってしまう。また、例えば戻りたいと思う時が5年後や10年後かもしれないし、その時は既に戻れる場所がないということもあり得ます。災害への柔軟な適応や移動ということを、復興計画やその支援の中でどのように考えればよいのでしょうか。

牧──まずこういった地域に住む限りは、災害時の移動は不可避であるということが大前提になると思います。その認識を持たない限り、元に戻れないことが辛いことだと思ってしまう。移動のレベルは色々ありますが、逆に戻れたらラッキーだと思えればいいじゃないでしょうか。

青井──とはいえ、何らかの手を段階的に打てば、望まない移動をしなくても済むということはあるでしょう。移動肯定論は決して移動追認論ではありませんよね。

牧──単純な話のようですが、学校がポイントになります。これは世界的にも共通することで、パプアニューギニアでもインドネシアでもアメリカでも、子どもに教育を受けさせられるかということが重要です。日本のすごいところだと思いますが、被害が大きかったところでもすでに学校が始まっていますね。テレビで見ているとあれだけの人が避難していてどうするのかと思ってしまいますが、最も遅いところでも岩手県では4月18日の週から小学校・中学校が始まります。学校が再開できたら人は留まることができるだろうと思います。あとは仕事の確保が課題になりますが、避難所は多くの方が同じ場所にいますので、居住環境は悪く、感染病が広がる危険もあります。ですから、移動できる人は移動した方がよいのだけれど、それを抑圧するような要因もあるようで、一度避難所を出たらその集落には戻れないのではないかとか......。

青井──ある種の共同体規制が働いている。

牧──しかし、居住環境のことを前提に考えれば、内陸や日本の別のところに一度移動する方がいいのです。そうはいっても元のコミュニティーは大切です。そこで集落の人が散り散りになってしまうのを避けながら、移動する方法の提案があります。山が迫っている三陸地域被では仮設住宅を建てる場所が無いので、仮設住宅を内陸に建て、そこに集落でまとまって移動します。さらに毎日、元の集落に通うためのバスを出して仕事や家の再建をできるようにするというものです。車で1時間くらいの内陸まで引いて、そこで体制を立て直し、住めるようになったら戻るという考え方です。今も実際に内陸部と被災した沿岸部を結ぶバスが運行されており、ボランティアの人を朝夕運んでいます。ボランティアの人は沿岸部には泊まるところが無いので内陸に泊まっているのです。このバスを使って今は沿岸部の人を内陸と往き来させるというのは良いアイディアだと思います。

青井──移動を不可避と受け止めた体制を組み立てつつ、サポートのノウハウを増やしていくということですね。

牧──出て行くのはしょうがないと思えば楽ですし、日本に住んでいる限り、周期的な災害は受け入れるしかない。実際、中越沖地震の時の山古志村でも住民は50%しか戻ってきていません。

青井──同じように、災害をゼロにすることを目指して要塞都市化しても必ずしも人口はキープできませんね。

移動をトレースする仕組み
あるいはマクロな離散への想像力

牧──一方、大都市東京の直下型地震について言えば、1923年の関東大震災のようなM8クラスは200年周期ですから僕たちが生きている間には起きないとは言えます。ただ、その間にM7クラスがいつも2〜3回起きます。それがそろそろ来る頃ですね。ただ、宮城県沖地震は今後30年で99%の確率と言われていて、それが起きたので今は確率が下がっていますが、東京の直下型地震は周期が分かっているわけではなく、例えば70%の確率の地震が今日起きたとしても、明日も確率が70%のままというようにどの断層で発生するのかが同定されていない地震です。
この時に東京の避難体制をどうすればよいのかということですが、最悪で650万人の帰宅困難者の発生が想定されています。今回は家族が大丈夫だということが分かるくらいでしたから、帰らずにオフィスに留まるという判断もできました。しかし、もっと大きな直下型の地震だと、家の様子が分からず、多くの人が自宅に向かって大移動をすると考えられます。移動は整然とではなく、道全体に帰宅民が溢れ、ひとり当たりのスペースは1m、ラッシュ時と同じくらいになるだろうと言われています。さらに、東京は郊外にしか避難所や仮設住宅の場所がないので、住人の関西への大移動なども考慮しておかなければならないと思います。仙台と三陸地域で様相が違うように、人が多いということは災害が起きた時に別の暴力になります。東京は大流動化をしない限りは復興は考えられませんから、動ける人は動く。研究職や編集の仕事などはインターネットと電気があれば何とかなりますよ。

青井──でも身近なところでいえば大学の機能停止とか、深刻じゃないですか。

牧──大学の機能維持について言えば、去年インフルエンザの流行がありましたよね。でもまあ気楽なもんで自宅に泊まれと(笑)。
ところで今回もうひとつ大きな問題になっているのが、人々の移動を誰も掴んでいないことです。福島県・岩手県・宮城県の人たちが全国に散って、個人間では分かっていたりしますが、役所が把握する、トレースする仕組みがありません。なので、義援金を配ったり、情報を提供するなどのサービスが提供できない。現在、そのような人たちが国の発表だけで3万人、おそらくもっと沢山いるはずです。「沖縄に避難しているのですが、義援金をください」と言っても、「役所までハンコと免許証を持って来て下さい」ということになりますし、そもそもその情報さえ伝わらないということが既に発生しています。
だから、東京で直下型地震があったばあい、千葉県や埼玉県なども合わせて被災する人口は2,500万人だと言われていますから、震災によって大流動化が起きた時に被災者がどこへ行ったのかが把握できないのは大変です。これまでは人が移動しない復興や支援を想定してきたのですが、現代では交通手段も各種発達しているので、移動が容易になっています。今回の地震を昭和の三陸地震の頃と比べると、被災者の移動距離が長いということが言えると思います。ちなみに、阪神淡路大震災の時は1年後くらいから人の移動のトレースを始めました。

青井──さきほどの山口弥一郎の調査で、私が紹介したのはあくまで集落社会のなかでの移動や分散の話でした。しかし、山口はたとえば漁業の比率が低い場合は集落が分裂して、一部の人が内陸部に入っていって農業開拓を始めるといったより広域にわたる移動も問題にしています。また歴史的にも三陸の漁村は人口が増加したり漁業が衰退したりすると基本的には北上していく傾向があるとか、災害後に北海道に移住するとか、マクロな移動も指摘しています。そういう想像力を私たちはもっと普通に持ち合わせているべきですね。しかし、現在の東京で災害が起きた場合の人口移動ははるかにスケールが違ってくると。未曾有の規模の離散が起きるということですね。

被災から自立する

青井──話題を変えますが、牧さんが常日頃言われていることでもうひとつ重要だと思うのは、被災者をかわいそうな人として、一方的に支援の対象として見る視線の問題です。被災者もまた被災者としてのロールプレイをしがちです。それには色々な背景があるし、歴史的な問題もあるわけですが、自分たちの環境は自分で考え、自分たちでつくり直すというのが本来の姿だったはずだと牧さんは言っておられます。

牧──今、各県から約7万戸の仮設住宅の需要がありますが(4月25日現在の数字)、それに対して3万戸が7月までに供給されるということになっています。需要に対して供給が追いつかない理由のひとつは場所がないということですね。仮設住宅はサイズも決まっているものですし、被災者した人はできるだけ早く住まいを再建したい、自分で建ててしまいたいという需要は多くあります。例えば、漁業に携わっている方が避難所から通うのではなく、番小屋のようなものでもいいから建てようという希望があったりします。でもまだやられていない。また、瓦礫が残ったままでも住み始めてしまえばよいのですが、それをしてはいけないと思われているのかもしれません。テレビで放映されているように、被災者は避難所にいて支援を受けないといけない、というような雰囲気があります。また、もうひとつには被災者というタイトルを失うと支援の対象から外されてしまうと思われていることです。言葉の上でも、在宅避難者と避難者を分けて呼んでいます。両方共カウントされていますが、これは実はお弁当の数です。でも、在宅だと支援が後回しにされるということがどうしても出てきますので、ザ・被災者であるということが重要になっていることは問題だと思いますね。また、ボランティアや役所の人がやってきて、支援をしているうちにその役割にお互い慣れてきてしまうというケースも出てくる。被災者は、支援してもらうことが当たり前なので、いくらやってもらっても不満が出るという、悪いループに陥ることもあります。しかし、阪神・淡路大震災の時はボランティアが支援している中で、「実はもう支援はいいから働きたい」というような話に変わっていったということがありました。
漁をされていた方の中にはできるだけ早く仕事を再開したいと思っている方もいますから、その支援が重要です。その時に建築家は大きな役割を果たせます。工学院大学の先生が気仙大工の方と一緒に仮設住宅を石巻で建てるという話をされていました。被災地でも、建築物の基礎が残っていれば、ドリルで穴を開けてどんどん住宅を建てていくことができます。建築規制が掛かっているところは無理ですが。
このように、自分で何かをやり始めるということが被災地の復興の上ですごく重要ですね。被災者根性を捨てて、避難所の中で座っているだけではなく、自転車を使ったり、移動範囲をまず広げる。その先は自分で何かをつくるということです。もちろんこれは、喪のプロセス、すなわち、身内や家を失って、怒りや悲しみを経て、現実として受け入れた後にできることだと思いますが。その時に、自分で建てようという人が相談できる組織やサポートが重要になります。精神科医にかからなければならない症状については別ですが、先が見えるようにすることが、非常に大きな心のケアになる。その意味では、建築家は構築ということに対して前向きな人たちなのでよいと思いますよ。

つくる意志──集落を形作る原理へ

青井──阪神・淡路大震災の時、そうかいまや災害でもバラックすら建たない時代なんだと素朴な感慨を僕は持ちました。しかし塩崎賢明先生(神戸大学)の調査によると★4、公的な仮設住宅に入る人が決してすべてではなく、神戸市だけでも4,000を超える自力の仮設住宅が建設されているんですね。10年経った後も数百棟が恒久化しているそうです。でもそれらはほとんどセルフビルドではないし、セルフビルドである必要もない。関東大震災や第二次世界大戦の後は当然ながら自力建設の規模は比較的にならないほど大きくて、まずみんなが当たり前のようにバラックを建てました。政府も、まずバラックによる自力再建を促し、立ち上がった20万棟のバラックを動かして区画整理をし、それから適法的な更新を促した。でも、今和次郎が震災直後にスケッチした廃材の豪舎みたいなものは完全な自力だとしても、しばらくして街を埋め尽くしたバラックは市民がセルフビルドでトンカチを持ってつくったわけじゃなく、やっぱり大工が建てたものです。今回あるいは今後の災害でも、セルフビルドせよというよりは、むしろ自分の家を自分でという意思を持つことができるようなチャンネルあるいはサポートを広げることが重要だということですね。
阪神・淡路の時もマクロにみれば住宅メーカー(工業化住宅)の勝利でしたし、今回もそうなるでしょう。それでも神戸で自力復興は消えていなかったし、建築家は制度と資本の支配に対して亀裂をつくる力があるはずです。つくることを奪うのではなくて、つくる意思を手助けするような建築家の役割が描けるとよいのではないかと思います。

大槌

それから、建築家が離れた場所から復興への支援を考えると、まずは仮設住宅の提案ということが頭に浮かぶだろうと思いますが、建築家が社会のためにすべきことは何をおいても住宅だ、そしてその集合としての都市だというような思考には、どことなく20世紀的なモダニズムの束縛もないではない気がします。しかし、水産業の拠点となるようなバラックの番屋や納屋などをつくる支援とか、本当はもっと幅広く考えてよいだろうと思います。要は集落とか都市がかたちづくられる原理のようなものに立ち返ることです。また、何かをつくるにしても、先ほどのお話にあった気仙大工に活躍してもらうといった仕掛けにも色々な意味で可能性を感じます。
また、建築家の能力は雑多な複合的な背景をフィジカルな絵として統合してみせることにあるわけですよね。そのとき、今日紹介した集落移動論のようなダイナミズムをその空間像に組み込めるかどうか。平たくいえば時間のマネジメントを入れた計画を描くことが建築家の役割として重要になるでしょう。

牧──時間のマネジメントは重要です。建築家や都市計画家は完成形をイメージしますが、完成までに例えば10年かかる場合、途中段階の絵も大切です。今はバラックだけど、5年後にはこうなるというような動きを示さないといつまでも始まらない。その説明のし方がポイントになりますね。

吉里吉里

青井──しかも、今回の場合、それぞれの場所でその形が違ってきます。地域間の連携は必要ですが、サイトスペシフィックに段階的な時間を描く、そういうことが各地でおこるような状況はおもしろい。

牧──どうしても固定したものとして建築を考えてしまうのですが、しばらくは地震が来ないわけですから、移動を前提とした提案もあり得えると思います。

青井──歴史的に見ると、ある意味で戦後史のなかで変わってきてしまったものを元に戻すような試みがポジティブな意味を持つかもしれません。

牧──1946年に東南海地震があって以降、阪神・淡路大震災まで大きな地震はなかった。それ故に日本はこれだけの経済大国になった。しかし、かつては山口さんが書かれているような地方における災害後の集落の動きや、都市ではみんなが借家に住むなどした、災害と共に暮らしてきた文化が日本にあったわけです。われわれはある時にそれらを忘れ、災害に勝てるのではないかと思ってしまったのですが、やはり勝てないということを再認識する必要がありますね。もうひとつ今回大きいのはエネルギー問題。それらを見直すよい機会ですね。

青井──それと、原発はコントロール不能なものであるということがはっきりわかった。

牧──あれだけ大きいとマネージメントが難しい。僕は東海・東南海・南海地震の震源域にある原発についてどうするのかは考える必要があると思います。

青井──今回のことで原発反対の意見が少なくとも一時的には噴出するでしょうが、よく考えれば民主主義なのですから、そういうコントロールできないものを国や資本に委ねてきたんだという私たちの反省がないと消費者のクレームとあまり変わらない。先ほど言った家をつくるということを制度や資本に譲り渡してきたというのも根本的には同じことかもしれません。そのことを問題視してきた広い意味での建築家は沢山いました。1970年代には『都市住宅』や『群居』があり、建築家の実践も沢山あった。神代雄一郎の仕掛けた「巨大建築論争」も大局的には同じ問いです。そのような動きが、知的な状況にも影響を及ぼすようなものとしてもう一度表に出てきて、建築家の役割の問い直しがなされるべきだろうと思います。

牧──今回、情報発信について言えば、トップダウンの一元的なものではなく、Twitterなどから同時多発的に出てきていました。これは阪神・淡路大震災の時とは違います。気仙沼市役所もサーバーはダウンしていたけれど情報発信していましたよね。地方分権の流れの中で、上からの動きはあまり見えません。各自治体や市役所には自主的に色々な人が入って動いていて、統制が取れていないようにも見えますが、それが今後の社会のあり方かもしれません。国に何かを言って待っていてもしょうがない。言論の分野ではそのようなことが言われていましたが、実際にそうなってきているんだろうと思います。その意味で、地域で活躍している建築家の動きや繋がりは重要です。かつては内務省の復興方針にしたがって内陸移転をしていた話がありましたが、例えば今、僕たちが「山の方へ移った方がいい」と言っても、最終的に決めるのは地元の人ですね。

青井──最後になってしまいましたが、歴史に携わる者として是非言及したい活動を紹介させてください。中島直人さん(慶應大学)ら都市計画遺産研究会が作成している「三陸海岸都市の都市計画/復興計画史アーカイブ」というウェブサイトです★5。都市計画史を中心として、過去の津波被害と復興計画に関する資料へのアクセスを様々なかたちで提供する精力的な作業です。他サイトで公開されている資料へのリンクを含めて、このサイトを窓口とすれば1933年の昭和三陸津波や1960年のチリ地震津波からの復興に関する膨大な資料をウェブ上で読むことができます。
対談の最初の方でもちょっと触れましたが、私たちの研究室では、中島さんらのサイトにも日々大いに刺激されながら、また活用させていただきながら、三陸地域の災害と再生に関する過去の記録や先人の観察を、集落ベースで集成する作業を行っています。近代行政区域に先立つ旧村、つまりは個別の空間的まとまりをもった集落が、それぞれに何を経験してきたかが分かるようなまとめ方を考えています(4月29日公開)★6。それで勉強したり作業しながら思ったんですが、やっぱり基本的には地形は変わっていないし、それが所与の条件なんだから、やっぱり海と陸が接するところの線分に集まるのが基本だろうし、そう突飛な選択肢はないなと。

牧──人間が考えることは意外と明治・大正の頃から変わっていないということですね。


[2011年4月16日、京橋INAXにて収録]


まき・のりお
1968年生。京都大学防災研究所巨大災害研究センター准教授

あおい・あきひと
1970年生。明治大学理工学部建築学科准教授




★1──日本建築学会「東日本大震災 災害・復旧復興情報アーカイブ」(http://www.aij.or.jp/jpn/databox/2011/20110414-1.htm)にて閲覧できる。
★2──例えば『すまいろん』2009年冬号・特集「災害と住文化」(編集担当=中谷礼仁+牧紀男)、2010年夏号・特集「動くすまい:流動的都市の原風景と未来」(編集担当=青井哲人)
★3──山口弥一郎『津浪と村』(恒春閣書房、 1943年)、山口弥一郎「津波常習地三陸海岸地域の集落移動」(亜細亜大学「諸学紀要」第11〜14号、 1964-65年、「亜細亜大学教養部紀要」第1号、 1966年)ほか
★4──塩崎賢明他「震災後10年間の自力仮設の継続・消滅状況:阪神・淡路大震災における自力仮設住宅に関する研究(その5 )」(日本建築学会計画系論文集、No.603、pp81-87、2006)ほか 国立情報学研究所CiNii(http://ci.nii.ac.jp/)にて検索して全文閲覧できる。
★5──都市計画遺産研究会「三陸海岸都市の都市計画/復興計画史アーカイブ」(http://www.going-urbanics.net/
★6──明治大学 建築史・建築論研究室「三陸海岸の集落 災害と再生:1896, 1933, 1960」(http://d.hatena.ne.jp/meiji-kenchikushi/

※編集部より
牧紀男氏の著書『災害の住宅誌──移動する人々』が、6月、鹿島出版会より刊行予定です。





連載:Think about the Great East Japan Earthquake

東日本大震災を考える[4]:移動と流動のすまい論──『災害の住宅誌』(鹿島出版会、2011)
東日本大震災を考える[3]:仮設住宅に関する提案──いま何ができるか
東日本大震災を考える[2]:移動と定着のメカニズム──災害の歴史から学ぶこと
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