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  . 堀井義博














Fig.01


Fig.02


Fig.03


Fig.04
コンペ時のパース・ドローイング
出典=『建築文化』
2002年8月号
(彰国社)


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《横浜大さん橋国際客船ターミナル》を見た。自分のケチな想像力をはるかに超えた出来具合いに、大いに感心した。いろいろな意味でこれは凄い。当日の空模様はいまひとつだったにも関わらず、実にすがすがしい気分にさせられたものだ。

多くの同業者の例に洩れず、筆者もまた、このプロジェクトは、コンペの結果が発表されて以来とても気になっていた。何故なら、その計画案が提示していたのは、長い長い建築の進化の歴史に楔を打ち込むような、ほとんど革命的なモノだったからだ。そして、ほとんど時期を違わずして開催された《せんだいメディアテーク》のコンペの結果についても、基本的には同じような気分を抱いたことを今でも覚えている。かくして、この2つの大型プロジェクトは、筆者の理解のなかでは、腹違いかつ種違いの双子(!)となっていた。事実、筆者はかつて、いまはなき『SD』誌に寄せたエッセイ(1995年6月号)で、この双子のプロジェクトの行く末の違いを軽く比較したことがある。

これらの(特に横浜がそうなのだが)、個人の力の及ぶ範囲を明らかに越えた物理的・経済的規模を持つ建造物ともなると、われわれのように、建築デザインを生業とする同業者間でのみ通用するようなチマチマとしたディテールの話は、ほとんどどうでもいいレベルの些細な事柄のようにさえ思える。コールハースが言うように、そのビッグネスのゆえに、建築が「善悪の彼岸」に突入しているわけだ。すでに《せんだいメディアテーク》を完成させた伊東豊雄にしろ、この横浜の設計者であるfoaにしろ、そうした職業上の感傷には、すでにあまり関心がなさそうでもある。

しかし、実際に出来上がったそれぞれのモノは、本質的なポテンシャルの違いを、はっきりとそのモノ自体に刻印している。そして、だからこそ、この巨大建造物(横浜)に関しては、ぜひともモノの次元に沿って本文を展開したいという気にさせる。

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最初に驚くべきは、この野蛮なほどに巨大な建造物(幅70m × 全長430m!)が、ほとんど具体的な内容を持たずして実現している、という事実だ。すなわち、未だ未完成とはいえ、この巨大な空間を埋めつくすだけの十分な「用途」――プログラム――が「ない」のだ。もちろん本当はある。つまり、その名が指し示す通り、あくまでも国際便の客船が発着するターミナルであることが表向きの主たる「用途」とされているので、空港ほどではないにせよ人々の出入りも激しくなることが予想され、かつ、政治的にも非常にクリティカルな現場となるはずであり、出入国を管理するための機関が居座ることにもなる。しかし写真[Fig.01−03]を見ればわかるとおり、この巨大な空間はほとんどまったくの「がらんどう」だ。肝心の「機能」はといえば、この巨大ながらんどうの中の、ほんの片隅([Fig.01]でいうと、右奥の隅)にあって、そしてそれで事足りるほどの規模しかないように見える。

コンペ時の案[Fig.04]に比べて、実物では圧倒的に水平面が多くなり、形が少々風変わりというだけで、「床」「壁」「天井」と呼びうるごくありふれた建築的分節が目に付くようになってしまった点など、すぐにそれと指摘できる(=致命的とも言える)変更点はいくつもある。しかし、実現にあたっては、コンペ時の「ポンチ絵」が、大ざっぱに言ってそっちの方向にしか変化せざるをえないだろうことは、最初から誰の目にも明らかだったはずだ。少なくとも筆者は最初からそれを感じ取っていた。すなわち、コンペ時には、鉄板で作る巨大段ボール様のサンドウィッチ・パネルで全ての面が「見た目上」無分節に作られることが想定されていたわけだが、その数カ月後には、実現したものの原案となる折板による多面体への分割案が発表され、筆者はかなり失望したのを覚えている。失望というのは、最初の「ポンチ絵」に一瞬でも革命的なモノを見たためであり、変更案にはある種の後退を見ざるを得なかったからだ。いや、当時それは確かに後退以外の何ものでもないように見えた。この計画案にある種のときめきを覚えた人なら、当時の変更発表に対して、「無理なのは分かっている。それでも……」というやるせなさを感じたのは筆者だけではないだろう。

しかし、冒頭に述べた「想像力をはるかに超え」た部分は、まさにその大きな変更点と関係しており、現実には、それによっても、必ずしもこの建造物の本質が失われたわけではない、と感ぜられたことだ。そしてそれは逆の意味で大きなショックでもあった。

foaにはまだまだ遠く追い付けそうにもないが、曲がりなりにも同業者のはしくれとして筆者がもっとも感心したことは、この若い建築家が、コンペ時に自分たちの案が持っていたポテンシャルの真の中核――可能性の中心と言ってもいい――を、けっして見誤らず、最後まで正しく見つめていたという点だ。この点に関して言えば、彼等は、仙台での伊東の対極にある。

何の話か?

つまり、最初の案は、文字通り「スキーム(=計画)」でしかないのであって、「例えばこんなことができるかもしれない……」という程度の、ほんの軽い(しかし壮大な)思い付に過ぎなかった、というふうに遡及的には理解すべきものだったのだ。そして、その思い付き程度のものに拘泥することは、たんに洗練(というか頽廃)の方向へ向かうだけであり、結局はそのモノのポテンシャル(野生と言ってもいい)を狭めてしまうことにしかならないが、この建造物において彼等は正しくもそうしなかったのである。