ところで透視図もアクソメと同様、立体を平面上に描くものだが、カルロス・ガライコア(1967−)は、平面上でなく空間に透視図を描いた。横浜トリエンナーレに出展された作品《なぜなら全ての都市はユートピアと呼ばれる権利がある》[fig.4]は、壁面と大きな机に赤、青、黄といったカラフルな糸で描かれた理想都市の図である。
 展示空間には、真白の壁一面に十字形平面の建築や橋などの都市施設とそれを取り巻く無数の風車が、また木製の細長い机の上には都市の俯瞰図が描かれた。都市といっても、ここに描かれたのはいずれも都市の構成要素であって、それらを支え結びつける地面は描かれていない。そのため、建築も橋もそれぞれの関係が示されないまま浮遊しているようだ。糸は壁や机に刺されたピンで固定され、壁面からわずかに浮いている。空間に浮いたこの糸は、カタログの写真でもほとんど判別できないほど細く微妙な色合いを持っており、その繊細な美しさは理想都市の現実離れしたはかないイメージと重なり合う。
 川俣の模型がアクソメのように表現されていたのに対し、ガライコアの作品では透視図のルールによって糸の造形が作られている。透視図とは、ある一点に視点を定めた時に、そこから前方の視界に広がる視線の総体の一断面を平面上に描いた図といえるが、ここでは白い紙に線を引く代わりに、その線は透明な空間の中の細い糸に置き換えられた。つまり本来、透視図とは立体を平面上に描くものだが、ここではそのルールを用いて立体が作られ、さらにそこで作られた造形が現実の空間を切り取った一断面を示すという転倒が生じている。このように両作品には、本来3次元のものを2次元上に表現するために開発された作図法が、逆に3次元空間での表現に回帰するという状態が共通して見られる。
 ルネサンス期のヨーロッパでも、この透視図で理想都市の図が多く描かれたが、当然それは実在する現実の風景ではない。しかしここでガライコアは、平面上の図法を立体、つまり現実のものの世界に持ち込んだだけでなく、さらにその題材であった理想都市そのものを現実の都市に持ち込もうとしている。理想都市とは、ユートピア、つまりどこにもない世界だが、全ての都市がユートピアであるというタイトルは、それ自体が一種の逆説にもとれる。大きな机に切り抜かれた4つの窓には現実の都市、横浜やハバナのビデオ映像が映しだされ、鑑賞者は細い糸で描かれた透明な理想都市と足下の現実とを重ね合わすことができるだろう。こうして、平面と立体、2次元と3次元、あるいは理想と現実とが入り混じる作品の中で、現実の都市にユートピアを見出すことになるのだ。
 かつてヨーロッパの植民地だったハバナは、ガライコアの出身地だが、彼は近年手掛けた作品において、荒れていくこの都市を再び読み直すことを試みたという。そこに見られるのは川俣と同様に、現実に向き合いその風景を再び見直そうという姿勢である。

fig.4
カルロス・ガライコア
《なぜなら全ての都市はユートピアと呼ばれる権利がある》2001

出典=『横浜トリエンナーレ2001カタログ』










参考文献
『横浜トリエンナーレ2001カタログ』(真壁佳織編集、横浜トリエンナーレ事務局、三上豊、横浜トリエンナーレ組織委員会発行、2001)。
『川俣正コールマイン田川 プロジェクト・プレゼンテーション』(川俣正+on the table編集、川俣正コールマイン田川実行委員会発行、1996)。
『川俣正コールマイン田川 october/november』(川俣正+オンザテイブル編集、川俣正コールマイン田川実行委員会発行、1997)。
後藤武「雲の鐙——アクソノメトリーと空間の変容」(『20世紀建築研究』20世紀建築研究編集委員会編、INAX出版、324−325ページ、1998)
 
展覧会データ
川俣正コールマイン田川・ドキュメンツ
2001年10月17日−10月28日
於:ヒルサイドフォーラム、ヒルサイドギャラリー、アートフロントグラフィックス
横浜トリエンナーレ2001
2001年9月2日−11月11日
於:パシフィコ横浜展示ホールほか