個人的な感想 Part3

 
穏やかな冬の日の午後、 入場者がまばらであることを予想しながら つまり、「良心」と「後悔」が充満する法廷のような息詰まる思いを避け、

       彼ら(ARATAとSHIN)

の展覧会場に身をおく。そこにあった

       椅子

にすわる。
自分を待っていたような椅子などとは言うまい。期待と忘却、エロスとタナトスという人生のトルコン・オートマティックの整備のためにここにやってきたのではない、という自覚だけはある。
 
相手なく〈磯崎新〉講演会のヴィデオ録画を流す

       モニター。

「物自体」と人間の純粋な「空間認知形式」の〈間〉を、あるいは意識のコンテナとして「発明された」はずの身体と実身体の〈齟齬〉を……

モニターのなかの建築家はそんな〈空〉〈虚〉ではなく、自らのアンビルトの「実」歴史を――まるで隠されているものなどないかのように――説明しているだけだ。
 
いわば獲得形質内的思考の〈外〉にある空間や身体を、期待などしないまでも、遠く夢見続けること。あるいは文化的共同体から離反した何らかの個体的

       進化

を企図すること。

おそらく大方の人間にとっては単なる期待と忘却の潤滑オイルにすぎないそんな〈流言〉――実際には『反建築史』の対談で磯崎自身が言及している――を大真面 目にヴィデオのなかの建築家に語らせようとしているのは、実のところこの

       僕。

幻想?
それを言うなら、神経症と言って欲しい。

突然よみがえる

       記憶。
 
あるオーストリア人建築家が「あいつは西洋建築の歴史にめちゃめちゃ詳しい、俺なんかの比じゃない」と評したことを友人が僕に知らせる。僕といえば、「幼児性神経症なんだよ」。もちろんこのフロイトの国からやってきた建築家(レイモンド・アブラハム)に対してではなく、ここで「彼ら」と呼んだ建築家に対して……


 
そして、展覧会場での僕自身の神経症的兆候の現われ。僕は冷静だ、心配ない。

モニターに対面しながら「みずからの声を聞く」。予想(期待ではない!)していたように、そんな作業を切断するかのように不作法な観客が僕のまえを通り過ぎていく。そして、その

       

を意識するときだけ、理路整然と「反建築史」を語る〈磯崎新〉の「声」が、客観的な空間・時間構成を携えて響くことに気がつく。

普通は逆だろうって?

……椅子にすわった僕は、単に知覚・思考・認識・言語の此岸で駄々をこねているだけ。

葛藤外自我領域――とりあえず知覚・思考・認識・言語をこのように定義しておこう――における自分の無理解・誤謬をあたかも心理学的自我の葛藤であるかのように語りたいがために、神経症を装っているだけ?

だからこそ、僕は自分の前を通り過ぎる者に纏いつき影そのものになるチャンスを窺っているのだ。この場――モニターがおかれている場? 知覚・思考・認識・言語の場?――を立ち去るために。

正直に告白するならば、やはり期待があった――影となって纏いつくその主が「いまどき」の

       子供

であって欲しい……「建築なんてシィーラナイ」「歴史なんてシィーラナイ」「磯崎なんてシィーラナイ」。

本当のところはまったくわからないが、 自我にまつわる最低限の混同だけは避けること――ハルトマン流に知覚・思考・認識・言語を葛藤外自我領域とする――が、何となく礼儀であるような気がする。
「子供」に纏いつこうとするなら。
    
再び、
僕は冷静だ、心配ない。

なんなら、冷静な証拠に、それこそが〈磯崎新〉の建築所作だから、と結論めいたことを仄めかそうか。

さらに、僕がそうするのはピーター・アイゼンマンに建築的師事を仰いだ反動にすぎないとも、付け加えようか。彼の建築所作こそ、逆に、自我的葛藤と知覚・言語・認識を重ねあわせすぎる、すなわち混同そのものなのだから……

子供に纏いつきその影になること。それとともに登場する僕の自我は〈磯崎新〉という
       
       不自由

から逃れ「気分はルンルン」、といかない。逆に、モニター上(なんなら「歴史上」と拡大しようか)に構成されているはずの「反建築史」は客観的時間・空間の枠組み(必然的意義)を逸脱し、むしろ「この絶対的優位性を受け入れよ」といった(超自我的)「声」に変質して追ってくる。
 
 
 
再び
幻想?
それを言うなら、神経症と言って欲しい。

確かに歴史化という作業(たとえ否定冠詞を戴こうとも)は、対象がなんであれ、それがうまくいけばいくほど

       文化的抑圧

へと転化し、「良心」の強要もしくは自我的リビドーの検閲となっていかざるをえない。

それを実感的に示そうとしているんだって?

それだったら、僕自身が単にモニターのまえで悪態をついているだけで十分。それが文字通り子供じみているなら、例えば〈磯崎新〉の「手法」なるものをパラフレーズしながら、建築における可能限界を示す相対化作業がいかに空間・時間的リテラリズムの危険に曝されるかを論理的に示してもよい。

断わっておくが、
今回の展覧会もしくは『反建築史』を、あるいは〈磯崎新〉の建築的所作そのものをそのように超自我の領域に振り分けているのは単に僕の

       自我

もしくは、それとともにある僕のリビドー的欲動。外界にある、〈磯崎新〉の展覧会、あるいはその意義・評価に、無縁であると言わないまでも、結びつけて欲しくはない。
 
漠然とした(起源への)自問に何らかの理屈をつけたところで――誰が?――僕の自我を満足させることなど無理難題。自我は、はじめからそれが幻想であることを望んで登場するのだから。

〈磯崎新〉の「反建築史」という客観的時間・空間構成がそのまま「不自由」を生み出しているはずもなく、
だからといって、「声」に屈服しながらみずからの自我の不自由総体を押しつけるわけにもいかなくて……

       無根拠

すなわち幻想につきまとうただの混乱。

科学もしくは知性がこれらの根拠にかわって説明してくれるって? 幻想からの、抑圧からの解放?
それが

       近代建築

の本質だって?

そうに違いない。でも、そうに違いないはずのこの〈文化〉がその点では、まったく機能していないではないか――今度は僕の自我が影として纏いついたその主「子供」にそう言えと命令を出す。もっともモニターの「声」すら届かぬ 子供に僕の自我の叫び声など聞こえるはずもなく。

相も変わらず、
「建築などシィーラナイ」「歴史などシィーラナイ」「磯崎などシィーラナイ」

いっそ、コイツ(影の主? 声の主?)を出し抜くために、とびっきりおぞましい言葉を吐いてみようか? 誰もが公言することをはばかる

       近親相姦
       食人
       殺人

を。


古くは「汝の父を殺し、母を犯せ」(コンペの檄文)からオウム事件、「透明な存在」への言及に見られるような、「文化への不満」に起因する反社会的反応へのあからさまな、そして当然の共鳴。
 
たとえ僕の自我がこれを欲しても、そのこと自体を自我の

       外部

に出せるはずもなく(僕がどれほどそれを欲しているかなどの説明表現など必要あるまい)、だからといって、近親相姦・食人・殺人への禁忌が文化なるものの基礎=起源ならば、文化への自我的不満(制約・不自由)つまり

       欲動

の本質こそがこれらに向かう衝動であること、そしてそんな欲動が「一人ひとりの子供とともに新たに生み出される」ことを、フロイトなんかではなく、〈建築を通して〉僕に教えてくれたのが、モニターの声の主すなわち      

       磯崎新

なんだとは、いまさら自我の立場から言えるはずもなく……

そして、これが僕がいま見ている

       アンビルト。

僕は単に僕自身のごみ箱(ジャンクスペース)を覗いているだけ。自我の欲動が戦いのなかで淘汰されていく、その過程と死骸が充満するだけの。

文化そのものが「文化への不満」を吸収するために、建築の名を借りてこんなごみ箱を外在化させることにどれほど効果があるのか、僕の自我はわからない。

それが期待とともに発せられた言葉の、観念の、そして事物の文字通りの
   
       「ごみ箱」

になったところでかまわない。

少なくとはじめからそこでの戦いの犠牲となることを強いられていた僕の自我はその代償として

       進化

を、期待しないまでも、夢見る権利を得ることを知っているから。
   

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