国際展の歴史について
暮沢剛巳
2008年12月 7日 モンスーンカフェ代官山 MP3 11.8MB 25'47''
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最も古い国際展は19世紀の終わり1895年に第1回が始まったヴェネツィア・ビエンナーレです。「美術のオリンピック」「美術の万国博覧会」と呼ばれるように、その一番の特徴は国別参加形式をとるということです。参加国はパビリオンを所有していて、各国のコミッショナーが自国の参加アーティストを選びます。それ以後「ドキュメンタ」、「ミュンスターの彫刻プロジェクト」など、国際展は国際美術展として営まれていたのですが1980年代以降からヴェネツィア・ビエンナーレでも建築部門が創設されたように、80年代から90年代を境に建築国際展が増えていくのです。
出演者プロフィール
暮沢剛巳
1966年青森県生まれ。美術評論家。慶應義塾大学文学部卒。武蔵野美術大学、女子美術大学短期大学部、桑沢デザイン研究所非常勤講師。
主な著書に『美術館はどこへ─ミュージアムの過去・現在・未来』(廣済堂出版、2002)『「風景」という虚構─美術/建築/戦争から考える』(ブリュッケ、2005)『美術館の政治学』(青弓社、2007)『現代アートナナメ読み 今日から使える入門書』(東京書籍、2008)"
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ヴェネチア・ビエンナーレは最も古い国際展の形式であるとともに、今でも間違いなく最大規模の建築展です。開場はジャルディーニという各国の常設パビリオンが並ぶ公園エリアと、アルセナールという造船所跡をレノベーションした企画展示場からなっています。しかし、そこだけでは入りきらない。パビリオンを持たない国はヴェネチアの街で場所を借りて展示をします。国でなくても、建築協会や台湾ナショナルミュージアム、ヴィトラ社などの各団体がビエンナーレと同時期に展示をする。結果的にはヴェネチアの街全体が最大のプロモーションの場として有効に機能しているのです。"
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建築国際展での日本の展示は、特に2000年なってから成功しているように思います。日本が経済をリードしているだけではなくて、おたく文化やコスプレなど、サブカルチャーの発信源となっていることを象徴する良い機会になっているのではないでしょうか。バブル期を思い返すと建築表現は盛んだったものの批評が少なかった。その頃に比べれば、だんだんと成熟してきて社会的メッセージを発信できていると思います。その次にくるのがリスボン建築トリエンナーレです。
出演者プロフィール
井坂幸恵1965年茨城県生まれ。建築家、デザイナー。多摩美術大学建築学科卒業。1991年芝浦工業大学建築工学修士課程を修了後、ラファエル・ヴィニオリ建築士事務所をへて、1997年ビルディング・エンバイロメント・ワークショップ(bews)を設立。2000年にヴェネツィア・ビエンナーレ、2007年リスボン建築トリエンナーレに出展。
主な作品に《左官屋さんの家》《homestead》《IHクッキングヒーター2003》。
http://www.bews-web.com/
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Visions of Japanは1991年にロンドンで行なわれた日本展です。建築はもちろん相撲や歌舞伎など、あらゆる日本の芸能が展示されていました。建築に関しては磯崎新さんがジェネラル・コミッショナーを担当し、彼が選んだ建築家「3I」が参加しました。石井和紘、石山修武、伊東豊雄の3人です。バブル期の寵児だった3人が、それぞれ「過去」「現在」「未来」というテーマで日本を外国に紹介するという展示でした。「未来」を表現した伊東さんの展示は、率直に言って、当時は何がやりたいのかよくわからなかった。しかし現在、当時のセットを見ると、彼の孫弟子にあたる石上純也のデザインを、すでに伊東さんがやっていたということに気づかされます。非常に象徴的な展示です。"
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私はリスボン建築トリエンナーレで日本の実行委員会、事務局を担当しました。主に展示ができるまでの資金集めが仕事です。基本的に、予算は国際展といえどもゼロからのスタート。バブル期の展示はどこかに主体があってお金があるというものだったと思いますが、今回は主体があるのだけれど、お金がない。現代は文化支援をしていただける企業を探すのが困難な時期です。バブル期は文化支援をするのが1つのステータスだったのですが、ここ数年は、(経済)負荷が少なくなる方向にいってます。今回はとにかく協賛をつのることから始まりました。"
出演者プロフィール
平昌子
1974年大阪生まれ。建築プロデュース会社にて広報を担当した後、TAIRA MASAKO PRESS OFFICE主宰。「青参道アートフェア2008」「ART OSAKA2008」など全国のアートイベントのマネージメントに携わる。2007年「リスボン建築トリエンナーレ」、2008年「横浜トリエンナーレ」にも参加。
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ポストモダンという思想はフランス発生といわれています。フランスには、1920年代からアール・デコという運動が広がっていて、これがフランスのポストモダンにあたります。そうとらえると、1920年代からフランスはポストモダンが起こっていたと考えられるのではないでしょうか。この流れは現代のフランス人建築家(ジャン・ヌーベルやドミニク・ペロー)にも大きな影響を与えています。昨今、パリ郊外は超高層化が進んでいて、ファサードのデザインなどが注目されていますが、ここにもアール・デコ的な模様や文様が脈々と受け継がれています。
出演者プロフィール
林要次
横浜国立大学大学院修了後、渡仏。ヴェルサイユ建築大学DPLGコース在籍、パリ第VIII大学DEA"建築・都市建設"コース修了後、帰国。北川原温建築都市研究所にて建築設計からインテリア、舞台美術、モニュメント、ブック・デザインなどを担当。東京藝術大学大学院教育研究助手を経て、再渡仏。du Besset Lyon architectes協働。2008年よりyoji hayashi+a.d.s.共同主宰。
http://www.auxads.com/
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19歳の時、コルビュジエの礼拝堂を訪れたのですが、今思い返すと中に入った時の印象があまりなく、リアルな実体験をあまり覚えていません。記憶や実体験が写真のイメージで上書きされている感覚があって、その時のことが契機となり、写真と建築、そしてパースペクティヴということを考えるようになりました。カメラにはパースペクティブがなく、焦点距離をリニアに合わせていくのに対して、人間はパースペクティヴで空間を認識しているのではないでしょうか。そして、人間は空間を規定する時、空間の中の、線の方向性と距離と消失点で認識しています。この考察は近作の《弦巻の住宅》にも展開されていて、ひとつの空間の中にいくつものパースペクティヴを混在させることで、空間を認識するうちにパースペクティヴが円環させることを狙ったものなのです。
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学会、建築関係の団体、そういう所に積極的に参加する事、同世代のネットワークをつくっていく事、そこから広がっていくので、自分の積極性を発揮して、世界に出ていく。これは楽しいです。それをやっていくと、いつのまにか自分がグローバルになっていく。とにかくシャイにならずにどんどん世界に出ていく事です。
出演者プロフィール
国広ジョージ
国士舘大学工学部建築デザイン工学科教授
http://www.eg.kokushikan.ac.jp/eng/kunihiro/home.shtml
1951年東京生まれ(米国籍)。1964年渡米。1974年、カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学部を経て、1976年ハーバード大学大学院デザイン学部建築学科修士修了。アメリカで建築家として活動した後、1997年で設計活動を開始。日本建築家協会(JIA)、日本建築学会(AIJ)、アジア近代建築ネットワーク(mAAN)などでも広く活動。主な作品に《田無市消防団第7分団詰所》《グランブルー青山ビル》など。
原英嗣
1975年生まれ。建築設備工学、建築環境工学、都市環境工学。博士(工学)。国士舘大学理工学部理工学科講師。
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コーリン・ロウの言っている事に対する、自分のわからなさに興味を持った訳です。これだけ難しい建築の見方をする人が、ガラスを透明だと。コルビュジエのガラスは物理的には透明でないけど、そこに透明な何かが表われるというように比較する。そもそもガラスは透明ですよね。それを比較する気になりますか?というのが僕の疑問だったんです。その辺から、一つずつ言葉を追っていった時にはたと気づいたんですね。コーリン・ロウは、バウハウスのガラスを実の透明性と言ったんですけど、物理的な意味での透明性をさしているんではないと思ったんです。彼は、言葉としてのガラス、言葉そのものの透明性を指していると思ったんです。言葉そのものは意識しない。道具としてつかっているかぎりは透明です......"
出演者プロフィール
丸山洋志
1951年北海道生まれ。建築家。83−89年、アイゼンマン・アーキテクツに勤務。91年、丸山アトリエ設立。芝浦工業大学工学部建築工学科建築計画研究室教授。
http://www.kk.shibaura-it.ac.jp/maruyamalab.html
作品=《noW omen House》《Slant glance/house/Slope ground》ほか。共訳書に、デニス・シャープ『合理主義の建築家たち──モダニズムの理論とデザイン』(彰国社、1985)、A・ツォニス+R・ルフェーブル『古典主義建築──オーダー の詩学』(SDライブラリー、1997)。共著書に『ジュゼッペ・テラーニ』(INAX出版、1998)などがある。