リサーチとデザイン
──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う

青井哲人(建築史・建築論、明治大学教授)+連勇太朗(建築家、モクチン企画代表理事、@カマタ共同代表)

プチ・デミウルゴスと自信のないリヴァイアサンたち

青井──最近、連さんもそうですが、30~40代のプラクティシング・アーキテクトのあいだで博士論文を書いて学位を取ろうとする動きがあります。僕はわりと身近にその変化を感じている。もちろん以前から建築家が学位を取ることはめずらしいことではないけれど、これまでは自身の作品の設計プロセスを整理するといった研究が多かったように思います。最近の流れはおそらくそれとも違っていて、自分のやっていることが建築や都市の何を変えることに貢献しているのか、それを学的な根拠をもったかたちで検討したいという欲求があるんじゃないか。これもデザインとリサーチの関係に関わる状況のひとつで、ここまで議論してきた内容とも重なりそうです。

──建築家としての実存的な不安があるんじゃないでしょうか。今回の対談でずっと議論し続けてきたことですが、今、建築設計という行為が成立する基盤そのものが揺らいでいるわけで、メタ的な視点で、実践の意味や意義を確保しておきたい欲求が強くなっているのだと思います。

青井──おそらくそれは先ほどの「崇高さ」にも関わる話ですよね。社会に巻き込まれながら創作する、そのエンゲージメントやインヴォルブメントの部分を理論化したいというよりも、それが建築・都市をどう変え、建築家をどう変えたことになるのかと問う建築論的な欲求を強く感じます。

──まさしくそうだと思います。建築家がネットワークの一部になるといった話は、建築の自律性やディシプリンの境界を融解する方向に働く。すると、いつのまにかコミュニティデザイン、不動産、グラフィックデザイン、アートをやっていたりして、「自分はなにをやっているんだろう? これって建築? 建築を通した社会貢献ってなんだ?」と問うようになるのは自然な流れだと思います。言説や批評も、ネットワークが大事だとする「社会派」と、建築の固有性が大事だとする「自律派」を対立的に捉えられるほど、今日の議論は単純ではないですからね。

青井──建築家に存在根拠を与えることは建築論の重要な役割の1つですが、歴史的に2つのモデルがあったと思うんです。1つは「デミウルゴス・モデル」で、この世界を完璧な秩序のもとに造り出したり、かき回したりする造物神(デミウルゴス)があり、それを代理する「プチ・デミウルゴス」として建築家はあるとする考え方です。15世紀のアルベルティが確立したコーンの図式はこれに合致します。円錐の頂点にある眼の裏、つまり建築家が脳裏に確固として保持するイデアがあり、あとはそれを具現化(realize)するだけといった見方はこの造物神のモデルと整合的です。

このアルベルティ・ターンに加えて、19世紀の「ソーシャル・ターン」も重要です。それまで王権や宗教によって支えられていた身分制や共同体が解きほぐされて、アトム化した人々が激しく動きはじめる。彼らはバラバラなのになぜか集団や構造をつくる。経済的な階級とか、労使、性別、趣味、そして私と公みたいなものがそうです。近代社会、近代都市はそうした個と全体の関係を生み出す動きがつくる複雑な現象です。つまり身分制や共同体に代わるものとしての「社会」それ自体が謎として立ち現れ、それで本格的な社会学が生まれるわけで、だから19世紀は「社会」の時代なんですよね。なぜ全体性は生まれるのか。その説明のひとつとなった社会契約説の先駆者に、よく知られる17世紀の政治哲学者トマス・ホッブスがいます。彼は、人間は「自然権」を持つ、自然権とは自分の生命を守るためには何をやってもよいという権利である、という前提から出発した。ところがその人間たちが自分の生命を守るために殺し合う事態になれば、結果的に誰も生命の安全を保証されない矛盾が生じます。そこで人々は自然権を放棄し、それを公権力に移譲するのだとホッブスは言う。そうして個と集合の関係が整序され、安定した全体ができる。このとき、権力を集中させた国家をホッブスは巨大な怪物の名で「リヴァイアサン」と呼んだわけです。これになぞらえるなら、人々が元来保有している建築的自然権を高度な専門家に移譲する、つまり設計・構想する権限を集中させたのが建築家である、というような考え方で説明してもよいのではないか。自然権を放棄した施主の代わりに建築家は建物を構想するのですが、それが同時に個の集合がつくる全体性、つまり「社会」の時代の「建築」を担保するようにする。この線では建築家は「プチ・リヴァイアサン」とでも呼べるでしょう。

振り返ってみると、僕が学生だった1980年代の建築シーンは「プチ・デミウルゴス」が跋扈するというか、各々が固有のイデアを競わせる風景でした。それに対して、今の建築家は「プチ・リヴァイアサン」ですが、そのことに自信が持てない。

もともとホッブスのリヴァイアサンだって、公権力の源泉は人々の自然権放棄(の意志)にあるのだから、民衆の信頼が続かなければ......、そう考えるとその不安定性がよく分かります。建築家も原理的に不安定なのでしょう。ただヨーロッパでは都市構造に一定の安定性があり、だからこそ個と全体の調停を司る建築家のポジションもかなり安定した。日本ではコンテクストが違うのでそうはいきません。1950年代に興った民衆論や伝統論にしても、集落の実態を調査した1970年代のデザイン・サーヴェイや共同・参加の強調にしても、個と全体をどう取り持てばよいのかという問題が不調をきたし、建築家の存在意義が揺らいだときに、民衆への接近が強調された現象でしょう。

日本の建築家は、プチ・デミウルゴスとプチ・リヴァイアサンが交互に、あるいはセットで現れる歴史を描いているようにも思いますが、95年以降はデミウルゴス的建築家像への拒絶感が強く、そのためかリヴァイアサン的建築家も緊張軸を失っている。きっと建築家たちがこの2つに分裂したり揺れたりすること自体が、日本的な都市・社会・政治の流動性、不安定性、混乱のなかに立つ建築家の構造的宿命だったのかもしれないという気もします。もしそうなら、今渇望されているのは建築家がリヴァイアサン的な前提を引き受けたうえで、自らの内にデミウルゴスを再生すること、なのかもしれません。

青井哲人氏

これからの批評とメディア──新たなネットワークを組みなおすこと

編集──論文を書くことなどを通じて建築論を体系化しようとする動きは、ジャーナリスティックな批評を書く身振りとは異なる部分もある気がするのですが、いかがでしょう。

青井──体系的な建築論をまとめることは、批評の力を高めると思います。それは近視眼的な社会の理屈に呑み込まれない、個人の決断や構想を強化することにつながる作業でもあります。ただ、建築家の構想や持ち場の選択みたいなものを建築論によって強化できるというのは一般論で、僕自身は先ほども言ったように、日本の建築をめぐる環境の流動性や不安定性、混乱といったものの性格とメカニズムを描くこと。あまり日本の固有性を強調しすぎるのは危ないのですが、なぜこれほど建築物の型性が弱く(分裂的なほど多様)、組織が弱く(集合が高次のまとまりをつくらない)、流れ(代謝や破壊・再生を繰り返す)としての性格が強い都市がどのように構造づけられ、そして近代以降にどのように加速し、なぜ根本的には批判されないのか──、それをしっかりと示す議論はまだ興っていないと思うんです。それは建築論の用語でそれなりに追い詰められる問題でもあるし、それを踏まえて建築は、そして建築家はどこを目指すのか考える。こうした意味でも建築論の重要課題です。例えば日本の建築家の手掛ける住宅は70年代以降、多様なキャラクター性を進化させてきましたが、それは日本的な土地私有制の享受であって、美学的にも偶有的コンテクストの束を味方につけたピクチャレスクだろうと思って批判したことがあります★6

そういうこともあって、故・芳賀沼整さんは僕にとって最も尊敬する建築家のひとりなんです。彼のように一定の量を担える種別、型、技術などを持ち場とし、社会システムのレベルを志向しながら、思想と倫理をもって行動するタイプの人はやはり──自分でそう名乗らなくとも──建築家だと思う。

──それに付け加えると、今指摘されたアジアや日本という非西欧圏における状況を理論化していく作業と合わせて、近年起きている大きなグローバリズムや経済システムの変化にどう対応していくかという議論も重要だと思います。現状の社会の見取り図を描こうとしたとき、新自由主義的な構造は今後ますます加速すると思うんです。そうした世界では、例えば、Amazonの登場で買い物が便利になるというように、テック系のテクノロジーやサービスをベースに社会システムが再編されるよい効能がある。この方向は良い悪いではなく、資本主義の原理からして勝手に進むものです。一方で、例えばケン・ローチ監督の過去2作品が端的に描き出しているように、社会を支える根本の家族や地域社会はそれに並行して徐々に解体へ向かいます。日本は家族的なものを大企業が代理していましたが、今後はそうした支えもやせ細っていくでしょう。このとき、各個人をどのようにして社会が支えればいいのか、まだ見通しが立っていない状況だと思います。僕は建築家として、大きな社会と個人をつなぐ中間的な社会を確実に、そして複層的に構築することに寄与したい。自分にとって、建築家としての「構想」はここに向けられています。そしておそらく、中動態的な態度やネットワーク的実践はこうした方向と親和性が高い。

青井──なるほど。連さんの立場は一貫していて、今日の話も建築家であるためには自分の持ち場、環境をも自らつくり出すことが不可欠だということですね。なかなか過酷です。社会を簡単には壊れないものにするヴィジョンを掲げ、実際の現場では中動態的にいろんな人との関係性のなかで自分を変容させながら生きていかなければならないが、その環境さえ自分でデザインし、メンテナンスし続けなければならない。それをサポートできる「批評」がないのはさらにつらい。建築と建築論の生産に関わるエージェントのひとつとして、批評やメディアを位置付けておかないといけない。

──クラウス・クリッペンドルフというデザイン理論の研究者が『意味論的転回──デザインの新しい基礎理論』のなかで、デザイナーがデザインする対象が変化し、対象自体が複雑化する過程を「人工物の軌道」というダイアグラムで整理しています★7。この最下層にあるのが「製品」です。そこから順に「商品、サービス、コミュニティ」「インターフェース」「マルチユーザーシステム、ネットワーク」「プロジェクト」と徐々に人工物の内容が複雑化します。そしてその頂点にあるのが「ディスコース」です。クリッペンドルフは、新しいデザイン行為として最終段階に「ディスコース」を位置付けています。社会が複雑化することでデザイナーの拠って立つ場が見えにくくなる状況があるなか、ある職能や倫理性を備えたコミュニティからのフィードバックも同様に重要になるだろうと思います。ディスコースを人工物のデザインの最終地点に置いたクリッペンドルフの指摘は示唆的じゃないでしょうか。一方で現在、本を出版したり、学会に論文を提出したりしても有益なリアクションがあるかというとそうでもない。言説の実効性や有効性がどんどん希薄になっている実感があります。

編集──どうすればそのようなリアクションを得られる場が回復できるでしょう。

──出版業界や学会の構造はそれ自体が社会のなかですでに強いネットワークを形成しているので、そこにボールを投げてもなかなか跳ね返ってきません。現状の社会とそぐわない部分も多く出てきているでしょう。そういうなかで新しい批評を立ち上げるには、コミュニティ自体を新たに組み直す必要があるのではないかと思います。

例えば、東浩紀さんのゲンロンはベンチマークになると思います。発信しておしまいではなく、読者そのものを育てる、あるいは読み手をコミュニティ化するところまで組み立てているところがすごいと思います。今はそれを享受する読者や再生産する場を育てるようなメディアや批評のあり方がとても重要になっている。それが長じて出版業界や学会のような既存のシステムにも刺激を与えられるので、ささやかでもネットワークをつくることが重要だろうと思います。

連勇太朗氏

青井──そうですね。ところで連さんはドローイングや記譜といった自分の構想を表現することの問題について、どのような関心がありますか?

──冒頭でも言及した「ノーテーション」と「インターフェイス」の議論にも関わると思うのですが、個人的には古典的な「ノーテーション」なるものとは距離を置きたいと思っていました。モクチンレシピ自体がそうなのですが、僕としては「インターフェイス」とよびうる相互循環がある表現形態を追求してきた。でも一方で、「ノーテーション」も重要だなと最近思っています。理由のひとつは、わかりやすくメディアに伝わりやすい手段を持っておくことが大事だと思いますし、もうひとつは本質的な問題で、あながちコーン・モデルがダメということではなく、これはこれで非常に優れた思考の蓄積があるわけですよね。そういう意味でも、コーン・モデルにおいて通用する表現方法を自分自身も発明しなければいけないなと考えていたところです。まだ悩み中ですが。

青井──ドローイングないしノーテーションの問題は少し考えるとなかなか奥深いと最近思います。例えば今年、僕の研究室の相川敬介君が、アリソン&ピーター・スミッソンに着目した修士論文を書きました。彼の修士論文は、「生成・運動」のアイデアを絵にしようしたとき、二次元(平面)の紙上の絵が静止してしまうジレンマを彼らがどのように理解し、問題として構成し、そしてその問題をどのように発展させていったのかを明らかにしています★8。スミッソンズは設計プロセスを通じてドローイングを独特の仕方で使う。最初のフェーズでは、前のプロジェクトのイメージを記憶として受け継ぎつつ、手の赴くままに、例えばバッタのような絵を描く。この段階は絵画創作の中動態的様相そのもので、イデアを具現化する回路は封じられている。次に、彼らはこれを「イデオグラム」として見るのですが、ここが謎めいています。イデオグラムとは漢字のような表意文字のことです。そのバッタみたいなヘンなかたちを、これから起こりうる変容をすでに保持している初源的な凝縮性として見るといった眼の転換を、おそらくここで意図的に起こす。そこにパラメータを投げ込んで道路や住宅群などを結晶化させる。アレグザンダーのように確実な部分の連接によって全体に至るのではなく、スミッソンズは全体性を宿すものと見立てたドローイングを、その全体性をほどかずにぐいぐい、ぐにゃぐにゃと変容させるのです。このプロセスを通して新しいデザイン・メソッドや言葉が発見される。とても奇妙な、しかし方法化されたドローイングの使用法です。ほとんどの局面はサンドウィッチ・モデルに近い。しかし、重要なところではコーン的な図式が呼び出される。ドローイングをイデオグラムとして見る、というのは、たまたま生成した図を、まるで太古の祖先たちが見た多量の情報を背後に隠した秘密の文字を見るような感覚で見る、というようなことではないかと思わせるところがある。

同じように運動や生成をテーマにしても、1910年代の未来派の絵画では、図像(形象)をズラしながら多数描くことで動きのイリュージョンを伝統的なコーン・モデルの視界のなかに描いていた。イリュージョンとは結局のところ、動きの閉じ込めです。アーキグラムのドローイングはアナーキーですが、巨大な物体に足が生えて歩いているらしい、というだけのことです。スミッソンズのドローイングが大いに参考になるのは、設計プロセスのなかでギアを入れ替え、サンドウィッチの流れのなかにコーンが呼び出される瞬間です。そもそも、世界、絵、身体の関係は、いつの時代もつねにサンドウィッチ的、中動態的な作業がズレを産み出していくプロセスの持続でしかありえない。だからこそ、これを秩序づけることが古代ギリシアやルネサンスの問題となった。そこに本物とその模倣という序列が持ち込まれ、ついでそれを描く主体が強調され、19世紀以降の近代社会はその主体性を変貌させた。これは虚構なのだけど、強力です。創作とは主体が頭に宿したイデアを具現化することなのだと、思い込ませてしまう力がある。しかし、だからこそ僕らが考えなければいけないのは、「主体性」とか「具現化」といったものを消して楽になることではなく、我々が構築すべき虚構としての主体性とはどのようなかたちのものであるべきか、ということであるはずなのです。

現代の建築家はサンドウィッチ的、中動態的にネットワークを泳ぐなかで何か新しいものが生まれる可能性を探求しなければならないけれど、そのときいつでもコーン・モデルを呼び出し、建築家としての自分の構想はこうで、これを具現化したものがこの設計なのだと宣言できなければならない。そうでなければ、いったい誰のために、どこに向かって、何をやっているのかがすぐに分からなくなってしまう。今日連さんが力強く発言されたように、政治的な理念やヴィジョンが必要、ということですね。

これでだいたい冒頭の振りが回収できたかな......。どうでしょう、いっしょにドローイングの研究をやりませんか? 自身の最も基本的な実践のありようを、その全体性を保ちながらいかにして二次元に描けるか──おそらく多くの建築家やアーバニストたちがこの問題に取り組んできたはずで、その葛藤に学ぶことは多そうな気がします。

──是非、ドローイング研究お願いします(笑)。われわれは今、とても不安な時代に生きていると思うんです。今日こうして、青井さんと議論させて頂いたことで自分の考えていることの可能性や課題も新たな発見として見えてきました。ネットワークの海のなかで泳いでいるとどの方向に向かっているのか自信が持てなくことがしょっちゅうありますが、泳いでいる場所や方向を確認する指標をたくさん海のなかに泳がせておくことで、そこからのリフレクションを頼りになんとかやっていけるのではないかと勇気付けられた気がします。指標はドローイングであったり、「10+1 website」のような批評メディアであったり、自分自身の構築する理論であったりするのかもしれません。そうした指標群を時間がかかっても育てていくことで、新しいディシプリンのあり方も見えてくる気がします。


★1──マリオ・カルポ『アルファベット そして アルゴリズム 表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』(美濃部幸郎訳、鹿島出版会、2014)
★2──Buchanan, R., "Wicked problems in design thinking,"Design Issues, Vol.8, No.2, USA, MIT Press, 1992, pp. 5-21. https://web.mit.edu/jrankin/www/engin_as_lib_art/Design_thinking.pdf
★3──青井哲人「中動態──実践は作者をこえる」(『建築討論』33号、2019年7月特集「これからの建築と社会の関係性を考えるためのキーワード11」
★4──クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(稲葉武司+押野見邦英訳、SD選書、2013)
★5──連勇太朗×川崎和也×島影圭佑「メタデザインの思考──変化に対応する計画への想像力」『新建築』2019年11月号(新建築社、2019.11)
★6──塚本由晴、青井哲人ほか「SD丸々1日討論──日本現代建築における歴史認識をめぐって」『SD2013』(鹿島出版会、2013)所収
★7──クラウス・クリッペンドルフ『意味論的転回──デザインの新しい基礎理論』(向井周太郎序文、小林昭世ほか訳、エスアイビーアクセス、2009)
★8──相川敬介「矢(ARROW)、構造(STRUCTURE)、そしてイデオグラム(IDEOGRAM)──アリソン&ピーター・スミッソンのドローイングにおける生成・運動の表象」明治大学修士論文、2020)


青井哲人(あおい・あきひと)
1970年生まれ。建築史・建築論。明治大学教授。著書=『彰化一九〇六年──市区改正が都市を動かす』(アセテート、2007)、『植民地神社と帝国日本』(吉川弘文館、2005)、共著『津波のあいだ、生きられた村』(鹿島出版会、2019)、共編著『福島アトラス』(NPO法人福島住まい・まちづくりネットワーク、2017-)ほか。https://medium.com/vestigial-tails-tales-akihito-aois-notes

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)
1987年生まれ。建築家。現在、特定非営利活動法人モクチン企画代表理事、株式会社@カマタ共同代表、横浜国立大学非常勤講師、法政大学大学院非常勤講師。共著=『モクチンメソッド──都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017)ほか。


202003

特集 [最終号]建築・都市、そして言論・批評の未来


独立した美術・批評の場を創出するために
いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを ──経験知、生活知の統合をめざして
リサーチとデザイン ──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う
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