独立した美術・批評の場を創出するために

五十嵐太郎(東北大学教授、建築史、建築批評)+鷲田めるろ(キュレーター)

街なかアート・プロジェクトの展望

編集──先ほど、近年地域で積極的に開かれる芸術祭についてのお話がでました。お二人が関わられた〈あいちトリエンナーレ〉について触れたいと思います。とくに〈あいちトリエンナーレ 2019〉は多くの話題を呼んだ芸術祭となりました。とはいえ、初回の2010年から、名古屋市内の商店街や街なか、2019年には豊田市の駅や街なかにも展示を点在させており、地域全体を巻き込むような芸術祭という側面もあるかと思います。10年ほどの間に日本各地に急増した芸術祭と〈あいちトリエンナーレ〉について、いかがでしょうか。

鷲田──私は〈あいちトリエンナーレ 2019〉で名古屋市の円頓寺商店街での展示を主に担当しました。円頓寺は若手商店主やクリエイターが中心となって町おこしに力を入れている商店街で、これから活性化しそうな要素がたくさんありました。その場所とアートをつなぐ仕事で、私が長年金沢で取り組んできたことと非常に近かったのです。この20年、街なかのアートプロジェクトに関わるなかで、地域住民の参加を促し、プロジェクトの公共性を高めていこうという動きはずっとありました。〈あいちトリエンナーレ〉でもそうした潮流に乗り、《愛知芸術文化センター》や《名古屋市美術館》といった箱型の施設以外に、円頓寺や長者町など古い街並みの残る地域を会場としていました。円頓寺や長者町は比較的名古屋市内の中心地であったため、アートによる街の再生がうまくいったのだと思います。しかしさらに地方の都市となると、街なかのアートプロジェクトを行った効果が現れるよりも、街がさびれるスピードのほうが速いわけです。商店街がシャッター街になってしまったり、あるいは、空き地や駐車場が増えることで、街の連続感がなくなっている。こうした状況下で、街なかのアート・プロジェクトをいつまで続け、自分たちの資源を投入していくべきなのか、真摯に考えなければなりません。すでに観光地化されている場所から美術館に人を誘導するほうが効率的という考え方も多くある。大きな葛藤があります。

五十嵐──長者町は、かつて繊維問屋街として繁栄し、名古屋の中心街である栄の近くという立地もあって、もともとポテンシャルがあったと言えます。しかし、近隣の風俗街が拡大し、長者町としても、なんとか街並みを守りたいというタイミングで〈あいちトリエンナーレ〉の話が入ってきた。2010年から3年おきに開催されている〈あいちトリエンナーレ〉で、長者町は2016年まで毎回会場となっています。その効果もあり、低落していた不動産価値も上がったようです。これについては高評の反面、県の税金を何年も同じ場所に投入するのはどうなのか、という意見もありました。新潟県で開催されている〈大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ〉は比較的成功していますが、こうした地方では、どんな大規模なプロジェクトを成功させたとしても、さすがに長者町ほどの不動産価値の上昇や、一度廃校になった地域の小学校に子供が戻ってくることは見込めません。

また、街なかの芸術祭は、不動産との戦いになるんです。〈あいちトリエンナーレ〉で会場となったエリアも、知名度が上がり人気が出てくると、期間限定の芸術祭のために場所や物件を貸してくれなくなってしまうことが考えられる。どうしても、今後店舗を営むような長く借りてくれる人に貸してしまいますから。

鷲田──大都市の場合は、土地や物件の持ち主としては不動産価値が高まればそこを貸したいし、短期の芸術祭よりも、長期的な店舗経営者を優先したいという気持ちを持っています。しかし、さらに地方となると、場所は空いているけど、もう貸すことすらも面倒という状態になっていることも多いので、借りる交渉だけでも難しい場合もありますね。

また〈あいちトリエンナーレ〉に限らず、ここ数年日本では展示側や作家が作品をただ展示するのではなく、鑑賞者の参加を促すような展示を重視する傾向があります。それに伴って、美術館でも、キュレーターではなくラーニングや広報セクションの重要性が高まってきている。とはいえこうした展示において、まだまだ参加者は主役にまでなりきれていないので、今後も努力や工夫が必要だと思っています。私が以前担当した〈金沢アートプラットホーム2008〉では、自分たちの場を自分たちでつくるような参加型のプロジェクトを目指しました。しかし、あくまで行政が先にプラットフォームを準備し、その権力を握っているため、参加者は、展覧会の是非を考えたり、場合によっては中止するような権限は持っていない。参加型の限界も感じました。市民が決定権を持ち、独立した美術の活動が可能になるには、まだ努力が必要だと思います。例えば、《せんだいメディアテーク》(2001)は、開館当時から「美術や映像文化の活動拠点であると同時に、すべての人々がさまざまなメディアを通じて自由に情報のやりとりを行い、使いこなせるようにお手伝いする」ことを理念として掲げていました(せんだいメディアテーク公式HP)。こうした理念は、あらゆる美術館や展示において、これからも求められていくでしょう。

近年、東京都美術館が東京藝術大学と共催している〈とびらプロジェクト〉もそうした事例です。美術館を拠点に、一般から集まった「とびラー」と呼ばれるアート・コミュニケーターが、学芸員や大学教員、専門家とともに、活動を実現していきます。ただ参加するのではなく、美術館にある作品や文化資源を来場者をつなぐためにはどうするかまで自ら考え実現しているという点で、一歩進んだプロジェクトだと言えると思います。また、《江戸東京たてもの園》の改革もその一例です。それまでは、建造物を展示するのみにとどまっていたのが、景観を再現することを重視するようになりました。例えば、建物の横の空き地で洗濯物を干しているような情景をつくろうという企画が生まれる。来場者にその建物の住民になってもらう、といった内容です。ほかにも体験宿泊など、保存している建造物の中で、参加者に時間を過ごしてもらうことで展示が完成するという内容でした。結果としては、担当された方が異動になってしまい、その後うまく継続できなかったようですが、非常に面白い試みだと感じました。「たてもの園」だからこそ、生活を再現し、それを体験してもらうという発想が面白かったです。また、建物の茅葺きを燻して保存するために、囲炉裏で火を炊いていたそうです。しかし火を炊いている間は、誰かが見ていないといけないので、管理のためにボランティアに来てもらっていた。すると、そのボランティアの方から、せっかく囲炉裏で火を炊いているのなら、来場者にお茶を出したいという提案が出てきたそうです。そうした外の人からの提案に対し、美術館側が、いかに障害を取り除いて実現するかということはとても大切になっていくだろうと思います。それが街の人と美術館を繋ぐきっかけになっていく。

五十嵐──面白い試みだと思います。2013年の〈あいちトリエンナーレ〉のときは、長者町の人が、自主企画として、アーティスト・ランの飲食店を設け、それが好評でしたよね。飲食を運営側が取り仕切ると、衛生面をはじめ、さまざまなハードルがあって実現がなかなか大変です。行政を通すと面倒なものも、地元の人が主体になると、非常に円滑に進んだり、コミュニケーションの場になったりする。実際、夜もそこにアーティストや来場者が集まるような賑やかな場所となっていました。外の人のアイディアを実現していくようなプログラムづくりや、ファシリテーションをデザインしていくことも、美術館や芸術祭にとって重要になっていくだろうと思います。

〈あいちトリエンナーレ 2019〉──文化はいかに独立性を保てるか

編集──〈あいちトリエンナーレ 2019〉の「表現の不自由展・その後」以降、展示自体の言論・表現の自由、あるいは美術館施設や文化資本の公共性や民主性について、さまざまな議論が継続されています。この議論は今後の美術館、芸術祭のあり方や、批評メディアにおいても大きく影響するものではないでしょうか。

鷲田──大きな話題を呼んだ「表現の不自由展・その後」からは重要な課題を得ました。会期が始まってからは、この展示について考える時間が非常に長かったように思います。それは、金沢での仕事をはじめ、美術をいかに社会に開くかという課題に取り組んできた自分に、まったく正反対の問題を突きつけられたような気がしたからなんです。つまり、ようやく美術が社会に開かれてきた現在において、今度は、美術館がいかに表現を守っていくかという大きな課題と直面したわけです。〈あいちトリエンナーレ〉のメイン会場となった《愛知芸術文化センター》は、外からは中が見えない巨大な要塞のようで、《金沢21世紀美術館》とはまったく対照的な建物でした。それもあり、当初私は、地域の芸術祭にこうした場所を使うことに対して、かすかに違和感がありました。しかし「表現の不自由展・その後」に反対する街宣車が会場の周りに何台も来たり、展示の中止を求める脅迫文が送りつけられるなどの出来事が続き、言論や表現の場である企画展を守らなければならなくなったとき、まるで要塞のような《愛知芸術文化センター》の環境も、美術館にとっては企画展を守るための大事な要素のひとつなのかもしれないと思いました。美術館を構想するにあたっては、社会から切り離された実験室や、自治が守られるべき場所のバリケードのような役割をも果たすといった視点も持つべきではないかと感じたのです。これは美術館が社会に開いた結果として見えてきた課題なので、今後も考えていきたいと思っています。

もうひとつ、私は〈あいちトリエンナーレ〉と並行して、文化庁のアート市場活性化をどのように実現するかという主旨のプロジェクトに関わっていました。いかに日本の美術を海外に発信するかについて策を練っていましたが、政府と美術が関わることの難しさをつねづね感じていました。現在このプロジェクトは続いていますが、私は〈あいちトリエンナーレ〉に対する文化庁の補助金不交付の決定に対して抗議の意味も込めて、この仕事からは退きました。国の経済が停滞し、文化事業を支える資金も潤沢ではない。そうした時世にあって政府は「文化経済戦略」として文化に投資することによって経済活性化を目指している。こうした時に、文化は政府の戦略といかに距離をとるべきなのか考えなければなりません。日本の美術館には、どうしても研究や教育、展覧会の開催などのための税金による活動資金が必要です。そうしたなかで政府に都合の悪い表現を生み出さないようにと、作品や展示が萎縮するような状況が生まれてはならないと強く思います。

五十嵐──私はある賞の推薦委員を担当していたのですが、あくまでも形式犯として補助金不交付となったわけなので、内容を評価し、〈あいちトリエンナーレ〉の芸術監督を務めたジャーナリストの津田大介さんを推薦しました。もちろん、国が厳しい態度を示していたので、通らないだろうとも思いましたが、少しはその意義が議論されたはずです。

私のなかでは、〈あいちトリエンナーレ〉と《新国立競技場》の問題はつながっています。《新国立競技場》のコンペでザハの案が選ばれて炎上したとき、審査委員長の安藤忠雄さんの事務所にはたくさんの電凸があったそうです。ちょうど「安全保障関連法案」の強行採決なども影響し、政権の支持率が低迷していた時期だったので、《新国立競技場》の問題がスケープゴートにされた印象もあります。その後、スタジアムの問題に続いて、佐野研二郎さんのロゴデザインが炎上し、家族に対する脅迫に耐えられないことを理由にデザイナーが辞退した。佐野さんの案を採択したJOCは結局彼を救わなかったし、擁護さえもしませんでした。「表現の不自由展・その後」 が炎上した結果、文化庁が補助金不交付としたことと似た構造です。ほかにも、ヤノベケンジさんの《サン・チャイルド》が福島で展示された際に炎上し、すぐに撤去されたため、きちんとした議論が起きませんでした。これは、福島市長が一方的に設置を決めたことで政治的側面を帯び、さらに原発をめぐるイデオロギーの闘争に巻き込まれてしまった。こうしたことは挙げればきりがありませんが、いろいろなところで炎上が政治利用されるような嫌な世の中になったと感じています。本来こうした状況は、批評によって乗り越えたいのです。しかし、紙のメディアは影響力を失っているし、インターネットは話題に上がりますが、そうしたものはすぐに消えてしまいます。

鷲田──先ほど五十嵐さんがおっしゃっていた、東京に巨大な現代美術館をつくるべきだということも、こうした問題に大きく関わっていますよね。国の主導で、香港の《M+》やシンガポールの《ナショナル・ギャラリー・シンガポール》に肩を並べられるような巨大な美術館が構想されたとすれば、美術館が国との適切な距離を保つことは難しくなると思います。

なんにせよ、美術館や展覧会をつくるには、やはり政府からの独立が必要です。〈あいちトリエンナーレ〉の経験を通して、政府の意向から独立した場をつくることが非常に重要だと実感しました。そのためにも既存の組織や制度設計を改めていくことが課題となるでしょう。〈あいちトリエンナーレ〉も次回以降は、組織体制をはじめ、各所に改革が必要なのかもしれません。そして運営資金の出所も、国や地方自治体だけではなく広く確保することで、政府と距離をとりやすくなるのではないでしょうか。例えば、私が2009年に一時期在籍していたベルギーの《ゲント現代美術館》は、資金源やステークホルダーが複数に分散されていました。コントロールが難しくなるという短所もありますが、ある一人や一団体の意向によって美術館や展示の運営が左右されることが起こりにくくなる点においては、非常に意義があることがと思います。

五十嵐──おっしゃる通りだと思います。芸術祭は財源がひとつの特定の場所に限られがちですよね。それが地方自治体だった場合には、例えば市長や知事が替わって方針や予算が大幅に変更になることで、大きな影響を被ることもあります。そうしたことから財源は一カ所ではなくなるべく多いほうがいいと言われているものの、なかなか実現していません。そうしたなかで〈ヴェネチア・ビエンナーレ〉は非常に良い例で、当初の財源はヴェネチア市のみでしたが、その後、イタリア政府が後援するNPO「ヴェネチア・ビエンナーレ財団」が運営するようになっています。

鷲田──そうだと思います。全体の運営は財団が行っていますが、国別パビリオンについては各国が資金面も含めて運営しているのは面白い。これはほかの国際芸術祭とも大きく異なる点です。コンテンツのコストを各国に負担させながら、来場者から入場料を徴収する運営に成功している。同時に〈ヴェネチア・ビエンナーレ〉は、都市のブランディングに成功した好例ですよね。

五十嵐──そうなんです。ヴェネチアのように、アートや芸術祭によって都市があそこまでブランディングできているのは稀有な例です。出展側に、この芸術祭に出展できるなら多少赤字になっても構わない、とまで思わせるような場をつくりあげられていることが素晴らしい。日本の芸術祭だと、例えば〈大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ〉など、地域色をよく活かしているものもありますが、ほかの多くは、海外から見てもインパクトや出展者の意欲を掻き立てるような魅力が弱いのではないでしょうか。そして芸術祭による都市のブランディングについては、私は前々から築地市場を現代アートの場に変える構想があってもよかったと思っています。築地市場は面積や天井高をみてわかるように空間がとても大きいですし、1930年代の建築がしっかりと残っている。歴史や文脈、雰囲気も外国人来場者やアーティストと相性が良く、興味を持って受け入れただろうと思います。2020年に予定されている〈東京ビエンナーレ〉を築地市場でやれば、あの場所かというイメージも共有しやすいし、海外のアーティストも意欲的に参加するのではないかと思いましたが、もう取り壊してしまいどうにもならないので残念でしたね。

言論と批評の独立性を考える

編集──ありがとうございました。最後になりますが、「10+1」とはどのような場所であったか、あるいは批評や批評メディアは今後どうあればいいのか、ぜひお聞かせいただければと思います。

五十嵐──「10+1」は、雑誌『10+1』を加えて約26年続いたわけですよね。企業ベースの批評メディアとしては、よくこれだけの期間続いたと思います。大林組の「TNプローブ」(1995~2008)も13年と、ここまで長くはなかった。建築の、しかも批評メディアともなれば、そもそも長く継続すること自体が難しいので、それは大いに評価できると思います。だからこそ、webのデータだけは今後も検索や閲覧ができるようアーカイブとしてしっかり残してほしいと思います。紙媒体は今後も国会図書館や古本などでアクセスが可能ですが、webメディアとなると、更新が終了した瞬間に削除され、まったく閲覧できなくなってしまうのが怖い。そこは是非、検討してもらいたいと思います。

鷲田──私が建築や美術に関心を持ちはじめた頃には、すでに雑誌『10+1』がありました。当時は、書かれている内容から影響を受けたというよりも、膨大な文章が詰め込まれた特異な存在に憧れがあった。それがなくなってしまうことには、少し寂しさを感じます。私が初めて関わったのは『10+1』の別冊『20世紀建築研究』(1998)でした。当時はまだ学生で、中に収録する年表の作成に携わりました。後に、公に文章を書かせてもらえる機会が増えましたが、『10+1』もそのひとつでした。憧れの場所である『10+1』に参加できたことは、私にとって非常に大きな経験でしたね。だからこそ今後も、当時の私のように、建築や美術に関心のある学生が憧れるような論壇の場があって欲しいと思います。むしろ、今度は私たちの世代がそのような場をつくっていかなければならないとも感じています。

今後は、ますますウェブやSNS上で発信する機会が増えていく。そのなかで、ウェブ自体が有用なものであり続けるためにも、きちんと編集や校閲が入った言説の場所を確保していくことが大切だと思います。このサイトは信頼できる、と読者が思えるような良質な批評メディアが必要です。

五十嵐──そうですね、信頼できる批評メディアや場所の確保は、とても大きな問題です。また、かつて東浩紀さんが合同会社コンテクチュアズ(現・株式会社ゲンロン)を設立し、『思想地図β』や『ゲンロン』のようなメディアを自社で運営を始められたのは、既存の企業や団体に資金を依存しないあり方をいち早く敏感に感じ取っていたからだと思います。私やその上の世代は、企業や出版社が言説のメディアのインフラを用意しているから、寄稿だけすればいいと当たり前のように考えていたところがある。東さんのような活動をすることは難しいけれど、しかし「10+1」はたくさんの書き手も育てましたし、さまざまな世代が接続する場所にもなったと思います。長く続いたからこそ、若手の育成にも寄与できた。過去を振り返ると、「近代建築国際会議(CIAM)」(1928~59)は、創設して30年が経つうちに、ル・コルビュジエをはじめとした巨匠の老齢や逝去に伴って、衝突もしたけれど「チームⅩ」と世代交代することができた。けれども、「Any会議」(1991~2000)は10年限定でしたし、実質うまく世代交代ができなかった。2001年に柄谷行人さんを中心に結成された運動体「New Associationist Movement(略称:NAM)」も2003年に解散してしまいました。

「Any会議」や「NAM」に関連して言えば、建築の哲学との対話モードは、1980年代後半の「脱構築主義(デコンストラクティビズム)」の時代から熱心に行われましたね。『10+1』は、最初の書き手のラインナップは多木浩二さん、八束はじめさんや社会学者の内田隆三さんであり、建築批評や都市社会学のような構えが強く、その後、表象文化論やカルチュラル・スタディーズといった分野が参入していきました。ちょうど当時の『建築文化』も同じような特集をしていたので、この2つの雑誌が双璧となり、こうした流れをぐっと引き寄せていたような気がします。私も当時頻繁に、『10+1』の特集にあわせて翻訳すべき海外論文を選定させていただきました。そのおかげで、当時が人生でもっとも洋書を読んでいた時期になりましたし、こうした機会によって育ててもらったように思います。長文の連載も『10+1』で初めて書かせてもらい、とてもお世話になりました。21世紀になると、『建築文化』や『SD』が休刊や季刊になって、若い人が書く場所が減ったように思います。ですから相対的にも、雑誌、webを含め「10+1」は非常に貴重な場所になっていました。僕も、ただ昔は良かったと嘆くだけではなく、建築学会の『建築雑誌』の編集委員長を担当したとき、期間限定ですが、若手が参入できる批評の場を作ろうとしましたし、ネットによる音声配信というシステムで、建築系ラジオというメディアを立ち上げたりしました。

鷲田──美術館や展覧会もそうですが、言論や批評媒体がスポンサーから独立性を確保することは、今後も大きな課題になるでしょうね。とくに建築の言論においては建築業界の各種メーカーや工務店の広告によって、雑誌やウェブ媒体が成り立っている側面があります。そうである以上、その製品や技術はもちろん、業界の悪しき慣習などに対して批判的なことが書けるのか、という課題はあります。美術館や展覧会が、スポンサーである政府と適切な距離をとるべきであるのと同じように、建築をめぐる言論の場でも企業・業界とある程度距離が取られることを願います。

五十嵐──そうですね。やはりザハの《新国立競技場》問題をスルーした建築メディアは、批評誌とは言いがたい。いまのお話で、スポンサーとも関連しますが、日本はアイデア・コンペがとても多いですね。実現しないアイデアを紙一枚にまとめるだけのコンペに、あれだけ多額の賞金を学生に出すなら、建築の批評メディアを充実させるなど、他の使い道もあるのではないか。また近年、資格学校がスポンサーとなって、日本各地で開催される学生の卒計イベントがすぐに書籍化されますが、むしろ若手建築家や批評家が登場する本も応援していただきたい。あとは大学が批評誌をつくる。繰り返しになりますが、〈インポッシブル・アーキテクチャー〉展でわかったように、今後展覧会は批評メディアとしての役割も担う、重要な場所となるわけです。展覧会にももちろんスポンサーが必要になってくる。そうしたなかで、どこまで独立してやれるか、つねに意識して考えていかなければなりません。

[2020年1月10日、飯田橋にて]


★1──五十嵐太郎、村田麻里子「第三世代美術館のその先へ」(10+1 website、2016.6)
★2──佐藤慎也「シリーズ:これからの美術館を考える(7)「第4世代の美術館」の可能性」(『美術手帖』ウェブサイト、2018.10.20)


五十嵐太郎(いがらし・たろう)
967年生まれ。東北大学大学院教授。建築史、建築批評。著書=『新宗教と巨大建築』(ちくま学芸文庫、2007)、『現代日本建築家列伝──社会といかに関わってきたか』(河出ブックス、2011)、『日本建築入門』(ちくま新書、2016)、『モダニズム崩壊後の建築──1968年以降の転回と思想社会といかに関わってきたか』(青土社、2018)『ル・コルビュジエがめざしたもの──近代建築の理論と展開』(青土社、2018) など。展覧会=ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展(2008)日本館コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督、「戦後日本住宅伝説」展(2014-15)監修、「窓」展(2019-20)学術協力など。

鷲田めるろ(わしだ・めるろ)
1973年生まれ。1999年より金沢21世紀美術館建設事務局学芸員として美術館の立ち上げに携わる。2009年、ゲント現代美術館との学芸員交流事業で半年間ベルギーに滞在。2018年3月、金沢21世紀美術館を退職し、独立。あいちトリエンナーレ2019のキュレーターに就任。建築に関する主な展覧会=〈妹島和世+西沢立衛/SANAA〉(2005)、〈アトリエ・ワン:いきいきプロジェクトin金沢〉(2007)、〈金沢アートプラットホーム2008〉(2008)、〈3.11以後の建築〉(2014〜2015、ゲスト・キュレーター:五十嵐太郎、山崎亮)、〈粟津潔と建築〉(2019)ほか。第57回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展(2017)日本館キュレーター。2020年4月より十和田市現代美術館館長。


202003

特集 [最終号]建築・都市、そして言論・批評の未来


独立した美術・批評の場を創出するために
いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを ──経験知、生活知の統合をめざして
リサーチとデザイン ──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う
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